00.到着/ハインスボーン
その日、迷宮管理局の根拠地である大都市ハインスボーンの門前に、みすぼらしい二人組が姿を現した。
門衛のエゴールは、あくびを押し殺しながら腰を上げた。太陽は中天にかかっている。つまり、交代までは数時間も残っているということだ。
仕事をしなければならない。
近寄ってみると、二人組が男女であることがわかった。髪は乱れ顔は汚れ、身にまとったものは服の残骸としかいいようがない状態で、年のころを推定するのも難しい。来訪者は珍しくないが、ここまで悲惨な身なりのものは記憶になかった。
それでも仕事は仕事だ。声をかける。
「ハインスボーンへようこそ」
ふたりが放つ悪臭に歪みそうになる顔に、職業的な笑顔を張り付ける。目的は観光、ではなさそうだった。
ということは、と心の中でため息を吐く。こいつらもあの手合い、というわけだ。
「ハインスボーンへは、はじめてでしょうか?」
「………」
返事がない。ふたりそろって立ち尽くし、傍らのエゴールの存在にも気づかぬように、呆然と門を見上げている。
雲をつく正門である。象嵌されたラピスラズリが美しく陽をはじいている。田舎者が見とれるのも無理はない。緊張を解いてやろうとますます笑みを深くしたエゴールの耳に届いたのは、しかし予想に反して、
「……うっ」
「……ううっ」
「ううううううう」
「うううううううううう」
地の底から響くような嗚咽だった。
「え、ちょ、おい」
「うわあああああああ!」
「着いたああああああ!」
大号泣である。頬に張り付いた塵埃を巻き込んで流れた涙が、黒っぽいしずくとなって顎先から垂れていく。
汚い。あと臭い。大口を開けるものだから、体臭だけじゃなくて口臭も漂ってくる。そもそも質問に答えずに大号泣っていうのはどういうことだ、いったいなんなんだこいつら、と顔をしかめたのもつかの間、
「着いたよおおお!」
「うわ、よせ、やめろ!」
感極まった男がエゴールに抱きついてきた。身をよじって逃げようとするが、男はしつこく腕を回してくる。臭い、やめろ、と声を上げても離れない。無理に引っぺがそうと全身に力を込めるが、
(こいつ……)
男の体は鋼のようで、門衛として訓練を受けたエゴールが全力で抗ってもぴくりともしない。
助けを求めて視線を流すと、女のほうは腰が砕けたのか、地面に座り込んで顔を覆っている。こっちを見もしない。
「おい、やめろ、マジでなんなんだお前らあ! 臭せええ!」
エゴールの叫びは、刷いたように青い空に吸い込まれた。
* * *
「ご親切にどうもありがとうございます」
「たいへんたいへん助かります」
「いや、気にしなくていい。もらうものはもらったから」
十分後、エゴールは来訪者ふたりを連れて、街中を歩いていた。通行料の二倍を支払うからすぐに湯を使える宿に案内してほしい、と頼まれたからだ。
門衛の仕事は門を守ることだから、もちろん職務違反になる。しかし、広い意味で言えば己の職務は街の安全を守ることだ。この悪臭発生装置と化したふたりを野放しにするほうが、街の安寧に対する罪と言える、かもしれない。
そんな適当な理屈をでっちあげ、本来の仕事と、来訪者から受け取った金の三割ほどを口止め料として後輩に押し付け、こうして目抜き通りを歩いている。
なお、顔をしかめながらこちらを見る通行人の目には気づかないふりをした。仕方ないだろう、臭いのは俺じゃなくてこいつらなのだ。
しかし、不思議なのは、やけに堂々と歩くふたりだった。ふつう、田舎者がこの街にやってくると、まずはこの大きな通り、そして街路の美しい木々、なによりもひしめくように立ち並ぶ商店、住宅の数々に圧倒される。
それがどうだ。こんなものは見慣れている、と言わんばかりに、すいすい歩いていく。疲労のあまり目が滑っているのかとも思ったが、足取りを見るとそうではなさそうだ。
むしろなんというか、足運びが端正で、立ち姿が様になっている。
