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レリルは特段勘が鋭いというわけでもない。
確かに日々武術の鍛錬は欠かさず、体内を巡る因子エネルギー、それを用いた戦闘術である〝練体術〟の修練を積んだ優秀な武人である。
だからと言って特殊な魔術を行使できるわけでもなく、よって感覚器官などが特別優れているというわけではない。
彼が見たものは黒の光。
否、それは黒の兜を身につけた人間が操者である一騎のガウゼルだ。殆ど人が制御出来るぎりぎりと言える程の高速で駆け抜けたガウゼルは兵達が密集するところへ近づく寸前、急ブレーキをかけた。一気に速度が落ちる。その瞬間、乗り手が空高く飛び上がった。
尋常の力では到底成し遂げられないほどの跳躍。黒兜の影が空を踊る。
そして〝それ〟は戦場のただ中へと飛び込んだ。
返り血に赤黒く染まったマント、黒の地金に微かな金の差しが入った兜。
そして右手に有する剣もまた同等の材質で出来ているのだろう、黒と金の剣。
その胴に付ける鎖帷子こそ何の特徴もない支給品だったが、幾つかの装備品だけでそれが異常だと認識できる。
加えてその出で立ちが伊達ではなく、実も伴うものだとすれば尚のことだ。
〝黒兜〟――見た目からそう渾名される王国軍の辣腕を、当然レリルも知らぬでなかった。
メノリス戦争の戦局はこのエルデカインの地に限って言えば、終始連合国軍側有利に傾いていた。
しかしながらこの黒兜は出現以来、立て続けに目覚ましい成果を上げており、見る間に情勢は覆りつつあった。
たった一人で戦を大きく変化させる怪物、人で在りながら人ならざる隔絶された能力を持つ人間。思念と祈りによって、現実を自身の思考で持って上書きする、〝魔術師〟と呼ばれる人種だ。あの黒兜もそれに類する。
だが一口に魔術師と言っても多種多様だ。その能力、使用する魔術は勿論のこと、戦闘能力の有無など大きな違いがある。
たった一つ、全ての魔術師の共通点は地に満ち、人の身体に満ちるエネルギー、因子を用いるという点だけだ。
それを費やすことで、因果を超えた現象の代価となす。
敵陣の中心に降り立った黒兜に対し、その鮮烈な出現と、聞き知った噂、見知った能力に怯え竦んだ連合国兵達。
だが即座に気を取り直した。幾ら黒兜とは言え、これだけの数的優位があれば幾らか刃は届くはず。だというのに、こんな場所へむざむざ飛び込んできて、自分たちも舐められたものだとむしろいきり立ち、連合国軍の兵は果敢に剣を構えた。
しかしそんな血気に溢れた連合国兵達を相手に、黒兜は自らの武勇を証明するかの如く、破竹の勢いを誇る剣戟を見せつけた。
来たる剣を悉く躱し、受け、そして一撃を返す。風に巻き上げられる木の葉のように死骸や身体の破片が生々しい水音と共に空を踊る。
業物の一刀でなぎ倒す。重鎧を着込んだ騎兵たちは手足を、胴を、まるで溶けかけたバターのように切断され、崩れ落ちていく。
絶望と悲歎の声が戦場にこだまする。先ほどとは打って変わって、思わず剣を捨て逃げ出すものもちらほら現われた。更にそれを止めようとした兵との小競り合いまで起きる始末だった。
一方、あっさりとこの絶望的すぎる戦局を覆した鬼神に味方陣は歓喜の声を上げる。
その非現実的な光景をレリルはただ呆然と眺めていた。いや、何も出来ずただ立ち尽くしていたという言うべきか。
たった一人、何の躊躇いも気負いもなく、敵陣に深く潜り込み、そして猛進し足跡代わりに屍の山を作る。
――怪物。
何なんだこいつは。そう唖然とした。驚天動地、その存在を疑いたくなるような現世のまやかし。
会ってみれば自分が打ち負かしてやる。レリルはある程度自らの実力に自信を持っていた。
武家に生まれて、何の迷いもなく自分を鍛え続けてきた。辛く苦しい修行。自分を痛めつける鍛錬。そうしたものを延々と為してきた。
それが実を結び、今はこうして戦いの場でも己の能力を誇示出来ることが出来ている。この自信は何も過剰なものではない。
自分の能力に見合った当然のものだと、そう感じている。だからこそ普段周囲にも黒兜という仇敵の打倒を吹聴していて、実際戦場で相見えればそうするつもりであった。
しかし現実にその姿を、その桁違いの強さ目の当たりにしてみれば血の気が引いた。
身体を、毛の一本にまで染み渡ったのは紛うこと無き恐怖。身じろぎさえも許さないような圧倒的な戦慄。
レリルはかつてない感情に囚われながらも、しかしあの獣を止められる可能性があるのは自分だけということも自認していた。
であるからこそ、先入観に酔って悲観的になってはならない。
レリルは何百という戦士たちを預かる指揮官の身として、自分を奮い立たせねばならなかった。恐怖を飲み込まねばならなかった。
それらは勝利するにおいていずれも不要な感情だ。捨て置くべきだ。今はただ諸々全てを捨て、必要なのは勝利への渇望のみ。
片手に痛いほどに剣の柄を握りしめると、レリルはもう一度アクセルを踏み込んだ。