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ディア・クロニクル  作者: 瀬織津ヒロム
ハンニバル戦記 前編
6/13

3 出会い

 ミリスの牢屋にアランがいた。数日、外の陽を浴びていない。彼は母の死を受け入れられず、差し出された食事を一切口にしなかった。



 母ダイアンのことを考えていた。母が死んだ。なら墓を作ってやりたい。母の料理が食べたい。外で何が起きているのか。アランはふと考えたが、空腹で頭が動かず考えるのをやめた。



 スパルタクスが解放されたことにより、べネスにいた1000人の剣闘士、9000人の奴隷が、ハンニバル軍に加わった。兵は3万に増えた。



 ハンニバル軍は南下を開始する。



 一方その頃、ロマーネも4万の兵を集め、北上を開始。両軍はトレビア川近くの平野で激突した。



 ハンニバル軍はアルプス越えで多くの兵士を失った。しかし、その中でも気力も生命力も優れた兵士が残った。強者のみ選別されたのである。さらに同じ苦行を乗り越えた仲間としての結束力が強かった。弱いはずがない。



 そこにスパルタクスの奴隷軍が加わる。肉体労働に従事していた屈強な奴隷を、戦闘のプロである剣闘士たちが指揮した。



 ハンニバルは奇策を用いることが多い。アルプス越えがその典型だ。しかし、今回は無用と考えた。兵士ひとりひとりの戦闘力に大きな差がある。正攻法で攻めたのである。正面切って両軍がぶつかった結果、ロマーネ軍指揮官の捕縛、戦死者3万、捕虜1万というハンニバル軍の圧勝に終わる。



 ハンニバルは間を置かず、トレビア周辺の都市に降伏するよう書簡を送る。



 食料と奴隷を差し出せば命は取らない。しかし、逆らえば殺す。



 都市の代表者たちはマゾロフが殺された件を思い出した。彼らは逆らうことなく、指定されたものを渡した。



 ハンニバル軍事拠点と化したミリスは大量の食糧と奴隷で溢れかえっていた。アランが牢屋に入れられて10日が経った。アランの体はやせ細っていた。消えかかった魂。停止寸前の脳。虚ろな瞳。その脳裏にハンニバルの顔が浮かび上がった。殺してやる。アランは思い出した。母の愛を。復讐心を。燃え上がる炎を。



 死ぬものか。生きて、生きて、強くなってハンニバルを殺してやる。アランは汚い皿に乗ったパンに食らいつく。久々の食事がのどに詰まる。冷えたスープをすする。一気に平らげた後、牢屋の扉が開いた。



「ようやく食べる気になったか」



 ハンニバルが扉の外にいた。飛びかかるがあえなく倒された。力が足りない。



「フラフラのくせに飛びかかってくるとはいい度胸だ」



「くそやろう」



「どうだ。俺についてこないか?」



 ハンニバルが優しく言った。



「なんだと。俺はロマーネ人だぞ」



 アランはいきり立った。



「奴隷の身分だろ」



「生まれはロマーネだ」



「お前、俺を殺したいのだろう」



「ああ、ぶっ殺してやりたい」



「なら俺についてこい。俺が少しでも隙を見せたら、いつでも背後から切りかかってこい」



 その時、アランは悟った。なぜハンニバル軍がアルプス越えをできたのか。なぜ軍に離反者が少ないのか。その答えが、ハンニバルの簡潔な言葉に集約されている。男の魅惑。ハンニバルの兵士は、みな彼に惚れているのだ。



