イゴブ!!
ここはある高校の一教室である。
引き戸の窓には雑な文字で「イゴブ」と書かれた紙が貼られている。何でカタカナなのか、漢字は堅苦しいと思った昔の生徒がカタカナにしたとかしなかったとか。本当は単に漢字が書けなかったんじゃないかと思ったりもする。
そんな変な先輩も過去にいたイゴブで、今日も目つきが怖い生徒と、のうのうとした顔をしている白髪のお爺さんが、碁盤を挟んで石を打っていた。
「あー。くそっ!」
俺は碁石を強く握りしめ、左手で頭を抱えた。椅子の背もたれに体重をかけ、大きく天井を仰ぎ見た。
「ほっ。ほっ。ほっ! まだまだ互先で勝つには早いぞ」
「くそ! ま、ま、まけました」
奥歯が浮きそうだ。
白髪のお爺さんは高笑いしながら、碁盤に乗っている碁石を白と黒を分けながら片付けていく。そのニヤニヤとしている顔が、ただ憎らしくてならない。その顔を何度殴ってやりたいと思ったことだろう。それくらい負けたこの瞬間は憎く思えてしまう。
「龍河。また負けてんのかい」
ポンと肩を掴まれる。俺はその手を掴み無理やり引き剥がし、後ろの男性を睨みつける。
「おいおい。拗ね過ぎじゃないのか」
「俺は負けず嫌いなんだ」
「わかった。わかった。とりあえずチョコでも食って頭を冷やせ」
差し出してくれた赤い包み紙を鷲掴みして、袋を乱雑に破いて取り出し口に放り込む。口に広がる甘い香りが沸騰していた心を少しずつ冷ましてくれる。天井を仰ぎ見ながら目を閉じて深く呼吸をし、一度頬をきつくつねった。
「はあ。とりあえず検討してくれ、ください」
奥歯が浮きそうになるのを我慢しながら頭を下げる。
「相変わらず、敬語がなってないのう」
「大目に見てください。これでも努力しているので」
「二人揃ってバカにするな!」
冷めていたはずの熱がぶり返されたのだった。
俺は元々囲碁なんかする性格でもないし、冷静さもそんなにない。ダチからは「沸点が低い。短気」とよく言われる。隣にいる腐れ縁の京也にも同じく。
検討のために、最初から碁盤に碁石を並べていく。序盤は形はよかった。隅と辺の陣地は互いに五分五分だった。だけど……。
「お前、この手にまだ引っ掛かっているのか」
白髪の先公が置いた白石を指差してバカにしたように見つめる。
「うるせえ! というかこの手は普通打たんだろ」
「俺は打たないね。だって普通に考えたらその石は生きれない」
うんうんとうなずく京也。そのはずだ。
「だろ! なのに」
「ふぉっ! ふぉっ! まだまだ、修行積まさんといかんからのう」
「ふざけんな!」
余裕ぶっている顔がまた腹立つ。
「まあまあ。落ち着けって。大会に出たら変な手を打つやつなんていっぱいいるから、今覚えていけばいいんだから」
「いや違う! 絶対性格ひねくれてる! ハメ手だろ! というか俺がハメ手にハマるのを見て絶対に楽しんでいる!」
「ふおっ!ふぉ!」
「否定しろよ!」
俺の怒りを笑うように眺める非常勤の先公。絶対に囲碁で一泡吹かせてやる。
「お前も素直に受けすぎ」
京也は黒石を一つ取ってから、俺がさっきの試合で置いた場所とは違い、反対側に置いた。続けて白、黒と交互においていく。
「ここはこうしてこうしたら白石殺せるんだから、形とか覚えていけば引っ掛からなくて済むんだから」
「それでも絶対こうは打たないだろ」
先公を睨み付けると、ニヤリと笑うじいさん。絶対に性格悪い。
「その時はあれだ。小さく生かしてこちらの陣地を広くできるようにするんだ。そして次のチャンスまで我慢するようにしたらいい」
京也が置いた形は黒がやや優勢の形に変わっていった。でも目の前のジジイを見て我慢なんてできない。
「いや。絶対に石を殺す。こいつに妥協なんてできるか!」
「こいつ呼ばわりとは、えらく嫌われたのう」
先公は顎の髭をなぞりながら、ふむふむと頷く。それでも頬骨は少し上がったままで、優越感に浸っている姿は変わらない。ギリギリと奥歯を噛みしめる。
