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定期対策C  作者: 馬の頭
テスト講評
6/9

ヨーロッパ近代政治史期末試験研究

イギリス政治史期末試験研究

過去の問題と対策

小問編

1.ハノーヴァ家による王位継承と議院内閣制の発展について問う問題

ドイツで生まれ育ったジョージ1世は英語を理解できず、文化も異なるイギリス国民から嫌われた。イギリスの政務もウォルポールに任せきりにして、それがイギリスにおける責任内閣制(「国王は君臨すれども統治せず」)の発達を促す結果になった


2.THE HOME RULE LEAP

帝国条項以外について広範な立法権を持つアイルランド議会設置及びアイルランド議員を連合王国議会から引き揚げさせることを求めた1886年のアイルランド自治法案の議会提出


3.「グレート・ブリテン」の由来

『イギリス史』によると、「6世紀には・・・侵入を再開したアングロ=サクソン人たちは、・・・・「アングル人の土地」という意味の「イングランド」を形成していく。/西へ追いやられたブリトン人たちは、・・・さらに海を渡ってフランスのブルターニュ地方に住み着く。このブルターニュとの面積の対比から、ブリテン島を指して「グレート・ブリテン」とする。


4.1914年のクリスマス休戦に関する問題

第一次世界大戦中の1914年12月24日から12月25日にかけて西部戦線各地で生じた一時的な停戦状態である。この日、最前線で対峙していたドイツとイギリスの兵士たちが共にクリスマスを祝ったと伝えられている。


論述編

1.イングランドとスコットランドの国家合同について論じる問題

①1603年、スコットランド王ジェイムズ6世がイングランド王ジェイムズ1世として即位した。これによってイングランド=スコットランドの「同君連合」となった。ジェイムズ1世はイングランドとスコットランドが「一つの法律、一つの議会、一つの教会、一つの名称」のもとに統一されるべきと考えていた。

②しかしそれにピューリタン及び、イングランド議会は反発した。ピューリタンは国王に教会改革の継続を要求した。さらに、議会の庶民院に選出されたジェントリを中心とする社会層が、イギリスの伝統的国制を無視しがちな国王に反発し、コモン・ローに依拠して国王に抵抗した。

③その後、議会を無視した外交、親カトリック政策を行ったチャールズ1世に対し、ピューリタニズムを信奉する議会派は抵抗し、最終的に内戦に至った。内戦の序盤では国王派が優勢であったものの、議会派の中の独立派は一般兵士層を取り込みながら、マーストン・ムーアの勝利以後、国王派に妥協的な長老派を軍から追放し、更にネーズビの勝利を経て議会派の勝利に終わった。

④1647年には国王がスコットランド軍と手を結び第二次内戦が発生したものの、1648年にはプレストンの戦いで議会派が勝利した。1949年には国王が処刑された。内戦以後の1650年5月、クロムウェルはチャールズ1世のチャールズ2世がスコットランドに上陸したのを討つため、スコットランドに遠征、ウスターの戦いでチャールズ率いるスコットランド軍も撃破、チャールズを大陸に追いやった。結果、スコットランドはクロムウェル率いるコモンウェルスに組み込まれた。このコモンウェルスが発令した航海条例はスコットランド経済に打撃を与えた。

⑤クロムウェル死後にはスチュアート朝の王政復古が実現した。だが、信仰自由宣言を行ったジェイムズ2世に、カトリック化と絶対王政への復帰という二つの危機に直面したイギリス人は議会を中心に結束した。ホイッグとトーリーの指導者は連携しオレンジ公ウィリアムとメアリを戴き名誉革命を実現した。

