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28.ローザ・ファーナー

「YYYYYYYYYYYWWWWWWWWWWWHHHHHHHHHHH!!」


 声にもならない怪音が、ナックラヴィーから発された。のけぞらせた喉のあたりが、まがまがしく盛り上がっている。

 母音を持たぬその響きは、人間の耳には意味を持つものとしては聞き取れない。脳髄に直接差し込まれるような刺激に、レオたちは耐えきれず耳を塞いだ。視界がゆがみ、呼吸が浅くなっていく。精神汚染の類の攻撃なのだと気づいた時には、すでに膝をついていた。


「ぐ……ぅ」


 しかし、ローザは動じない。そよ風に吹かれているように、目を閉じて微笑をたたえている。数十秒ほども迷宮全体を鳴動させるように轟き続け魔物の鳴き声は、やがて、ローザの一喝で断ち切られた。


「うるさい」


 年かさの姉が、弟を叱るような口調だった。震えとともに、ナックラヴィーの口が閉じられる。


「効かないんだってわかったら、すぐに諦めなさいよ。魔物だって引き際が肝心だわ。そうでしょ?」

「!?」


 驚愕は全員のものだ。言いながら、すでにローザはナックラヴィーの正面に立っていた。体術、スキル、あるいは魔術の類か。音もなく、予備動作もなく、数メートルの距離をゼロにした。

 見えなかったのはレオだけではない。ナックラヴィーが、明らかな動揺を見せた。意味のない叫びをあげながら、槍を振りかぶる。


 あまりにも遅い。


「えいっ」


 間合いを詰められてから振りかぶった長物が、ローザに届くはずもなかった。すっと腰を落としてから、軽やかに突き出されたローザの拳がナックラヴィーにインパクトした瞬間、ソニックブームが発生した。どれほどの強さで踏み込んだのか、軸足のあたりからは粉塵が舞った。

 ど、という鈍い音が、遅れて響いた。身体が粉微塵にならなかったことが不思議なほどの勢いで、魔物が壁面に叩きつけられる。おそろしいほどの圧力は、迷宮全体を軋ませるような破壊音を上げた。


「グャァアアエェカボガァァァアア!」


 意味のない苦悶の声が、ナックラヴィーの口元から漏れる。肺に当たる器官でも破れたのか、ばしゃばしゃと、血だとすれば異常なほどの量の水が吐き出されていく。ナックラヴィーの血は、水色をしている。あっという間に足元に大きな水たまりができた。


「す、ごい……」


 思わず漏れた声を聴きつけられたのか、ローザがレオを振り返った。目が合う。輝くほどの銀髪をかきあげて、目を細めて口元を上げる。あどけない、少女の笑顔になった。思わず、レオの頬が朱に染まった。

 血まみれの戦場には似合わないほど、無垢な笑顔だった。


「君がレオ君?」

「え、あ、はい。そうです、レオです」

「うわー、たしかに噂通り、いや、噂以上の美少年……」


 自らの手による直前の大破壊などなかったかのように、ローザは楽し気だ。後方から、仲間と思しき男の声が響いた。


「ローザ。遊びは目の前の雑魚を片付けてからにしろ」

「へいへーい。なんだよう、エルマーは遊び心がないなあ」


 ちぇ、などと舌打ちをしながら、ローザは無防備に、無造作にナックラヴィーとの距離を詰めた。この怪物を雑魚と呼んだことについては、理解を諦めておく。

 侮辱されたことが分かるのか、大きな目玉にはっきりと憎悪を込めて、ナックラヴィーがローザを見つめる。


「じゃ、とどめだね」


 ぱしゃりと、ローザが足元の水たまりを踏んだ瞬間、ナックラヴィーが両腕を振り上げた。


「!」

「あっ!」


 レオの悲鳴には意味がない。魔物の両腕の動きに呼応するように、地面に溜まった水が意思を持って広がりを得て、瞬きのうちにローザをすっぽり包み込んでしまった。

 膜状になった水による、堅牢な檻。


「馬鹿、油断するからだ!」

「あれ、なにこれ。水の檻?」

「ガアアアアアアアアアア!」


 エルマーと呼ばれた男が慌てて駆けよるが、遅い。

 ナックラヴィーが得物を作り替え、両手に剣を持った。リタの双剣を模したものか。刀身は、これまでのものと違って深い群青色をしている。あまりにも水を圧縮しすぎて、光の屈折が異常を起こしたのだ。


 水の膜でローザの身体を拘束し、その剣で首を刎ねる。それがナックラヴィーの策だったはずだ。まんまと罠にはまった獲物を切り刻もうと刃を振るう。

 が。


「えいっ」


 ぱん、と水の膜に穴が開く。ローザの拳が空間を突き破っている。魔物の驚愕は、これが生半可な檻ではなかったことを伺わせた。


「こんなのが奥の手ー? そんなんだから、雑魚って言われるんだよ」


 いっそ妖艶に、湿した唇でローザは笑う。

 掻き立てられたのは、恐怖か。どん、と空間を斬ってナックラヴィーが駆けだした。その刃は、ただひとつ、ローザの首を狙っていた。必殺。暗色の刃が振り下ろされる。速度は、音速をゆうに越えた。

