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○新暦九九七年 ナスダの春 第四週三日 アリッラ連合国領エルデカイン・ミズラ丘陵
瞬く間に、連合国軍補給部隊がエルデカインを横断すると目された期日がやって来た。
既に本営が移動ルートまで解析しているらしく、おそらく決戦の舞台はミズラ丘陵となるだろうということだった。
ウラム湖と連合国内地を挟む場所にあるミズラ丘陵だが、起伏は殆ど無くなだらかで、ほぼ平地と言える為、隠れ潜むことは難しい。
であるからして隠密の運搬には適さない場所なのだが、かといって周辺は鬱蒼と木々が茂り、巨大な運搬車では走行に困難だ。それだけに連合国軍がこのミズラ丘陵を使うのもやむない話ではある。
そして今現在、フィリス達特別機動部隊含めた王国軍の軍勢があるのはミズラ丘陵よりやや西側に離れた位置。平野部分に王国軍が結集し大きなキャンプが展開されていた。
その中でも端の方、末席を与えられたフィリス達は出撃前で言葉数も少ないまま、各々自らの武具やガウゼルなどの調整に入っていた。
中でも部隊の頭目であるフィリスはまだあの象徴的な黒兜は身につけず、ただ何もしないまま佇んでいた。
己の乗りこなすガウゼルに軽く腰掛け、遠くに流れる緑色の絨毯を何とはなしに見つめる。戦の前の武人、その猛りとは程遠い地平にいた。
思うところは何も無い。ただ今日も、いつもと同じに与えられた仕事を淡々とこなすという不純の無い煮詰められた義務感だけがフィリスの胸中を占めている。
そんな虚無を抱く彼の許へふらふらとやって来た筋骨隆々の大柄な男、すなわちグラン・マズラフが不意に声をかけてきた。
「思ったより少ねぇな」
その言葉が何を指したことかと一瞬考えたが、兵の数の話だとすぐに分かった。自身も同じような感想を抱いていたからだ。
フィリスとしてはこのエルデカインにある王国軍の総意は、敵補給部隊の排除に重きを置いているのだと認識していた。そして今回の戦いは、その目的達成の上で非常に重要な一戦となるだろう。また、そのようなことをナルタ伯爵も自らの口で話した。
だというのに動員されている兵数は、現状のキャンプ規模だと三千程度ではなかろうかと察せられる。総勢二万名以上の戦闘員で構成されるこの方面軍において三千は総力の半分以下となる。全力と呼べるほど多い数ではない。
ただ普段の小競り合いのような戦いと比べれば十分過ぎるくらい大勝負ではある。それだけでなく、特別機動部隊には殊更難事である〝暴れ槍の討伐〟という任が与えられているのだ。むしろ一世一代と呼んで良い一戦となるだろう。
「関係ない。俺たちは俺たちがすべきことを為すだけだ」
「ああ、そうだな」
フィリスが低い声で言うと、グランは素直にそれを肯定した。
それから二人は何の言葉を交わすでもなく、目の前の光景をただひたすら眺めた。
武器の仕上がりを見直す者、あるいは武具を研ぐ者。静かに目を閉じ瞑想する者。普段と変わらない姿で会話を交わす者。皆それぞれだ。
そしてそれぞれのやり方で自身を昂ぶらせ、来たる恐怖から自分を遠ざけている。その営みはいずれにも生き残ろうとする逞しさを感じた。
対するフィリスはと言えば、己の中を覗くとがらんどうの空洞だ。恐怖も昂ぶりも怒りも悲しみもない。
あるのは遠い昔に預かった、今はもう擦り切れたような掠れた、師との別れ際の言葉だけ。
〝次にある戦争で生き残れ〟と。
そこにどういう意味があるのかは分からない。ただおそらくだが、苛烈を極めた修練の最後、総仕上げなのだろう。
始めは理由も何も考えず、分からないままであれ戦い抜くことを自分に誓っていた。しかし幾多の戦場で人を殺し続け、死に触れ続け、遂にはこのエルデカインへと渡ってきたその時、フィリスの心の中にかつてあった光は全てが失われていた。今はもう何も感じない。
自分は果たしていつ死ぬかと考えながら、剣を振るい、命を刈り取る機械と化した。
その先に何を望むかも、今はもう――
「……おい、フィリス!」
「ああ」
グランの大声ではっと我に返った。目の前でグランが形相を変えている。
どうやら自分は考え事で、グランの話を無視してしまっていたようだと気付く。最近はこんなことが多い。考え事に捕らわれて、目を開けたまま眠ったように外界の出来事を見過ごしてしまう。
「ようやく気付いたか。ったく……ほれ」
愚痴を漏らしながらもグランは乱雑な手つきで何かを差し出してきた。それは木製のコップのようだが、どういうつもりなのか。
「それ、何だ?」
訊ねるとグランはつまらなそうに言った。
「酒だよ、酒。お前の勝利の前祝いだ。呑め」
そう言ってコップをもう一度ぐっと差し出してきたが、フィリスは流石に受け取る気になれなかった。
「駄目だ。ガウゼルの運転が狂う」
心を高揚させるために戦いの前、酒を飲む人間もいるが、どちらかというと酒を苦手にするフィリスにはその経験は無い。
加えて精密な操作を要求されるガウゼルに搭乗するのだから、やはり酒など飲みたくない。
だがフィリスが断ろうとも、グランは頑として譲らなかった。
「ほんの少しもありゃしねえ。いいから呑め!」
更に酒を差し出されてフィリスは諦め、渋々頷いた。
「分かったよ」
酒を手に取る。手の平に収まるくらいの大きさのコップの中には透明の液体が半分ほど注がれていた。それを傾け一気に喉の奥へ流し込む。
蒸留酒の迸るような熱さが心地好く喉を焼いた。そして程なく体中の血が驚き、騒ぎ始めるような感覚に襲われる。
「美味いだろ。俺のとっておきだ」
グランは自慢げに言う。だがそんな良し悪しなどフィリスに分かりはしない。
「……まあまあだな」
答えに困った挙げ句、そう適当を返した。
「ちっ。やっぱお前は酒の舌も肥えてんだな」
そういうわけでもなく単にフィリスが酒を苦手にしているというだけの話なのだが、わざわざ否定するようなことでもないところ。
黙って聞き過ごし、その場を去ろうとグランに背を向けた。もう程なく作戦開始であり、最後、出撃前に全体確認を取る必要がある。
「おい」
その背にグランのぶっきらぼうな声が飛んだ。立ち止まって肩越しに振り返った。
「何だ」
「勝てよ」
「……当たり前だ」
こんな自分がこのグランやロイス、そしてこの部隊の面々から幾らも期待を背負ってしまっている。その当たり前の事実を今また再び認識させられ気が引き締まる思いだった。