⑥名誉革命ののち、スコットランドはウィリアムとメアリの即位を容認し、国教会の主教制を廃止し、長老教会制をとった。しかし、イングランドとの経済格差が広がっていった。そのため、ダリエン計画がはじめに採用された。ダリエン計画とはカリブ海と太平洋の狭い結節点である、中南米のパナマ地峡に商業植民地を獲得すると言う計画である。1695年実際に「アフリカ・インド貿易のためのスコットランド会社」を設立したものの、イングランドからの出資は得られなかった。また、彼らが遭遇したのは、意見が対立して、疫病にかかると言う運命であった。そうした状況にスペイン人の艦隊が到着して、生き残った者たちに降伏と本国への帰還を強制し計画は失敗に終わった。だが、二国間の議会の合同と言う案への推進力となったと考えられている。(『ダリエン計画について』 渡辺邦博)

⑦スコットランド議会は1703年、スコットランド独自の外交を追及する「平和と戦争に関する法」、次いで安全保障法(1704年)によって独自に王を立てる権利を有するという宣言を発した。これに対してイングランドは外国人法(1705年)で応酬した。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制にくわえて、ヨーロッパとの交易も制限するとしたのである。このためスコットランド経済は更なる打撃を受け、1706年より国家合同に向けた動きが始まった。

⑧この合同をもたらした要因は国家合同反対勢力の中では長老派とジャコバイト派の対立があり、それはカトリックを侵攻するスチュアート家に戴冠させて良いのかという問題であった。そこに付け込んだイングランドはスコットランドに経済的恩恵を与え、かつスコットランド国教会としての長老派の地位確認、スコットランド議員の買収によって長老派を味方につけることとなった。スコットランドへの経済的恩恵はイングランドの植民地への自由な経済活動、スコットランドからのイングランドへの輸出拡大、さらに資金提供やスコットランド議員に対する公職や年金の提供を行う形であった。またスコットランド国境にイングランド軍を配置し、大きな脅威となった。

⑨長老派と決別したジャコバイト派はジョージ1世に対抗し、2度の反乱が起こったものの、1945年にチャールズ・スチュアートがカロドンの戦いで敗北して以降スコットランドでの反乱は見られなくなった。二度目のジャコバイトの反乱以後にはジャコバイト派に対する、クラン姓廃止、バグパイプやタータンの使用禁止など、弾圧が行われた。この結果、国家合同が完全に実現することとなった。


2.第一次選挙法改正について論じる問題

①産業革命によって都市化が進み、農村から都市部に人口が流れた。その結果、極度の有権者人口減少にもかかわらず下院に議員を出した選挙区である腐敗選挙区や土地を保有している、ひとり、ないし複数の有力地主の意向によって選挙結果が決まるポケット選挙区が登場した。これは工業化・都市化による人口変動に選挙制度が対応できていないことの表れであった。特に工業化したイングランド北部や中部では都市選挙区が少なく、マンチェスター、バーミンガム、シェフィールドは未だ都市選挙区にすらなっていなかった。一方で有権者が600人に満たない都市選挙区は137も存在していた。

②選挙区には当時州と都市の二つが存在したが、州選挙区の選挙権は年価値40シリング以上の自由土地保有者にかぎられ、都市部でも様々な資格を必要とした。M・ブロックの研究によると、都市の選挙資格は1、地方税納入者、世帯持ちを有権者とするもの。2、自治体土地保有権を必要とするもの。3、自由民を有権者とするもの、4、都市自治体が団体として選挙権を有するもの。5、自由土地保有を要件するものの5つの分類が可能であるという。

③時のウェリントン政権はトーリー党による政権であり、議会改革を拒んでいた。しかし、1830年には、ホイッグ、旧カニング派、ウルトラ・トーリーから攻撃を受けた。ウルトラ・トーリーは、カトリック解放の理由を議会制度の問題故であると見なしたのであった。そのため、ウルトラ・トーリーもウェリントン政権を批判し、議会改革を求めた。

④議会外でも、当時不況であったこともあり、中産階級や労働者階級が議会改革運動を見せていた。1830年にはバーミンガム政治同盟、さらにその翌年には労働者階級同盟が結成されていたのである。また、当時フランスでは七月革命が起こり変革の気運が高まっていた。そのため、ノッティンガムではニューカースル公のノッティンガム城が焼き討ちにされ、ダービーでは監獄が襲われた。ブリストルでも大規模な暴動が発生していたのである。イギリス南部でもスウィング暴動が発生していた。