遠慮のない視線を見とがめられたのか、男のほうが不安そうに眉を寄せる。
「あの、どうかしましたか? 僕たち、やはり変でしょうか?」
「そういうわけじゃない――ほら、そこだ」
三軒先を指さす。街でも一番の安宿だ。もともとこうした新参者の仮宿に使われることが多く、屋内の風呂だけじゃなくて、中庭に旅の汚れを落とすための川が引いてある。
「おーい、バアさん、客を連れてきたぞ」
軒先から大声で呼ぶと、二十年前からババアだったババアが、二十年前と同じ顔で出てきた。皺に埋もれた、あるかないかもわからない目を細めてふたりを見る。
「おお、こりゃまた汚いねえ、臭いねえ。内に入る前に、中庭の川で垢を落としておいで。ん、そっちは女かえ? 大丈夫、目隠しもあるから気にせずに使うといい。きれいになったら中においで、部屋は空いてるから」
言うだけ言って、ババアはすぐに引っ込んだ。顔を見合わせるふたりに手を上げて、エゴールも踵を返す。
「これで俺の仕事は終わりだ、じゃあな」
「あ、ありがとうございました! この御恩は一生忘れません、そうだ、お名前を教えてください!」
男のほうが深々と頭を下げる。道案内程度でここまで感謝されるとかえって気が引ける。
「エゴールだ。門衛のエゴールっていえば通る」
「エゴールさん。御恩はいつか必ず返します」
はは、とエゴールは笑った。
「そりゃ楽しみだ。あんたら、どうせ迷宮冒険者志望だろ? いつかでっかいモンを掘り当てたら、エールの一杯でもおごってくれ」
頭を下げるふたりに片手をあげて道を引き返す。返ってくるあてのない恩を売った覚えはない。道案内にしては十分な対価を受け取っている。ポケットの銅貨をもてあそびながら、今夜は一杯やって帰ろうと思う。
万が一にも、彼らが億万長者になることはないだろう。多くの人間が夢見るほど、迷宮冒険者の世界は甘くない。
長くこの街の門衛を務めるエゴールは、そのことをよく知っている。
この世界の地下に存在するもう一つの世界――迷宮。あまりにも深く、あまりにも広大なこの地下世界が発見されておよそ一千年、人類はいまだその全貌を解き明かせていない。いや、全貌どころか、踏破された領域は全体の一割にも満たないとする説が有力だという。
いつからあるのか、なぜ存在するのか、迷宮に現れる魔物はどこから生まれるのか、どれほどの深さがあるのか、どれほどの広さがあるのか、潜るたびに地形が変形するのはなぜなのか。
数多くの謎を懐に抱き、迷宮は今日もこの足の下に存在している。
その迷宮への出入りをすべて管理するのが迷宮管理局だ。
迷宮からは多くの資源が採れる。モンスターの牙や皮、魔石、財宝、鉱物、あるいは未知の古代遺物。それらを売って生計を立てるのが、迷宮冒険者と呼ばれるものたちだ。
迷宮冒険者になるには、迷宮管理局の認可を受けるだけでいい。実力こそ問われるが、生まれも育ちも前科さえも考慮されない。
ゆえに、人生に失敗した崖っぷちのならず者たちが世界中から集まってくる。そのくせ競争率が高くないのは、新米冒険者の八割が一年以内にドロップアウトするか、あるいは死ぬからだという。
迷宮冒険者のうち、もっとも成功したものは国を起こした。成功者は他にも多くいる。しかしその足元には数えきれないほどの骸が横たわっているのだ。
振り返ると、二人はまだこちらに頭を下げていた。悪いやつらじゃなさそうだった。せめて、とエゴールは思う。せめてあの二人が、無事に長生きできますように、と。
* * *
ハインスボーン。絶対的権威"迷宮管理局"が支配する街。すべてを失った人間が、その身一つで夢を見る権利を保障する、この世界の中心地。
ともあれ、数か月の流浪の果て、ふたりはこの目的地にたどり着いた。
少年の名は、レオ・ヴェルナー・ヴェックマン。
女は、イルザ・レングナー。
ある王国から追われた、流浪の貴種であった。
運命に逆襲するために、彼らはいま、ここにいる。