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※前作『余命宣告で入院中にやってきた悪魔が〜』のリリム視点のお話です。
お時間ありましたら前作からお読みいただけると、よりお楽しみいただけると思います。
■余命宣告で入院中にやってきた悪魔が落ちこぼれだというので可哀想だから契約してあげたのに、なぜか悪魔が私の魂をとってくれない
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夕闇色の空の下、わたしは一枚の書類を手にふらふらと中空を漂っていた。
魔界の空はいつだって薄暗い。
上司からの呼び出しで久しぶりに訪れた魔界がどうにも陰鬱な空気に思えるのは、魔界ゆえなのか、言い渡された最後通告ゆえなのか。
手元の書類に視線を落とすと、警告書と書かれた見出しが目に入り、お腹の辺りがキリキリと痛みを訴えた。
『リリム、君はもっと出来る子だと思っていたんですがねぇ』
モノクルのレンズ越しにこちらを覗く深緑色の瞳を思い出す。
上司である上級悪魔のベルゼブブが、ねっとりとした声音でそう言ったのは小一時間ほど前のこと。
すでに過去形で語られていることを思えば、期待どころか興味すら残っていないのだろう。
「どうせ元から、期待なんてしてないでしょうに…」
人の粗探しと嫌味を言うことが生き甲斐みたいな上司だ。
警告書を突き付けて来た時の愉しそうな顔といったら、まさしく悪魔そのものだった。
最後通告として渡された警告書に書かれていたのは、だいたい次のような内容だった。
わたしの仕事の成績が著しく悪いこと。
このまま成果を上げられないようであれば、降格処分が行われること。
処分までの猶予を本日から30日間とすること。
今まで周りから落ちこぼれと言われ、散々な日々を送ってきた。
先輩悪魔の下を離れて三年、未だに契約の完遂件数は0件。たったの一度も成功していない。
三年かけて成し得なかったことを、ほんの一ヶ月で成功させなければならないなんて…。
ほとんど死刑宣告にも近い内容に、目の前が暗くなる様な感覚に陥った。
「リリムー!あんた遂に降格決定だって?」
後ろから威勢の良い声に名前を呼ばれて振り返る。
そこに居たのは鮮やかな緑髪を持つ同期の友人、レヴィだった。
「えと…まだ決定では……」
30日という猶予期間があるので、まだ決定ではない。
だけど到底クリア出来ると思えない課題であることも事実で、実質決定と言われても強く否定できないところが、我ながら悲しい。
降格処分のことはあまり人に聞かせたい話でもないので、近くの岩場に腰を下ろし無言でレヴィに書類を差し出す。
レヴィは書類を受け取ると、興味深そうに書かれている文字を目で追い始めた。
中級悪魔の仕事は、人間界で彼らと契約を交わし、魔力を集めることだ。
おとぎ話で人魚姫が足を得る代わりに声を失ったように、悪魔は人間の願いを叶えて、代わりに相応の対価を要求する。それは美しい声だったり、寿命の一部だったり、欲の深さに応じて色々なものに変わるが、支払われた対価は魔力となって悪魔の手に渡る。
そうして集められた魔力は自身の生命エネルギーとなり、余剰分は魔界全体の様々な活動を支えるエネルギー源として、特殊な魔石に蓄えられる。
魔力を集められない悪魔は、魔界にとって穀潰し。
つまり要らないもの。
今のわたしには、魔界は窮屈で肩身の狭い世界でしかなかった。
「リリム、あたしはアンタのことが好きだし、できれば協力してあげたいと思うけど、今回ばっかりは本当にヤバいよ」
書面を読み終えたレヴィは、先ほどより一段声を落とす。
こちらに向けられている紫紺の瞳が心配そうに揺れていて、事態の深刻さを表している様だった。
「わかってます…。だけど成績が悪いのはほんとですし、たぶん向いてないんだと思う」
何に、とは言わなかった。