⑤この結果、ホイッグ党のグレイが政権を担うこととなった。グレイの選挙改革を巡る意図は次のようなものであった。はじめに、革命防止の為に選挙改革を行わねばならないということ。次に、中産階級の多くがホイッグを支持したため、中産階級の選挙権付与はホイッグに有利であった。そのため、グレイは選挙改革を企図した。

⑥1831年9月の選挙改革法案は3月に提出されたグレイの法案は委員会審議でトーリーの抵抗の結果頓挫し、グレイは4月に議会を解散して総選挙を行った。総選挙の結果、改革派が勝利し、改めて提出された法案は下院を通過した。だが、この時も上院で否決された。更に1832年にも法案は提出されたが、上院は法案を通そうとしなかった。そこでグレイは上院で過半数を確保するため50人の新貴族の創設を国王に請願したが、国王はこれを認めなかった。故にグレイは辞職せんとしたが、組閣を命じられたウェリントンがピールに入閣を拒まれたため組閣できず、国王はグレイの提案を受け入れた。結果、再度グレイが組閣を命じられ、上院を法案が通過することとなった。

⑦選挙改革の内容は腐敗選挙区の多くを廃止し、それによって得られた議席を人口の著しい都市に配布するものであった。勿論改革後も有権者数1000人以下の選挙区が123議席残ったが、選挙制度を産業革命後の社会に対応させるものとなった。この選挙改革によって恩恵を受けたのは中産階級であった。中産階級はジェントルマンと並ぶ議会政治の担い手となった。


3.19世紀中頃のイギリスにおける自由貿易帝国主義について論じる問題

①自由貿易帝国主義とは、1950年代にギャラハーとロビンソンによって主張された、小英国主義と帝国主義を分ける時期区分に対して行われた反論である。従来の時代区分では、19世紀中ごろは植民地の分離を指向する小英国主義と19世紀末からの植民地拡大を目指す帝国主義に時代区分が分けられていた。しかし、自由貿易帝国主義論が提唱された結果、ヴィクトリア朝中期はイギリスの海外発展史の中で重要な役割を持つと認識されるようになった。

②自由貿易帝国主義論は、以下の二つの主張を行った。はじめに、時間的二分法を否定し、19世紀中ごろでもイギリスの公式帝国は拡大した。つまり、植民地は拡大していたと主張した。事実、自治政府設立は白人移住者が中心の植民地のみであった。そして次に空間的二分法を否定し経済力と軍事直を背景にした自由貿易を行い、工業製品輸出市場、食料、原料供給国として低開発国を確保する即ち、「非公式帝国」の存在を主張した。

③パーマストンは「イギリスの通商活動と製造業の為に海外で新しい市場を確保することは、イギリス政府の使命である」と主張し、時に砲艦外交を展開しながら自由貿易を推進した。この時代は自由主義が歴代政権の政策基調となった。当時、イギリスにとって自由貿易を推進し、新しい市場を確保することは重要なことであった。何故ならば、産業革命に伴うヨーロッパ工業の競争はイギリスの生産物をヨーロッパ市場から締め出そうとしていた一方で主要産業である綿工業の海外輸出は世界でも首位であり、イギリスのナショナルインタレストそのものだったからである。

④自由貿易の実現を目的としてイギリス国内では財政改革が行われた。1840年代の第二次ピール内閣ではグラッドストンが起用され、財政赤字を解消しながら、関税および内国消費税を引き下げようとした。1842年、ピールはナポレオン戦争後廃止されていた所得税を復活させ、それを財源として関税の引き下げが実施された。1845年にもピール政権は輸入関税をさらに引き下げ、また輸出関税を廃止し自由貿易を現実化させた。

⑤ヴィクトリア朝中期では、「可能であれば、非公式による貿易を、必要ならば、軍事力による公式の領土併合によって自由貿易を強制」し、イギリスの勢力を拡大した。同時にクリミア戦争に参戦するなど、ロシアの南下政策も阻止した。

