1話 悪夢と旅の始まり
よろしくお願いします!
私は走った。とにかく走った。どの方向へ行くとも決めないまま、一人の親友である少女を背負って……
気が付けば私の視界には小麦畑が広がっていた。逃げ始めたころから時間が経ち、傾いた西日は黄金の光を放ち、目の前の小麦畑を照らす。オレンジ色の空、途切れ途切れの雲、赤や黄色に色づいた山、黄金色に輝く小麦畑。このどれもが今まで慌ただしかった私の心を落ち着かせた。
私は背中に乗せていた少女をゆっくりと降ろす。
「エリー、目を覚まして」
私は負ぶっていた黒髪でセミロングの少女の肩をやさしくたたいた。
「ソフィー、ここは……? なんで私はこんなところにいるの?」
そっか……
ショックで記憶を……
「エリー、驚かないで聞いてね……」
私は今までにあったことを深く思い出しながらエリーに説明した。
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「ソフィー! 次はどこに行く??」
エリーがまぶしいくらいの笑顔で私にそう話しかける。
今日、私たちは街で年に一度だけ開かれるお祭りに来ていた。お祭りには食べ物の屋台だけでなく、街の呉服店なども出店しているほどだ。
「さすがに食べ過ぎたから、お洋服でも見に行かない?」
エリーは元気に頷く。
お肉や魚介類が焼かれる香ばしい匂いに鼻をくすぐられながらも、私たちはお気に入りの洋服店の屋台へと向かった。洋服店につくとすぐにエリーが私に似合う服を選んでくれる。
少し興奮気味のエリーに押されるがまま私はその洋服を持って簡易的な試着室に入った。
試着を終えて鏡を見るとそこには、秋の初めに似合いそうな淡い水色のワンピースを着た金髪の少女が映っている。
さすがエリー……
私はしばらく、エリーのすごさに感心しながらワンピースのすそを持ちひらひらとさせていた。
「きゃあああ!」
試着室の外から耳をつんざくような悲鳴が突然聞こえてくる。そして次に外が騒がしくなる。それはいろいろな人の悲鳴や、何か物が落ちる音、ガラスが割れる音だった。
私は急いで試着室のカーテンを開けて、エリーの無事を確認しようとする。
カーテンを開けて、右を向くとそこにはとてもおびえた顔のエリーがいた。
エリーの腕には、何があったのか分からないが赤い血の斑点があった。
「エリー‼ どうしたの!?」
落ち着こうとは思ったがそんなことはできない。
私はエリーの両肩に手を当ててエリーの目をじっと見る。
「ひ、人が急に倒れたと思ったら、その人が不自然に起き上がって人を……」
エリーは突然言葉を止めた。しかし、私にもエリーが言おうとしていたことはよくわかった。血が飛び散った地面を見れば、その起き上がった人が誰かを殺したのだということぐらい……
ただ、騒動はそれだけでは終わらなかった。
この場に死体がないということ。それはその殺された人も同じように再び起き上がったということを示していた。この様子はまるで映画で見たゾンビのパンデミックのようだ。
「そっ、ソフィー……」
エリーが私を呼ぶ声が聞こえた。
私は即座にエリーの方を振り返ると、エリーは胸元をギュッと握り苦しそうにしている。
「うそっ、エリーまであんな風になっちゃうの。ダメ、どうにかしなきゃ」
私はエリーの手を引っ張って祭り会場である公園の手洗い場まで走る。
腕についている血さえとれば少しはましになるのではないかと私は思い、エリーの右腕を流水にさらしながら何度も何度もこすった。
「エリー、血が取れたよ。もう大丈夫だからね!」
「う、うん……」
どこか朧気で目をうとうとさせて、今にも眠ってしまいそうになっているエリーを見て、少し嫌な予感もした。だけど私はエリーが倒れたとしてもゾンビのようによみがえって誰かを気づ付けることなんてしないと信じた。
次第にエリーの体からは力が抜けて、立つこともできなくなる。
私はそんなエリーを背負ってとにかくここから逃げようとした。
できるだけ安全なところへ行こうと思い、郊外の方へ走りだした時だった。
突如まばゆい光が私の目を刺激する。太陽の光なんて比にならないほどの強くて白い光。
私は目を細めながらもその光の方を見た。ワンピースを着たような女の子、そして羽があって頭の上に輪っかがある。正確には背後からの光が強すぎてはっきりと見ることはできずシルエットだけが見えていたのだが、私は確信した。
「天使だ……」
私は唖然とし、その時希望を感じた。天使様ならあの狂ってしまった人々も元の善良な人に治せる。童話でしか見たことがなく、この世にはいないただの作り話だと思っていた天使に、そのような希望を抱くのはごく自然だった。
だけど、今ここに舞い降りた天使はそんなのじゃなかった。
全くの容赦もせずに狂った人々を、射貫いていく。狂った人々は減っていくが、その返り血を浴びた人々が再び狂う。そして天使はまたそれを射る。
その様子は天国とは程遠くまるで地獄だった。
早く逃げないとエリーも私も結局は殺されてしまう。
それから私は急いでがむしゃらにひたすら走った。
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私がすべてを話し終えたとき、日はとうに暮れて私たちを照らすのは月明りだけになっていた。
「ソフィー、ここまで連れてきてくれてありがとう…… でも……」
エリーは表情を曇らせてうつむく。私はエリーの背中に手を回し、落ち着かせるためにやさしくさすってあげる。
「ソフィー、やめて。もし私が狂ってしまえばソフィーを殺しちゃうかもしれない。お願いだから私から離れて」
「嫌だ! エリーはきっと大丈夫だから。だから私はそばにいる!」
「お願いだから、早く離れてよ‼‼」
「うっ……」
エリーが突然心臓を抑えた。だめ、このままだとエリーが……
その時だった。夜だというのにも関わらず、まばゆい閃光が私の網膜を刺激する。
「天使だ……」
私はボソッとつぶやいた。ダメ、このままじゃエリーが天使に殺されてしまう。
エリーは悪くない。まだ治る余地はある。だから殺さないで……
「天使様‼ この子は大丈夫です‼ 殺さないでください‼」
私はのどが痛くなるほど叫んだ。
しかし、天使は非情にもその弓を構える。次の瞬間、雷光のような光が私たちめがけて降り注ぐ。私は咄嗟にエリーの体をつかみ、一緒に小麦畑の中に転がり込んだ。
私は狂人になりかけているエリーをやさしくなだめて、耳元でささやく。
「天使に見つかったら殺されちゃう。風で小麦が揺れるのに合わせて移動しよ」
「ソフィー、ごめんね。私のせいでソフィーまで危険な身に……」
「ううん。大丈夫だから。絶対にエリーをもとに戻す。だからそれまで天使に見つからないように旅をしようよ」
小麦の間に隠れて見えるエリーの顔は少し疑問を抱いているようだった。
「旅をするの?」
「うん! 長い長い旅の始まりだよ!」