わたしの言葉に、恐らく降格処分の先を想像したであろうレヴィは、一瞬むっとした表情になり鋭い目付きでこちらを見た後、何かを言いかけて止めた。
「まだ残り30日あるんだから、最後まで世話焼かせてよ。良さそうな人間見つけたら、相談してよね」
「ありがとう、レヴィ。とりあえず、人間界に行ってきます」
降格処分を言い渡された本人より悲しそうな顔をする友人に、申し訳なさと有難さが同時に込み上げる。
実力主義の魔界で、落ちこぼれと仲良くしてくれる悪魔なんてそうそう居ない。
たとえ魔界が自分に向いていないと感じていても、心配してくれるレヴィのために30日間はきちんと頑張ろうと思えた。
◇ ◇
人間界へ降りるゲートを抜けると、世界は分かりやすいほどに色を変える。
夕闇色だった空は抜けるような青空へ、ごつごつとした岩肌ばかりが目立つ地面は、緑溢れる豊かな大地へ。人間界で思い切り空気を吸い込むと、不思議と胸の奥が軽くなるような気がした。
魔界は一日中薄暗く、朝や昼といった感覚が乏しい。
頭上から降り注ぐ暖かい陽光が眩しくて、思わず額に手を当てる。太陽の位置と影の長さから考えて、今は昼前だと思われた。
「人間界まで来てみましたが…。さて、どうしましょうか」
心配してくれた友人の手前、人間界に行くといって出て来たものの、万年落ちこぼれの自分に何か策があるわけでもなく、あてもなくふらふら漂うのは魔界でも人間界でも同じことだった。
こちらの世界では悪魔は実体を持たないものとして存在している。
わたし自身が意図的に実体化しなければ、空を飛んでいる姿を見られることもないし、建物の壁も通り抜けることができる。
昔はある程度力を持った能力者がいて、実体化していない悪魔を視ることができたり、場合によっては召喚されて使役されるようなこともあったが、人間の世の中が便利になっていくのに伴い、そういった能力者たちは次第に姿を消してしまった。
だから悪魔たちは人間の目を気にすることなく、自由に活動することができている。
ふと、目の前に大きな建物が現れて、足を止めた。
ごてごてした派手な装飾と、それを更に派手に見せる電飾が建物全体を覆っている。
建物の中には外見に勝るとも劣らない派手な機械が沢山並んでおり、人間達はその機械の操作に熱中している様だった。
「あの建物からは濃い欲の気配がしますが…」
建物を観察していると、中から一人の中年男性が出て来た。
身なりはキレイとは言い難く、男性は浮かない顔で苛立っている様に見える。
「ああいう人達は欲深くて、わたしには扱い切れないですね」
あの男性は、金を稼がせてやろうと耳元で囁けば、間違いなく誘いに乗ってくるだろう。
だけどあの手の人間は、契約通りの結果を手に入れても、俺が望んだものはこんなものじゃないとか、今のはお前を試しただけだとか、とにかく何かと難癖をつけて対価の支払いから逃れようとするのだ。
ずらされ続けるゴールに、結局上手いこと言いくるめられてしまい、今まで何度逃げられてしまったことか。
過去の失敗談の数々を思い出し、思わず深いため息が漏れる。
残された時間に限りがある今、苦手分野に取り組んでいる余裕はなかった。
次に目に留まったのは、公園で思い詰めた顔をしている少年だった。
黒い詰め襟は今の季節には少し暑そうに見える。
手元には赤色の分厚い本が置かれており、付箋が山ほど付けられたこれまた分厚い本が重ねられている。
「あの人も…、わたしには荷が重いですね…」
独り立ちしてすぐの頃、希望する大学へ入学したいという少年の願いを叶えたことがある。
少年は元々真面目で、悪魔の力を借りずとも希望する大学へ入れる見込みは十分にあった。だから彼の未来をほんの少し方向付けてあげるだけで、願い自体は簡単に叶えることができた。
問題はその後だった。
悪魔の力を知った少年は大学へ進学した後、すっかりやる気を失ってしまい、翌年進級することすら出来ない状態まで堕ちてしまった。