⑥自由貿易帝国主義はアジア諸国の中で顕著にみられた。インドでは1833年に東インド会社の独占貿易が廃止となった。インドでは綿花生産能力の高い地域から併合され、「公式帝国」の一部となっていった。1857年にはセポイの反乱が発生し、イギリス支配体制を脅かしたが鎮圧し、インド省創設、インドをイギリスの直接支配下に置いた。それ以降インドは綿の栽培、綿製品輸出のための関税操作、本国からの資本輸出の増大などの一連の経済・財政政策を通じて、イギリスを支える重要な植民地となった。また、中国とのアロー戦争後はイギリス、インド、中国間の三角貿易が行われるようになった。

⑦三角貿易の舞台となる中国ではアヘン戦争の後、香港がイギリスの植民地となった他、中国本土の5港が開港することとなった。同時に、中国の関税自主権も認めなかったため、イギリスの中国進出は進んでいくこととなった。しかし、アヘン戦争後もイギリスから清に対する貿易は伸び悩んだうえに、アヘン戦争後清が南京条約を履行しようとしなかったため、イギリス人商人たちの不満は募られていった。その後、アロー戦争の結果、さらに九竜半島の一部割譲と賠償金の支払い、11港の開港を行わせ自由貿易を強制させた。イギリスは中国以外のアジア諸国とも通商条約を結んだ。(東田雅博 『イギリス資本主義の発展と自由貿易政策』)

⑧白人定住植民地では責任政府の承認、自治領化がすすめられた。オーストラリアでも1850年代にオーストラリア植民地政府法により自治政府と議会がつくられ、その後北アメリカではカナダ連邦が成立することとなった。

⑨1860年代にはイギリス=フランス間でも通商条約が結ばれた。フランスからはイギリス工業製品への関税引き下げが行われ、イギリスはフランス工業製品への関税廃止、ワインやブランデーに対する関税引き下げが行われた。


4.19世紀イギリスにおいて実施された3次にわたる選挙法改正について論じる問題

①第二次選挙法改正は1867年、イギリスで選挙権を都市労働者上層に拡大した改正である。資本主義経済の発展に伴う、工業化・都市化に対応し、ヴィクトリア期の繁栄を背景としていた。この改正は飛躍的な選挙権の拡大となり、都市の労働者の殆どが有権者となり、中流以下の商工業者も選挙権を得た。

②その前提になったのは工業化時代の中流階級の価値観が変容したことにある。当時成功し富を築いた上層中流階級間では教育を通じた社会移動が注目を集めることになりジェントルマン化が図られた。また、大学審査法によりジェントルマン・エリートの供給源が拡大された。

③その前提の上で議会外では選挙権拡大を求める動きはそれほど協力ではなかったが議会内では2大政党ともに労働者に対する選挙権拡大が必要であると考えていた。議会改革はグラッドストンの台頭とともに進められた。1864年に中流階級を基盤とする議会改革同盟、翌年に労働者階級の声を代弁する議会改革連盟が結成された。

④その中で1867年に成立したダービーを首班とする保守党はそれまで穀物法撤廃以来少数党であったが、選挙権拡大により自由党を出し抜こうとした。ディズレーリの巧妙な議会戦略の結果、「暗躍に向かっての跳躍」と呼ばれる第二次選挙法改正が実現した。

⑤第二次選挙法改正により、有権者の数は130万人から220万人に増大し、成人人口の16パーセントを占める様になった。また、この結果大衆政党が躍進し保守党、自由党の2大政党が整備された。

⑥第三次選挙法改正には先立って秘密投票法が成立し、投票を巡る買収や供応を防止することが目的とされた。しかし1880年総選挙は「史上空前の腐敗選挙」と呼ばれるようなものとなった。その結果1883年に腐敗及び不法行為防止法が制定され、法定選挙費用の制限や罰則強化が行われた。

