政治思想の源流
論述編
本稿ではギリシアの政治哲学の特徴について論ずる。先に結論を述べておこう。ギリシア政治哲学の特徴とは[ ]の中の[ ]をどう考えるかであった。
最初に考察の前提として、[ ]を簡潔に述べておく。[ ]にギリシア人は多数の[ ]を形成していた。[ ]では[ ]で[ ]が開かれた。[ ]の[ ]では市民は[ ]など様々な[ ]や[ ]を持ち、[ ]及び[ ]は[ ]ではなく[ ]で決められた。
当初ギリシアでは[ ]の下で、[ ]への[ ]が前提とされた。次いで[ ]が発生し、[ ]を始めとする[ ]は[ ]を探した。つまり、[ ]の観点から[ ]の在り方を探ったのである。更に、[ ]から派生した悲劇性は『[ ]』のように[ ]を戒め、[ ]の定める[ ]について描き、[ ]を支えるものであった。
[ ]戦争中から戦争後には[ ]や[ ]たちが活躍した。[ ]は[ ]について書きながらも、[ ]の維持のために[ ]として[ ]を描いている。[ ]は演説の中で[ ]の前では人は平等であることを主張している。
[ ]たちの間では、[ ]と[ ]の対立について論争がなされた。[ ]は[ ]を唱え[ ]を重視した一方、[ ]を始めとする[ ]は[ ]を重視し、[ ]を支持するようになっていった。
その様な中、[ ]が[ ]を批判し、[ ]は[ ]と[ ]が不可分であるとした。そして、「[ ]」を唱え、[ ]の存在を唱えた。[ ]の哲学の目的は[ ]と、[ ]がとれていること、つまり[ ]の探求であった。
[ ]はアテナイ市民により自殺させられたが、[ ]の弟子であった[ ]が師の[ ]と[ ]における[ ]の考えを受け継ぐとともに、[ ]に批判の目を向けた[ ]は[ ]を価値あるものと考え、『[ ]』の中で[ ]を唱えた。そして[ ]の下で[ ]の[ ]、[ ]、[ ]はそれぞれ[ ]、[ ]、[ ]となり三つの部分が調和した時、[ ]が実現するとした。これに従い、[ ]が[ ]を持ち,[ ]が[ ]を持ち、[ ]が[ ]を以て[ ]に従うことで[ ]としての[ ]がなされると主張した。加えて[ ]は[ ]に囚われず、[ ]を認識できる[ ]の存在を理想とし、[ ]から[ ]の考えは断念するものの、[ ]を主張した。
[ ]の弟子の[ ]は[ ]を批判的に受け継いだ。[ ]は[ ]は否定し、『[ ]』の中で師の[ ]とは反対に[ ]が[ ]したり[ ]されたりという[ ]としてみなした。この中で[ ]は[ ]を[ ]とし、[ ]を論じたうえで[ ]を再認識したものの、[ ]のように既に[ ]を有していた。
この様に、ギリシアの政治哲学の特徴は[ ]を如何に考えるかであった。しかし、[ ]以降の自らが教えた[ ]以降の[ ]は、[ ]が完全に崩壊したこともあり、[ ]から放り出され、[ ]意識が生まれてゆくこととなった。
本稿ではギリシアの政治哲学の特徴について論ずる。先に結論を述べておこう。ギリシア政治哲学の特徴とはポリスの中のノモスをどう考えるかであった。
最初に考察の前提として、ギリシアの政治制度を簡潔に述べておく。紀元前8世紀にギリシア人は多数のポリスを形成していた。各ポリスではアゴラでエックレーシアが開かれた。アテナイの民主制下では市民はイセゴリア様々な自由や政治的権利を持ち、行政及び司法官職は選挙ではなく抽選で決められた。
当初ギリシアでは神話的価値観の下で、コスモスへの信頼が前提とされた。次いで自然哲学が発生し、デモクリトスを始めとする哲学者はアルケーを探した。つまり、ピュシスの観点からコスモスの在り方を探ったのである。更に、神話的価値観から派生した悲劇性は『オイディプス王』のようにヒュブリスを戒め、コスモスの定める秩序について描き、デモクラシーを支えるものであった。
ペロポネソス戦争中から戦争後にはトゥキディデスやソフィストたちが活躍した。トゥキディデスは人間の本性について書きながらも、民主制の維持のために必要なリーダーとしてペリクレスを描いている。ペリクレスは演説の中でノモスの前では人は平等であることを主張している。
ソフィストたちの間では、ノモスとピュシスの対立について論争がなされた。プロタゴラスは人間尺度説を唱えノモスを重視した一方、カリクレスを始めとする後期ソフィストはピュシスを重視し、強者支配を支持するようになっていった。
その様な中、ソクラテスがソフィストを批判し、ソクラテスはノモスとピュシスが不可分であるとした。そして、「善く生きること」を唱え、普遍的真理の存在を唱えた。ソクラテスの哲学の目的はコスモスと、ハルモニアがとれていること、つまりカロカガティアの探求であった。
ソクラテスはアテナイ市民により自殺させられたが、ソクラテスの弟子であったプラトンが師のノモスとピュシスにおける不可分性の考えを受け継ぐとともに、アテナイ民主制に批判の目を向けた。プラトンは正義を価値あるものと考え、『国家』の中で魂の三分説を唱えた。そして理性の下でプシュケーの知恵、勇気、欲望はそれぞれ知恵、勇気、節制となり三つの部分が調和した時、正義が実現するとした。これに従い、守護者が知恵を持ち、補助者が勇気を持ち、経済階層が節制を以て上層の階層に従うことで国家としての正義がなされると主張した。加えてプラトンはドクサに囚われず、善のイデアを認識できる哲人王の存在を理想とし、シシリーの失敗から理想のポリスの考えは断念するものの、夜明け前の評議会を主張した。
プラトンの弟子のアリストテレスはプラトンの考えを批判的に受け継いだ。アリストテレスはイデアの存在は否定し、『政治学』の中で師の哲人王とは反対に徳のある市民が支配したり支配されたりという相互関係を政治的支配としてみなした。この中でアリストテレスはポリテイアを最善の政体とし、中庸を論じたうえでノモスの重視を再認識したものの、テオリア的生活のように既に脱ポリス的傾向を有していた。
この様に、ギリシアの政治哲学の特徴はノモスを如何に考えるかであった。しかし、アリストテレス以降の自らが教えたアレクサンドロス大王以降のヘレニズム哲学は、ポリスが完全に崩壊したこともあり、ポリスから放り出され、コスモポリテス意識が生まれてゆくこととなった。