 アランは小さくうなずいた。



「覚悟しておけ」



「お前のような青二才に殺されるようなら、ハンニバル軍も終わりだ」



 ハンニバルが嘲笑した。



 アランは牢屋の外に出た。陽を浴び、またふらつく。一時、ハンニバルが肩を貸した。



「隙を見せたな」



 アランが強気に言った。



「そんな体で何ができる」



 またハンニバルが笑った。



 アランはある部屋のベッドに運ばれた。ぼんやりとする意識の中、ある女性が目に入った。カネム(人狼族)人の娘。アランは気を失う前に女性の手を取り、母さん、と呟いた。



 明くる日、アランが目覚めると、そこにスパルタクスがいた。普通に朝食を食べている。



「まさか、スパルタクスさんでは……?」



 アランは昔、剣闘士の一団が巡演のためにミリスへ訪れた時に、彼を見た。連戦連勝のチャンピオン。勝利の後、高々に掲げられた巨刀ロンパイヤを見て、憧れた。しかし、ダイアンのために農場で働くようになると、いつの間にか忘れていた。その憧れが今、よみがえったのだ。



 彼はアランの問いかけに小さくうなずく。



「おはよう」



 彼は茶を飲んでいた。



「あら、起きて大丈夫なの?」



 昨日、ぼんやりとした意識の中、見かけた女性だった。



「私の名はジーンよ。よろしく」



「アランです」



 そう言った時に腹が鳴った。



「さあ、たんとお食べ」



 アランは大量の朝食を平らげた。



「君はいい太刀筋をするらしいじゃあないか」



 スパルタクスが茶をすすりながら言った。



「ハンニバルがそんなことを」



 アランは驚いた。



「君をかっているぞ」



「あんな奴に剣の腕をかわれても、嬉しかないさ」



 アランは顔を歪めた。



「聞いたぞ。やはりハンニバルを恨んでいるのか」



 スパルタクスが神妙な面持ちで言った。



「当たり前だ! 母親を殺されたんだぞ」



 アランはテーブルをたたいた。



「それは俺たち兄弟も同じだ」



 スパルタクスの表情が変わった。ジーンが頷く。



「私たちの部族はガリリアで静かに暮らしていたの。他の部族と争ったことはないわ。だって、そこまで大きい部族じゃあなかったもの。それなのにカエサルが攻めてきて、私たちの土地を奪ったのよ。そして、私たち兄妹は奴隷として、ロマーネに連れてこられたのよ」



 ジーンの言葉に怒りがにじんでいた。



「俺はその後、コロッセオでチャンピオンになった。そして、虐げられた奴隷たちのために反乱を起こした。その結果、牢屋に入れられた。俺はロマーネが憎い」



 不遇な境遇は自分だけではないことにアランは気づいた。スパルタクス兄妹は異国の地で虐げられながらも、ルポス人としてのプライドを保ち、巨大な復讐心を持ち続けたのだ。アランの不幸など小さく見えた。



「心配しないで。私たちはあなたをロマーネに対する復讐の対象として、虐げるつもりはないわ」



 アランはジーンを見た。多くの不幸を経験してきた眼をしている。アランの人生経験は少ないが、ジーンの人柄は理解できた。本当は良い人なんだ、とアランは思った。



「今日から、お前は我が家族の一員だ」



 スパルタクスが笑った。はにかんだ顔に少し愛嬌があった。



「私に弟ができたわ!」



 ジーンが嬉しそうに言った。



 アランは数日、大量の食事を食べ続けた。若さもあり、体力はみるみるうちに回復した。



「元気になったところで、あなたを連れていきたいところがあるの」



 アランはジーンに誘われ、ミリスの共同墓地へ行った。



 今回のハンニバル軍の攻撃で亡くなった、多くの市民が一カ所に集まっている。あまりに数が多くて墓地にする土地を確保できなかったからだ。巨大な墓石から少し離れた場所に小さなの墓石があった。ダイアン・アグリードと名が掘られている。