⑦第三次選挙法改正で第二次グラッドストン内閣は、州選挙区でも同様な資格都市、農村労働者に選挙権を拡大した。その結果、農村労働者の大部分が有権者となり、有権者の大幅な増加となった。その数は成人人口の28%を占める500万人、200万人の増加であった。これによって女性参政権を除けば議会制民主主義の発展に大きな前進となった。この改正と同時に、議席の再配分が行われ、議員の選出は原則として人口比率に基づくべきであると定められ、無投票当選の選挙区が減った。また、一選挙区一議席の小選挙区制が採用されるようになった。この後イギリスの選挙法では小選挙区制が継続され、選挙制度上も二大政党制が長く続くこととなる。これによりイギリスの議会制民主主義の基盤は形成された。同時にこの結果名望家としての地主の政治的影響力は低下した。


5.ジョゼフ・チェンバレンと社会帝国主義について論じる問題

①社会帝国主義とは、帝国主義的海外膨張政策を社会の現状維持、安定化のための戦略としてみることであり、また、社会主義に対抗する国民統合手段としての帝国主義的海外膨張である。具体的には労働者階級を既存の政治・社会体制に取り込むための社会政策の実施と、その財政的・経済的基盤を確保するための領土拡張政策と軍備増強である。

②1870年代にバーミンガム市長となったチェンバレンが第三次ソールズベリ内閣、バルフォア内閣で実施した。

③1895年に選挙で大勝した保守党は、自由統一党と合流し統一党を結成し、第三次ソールズベリ内閣が組閣された。第三次ソールズベリ内閣でチェンバレンは植民地大臣となり、帝国主義政策を推進した。チェンバレンは内政の面で1896年に労使調停法を制定し労使協調体制を促進したほか、翌年労働者災害補償法で労働災害に対する補償を規定した。

④チェンバレンは1896年以降帝国関税同盟構想を発表し、帝国内自由貿易と外国商品への輸入関税、更に帝国防衛経費について自治領に負担を求め帝国統合を計った。自治領はチェンバレンの要求を拒否したがカナダが現存の収入関税を前提としながら一方的な本国製品特恵を実施した。

⑤1898年、イギリスはファショダ事件でフランスを譲歩させ、イギリスの大陸縦断政策を成功させることとなった。

⑥1899年には内政面で老齢年金支給勧告を行った。対外政策では第二次ボーア戦争が勃発した。ボーア戦争ではボーア側の強い抵抗にあいながらも、1902年に講和した。トランスヴァ―ル共和国とオレンジ自由国はイギリスに併合されたものの、戦争長期化によりイギリス財政は疲弊した。さらにイギリスの外交的孤立、イギリス陸軍の脆弱さの露呈、更にドイツの海軍拡大計画への着手によりイギリスの優位は脅かされることとなった。

⑦その後1901年にヴィクトリア女王が死去し、それと同時に政策転換を図ることとなった。具体的にはボーア戦争後、保護貿易への転換を求める動きが出現し、工業製品の輸入拡大、輸入穀物課税の制定をすることとなった。さらにバルフォア政権でも統一党内の対立が継続し、1903年チェンバレンは辞職した。チェンバレンは下野後、バーミンガム演説を行い、帝国特恵関税制度構想を打ち出した。帝国特恵関税構想の内容は、外国産農産物への輸入関税、植民地産農産物への関税免除、イギリスの工業製品への低率特恵関税、さらに茶、コーヒー、砂糖などの関税引き下げを訴えた。この政策の意図するところは、はじめに、イギリス本国と植民地の結びつきの強化によって帝国再編を図ること、そしてイギリス工業製品を保護することに拠り労働者の雇用維持、促進を図った。その背後には国際競争力を失い国内市場の保護を主張したバーミンガムの金属工業利害や小売業、一部の地主の利害があった。

⑧一方で統一党自由貿易派、自由党は綿工業やシティ金融を味方につけ、従来通りの自由貿易政策を擁護した。バルフォアは地主階級を支持者とし、中間の政策を打ち出した。選挙の結果、自由党が勝利し、キャンベル=バナマン内閣が成立した。