「おっ。やってるかい? お? まあた喧嘩してんのか。って先生、またいじめているんですか?」
緩い感じの口調でドアから現れた長身の学生は、俺と先公を交互に見つめる。
「ちょっと修行させているだけだよ」
「絶対に楽しんでいる! ドSだ!」
「こんな感じです」
京也が両手を上に開いて肩をすくませる。
「初めは通る道だから仕方ない。でもハンデなしで打てるようになったんだろ?」
「確かにものすごいスピードで成長して、ハンデなしの互先で打てるようにはなったんですけど、そこから中押しで負け続けているんですね」
「ふぉ。ふぉっ」
「あーもう。笑うな!」
先公に俺の視線をぶつけて全力で睨むが、そんなの相手に全くせず笑って躱しきる山崎先公であった。
「そりゃスゲーな。そこまで成長したのか、今度の大会行けるかもしれんな」
そんな事はいざ知らず、この部の部長は陽気な笑顔になる。何故か褒められている。というか大会ってなんだ。京也も言っていたけど。
「石黒さん。大会ってなんすっか?」
「あれ? 言ってなかったぁ? 団体戦の話」
「すんません部長。こいつ山崎先生を囲碁で倒すためだけにやってますから。たぶん全く耳に入ってないはずですよ」
ハハッと乾いた笑いをする京也である。目をぱちくりした部長は、ふむふむと頷く。
「じゃあとりあえず、今週の土曜日空いているか?」
「空いてないっすよ」
「嘘だな。お前家でいつもゴロゴロしているだろ」
キランと目が光る京也。
「休日は休日だろう! 人間が休むために必要な時間だろ!」
何でわざわざ休む日に外に出ないといけないんだよ。
「土曜日に大会があるんだけど、一緒に出てくれないか?」
「えー? 大会ですか? 囲碁打つんですか?」
「そうだ」
正直めんどくさい。休日は家でゴロゴロしたいし、ゲームしたいし、そもそも家から出たくない。口を横に開いてだるそうに頬杖をついて、石黒部長をぼんやりと睨む。
対して部長は腕を組む。
「わかった。今日山崎先生に勝てば、この話は無しにしようか」
「え。マジっすか!」
俺は頬杖を解いて、テーブルに両手を押し付けて立ち上がる。今日一番のやる気が沸いた。
「おっ! やる気か?」
「その条件のるっすよ! 勝ったらいいんすっよね」
腕を組んで先公を見下ろすと、珍しく眉毛をハの字に曲げている。
「石黒くん。それ、私の責任重大じゃないのかね」
「大丈夫でしょ。それにまだ負けたくないですよね?」
「そりゃまだまだ負けるつもりは毛頭ない。調子づかせるわけにはいかんし」
部長の煽りに先公の目に力が宿った。
「おっしゃ! ここで引導を渡してくれる!」
勝てば土曜日出なくていい。それだけのために俺はやる気を取り戻した。
「やるぞ! オヤジ!」
「どっからでもかかってきなさい」
俺たちは碁盤の石を元に戻して、向かい合って座った。
「お願いします!」
「お願いします」
土曜日の自由を賭けた対決が始まった。
帰り道。
川の堤防沿いに敷かれた歩道を京也と二人歩いている。
もう日が沈み、西の空に仄かなオレンジの色を残し、ほとんどが紺と黒で覆われた空。そしてこだまする俺の声。
「ちくしょー!」
空を仰ぎ見ながら叫ぶ俺の姿を、笑いながら眺める京也。
「ちくしょー。とか久々に聞いた」
「あーもう。終局までいったのに」
「そこはよかったと思うよ。山崎先生も珍しく焦っていたから」
「んなもん関係ねえ! 結局負けたし」
嘆けば嘆くほど、あの負けた時の瞬間を思い出して辛くなる。石を殺されることなく終盤まで進んだ。思考が妙にクリアになったのか、盤面が良く見えていたのか、俺にとってはかなりいい調子で打てていた。なのに……。
「最後のヨセであんなにひっくり返されるとは、ね」
京也から溢れた言葉が、ズシッと胸に響く。キッと睨み付けるが、すぐに諦めて前を向く。
