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02.宿泊

 宿はお世辞にも綺麗とはいいがたかった。

 それでも、数か月の野宿生活に比べれば天国のようだ。


 むくつけき冒険者などならともかく、イルザはまだ若い女性なのだ。

 レオの横に立てばこそかすむが、外見にはいささか自信がある。自分で見てもスタイルはいいし、学院在籍時には引く手数多だったのだから、顔だってそう悪くはないはずだ。


 それが、長い旅ですっかり垢じみて、悪臭を放つ姿になってしまった。鳥の声を聞くとまず食える種類かを判別するようになってしまった。

 お姉さま、と慕ってくれた後輩たちに合わせる顔がない。


 しかし、とイルザは鼻息を強く吐く。

 それも今日までだ。私は、かつてのあるべき私の姿を取り戻すのだ。


 部屋代は、イルザが王国を逐電した際に持ってきた金の中から支払った。これまでの旅路は人目を避けるために街に寄らなかったので、所持金はあまり減っていない。

 むろん、一部屋である。レオは二部屋を主張したが、節約と安全を鬼気迫る勢いで説くイルザに抗うのは無駄だと諦めたようだった。


 さすがに旅人相手の商売にはたけているようで、宿では簡素な服と石鹸などもあがなうことができた。

 簡単な料理を出す食堂も併設されている。必要なものを買い込んで、イルザはレオを連れて風呂に直行した。


 ちょっとだけ期待したのだが、残念ながら風呂は男女別になっていた。


「ちっ。なんて気の利かない……」

「イルザ?」

「まあいいでしょう。どうせ寝る部屋は同じなのですし」

「イルザ?」

「いえ、なんでもありません。旅の疲れもあります、お互いにゆっくり浸かるとしましょう。ではレオ様、後ほど」


 今夜、万が一があるかもしれないと思うと、細部までの手入れは決しておろそかにできない。二時間かけてじっくり身体を清め、ムダ毛というムダ毛を処理し、長旅の間にも決してたるむことがなかったボディを隅々まで点検した。

 うむ、コンディションは決して悪くない。


 身体を拭き、ぼろきれのようになった服を新しいものに替える。湯上り、合流したレオの、誘っているとしか思えない火照った頬に吸い寄せられそうになるのをかろうじてこらえ、食堂に向かう。


 久しぶりに他人が調理した食事をとると、自分たちが野生の獣ではなく人間であったことを思い出した。旅の途上で「意外といける」とうなずきあって食べたカエルの丸焼きの味がよみがえり、イルザは我が身を思ってすこしだけ泣いた。