⑨その後、アスキス内閣ではロイドジョージ、チャーチルによって最初に国家と民間とが提携する形で労働争議法や労働者災害補償法改正という形で社会政策が行われ、その後、ドイツの海軍増強に対抗する形で海軍増強の形をとることとなった。


6.イギリス労働党の結成

①最初に19世紀の新政党と20世紀の新政党の違いを明らかにしておこう。19世紀の新政党は2大政党から分離した自由統一党や明確な地域的基盤を持つアイルランド議会党である。しかし一方で20世紀の労働党は2大政党からの分離ではなく全く新しい政党であった。さらに、地域政党ではなく全国に支持を持つ全国政党であった。

②労働党誕生以前は以下のような状況であった。第二次、第三次選挙法改正により労働者階級に選挙権が拡大された。その結果、1874年、労働者階級出身の下院議員が誕生した。更に、1885年に11人のリブ=ラブ派が自由党に登場した。

③また同時に当時の大不況は労働者階級に変化を及ぼし、社会主義思想が形成されていった。1884年にはハインドマンによってイギリス発のマルクス主義団体、社会民主連盟が結成されたほか、同年、非マルクス社会主義的なフェビアン協会が結成された。フェビアン協会は経済活動や社会生活への積極的な国家干渉によって福祉国家を形成しようとした。さらに、政策提言と宣伝活動により、漸進的な改良主義を主張した。

④1880年代後半には不熟練、半熟練労働者の解雇が不況によって誕生し、更にロンドンではストライキが行われた。不熟練、半熟練労働者は新組合に加入した。1889年にはベン・ティレットを中心とするストライキが勝利をおさめた。こうした新組合はこれまで組合に入れなかった労働者たちを組織し、ストを以て労働条件の改善などを要求したのであった。

⑤この労働新組合の登場に加え、初等教育の拡充、選挙権獲得により労働者は自信を深めていった。

⑥1892年にはスコットランドの鉱夫、ケア・ハーディが当選し、独立労働党を形成した。独立労働党は新組合主義を掲げて実践的な社会主義を目指した。19世紀の間はリブ=ラブ主義に基づく自由党との協調路線が有力であり、1895年の選挙でハーディを含む独立労働者党の候補者は全て落選したが、1900年になると労働組合加盟労働者は200万人に上り全労働者の内の11%を占めることとなった。

⑦1900年、ついに労働代表委員会が結成された。この委員会は独立労働党、社会民主連盟、フェビアン協会の三つの組織の合体により結成された。労働代表委員会はリブ=ラブ主義に基づく自由党との協調路線を改め、労働階級の代表を下院に送ろうとするようになり、1906年には労働党と名称を変更した。労働党の組織形態は次のようなものであった。65の労働組合と3つの社会主義団体から成り、個人加盟制度がなく、団体加盟制度を採用していた。

⑧1900年時点の選挙では2名しか当選させることができなかったが、1901年のタフ・ヴェール判決以降労働組合指導部は自身たちの代表を議会に送る必要を痛感することとなり、労働代表委員会に積極的に加入するようになっていった。タフ・ヴェール判決とは、1900年イギリスのタフ・ヴェール鉄道従業員のストライキに対し、貴族院が、労働組合のストライキにより使用者の被った損害について組合の賠償を認め、組合に多額の賠償金を科した判決であり、実質的に労働組合のストライキ権剥奪を意味するものであった。

⑨1906年に名称が変更された労働党は、同年の総選挙で自由党と協力し、29名を当選させた。タフ・ヴェール判決は、同年の労働争議法により、労働争議で組合に課した民事責任は免責され、それ以降、自由党は社会労働を巡る改革を社会帝国主義政策の一部として実施するようになった。タフ・ヴェール判決後には、労働組合指導者をはじめ、組織労働者も組合員の利害を代表する彼ら自身の代表議員を下院に選出する必要性を強く感じるようになり、労働代表委員会への加入組合数は急速に増加した。具体的には1900年から1901年には41組合、35万人であったが、翌年には127組が新たに加入し、会員数が85万人に増加した。結果、選挙資金が増大し、党体制を整えていった。