「うるせえ。今までヨセまでいったの少ししかないし」
「確かに部内ではほぼ中押しで負けてるしな」
「うるせえ。こっちは始めて半年だぞ。数年やってるお前らと比べんな。お前ら血も涙もないのか」
「だって接待できるほど心に余裕ないし、真剣勝負で手を抜かれたらお前嫌だろ?」
「そうだ。いやだ。お前舐めとんのかって思うわ」
「だろ」
ビシッと京也に指を差される。間違いない京也の言う通りだ。だから仕方ない。けど悔しいものは悔しい。
追い討ちをかけるように、ヒューっと北風が吹きぬけていく。
「さむっ」
「冬も来ている感じだな」
こんな寒くなっているのに、土曜日出ないといけないのかよ。泣きっ面に蜂とはこの事か。
嘆いていると、前方からTシャツ短パンの格好で、赤いランニングシューズと黒いキャップをつけた男性が、僕らの横を小刻みに息をつきながら走り去っていった。
「こんなに寒そうなのに、頑張ってんだな」
京也は走り去った男性の後ろ姿をおぼろ気に眺めて呟く。
めんどくさいのに良くやるなと思う。俺は体動かすくらいなら、家でゲームをしてた方がマシだ。でも負け続けるのは嫌だからな。あのジジイの勝ち誇った顔はもう見たくねえし。
「なあ。土曜日の大会って、修行になるのか?」
苦虫を潰したような、渋い顔で京也に問いかける。
「なるなる。山崎先生を倒せるための修行になるはずだよ」
キランと目を光らせた京也の顔は、何かのせられた気もする。だが、ここはジジイを倒すために堪えるしかないと何とか気持ちを押さえた俺だった。
土曜日。
高校入って初めて休日に制服姿で外に出た。制服姿にならなくても休日に外に出るのはだいぶ久しぶりな気もする。
大会の会場は街中にある大きなビルの中にあるらしい。
「でかっ」
思わずビルの入り口の前で見上げている俺。
「おいおい。田舎者のセリフだな。まあ。お前ほぼ引きこもりだし」
「うっせえ。お前も大概だろ」
「そうだけど、俺は驚かなかった」
「へいへい。この鈍感野郎!」
いつも通りの戯れ言の応酬である。そんな姿を見てた部長は満足そうににんまりとしている。
「そんだけ元気なら大丈夫だな」
「元気じゃないっすって。今でも気怠さ満々っすよ」
「声の大きさからして気怠さを微塵も感じないのだけど」
「気怠さ満々って。相反しすぎ」
「ぐあー。もううるせえな」
一言一言に容赦なく突っ込みが飛んでくる石黒部長と京也である。本当面倒くささが累乗してるよ、全く。
そんなやり取りをしつつ、俺らはビルに入りエレベーターで上層の方まで上った。階に到着してすぐに県大会会場と書かれた看板と、受付のテーブルが目に入った。
「俺は受付を済ませるから、先に入っていて」
「わかりました」
石黒さんは軽く手を上げながら受付に向かった。俺たちは会場の中に入った。
会場は思ったより広かった。そんな広い会場にテーブルと碁盤がズラッと並べられていた。もう何人かの他校の生徒が向かい合って打っている。そして周りにも集まって指を差しながら話し合ったり、石を置き直したりと様々である。
何だこの異様な光景は。
「なあ。ここで打つのか」
「そうだな」
「知らない人とか」
「そうだな」
「俺一人でか」
「そうであるけど、今日は一人ではやらないな」
「ん? どういう意味だ?」
囲碁は一人で打つはずだよな。一人で打つけど一人じゃないってどういうことだ?
「とりあえず。空いているところに座って」
そう言われるままに近くの碁盤が三つ横に並んだテーブルの右端に座った。京也は真ん中の席の後ろに立つ。
「早い話が団体戦だ」
「団体戦?」
囲碁に団体戦なんてあるのか。
「簡単な話だ。俺ら三人が相手の学校の三人の生徒と別々に勝負して、二人以上勝てば俺らのチームの勝ちだ」
「なるほど」
だからか。碁盤が一つの長テーブルに三つ並んでいるのは。となるとあれはなんだ?
