01.水浴び
イルザはレングナー本家の三女として生まれた。母は側室だった。父は、多くの側室を持つ男性にとっての最低限の義務をわきまえたひとだった。すなわち、生まれに区別なく、すべての子供たちに等しく愛情を注げる男性だった。
幸福だったと思う。幼くして魔道の才を見出されたイルザは王立の魔法学院に入学し、首席でそこを出た。数十年に一度、あるいは学院はじまって以来の才媛と呼ばれ、授かった天稟に恥じぬ努力もした。家族の支えがあり、良き友人に恵まれ、卒業後の生活にも満足していた。
こうして老いていくのであれば、歴史に名を遺すようなことがなくとも、この人生は決して悪くないものになるだろうと思っていた。
それが、とイルザは脱力する。
丹念に水で洗い清めても、長い放浪生活で傷んだ髪がかつての艶を取り戻すことはない。
通された宿の中庭で、申し訳程度の目隠しに覆われて、行水をしている。母が知れば泣くだろう。父は気絶するかもしれない。それでも、覚悟して自ら選んだ道なのだから、弱音を吐くわけにはいなかった。
「うわー、気持ちいいなー。やっぱり体は清めたほうがいいよね」
「そう、ですね」
隣からかけられた声に、返答が遅れた。その声の、あまりの無邪気さに。
「イルザ? どうしたの、具合でも悪いの?」
目隠しの向こうで、レオがどんな顔をしているかはっきりわかる。この少年は、自らの不遇を嘆くことなく、隣にいる人間の迷いや悩みに心を寄せることができる。まだ十六歳になったばかりだというのに、七つ年上の自分よりも、よほど人間ができている。
というか、この薄い布の向こうに、生まれたまんまの姿のレオがいるのだと思うと、それだけで喉が鳴る。何か月一緒に旅をしていても慣れることはない。レオのすべすべした肌を思い浮かべて、イルザはうっとりと目を細めた。
「イルザ?」
「はっ。なんでもありません、レオ様。すこし水が冷たかっただけです」
「そう。それならいいけど」
前に水浴びをしたのは一週間前だったか二週間前だったか。髪のケアをあきらめて、指で口内を清める。こんなやり方を覚えたのも、苦難の旅のせいだ。
ついでに水を飲み下す。飲み水には苦労のない旅路だったが、天然の水はやはり一味も二味も違う。
「うわ、すごい」
「どうしました、レオ様」
「何回こすっても身体から垢が出てくる。これ、ずっとやってたら、体重減っちゃうかもな」
楽しそうに笑っている。この明るい声に、いま浮かんでいるであろう笑顔に、本来なら支えるべき立場の自分が、何度救われただろう。
やはり、と思いながら手早く身体を清め、濡れた肌に汚れた衣服をまといなおす。やはり、レオ様こそが私の主にふさわしい、と。
なによりもレオは美少年なのだ。どんなに人間ができていたって、美しくなければだめなのだ。端的に言って、イルザは面食いだった。
すっと目隠しを外すと、ちょうどレオが目を閉じて頭を洗っている最中だった。
「レオ様、そのやり方では十分に汚れは落ちません」
「え、そうなの? あれ、ていうか、なんで僕のこと見えてるの?」
「目隠しは外しましたので」
「……え?」
レオは目を閉じたまま頬を赤く染めた。イルザが衣服を着けないまま目隠しを外したものだと勘違いしているようだった。べつにそうしてもよかったのだが。
目を閉じているにもかかわらず、レオは慌てて顔を伏せる。苦手なことなどほとんどないこの少年の、唯一の苦手が女性関係であることを、もちろんイルザは知っている。レオはその華やかな出自や外見に似合わず、シャイなのだ。
「レオ様、どうされましたか?」
「ど、どうって……」
小さくなった声は、背を向けられているせいで余計に聞こえにくい。イルザはにんまりと笑って、そのレオの背中に手を触れた。
「うひゃ!」
「レオ様、髪を流すのをお手伝いいたしますね」
「い、いいよそんなの!」
「そういうわけには参りません」
「で、でも……ていうか、あ、当たって……」
「当たっている? なにがでございますか?」
するっと必要以上に身体を寄せて、イルザは手桶を取った。レオの頭にざぶざぶと水をかける。流した水から汚れが目立たなくなるまで七回も繰り返さなければならなかった。
そのまま顔をぬぐってやり、背中も流してやる。筋肉が肌に陰影をつけている。異常な色気を感じて、イルザは喉を鳴らした。
「イルザ、背中はいいって、髪だけでいいよ!」