7.「戦闘的」女性参政権運動について論じる問題

①女性参政権を求める動きは1884年以降中断したが、2つの女性参政権を求める団体が結成され、その息を吹き返した。それは1897年の「女性参政権協会国民同盟」と1903年の「女性社会政治連合」である。前者はフォーセットを会長とするヴィクトリア朝から続いた女性参政権を求める団体が統一して生まれたものであり、「穏健な」女性参政権運動を展開した。一方、後者はパンクハーストと娘のクリスタヴェルを中心とした団体であり、「戦闘的」女性参政権運動を行った。当時の新聞は前者を「婦人参政権論者」、後者を「女性賛成運動者」として区別した。

②後者の団体のメンバーは「サフラジェット」と呼ばれたが、サフラジェットは「言葉だけではなく行動を」というモットーを掲げ、言葉だけで女性参政権を求めるのではなく、過激な行動を通じてでも目的を達成すべきだと強い意志を持っていた。更に、言葉では女性参政権を支持しつつも実際に選挙法を改正する行動をとらない政治家への痛烈な批判を行った。

③自由党ではキャンベル=バナマンやロイド=ジョージが女性参政権に積極的であった一方、アスキスは消極的であるなど、意見が分裂していた。これは労働党でも同様であったとされており、労働党議員の中にも婦人参政権を認めることで全男子の選挙権獲得が困難になるのではないかと女性参政権に消極的なものもいた。

④1908年自由党党首がバナマンからアスキスに代わると「戦闘的」女性参政権運動家たちの攻撃は過熱した。アスキスは1910年譲歩の姿勢を見せ地方税納入女性戸主に選挙権を与える議員立法の審議時間確保を約束した。この案は2度廃案となったが、1912年には自由党内閣が、結果として徒労に終わったが、「選挙および登録法案」に女性参政権条項を入れることに同意した。

⑤それに対して女性参政権運動者の示威行動はより過激化し、政治活動の妨害や店の窓ガラス破壊、放火を繰り返していたが、1913年に競馬場で競走馬の前に身を投げ、また、パンクハーストがロイド=ジョージの家を爆破した。1914年にも「鏡のヴィーナス」をナイフで損傷するなど事件を引き起こした。運動者はハンガーストライキを行ったが、政府も「猫鼠法」により取り締まりを強くした。

⑥加えて、パンクハースト母子が女性社会政治連盟による女性参政権運動には中産階級以上でなくばならないと主張したこともあり、その過激な示威行為と排他性から多くの女性が「穏健な」女性参政権運動に加わることとなった。

⑦「戦闘的」女性参政権がもたらした成果を論じよう。「戦闘的」女性参政権運動の過激な活動が社会の注目を集めたことで会員や資金が拡大され、間接的な影響として「穏健な」女性参政権運動も組織を拡大することができた。女性参政権運動が組織化されたことに拠り女性参政権反対論の「異なる領域」論も骨抜きにすることができた。また、女性参政権の実現に向けた議会内での活動を活発にさせ、政権首座のアスキスでさえ消極的ではあったものの譲歩は見せた。アスキスの政治的判断は、女性参政権の実現に向けて努力するつもりはなかったが、豊かな女性に限定した選挙権付与は統一党を有利にし、女性参政権と抱き合わせての自由党に有利な男性普通選挙権導入を図った。更に、対独関係、アイルランド自治への対処を優先し女性参政権は見送ろうとした。

⑧また、バートリーによると、「女性社会政治連合」や穏健的女性参政権運動の影響を受けてカトリック教徒のフェミニストたちによる組織や、女性参政権男性連盟など男性による女性参政権を目指した組織も生まれたとされている。更に、世界的にもアメリカでルーシー・バーンズやアリス・ポールによって女性参政権議会連合が結成された。