「この碁盤の横にある時計ってなんだ?」
俺は青い柄の「0:30」が二つ並んで表記されている時計みたいなのを指差す。
「これは持ち時間だ。一試合一人三十分。使いきったら、一手一分になるよ」
「これどうやるんだ」
「一手打ったら、このボタンを押したらいいよ」
時計の上にあるボタン二つの手前側を指差す。
「とりあえずやってみるか」
京也は回り込んで、俺の向かい側に座った。
言われるままに打ち始める。一手打ってからボタンを押す。一手向こうが打ってボタンを押す。
「めんどくさい」
「心配するな。慣れる」
「えー」
ジトーとした目線を送ってやる。ただでさえ頭使うのによ。気分は萎えていく。
「あとちゃんと始まりと終わりはきちんと挨拶しろよ。初対面だから」
「あーもう。わかってるって」
面倒だ。ただ打つだけでいいと思っていたけど、細かな作業が多い。とはいえまあ、やっとかないけない礼儀やし、後味悪いと次打つときの集中落ちるし。
「それだけ守っていたらいい。取り敢えず気楽に打て、俺と部長が勝つから」
「おいおい。聞き捨てならんな。俺が負けると?」
「おっ。やる気?」
「俺は負けず嫌いなんだよ。やるからには勝つ。んじゃねえと面白ないし、普段お前らに負け続けてフラストレーション溜まりに溜まっているんだよ。負けを前提なんて御免だ!」
「ほほう。気怠さ満々からやる気満々に変わったか」
腐れ縁のにやけ顔に、噛みつくように睨む俺である。
負ける気は毛頭ない。負けるのはもっとしんどいし、もっと辛いから。
「おっ。元気良さそうだな。頼むぜ三将!」
後ろから来た部長がぽんと肩を叩いてきた。
「三将? ってなんっすか?」
「役割みたいな感じだ。特に気にするな。相手の三将を倒せばいい。それだけだ」
なるほど。納得はした。何かのせられている気がするが、ここまで来たなら囲碁を打つしかない。部活の延長だと思えばいいだろう。
程なくして開会式が行われた。そして終わると学校名を呼ばれ始めた。自分の学校が呼ばれると、役員の指示に従って移動した。指定された場所に座ると向かい側に他校の生徒が三人やって来た。俺の目の前には眼鏡をかけた、いかにも文化系の背の高めな男性がいた。俺の顔を見るや、ビクッと怖がるように震えた。
ピクッと眉をひそめたが、色々な面倒なことを極力避けるために特に何も言わなかった。
「おっ! 龍河。黒な」
「ん? 何で?」
「部長がやったニギリで色が決まるから、それは俺が伝えるから、それに従ってくれ」
「わかった」
何かシステム細かいな。まあ決めてくれるから楽でいいけど。
ふと前の生徒を見ると、少しホッとしたような表情になっていた。今カチンときた。
「それでは始めてください」
壇上の上にいた男性の合図が送られた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
三人揃って挨拶をする。俺は相手に強烈な視線を送ってやった。
序盤は、五分五分だった。中盤思ったより相手が攻めてこない。何か物足りないから、こっちから果敢に攻めてみた。
「負けました」
気がついたら、相手が頭を下げていた。
数秒程、きょとんとしてしまう。そしたらコンと頭を叩かれた。
「ほら。挨拶をする」
「えっ。あ、あ、ありがとうございました」
ペコリと頭を下げた。
何か呆気なく勝っていた。
「なあに、ボーッとしているんだ?」
気がついたら京也はもう後ろで立ってお茶を飲んでいた。隣とその隣の席はもう碁盤を残し誰もいなくなっていた。
「あれ。終わったんか?」
「当然。俺も部長も勝ったぞ」
後ろ振り向くと、壁に張り付いてのんびりお茶を飲む石黒さんの姿があった。
「どうした。何か腑に落ちない顔をして」
「いや。だって俺互先で勝ったことないし、中押し勝ちなんて初めてだったから、ようわからんかった」
「そうだよな。相手がひねくれた山崎先生とガチガチの経験者の俺と部長しかおらんからな。格下相手は初めてだろ。多分次までは大丈夫だろ。とりあえず次も頼む」
「お、おう」