「そういうわけには参りません」
崩れ切った顔はレオには見せられない。声だけは冷静に保ったまま、背中に指先をゆっくりと這わせる。
レオは、この程度のことで真っ赤になって照れる。正直に言って、その様子は、イルザの大好物だった。主筋でなれば、道中、何度襲ってやろうと思ったことか。せめてこれくらいの役得は、と不必要に体をまさぐると、レオは慌てて腕の中から逃げてしまった。
「もういいよ、イルザ。服を着て、さっきのおばあさんに部屋を貸してもらおう」
「かしこまりました」
これ以上の無理強いは本気で怒らせてしまうかもしれない。すっと腰を折って、身を引く。イルザはこの呼吸を間違えることがない。
少なくとも、素面でいる間は。
* * *
レオは王子だった。
いや、血の流れを偽ることができない以上、今でも彼が王子であることには変わりない。たとえそれが、故国から追放された身であったとしても。
レオ。フルネームはレオ・ヴェルナー・ヴェックマン。
このハインスボーンからはるか西にある王国――国名は王家の性をそのままいただく――の、第十一、末の王子である。
王太子である第一王子とは二十以上の年齢差がある。王弟たちも多く健在であるから、王位継承順位は数えるだけ無意味な生まれだった。
レオの母は他国から嫁いできた第三王妃だった。白磁の美貌で知られ、長く王に寵愛された。同じ母の生まれに、第七王子と第六王女がおり、傾国と呼ばれた美しさは無事三人の子すべてに遺伝した。
とりわけレオは、生まれたばかりのころから珠のような子供だった。
レオは宮廷では手のかからない、紅顔のほかには特に目立つことのない王子だった。それが突然、国の役に立ちたいと言い出したのは、七つの誕生日のことだった。
王になることはないのに、ただ高貴な血筋に生まれたというだけで厚遇されるのは、あまり気分のいいことではない。レオに言わせれば、申し出の理由はそれだけだった。
まったく貴族にふさわしからぬことに、レオは労働が好きだった。研究も好きだった。知識を愛し、知恵を求めた。王は晩くに授かった末の子には、まったく興味を持たない代わりに寛大だった。魔法についても剣術についても、そこまで年の離れない一流の教師を用意した。レオが十一の時にやってきた魔法の教師、王立魔法学院の推薦で雇われた若き魔術師がイルザである。
モンスターが出たと聞けば騎士団に帯同し同じ釜の飯を食い、嵐で川があふれたと聞けば堤防の敷設に力を尽くした。机上の論理だけでなく実地での献身的な働きを重ねる末の王子を、当然のことながら民は愛した。
いじらしく研鑽に励み、下々の働きをよく見てよく褒め、よく笑うレオは、世間だけではなく宮廷でも人気者だった。その人望は日を追うごとに増していき、やがてひとつの勢力を成した。
レオは、やりすぎた。本人に意思がなくとも、民はレオをいただくことを夢見た。それに同調する臣も多くいた。こうなっては、沙汰がなければ収まらない。特に王太子の側近からの憎悪はあっという間に危険水域を超えた。
それでも悪いたくらみを実行に移すまで、言い訳のように立志の儀を待ったのは、その身に流れる王家の血に憚りがあったからだろう。
しかしそれも成人の儀まで。
かくして十五歳になって数か月後、王位継承に無用の混乱をもたらすとして、レオは故国を追放された。
本人には何の咎もなく、ただ人望を集めすぎた、というだけの理由で。
処刑にならなかったのは罪状が捏造できなかったからに過ぎない。身一つで放り出されたレオは、王家にとっては後顧の憂い以外の何物でもなかった。したがって多くの刺客が彼の命を狙った。
優秀とはいえ世間を知らぬレオは、そのまま荒野で野垂れ死ぬはずだった。この悲劇を予期したイルザが、すべての身分を捨てて彼を守ることを選ばなければ。
そうして二人は旅の身となった。目指したのは、治外法権の街ハインスボーン。そこで迷宮冒険者となる以外に、彼らの前途に希望はなかった。
いずれも悲劇の人物には違いないが、本人たちは案外と幸せそうである。
レオは堅苦しい身分を嫌ったし、イルザはレオとの二人旅であれば行先が地獄であっても望むところだったからだ。
レオは、イルザがたまにつぶやく「これでワンチャンあるかも!」という言葉の意味を、いまだ正確には理解していない。
実のところ、彼に迫る身の危険は、実家からの刺客だけではなさそうだった。