そして彼も他の人間と同じように、こんなはずじゃなかった、悪魔の力で入学したことがそもそも間違いだった、だから叶えた願いを取り消せと迫ってきた。
だけど悪魔の力を使った以上、叶えた願いを取り消すことなんて出来ない。
結局彼は失敗の全てを悪魔のせいにして、わたしを呪いながら消えていった。
良かれと思って願いを叶えたのに、彼の人生がどんどん悪い方に歪んでいくのを目の当たりにして、自分の力がとても恐ろしく、考えの足りない行動を悔やんだ。
「良さそうな人間、なんて簡単に見つかるわけないですよね…」
自嘲気味に笑った口元から、力なく言葉が漏れる。
そもそも"良さそうな人間"を目利きする力があれば、落ちこぼれと呼ばれることもないわけで。
太陽が一番高い所まで昇って、それから影が少し長くなった頃、わたしは白くて大きな建物の前にやって来ていた。
「大きな病院…」
病院のことは知っている。
病気や怪我で治療が必要な人間が集まる場所だ。
小さな怪我でさえ治癒に時間がかかる人間は、魔力で大抵のことを解決できる魔界の住人からすると、とても面倒な種族だなと思う。
病気や怪我を消すことは悪魔にとって難しくない。
だけど悪魔である自分が手を貸すことは、命の選別をしている様でどうにも前向きになれなかった。
今回もここには用はないと立ち去ろうとした時だった。
ちょうど目の前の窓の向こう側を、水色の検査着を着た女性が歩いている姿が目に入った。
「なに、あれ……」
彼女の身体の中心からは、眩いばかりの白い光が溢れていた。
あまりの明るさに思わず目を細める。
「魂が光ってる…?」
眩しさに耐えながら目を凝らすと、光の発生源は女性の魂だということが分かった。
強い光はほんの数秒で収まり、魂の持ち主と共に扉の奥へと消えていった。
あんなに眩い光を放つ魂は見たことがない。
吸い寄せられる様に移動して、扉の前で立ち止まる。
どうやらここは個室で、彼女の名前は白川ゆりというらしい。
「しらかわ、ゆり」
無意識のうちに名前を読み上げると、それに呼応するようにトクンと心臓が跳ねた。
あの魂の持ち主を確かめたい。
あんなに強く輝く魂を持つ人間は、一体何を望むだろう。
ゆっくりと扉をすり抜けて部屋の中に入る。
実体化していない自分の姿が見られるはずはないのに、なんとなく気配を殺して音を立てないように気を付ける。
そのまま静かに奥へと進み、ベッドを覗き込んだ。
すーすーと穏やかな寝息が聞こえる。
細く柔らかそうな髪は、窓から差し込む陽に透けて上質なシルクみたいにきらりと光ってきれいだった。つい手を伸ばしてしまうけれど、実体のない今の姿だと触れることは出来ない。
視線を頭から胸の方へずらす。じっと見つめると、先ほど強い光を放っていた魂が視えた。
今は強い光は発していないものの、彼女の魂は驚くほど真っ白で、それは今まで出会ったことのない魂だった。
悪魔には人間の魂を視る力がある。
魂の色や形は人それぞれ全く違っていて、持ち主の本質を表しているそうだ。
悪事に手を染めた人間の魂は黒くくすんでいることが多く、純粋で素直な心を持つ人間の魂ほど白く輝く。
彼女のように真っ白な魂は、生まれたての赤ちゃんぐらいなもので、大人でこんなにきれいな魂を持つ人間をわたしは知らない。
もっと近くで見ようと彼女のお腹の上に跨る。
病人の身体の上に乗るのは少し悪い気もしたけれど、重さを感じることもないのだから気にする必要はないだろうと結論づける。
そうして珍しい魂を心ゆくまでじっくりと観察したわたしは、彼女の声が聴きたくなった。
「……あ、あの」
人間に姿が見えるように調整をしてから、恐る恐る声をかける。
少し待ってみるが、何の反応もない。
「……し、しらかわさん」
今まで人間界でろくな経験をしていないせいか、人間と関わる時はいつも怖い。
震えそうになる声を絞り出し、彼女の名前を音に乗せる。