思ったより勝った感覚がない。そんなものなのか。
腑に落ちない感覚を抱きつつ次の試合に挑んだ。
二回戦。
同じく序盤は五分五分、いや俺の方が良い感じだ。中盤は前回と同じく相手が全然攻めてこない。だから同じようにこっちから攻めた。
「負けました」
また気がついたら、相手が投了していた。
「ありがとうございました」
相手はすぐに自分の石を片付け始めた。素早く碁笥に碁石をしまうと、それを碁盤の上にのせて俯きながら去っていった。
対戦者の姿を見ながら、少し呆けているとまたぽんと肩を叩かれた。
「お? 勝ったか」
よく肩を叩かれるな。京也の満足そうな表情を見ると勝ったのだろう。
「まあな。お前は?」
「勝ったよ。部長も同じく」
二人はやっぱ強いな。負けるところを見たことない。
「おっ? 調子良いじゃないか」
話をしていると石黒さんもやってきた。口をモゴモゴさせている、よく食べるなあ。
「そうっすけど、何かあんまり勝った感じがしないっす」
「心配するな。さっきまでの相手は申し訳ないが格下だ。次の準決からだよ。多分感覚的には山崎先生みたいな奴がくるぞ」
「本当っすか?」
その言葉を聞いてさっきまでのモヤモヤがぶっ飛んだ。先公みたいな奴。ということは倒せば本物も倒せるという寸法でいいんだよな。
「よっしゃ。次も早くやるっすよ」
上機嫌になって力こぶを見せると、コツンと頭を叩かれた。
「待て待て。一度昼飯だ」
「いってーな。ってもうそんな時間?」
部屋の壁にかけられた時計を見ると12時前を指していた。
「わかった。それからな」
俺は頭を掻きながら答えると、部長と龍河は満足そうに笑うのだった。
準決勝。
対面するやいなや、相手の主将が石黒さんに向かって話しかけてきた。
「石黒。久しぶりやな」
「おっ。久しぶりだな夏目。去年ぶりか」
「そうやな。去年半目差でわいはお前に負けた」
「でも団体戦はそっちが勝ったな」
「そやけど、わいは負けたからな。今年は石黒に勝って決勝にいったる」
「簡単には負けませんし、それに今回はきちんと数あわせではない二人もつれてきましたので」
「ほう。そうか。なら、こっち二人も退屈せんでええやろ」
夏目というやつは自分のメンバーを一瞥する。
相手の二人は少しニヤリと笑う。舐められている気がする。俺は相手の細目の短髪の男をきつく睨んでやった。
絶対に囲碁で負かせてやる。
「よろしくお願いします」
試合が始まった。
序盤、今回も定石通りに進め、お互い五分五分といったところだ。だがここからさっきの二人とは違った。辺にできそうだった自分の陣地に、早くも攻め込んできたのだ。絶対この石を殺す。そう思って碁笥に手を突っ込んで黒の碁石を強く握りしめる。
「ふー」
一つ大きく深呼吸した。
何故したかは、正直いまいち覚えていない。でもこの一呼吸で熱くなっていた心が少し冷静になった。そして碁盤が少し広く見え始めた。いつもならバカ正直に相手して山崎先公に引っ掻き回される。今回の相手はあの憎い先公ではないが、この細目野郎からそんな匂いを感じた。確実に殺せる型なら殺しに行く、だがそうではないなら、最小限の損に押さえてからこちら側の陣が広めるようにすればいい。この前京也が言っていたようにすればいい。
相手の手を冷静に分析する。
そして、読み切った。
パチン。
相手の白石から一間離して置くと「チッ」と小さく舌打ちしたのが聞こえた。
その時に一つ理解した。この相手はあの先公タイプだと。
その後も、相手は引っ掛けという様な手を打ってきたのをうまく躱しながら、こちらの地に有利になるように意識しながら打ちまわしていく、ヒヤッとするような時と、イラッとする気持ちをうまく押さえつつ打ち続ける。
俺の有利な状態で盤面は小ヨセを迎えた。
このまま行けば勝てるはず。目算が苦手だから憶測でしかないけど。ただ俺は前に先公にヨセで逆転された。だから気を抜けない。
一つずつヨセを終わらせていく。相手の感触は先公よりヨセは甘い。相手が逆転する状態にはならない。 そして最後の個所のヨセが終わった。