 それを、ローザは、


「えいっ」


 の一言で消滅させた。

 生身の拳が繰り出されている。その拳に触れた瞬間、武器は搔き消えた。いかなる魔術によるものか、鋼を形成していたはずの大量の水さえ雲散霧消し、そこにはただの空白だけが残った。


「ッァ!???」


 ナックラヴィーの紅瞳が、哀れなほどゆがんだ。当然だ。なにをどう考えたところで、人間の拳があの武器を破壊することなど想像できない。

 その動揺を、ローザは恐ろしいほど無垢な声で、笑った。


「あはっ。びっくりしてるねー。じゃ、今度はこっちの番だ」


 えいっ、とまたかわいらしい声が響いた。遊びかなにかをはじめたのかと思ったかもしれない。同時に突き出された右の拳が、ナックラヴィーの右腕を、根元から消滅させていなければ。

 痛覚は麻痺しているのだろう。脳が理解を拒んだのかもしれない。いずれにしろ魔物は、自らの肉体の欠損に、数瞬、気づかずにいた。


「アゲ、ギ!?」


 ただ一撃によるダメージを正確に把握するに至って、魔物の狼狽は頂点に達した。しかし、ローザの拳は構わず次弾を繰り出している。


「えいえいっ」


 左の脇腹と、右の手首から先が吹っ飛んだ。もはやナックラヴィーに声はない。瞳は死の恐怖に染まった。


「えいえいえいえいえいっ」


 右足、右腕、顔半分。ぼんぼんと拳が着弾するたびに、ナックラヴィーの身体が消し飛んでいく。それでも容赦はない。終わりもしない。頬に飛んだ返り血をなまめかしくなめとって、ローザの拳が回転する。

 ローザは止まらない。

 腰が落ち着く。肩が回る。


 拳が、弾幕をなす。


「えいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいっ」


 一分は、かからなかった。

 ローザが拳をひっこめた時、そこには何もなかった。

 何一つ、なかったのだ。


 百の拳に打ち据えられたナックラヴィーは、肉片どころか塵一つ残らず、文字通りに消滅した。


「うーむ。好調!」


 びし、っと最後にそれっぽい構えを見せて、ローザは笑った。

 花の咲くような、笑みだった。


*  *  *


 月欠けの夜ヴォイド・メイン

 名前は、不在に由来している。


 迷宮冒険者のうち、もっとも多いのは剣を使う者だ。そうでなくても斧、槍などの武器を得物として、前衛で戦う戦士が、たいていのパーティには存在する。基本にしてもっとも汎用性の高い戦闘スタイルが、武器を以って魔物と対峙する戦士のものだからだろう。

 次に多いのは、主に攻撃に特化した魔法使いだ。対多数の遭遇戦の際、大火力を持つ魔法使いなしで窮地を切り抜けることは難しい。


 二人でパーティと組む時はこの戦士と魔法使いの組み合わせが理想的だとされている。実際のところ、たぶんに偶然によるものではあるが、レオたちもフラーク兄弟もこの例に倣っている。

 戦士も魔法使いもともに不在のパーティというのは、世に多くない。金級ゴールド以上になれば皆無と言ってもいいほどだ。


 つまり、その例外が、月欠けの夜ヴォイド・メイン

 メインで戦闘を引き受けるローザは、武器を使わない。己の肉体ひとつを凶器にする。

 パーティメンバーはほかに二人。エデルは補助・治療を得意とする魔法使いで、エルマーは罠の設置や鑑定、開錠などに特化したレンジャーだ。いずれも単純な意味での戦闘能力には秀でていない。


 こんなデタラメなパーティ構成のくせに、それぞれの異常なほどの才覚によって、月欠けの夜ヴォイド・メインはハインスボーンの頂点に君臨する。


 ちなみに、パーティに名がついたのは3年前。

 深層到達記録ランキングで10位以内に達した時、管理局はパーティに固有名を名乗らせる。これにあこがれる冒険者も多いのだが、ローザにとってはただの面倒に過ぎなかった。

 それで、あざけり交じりで呼ばれていたあだ名を、そのままパーティ名にしてしまった。「主役を欠く」という意味で、月欠けの夜ヴォイド・メイン

 名付けてみたら案外しっくり来たようで、すっかりお気に入りになってしまったのだった。


*  *  *


 いま、レオの前に、ローザがいる。

 鼻梁が高く、あごは細い。細めれば凄みがあるのだろう切れ長の目は、こうして見るとむしろ愛らしい印象を受ける。つり合いを取るように唇は薄く、不思議なほどに紅い。


 美醜を越えて、異常なほど、あるいは人工的なほど整って見えるのは、顔面が完全なシンメトリーをなしているからだということに、見つめあってはじめてレオは気づいた。

 ローザはにんまりと笑って、レオの顔を見分している。そのまま取って食われるんじゃないかという恐怖さえある、どこか肉食獣じみた目つきだ。

 そのローザの唇が割れて、なまめかしい舌がのぞいた。


 こちらを見つめる目が、妖しいほど輝く。

 ぞくりと、背筋が泡立った。

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