 その後、まだ夕日の名残りが西の地平に残っているうちに、ふたりは部屋に引っ込んだ。執拗にひとつの布団で眠ることを提案するイルザを、今度はレオが決死の勢いで制した。


 まだ宵も早いうちからそれぞれの布団に入り込んだら、数秒もしないうちに暴力的な眠気に襲われた。


 屋根の下、布団で眠る。ああ、なんて幸せなのだろう。

 世界に冠たるヴェックマン王立魔法学院の首席卒業生は、ダニに警戒しながら包まれた薄い布団の中で、夢も見ない泥のような眠りに落ちた。


*  *  *


「ん……ああ、そうか。着いたんだったな」


 朝日が東の山裾を染めはじめた頃に、レオは目を覚ました。そして、夢のような現実が、夢でなかったことを確認する。

 ハインスボーン。迷宮への大入口を抱える都市に、昨日たどり着いたのだった。


 隣の布団では、静かな寝息を立ててイルザが眠っている。ゆっくり風呂に入って栄養を取ったせいか、いつもより血色がよく見える。

 寝顔をまじまじと見つめるのはマナー違反だと理解しつつ、レオは視線を外せない。


 イルザは、美人だと思う。

 スタイルもすごくいい。

 深い緑の髪は、旅に出る前は腰まで届きそうなほど長かったのだけど、邪魔になるからという理由で今は肩で切り落としてしまっている。


「悪いこと、したなあ」


 国を追い出されたのは、自業自得だ。今にして思えば、たしかにレオの存在は兄にとっては目障りだっただろう。

 けれど、イルザにはなんの罪もなかった。たまたま運悪く、教師に抜擢されてしまっただけだ。そして、教師としての責任感から、今日までついてきてくれた。


 こんなことにさえ巻き込まれなければ、もっともっと幸せな人生を歩んだに違いないのに。


 責任を感じる一方で、しかし、イルザがついてきてくれなければこんな身など、とっくに死んでいたことも理解している。だから、来てくれて助かった。感謝してもしきれない。


 いつか、この恩に報いるために、何ができるかを考えておかなければ。


「う……ん」


 形のいい唇を割って、イルザの喉から艶めかしい吐息が漏れた。寝返りを打つと、布団から悩まし気な肢体があらわになった。慌てて目をそらす。

 旅の途中から、こういうことは幾度かあった。イルザからすればまだ子供に違いないレオだが、少年は少年なのだ。悩ましいものは悩ましい。


「イルザ、朝だよ」

「ん……あ」

「おはよう」


 イルザは三度まばたきをすると、布団を蹴り飛ばして跳ね起きた。そのまま膝をついてこちらを向く。


「申し訳ありません、レオ様より遅く目覚めるなど」

「謝らないで。ずっと僕を守って疲れてたんだから」

「しかし」

「その、そんなことより、服が」

「はい?」


 上目遣いでこちらを見られる。寝起きで乱れた服でその姿勢を取られると、胸元が緩くなってしまうことに、イルザは気づいていないのだろうか。


 どうしたのですか、と身を寄せてくる。そのたびに、レオの視線はイルザの胸の谷間に吸い寄せられてしまう。なにか具合でも悪いのですか、と距離を詰めるイルザに、何でもないから、と悲鳴に近い答えを返して、レオはトイレに走った。


*  *  *


 宿を出て、朝の空気も快い街中を歩く。道行く人にちらちらと見られているのがわかる。宿で買った服が似合っていないのかなと尋ねたら、イルザは笑って、レオ様の美しさにみんな目を奪われているのですよ、と答えた。


 男のレオよりイルザのほうが注目を集めるに決まっていると思ったが、面倒なので言わない。


「イルザ、これ、どこに向かってるの? 迷宮管理局の方角じゃなさそうだけど」


 宿でもらった地図によれば、迷宮管理局は逆方向だった。迷宮冒険者になるためには、まず迷宮管理局で採掘許可を取得しないとならない。


「おっしゃる通りですが、迷宮管理局では冒険者にふさわしい力量かどうかの確認があると聞きました。我々であれば問題ないとは思いますが、念には念を入れて、最低限の武具は整えておきたいと思います」

「なるほど、たしかに」


 無意識のうちに、レオは腰に差した短剣に手をやった。着の身着のままで追い出された時に、この普段使いの短剣だけは懐に忍ばせてあった。以来、旅の貴重な道連れとなってくれている。


 王家で鍛えた鋼だけあって、切れ味は鋭い。小回りも利くので簡単な狩りや獣の解体には重宝したが、これで魔物と戦うのはちょっと不安が残る。


 イルザは愛用の杖を持って出てきたので、武器の点では問題ない。

 紅の杖(ルビー・ロッド)は先端の爪に抱かれた宝玉の質で魔力の運用効率が変わる。レングナー家の宝物庫にあった逸品を勝手に組み込んだと言っていたから、その純度は相当なものだろう。


 しかし、防具が心もとないのはレオもイルザも変わらない。なにしろ宿で買った布の服だ。防御力に期待しろというほうが無理な話だった。


「でもイルザ、お金は? 武器や防具って高いんじゃないの?」

「お城から抜けるとき、いくつか銀の燭台を引っこ抜いてきました。まずはこれを雑貨屋で売り払い、資金を作ります。その後、武器と防具を整えましょう」

「……頼りになるなあ」

「教師ですから」


 ふんす、と嬉しそうに鼻息を荒くしたイルザにくっついて、レオは街を歩く。この街は穏やかで、栄えている。道行く人同士が挨拶をかわせるのは、心に余裕がある証拠だ。


 故郷の人々を思って、レオはつかの間、空を見上げた。

 みんなは元気にしているだろうか。


*  *  *


 銀の食器は想定より安く買いたたかれてしまったが、武器屋が良心的だったおかげで、当初の目的通りの装備が手に入った。

 レオ様にはもっと高価な武器がふさわしいのに、とイルザは嘆いたが、レオに不満はなかった。


 自分の防具を放棄してまでレオに高い装備を与えようとするイルザを制するのに少々てこずったこと以外は、万事順調と言ってよさそうだった。

 レオは冒険者の定番、ロングソードと鉄の胸当て。

 イルザは紅の杖(ルビー・ロッド)とリザードローブ。


 新しい装備品を身に着けて、目指すはいよいよ迷宮管理局である。

 歩き始めるなり、リザードローブの、特に胸のあたりの触り心地を執拗に確かめさせようとしてくるイルザをけん制しつつ、レオは街路を往く。

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