俺の手番。終局は俺がパスして相手がパスして終了だ。俺はパスと言いかけて、言葉を飲み込んだ。盤面をジッと見つめる。そして隅の自陣に視線がとまる。盤面の星の部分を中心にしてL字に築かれた俺の陣。星の部分には俺の黒石があるが、俺は嫌な思考が過った。
この内側に入り込んでくることは無いよな。
星から一つ斜めの個所にある三々という場所。ここによく打たれることがある。俺は正面の細目野郎の視線を確認する。今まさに気にしている陣地を確実に見ている。
俺は三々に黒石を置いてみた。
すると相手は溜息をつき、悔しそうに「パス」と言った。
俺はホッと息をつきながら「パス」と言った。
終局した。
結果は俺の五目半勝ちだった。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
しっかりと頭を下げた。
そして俺はテーブルの下で小さくガッツポーズをしたのだった。今回は確かに勝った気がした。確実に確実に勝った。そんな感触を噛みしめた。
「よっ。勝ったな」
京也がいつものように肩に手を置いてきた。前の二回と変わらない表情。
「お前もか」
「当然。部長もだ」
「くっそー。今回も負けや。しかもチームも負けや」
相手の夏目というやつが、頭を抱えてめっちゃ嘆いていた。
「いやいや。今回はかなり危なかったですよ」
「でも負けは負けや。ほんま石黒には一度も勝てんかったわ」
石黒さん。やっぱ強いんだな。
「決勝負けんなよ。相手はたぶん院生帰りやで」
「でしょうね。今回は自信あります。全国の切符奪いに行きますよ」
「おう。いってこい」
夏目は瞳を少し赤くしながらも部長の背中をバシッと叩き、その場を去っていった。
「さて二人ともお疲れさん。京也は当然として、龍河勝てたな。最後の黒は余計だったけど」
「余計って、俺あそこ打たれたら嫌っすよ」
「今回はそれがよかった。一回勝負だからな。でも今後三々打たれても大丈夫のように対策しとけよ」
「わかったすよ」
そう答えると、部長と京也が互いに目を合わす。
「お前、どこか頭打った?」
「どういう意味だよ!」
俺の手の攻撃をひょいっと躱す京也である。めっちゃバカにされたのはわかる。確かにいつもなら嫌というけど、今回は何故か素直に聞く気になった。何故かはわからないけどな。
けど悪い気はしなかった。初めてちょっと楽しいと思ったのだった。
そして決勝戦。
俺はコテンパンにやられた。本当に何もできなかった。何一つできなかった。
そして俺より強い京也も負けた。京也も中押しで負けていた。あいつが負けるところを初めてみた。
部長は半目差でギリギリ勝った。でもチームは負けてしまった。
部長は泣いていた。今まで勝てなかった相手に勝てたこと、そしてチームで勝てなかったこと。その両方で。
俺はその部長の姿を忘れることが出来なかった。
帰り道、部長と別れたあと、京也が突然泣きはじめた。
しわくちゃになった顔を俺に見せながら「もっと強かったら、部長を全国につれていけたのに」涙ながらに俺に向かって言った。
俺は全く知らなかった。あの大会にそんな先の大会があったこと。
そして、こんなに京也が力をいれていたこと。
俺は柄にもなく、京也の肩に腕をかけた。
彼は何も抗うことなく、家に着くまで肩を組んだまま帰っていった。
次の月曜日の放課後。
「オイ。先公打つぞ」
「ふぉ。ふぉ。何やら今日は気合が入っているな」
俺が腕をブンブン振り回している姿に、いつもと変わらない穏やかな瞳で眺める山崎先公。
今度こそ先公を倒してもっと強くなる。
「フッ」
「どうしたんじゃ? わしの顔に何かついているか」
「んなわけねえだろ。さっさと打つぞ」
「相変わらずやのう」
今日も「イゴブ」からは、パチ、パチと碁石を叩く音が聞こえてくるのだった。
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2019年4月15日にて葵生りん様主催「ELEMENT」春号が掲載されます。
そこにも参加していますので、是非お立ち寄りください。