名前を呼ぶというのは効果が高ったようだ。
わずかに瞼が震えたかと思うと、薄い瞼はゆっくりと持ち上げられ、内側から明るめの茶色い瞳がのぞく。
お腹の上に乗っているため、よく考えると結構な至近距離だ。
未だ焦点の合っていない瞳に自分の姿が映り込むのを、不思議な気持ちで見つめていた。
何か声を掛けようとわたしが口を開くのと、彼女が驚き掠れた悲鳴をあげるのはほぼ同時だった。
慌てた様子で手元のボタンをカチカチと押しているが、何も起こらない。
この姿を大勢の人間に見られるのは困るので、この空間を一時的に外と遮断させてもらっていた。だから当然、呼び鈴が鳴ることもない。
驚かせてしまったことに申し訳なさを感じつつ落ち着くように声をかけるが、
「この状況で落ち着けないでしょ!!」
と予想に反して大きな声で反論が返ってきて、今度はわたしが固まってしまった。
思いの外、威勢の良い性格をしていたらしい。
しばらくすると、彼女は落ち着きを取り戻した様子で、わたしにお腹の上から降りるように指示し、何故かふわふわとした柔らかい布を寄越した。
よく分からないけれど、言われるままに柔らかい布を羽織り、近くの椅子に座る。
渡されたふわふわの布は、何だかとても触り心地が良い。
思わず緩みそうになる顔を、布をぎゅっと握りしめて引き締める。第一印象でつまずきたくない。
「あの…。わたし、あなたを誘惑しに来た悪魔です」
「なるほど、悪魔ね。確かに頭に変な角も生えてるし、我ながらディティールにこだわりを感じる幻覚ね」
突然現れたわたしを、彼女は幻覚だと思ったらしい。
訝しげな顔でわたしの身体をじろじろと無遠慮に眺めながら何か言っているが、ちょっとよく分からない。
何だか背筋に寒気を感じる気がする。
だけど、そんなことより悪魔と信じてもらわなくては、と寒気を無視して気合を入れた。
悪魔だと信じてもらえるようにあれこれと話してみたけれど、彼女は一向に信じようとしなかった。
超常現象を起こす悪魔が目の前にいるというのに、興味すらないのか、何を言っても飄々とした口振りで躱されてしまう。
ふと、昔先輩が困った時はこう言えば良いと教えてくれた言葉を思い出した。
あまりに恥ずかしくて、今まで一度も使ったことがないその言葉を、勇気を出して言ってみる事にした。
「そ、それなら……ふつうの人間では味わえないような…き、気持ちイイことしてあげます」
……だめだ、やっぱり恥ずかし過ぎる。
頑張って口にしてみたけれど、最後まで言い切る前に、羞恥のあまり口ごもってしまった。
顔から火が噴き出しそうな熱さを感じる。焼ける様な熱は、もうほとんど火を噴いていると言ってもいい。
「…ふ、ふふ、あはは」
もう消えてしまいたい、と思っているわたしの耳に届いたのは、まるで子供みたいな笑い声だった。
またもや予想外の反応に、どうすべきか分からずあちこちに視線を彷徨わせる。
先輩に教えてもらった言葉は、こんな風に笑いを誘う言葉だっただろうか。
わたしは何か間違えてしまったのか、それとも何かそれらしいことをするべきなのか…。
そんなことを考えていると、目の前にすっと彼女の右手が伸びてきた。
「いいよ、キミが悪魔だって信じてあげる。それで、キミの名前は?」
この流れでどうして信じてくれる気になったのかさっぱり分からなかったけれど、とにかく信じてくれると言うならもうそれで良かった。
それに、気持ちイイことって何?と迫って来られる方がよっぽど困る。
差し出された手を取ったわたしは、そう言えばまだ名乗っていなかったことを思い出してこう言った。
「…わたしの名前はリリム。あなたを誘惑する悪魔です」
これが、わたしと白川さんとの出会いだったーー。
短編でまとめる予定だったのですが、気付いたらボリュームたっぷりになっていたため連載形式で投稿させていただきました。
完結まで書き終わっているため、サクサクと投稿していきたいと思います。