24.ナックラヴィー
闇の中、殺意が渦を巻く。
初撃は暴風をまとってリタを襲った。まばたきの暇さえない。まだ十メートルはあったはずの距離が、一瞬にしてゼロになる。
半人半馬、ナックラヴィーの馬の蹄が固い床を蹴る音と、繰り出した水の斧がリタの頭上に迫ったのは、ほとんど同時だった。炎の出るような打ち込みが、リタの矮躯を脳天から両断しようと振り下ろされる。
「リタ!」
「ああああああ!」
がぎん、と派手な音が鳴って、魔物が持っていた水の斧が弾き飛ばされる。ぱしゃっと音を立てて、武器は水にかえり、床を流れた。その水たまりが、呪いのように一本の流れを引いて下っていく。
本能のまま頭上に振り上げられたリタの双剣が、間一髪で凶刃を退けたのだ。意想外の反撃に、むしろ戸惑いよりも喜びを顔ににじませ、ナックラヴィーが距離を取る。
並みの銅級、あるいは銀級であっても、反応すらできずに三度殺されていた。男たちとの戦闘によってリタの感覚が研ぎ澄まされていなかったら、あるいはこの一撃で勝負は決まっていたかもしれない。それほどの速さ、それほどの重さの一撃だった。
いま、これまでに経験したことのない戦慄が一行を襲っている。幾度も死線を潜り抜けた騎士団の猛者であるリタでさえ、ここまで濃密に死のにおいを嗅いだことはない。
なぜこんな化け物がここにいるのか。どうすればいいのか。勝ち目はあるのか。助けを呼ぶ方法はあるのか。逃げたほうがいいのか。その方法は。
数々の疑問が脳裏をよぎっては消えていく。すべての問いの答えが、ある一つの結論を明示する。その明瞭すぎる末路を認めないために、誰もが必死だった。
死ぬ。ここで。全員。
「くっ……」
防いだはずのリタの両腕が、だらりと下がる。衝撃でしびれが走ったのか、あまりの重さに筋が傷ついたのか。いずれにしても、それは致命的な隙だった。
そして、それを見逃してくれと願うには、ナックラヴィーはあまりに凶悪な魔物だった。
風を破る音がする。破裂音のようだ。再び魔物が地を蹴っている。
ナックラヴィー。水妖の最強種に数えられる。ゆえに、得物は水から作られる。変幻自在に輪郭を変える、夢幻の刃。
大量の水を、無理に圧縮して強度を高める。今度は巨大な槍の形をとった。密度は先ほどの斧の比ではない。あるいはあれ一振りを形成するための質量で、大瀑布さえもしのぎうる。
リタが双剣を構えなおす。どれほど痛みが警告を出そうとも、もはやそうしなければ死ぬことを彼女は悟っていた。悲鳴を上げる痛覚を無視して双剣を十字に構える。
そして悟る。
――あ、意味ないや。
双剣を構えなければ死ぬだろう。だからといってそれは、双剣を構えれば死なずに済むことを意味しない。この程度の装備では、あの攻撃は防げない。構えても構えなくとも、あらがってもあらがわなくても、逃げても戦っても、たどり着く場所はきまっていた。
あれと遭遇した時点で、命運などとうに尽きていたのだ。
ぐん、と攻撃がせまる。視認さえ追いつかない。先んじて、いっそ爽快なほどの風が吹いた。
リタの死は、槍の形をしていた。皮肉なほどに美しい、空の色を宿した――。
「っ!」
その一瞬ののち、リタの命がなお現世にとどまっていたのは、レオの咄嗟の判断のおかげだった。レオの剣が鞘ごとリタの胴体を直撃し、壁際まで小さな体を吹っ飛ばした。
レオの攻撃では、おそらくナックラヴィーに弾かれる。時間稼ぎもできない。そう判断して、迷わず仲間を全力で打ち据えることで、絶体絶命の窮地を脱した。リタとて通常であればレオの攻撃を無防備に食らうはずがないが、注意が前方の敵にのみ向いているならば話は別だ。
そのレオの判断を、自分の身に何が起きたかを、秒を下回る速さでリタは理解した。
同時に、その無意味さも。
「レオ……様……」
だって、この化け物の攻撃を防ぐ手立てが、自分たちにはまったくない。
そんなリタの聡明な絶望を感じ取りながら、レオは決して同調しない。
「イルザ!」
自らが打ち据えたリタに素早く駆け寄りながら、レオが叫ぶ。その顔は恐怖で蒼白だ。当然だ。こんな小細工をしたところで、たかだか数秒、寿命が延びるだけだろう。一撃を避けても次が来る。次を避けてもその次が来る。こちらの命が尽きるまで、この暴虐の嵐は止まらない。
そんなことは百も承知で、それでもイルザは、焔を呼んだ。
「燃え、ろぉ!」
紅の杖の先端に抱かれた宝玉が、烈しく輝く。焔の気配があたりに満ち、やがて昼を欺く光となって業火が猛った。イルザの魔力を燃料とし、イルザ自身を砲身とし、宝玉を銃口とする最高火力の炎熱魔法。
宝玉の純度にしたがって倍化された魔力が、壁面を埋めるほどの大火力を召喚する。赤ではなく、青でもない。迷宮の魔力を存分に食らい、炎は日輪の白い輝きを模した。