「母さんの墓……」



「余計なお世話かもしれないけど、私とお兄ちゃんが用意したの」



 墓石には一輪の花が置かれていた。



「ありがとう」



「あなたの気持ちはわかるもの」



 アランは涙をこぼした。



「ちょっと、15歳にもなって、泣かないでよ」



 アランは涙を服の袖で拭った。ジーンがアランを抱きしめた。数分、アランは泣いた。



 翌日、アランは広場へ向かった。広場では歩兵たちが剣術訓練をしていた。屈強な男たちが一心不乱に剣を振っている。その中にスパルタクスがいた。



「体調は戻ったのか」



「おかげさまで」



 スパルタクスがグラディウスを投げた。アランが受け取る。



「稽古だ」



 あのスパルタクスが俺に剣の稽古してくれるのか、とアランの気持ちが高ぶった。



「ちゃんとグラディウスを握れ。これは真剣を使った稽古だぞ」



「わかった」



 アランはグラディウスを両手で握る。



「かかってこい」



「いきなりかよ」



「お前は無駄口が多いな。まずはそのやかましい口を切り落としてやろうか」



 兵士たちは声をあげて笑った。いつの間にか訓練を止め、2人のやり取りを見ている。



 アランはカッとなり、スパルタクスに切りかかった。上段からの切り落とし。しかし、スパルタクスの剣に止められた。まったく微動だにしない。ハンニバルの時はこんな感じじゃあなかった、もっと剣に勢いがあったぞ、とアランは動揺した。



「もう終わりか」



 スパルタクスに挑発され、アランは再び切りかかる。しかし、すべて受け止められる。



「剣とはこう振るのだ」



 グラディウスが振り上げられる。そして、アラン目がけて振り落とされる。



 激突。



 受け止めたグラディウスが鈍い金属音とともに弾き飛ぶ。その衝撃は凄まじくアランも後方に飛ばされた。気を失いかけた。これが天才剣闘士の斬撃。両手がしびれ、剣を握れない。その後、全身を恐怖が駆け巡った。もし剣で受け止めていなかったら、体が真っ二つになっていた。アランの額に冷や汗が流れる。



「基礎がなっていない。お前、AC(錬金構成術)をちゃんと学んだことがあるのか?」



「いいや、独学だ。元は農夫だし」



「ほう。なら鍬で畑を耕すだろう。どうやって耕す?」



「鍬をこう振り上げて、振り落す」



 地面に鍬を打ち付ける動作を見せる。



「そうだ。その時、どの力を使って振り落とす?」



「ちから……?」



「重力だ。鍬の重さを利用し、勢いをつけ、地面に打ち付ける。だから、大きな穴が掘れる。斬撃も理論は一緒だ」



 アランは思い出した。鍬を使う時、ACを用い質量を軽くしてから持ち上げ、頂点に達したときに質量を増やし、振り落とす。するといつも以上に大きな穴が開いた。



「ACの基本はアトロンを使い物質の質量を変えることだ。その後、硬質化、巨大化と難易度が増えていくが、お前はまず質量変化から覚えろ」



 スパルタクスはまず理論的に説明した後、実戦で教えた。



 まずはゆっくりと動く。グラディウスを引いた時に質量の軽量化。切りかかる時にわずかばかりの質量の重量化。そして、剣が相手に触れた時に爆発的な重量化。それを素早く行ったのが、スパルタクスの斬撃である。



 アランは一連の動作を、しだいに早く行えるようになった。



 ハンニバルの見立て通り筋がいい、とスパルタクスは思った。わずか数分で質量変化のコツをつかんだ。そして、稽古の熱が上がっていく。



 斬撃の速度はどんどん早まる。傍観していた歩兵たちも歓声を上げるようになった。楽しい。アランは一心不乱にグラディウスを振った。



「重量変化のコツをつかんだな。しかし、それだけではダメだ」



 次に剣を交えた時、アランのグラディウスが割れた。



「斬撃が触れる時、一流の剣士は硬質化も同時に行う。いくらグラディウスを素早く振ろうが硬度が悪ければ鎧すら切れない」



「じゃあ硬質化を教えてくれ」



「さらに難しくなるぞ」



 スパルタクスは楽しそうに言った。





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