爆風が吹き荒れる。貪婪に魔力と酸素を消費する炎が、何もかもを焼き尽くす。イルザの指先から血がしぶく。網膜が破れ、右目から紅涙が垂れる。
深緑の髪が、扇のように背後に広がった。
「すげえ……」
つぶやきはトビアスのものだ。場にそぐわない、純粋な感嘆の呻きだった。
イルザの炎熱魔法は、その気になれば一個小隊くらい、装備品までまとめて燃やし尽くす。それをやれば一発で魔力が空になるどころか、肉体が魔力の流れに耐えられずに損傷することがわかっているから、よほどの場合でなければ選択肢にさえ入らない。
それを、迷わず撃った。反動も、その後も、なにひとつ顧みず。そうしなければ死ぬという恐怖が、彼女にあらゆる逡巡を捨てさせた。
判断は正しい。それが最善で、それ以外の策はなかった。
しかし、正しいことと、意味のあることは、必ずしも等号では結ばれない。
イルザの魔力をすべて吸い取った炎が消えていったあとも、それは立っていた。
そよ風に吹かれたように、悠然と。
「はっ」
イルザの口から、笑みが漏れる。なんということはない。終わる者は、時折、笑う。
だって、笑うしかないではないか。こんな悪い冗談、悪い夢に遭遇すれば、ほかにするべきことはない。
「まったく、いやになる」
イルザの呟きは、自嘲の響きを帯びた。少なくとも、自らの命はあきらめた色を含んだ。
健在の魔物。手には剣。ぶん、とそれは無造作に剣をふるった。イルザには見えない。リタには反応ができない。
弾丸となって、その剣先から水の粒が射出されている。
「あっ!」
「つぅ!」
イルザの腹と、リタの両足を、正確にうがった。その弾丸が壁にぶつかって、ぱしゃりと、再び水にかえる。しかし、水たまりは今度は流れを引かない。そこに、粘液が混ざる。ふたりの体内からあふれ出した血が混ざる。
「イルザ、リタ!」
慌てて駆け寄ったレオに言葉もなく、イルザとリタは敵を見ていた。もはや反撃の方法も抵抗の手段も残されてはいない。それでも、ふたりはなお戦意を衰えさせない。
勝てずとも、ここで死ぬことになろうとも、それでも主の命ひとつ、なんとか拾う方法だけは見つけてみせると。
ふたりの怪我が即死に至るものではないことを確認して、レオもまた振り返る。
魔物は、大いなる影となってそこにある。決して破れぬものとして。
しかし、ナックラヴィーはそこで動きを止めた。やろうと思えば数秒でこの場にいる五人を鏖殺できるにもかかわらず、悠然とたたずんでいる。
まるで、何かを待つように。
「ああ、くそ。そうか。趣味の悪い魔物ね」
イルザが呟くと同時にしわぶき、その唇から鮮血が散った。リタの鼻からも血が流れだす。レオも胸の奥に痛みを覚えてせき込むと、口元をかばった手のひらに血がべっとりとへばりついた。
「ナックラヴィー。そもそも、つかさどるのは病だったか」
呪いの類か、ただの毒か。いずれにしても、ナックラヴィーの吐く瘴気は、人間の肺に損傷を与えるらしい。
半人半馬の魔物といえばケンタウロスがまず思い浮かぶ。しかしケンタウロスが相手であれば、ここまでの苦戦はあり得なかった。
ナックラヴィーの下半身はたしかに馬のものだが、上半身は人とも言えない。その豚面は人間よりもオークに近い。目は、サイクロプスのような独眼。毒々しいほどに赤い。
頭部は巨体に比してなお不釣り合いなほどに大きく、両腕も不自然なほどに長い。全身に皮膚を持たず、体組織がむき出しになって脈づいているのがなんとも醜悪だった。
水中にも棲まう水妖で、姿を見たものに病を与えるという。
出現する階層はもっとも浅くて70層だと言われている。頻繁に姿を目にするのは80層以下であると。現役の冒険者で、この魔物と遭遇して生きているものがどれほどいるか。
「それが、なんでこんなところに」
毒は数秒で全身に回った。腰回りから力が抜けていく。その様子を見て、そろそろいたぶるのも飽きたのか、ナックラヴィーが動いた。
手に、今度は弓矢を持った。こちらに照準を合わせて、なぶるようにゆっくりと弓を引く。逃げるなら逃げろと言わんばかりだった。まるっきり、狩りを楽しんでいる。
それが魔物を喜ばせるだけだとしても、せめて最後の瞬間だけでもレオをかばおうとイルザとリタが立ち上がる。レオの前に出て全身を盾にしようと力を振り絞ったとき、ふたりは、聞き覚えのあるような、聞いたことのないような、不思議な声を聞いた。
「傷つけたな。僕の、大切な人たちを」
レオの声だった。たしかに。しかしその響きは低く、地獄から響く怨嗟のように迷宮内にこだました。
怒り。まぎれもなく、純粋な、ただの怒りだけを、声は孕んだ。
レオが顔を上げる。目がまっすぐに魔物を見据える。普段は凪いだ湖面のように美しいブルーで彩られた瞳が、別の色を宿す。
その瞳を、イルザとリタは戦慄とともに見た。
黄金色。
月も恥じ入るほどに輝いて――。