⑨一方で限界も存在した。第一次世界大戦勃発までに目標を達成できなかったのである。過激な活動は世論を分断し女性参政権に対する強い反発を生み出したし、1912年のランズベリーは議員辞職して女性参政の是非を問うたが落選した。同時にこれにより男性労働者の反発を買い、ロイド=ジョージなど女性参政権を支持する政治家をも攻撃したことから女性参政権を支持する議員も拡大しなかった。


8.第一次世界大戦の開戦原因

①一般的な第一次世界大戦の開戦原因として知られるのが三国同盟と三国協商の対立、及び帝国主義による対外膨張、イギリスの3C政策とドイツの3B政策とされている。しかしこの二つは共に以下の理由から否定され得る。前者は当時の同盟関係は自国に好都合な場合にのみ遵守され、不都合な場合には違反や逸脱がつきものであり、イタリアの三国同盟離脱という同盟そのものの保護があり得たほか、事前に相互防衛を明記したり、事後的に判定するのは容易ではなかったからである。また、そもそも同盟関係自体に開戦に踏み切る積極的理由はなかったからである。一歩後者は確かにファショダ事件やモロッコ事件を考えると説得力を持つものの、植民地を巡る対立は外交的に解決されてきたうえ、何よりサラエボ事件は植民地を巡る対立とは言い難かったからである。更に3B政策と3C政策は相互干渉の関係ではなかったし、ドイツのバグダード鉄道建設に関してはイギリスも資本協力をしていたのである。

②政治外交史研究により参戦国が必ずしも開戦に積極的ではなかった。事実二重帝国はセルビアに宣戦布告までの間軍隊の動員はしていなかったし、二重帝国による宣戦布告もセルビアに対する恫喝でしかなかった。セルビアが頼る先であるロシアも動員しなかったし、フランス政府もロシアに自制を求めていた。イギリスに関してもアスキス政権の主要閣僚は戦争に消極的で、対立国の仲介を望んでいた。二重帝国の最大支援者のドイツでさえ戦争自体をバルカン半島の限定戦争で終わらそうとした。ドイツの皇帝ヴィルヘルム二世はロシアのニコライ二世に、三戦しないよう要求している。これはドイツ皇帝とロシア皇帝が親戚関係にあったため、大規模な戦争は避けられるであろうと考えたのである。

③では新しい開戦原因とは何であったか。それを探るうえで4つの要因を探る必要がある。それは繁栄の中の苦難、世論、ナショナリズム、情報である。

④開戦前ヨーロッパ主要国には共通性があった。それは経済的相互依存と国際分業体制であり、各国は貿易の為に比較優位産業に特化した。故にどの国も経済的社会的苦難を経験することとなった。

⑤次に民衆の政治参加と世論を探る必要があろう。[]

⑥ジョゼフ・ナイは以下の様に開戦原因について、ドイツとその同盟関係による安全保障のジレンマ以外に、国内的な問題について言及している。ナイは二重帝国やオスマン帝国が多民族国家でありナショナリズム勃興の脅威を受けていたこと。ドイツではチュートン対スラブの戦闘が不可避であるという本が書かれた。東ヨーロッパでも汎スラブ主義が高まりを見せた。この高まるナショナリズムによって各国の君主間の連帯は廃されたと論じている。更に、各国の勢力均衡が崩れた背景には平和への自己満足があったとしている。各国の指導者は長期の戦争が起こることなど予想していなかったし、短期決戦によるパワーバランスの変化は好ましいものと感じていた。

⑦また、ドイツ国内では当時の経済主体は土地貴族と大企業資本家たちであったが、彼らは拡張主義を担った。それに加えて彼らは社会民主主義の代わりとして拡張主義を機能させたのである。国内ではそれだけの危機が発生していた。全ての国の軍事指導者たちは「攻撃至上主義」にとりつかれており、ひとたび戦争がはじまると、第一撃を下さねばならないと多大な圧力を感じたのである。


9.アイルランド独立について論じる問題

①アイルランドのイギリスによる介入は12世紀ごろから始まったが、15C 中、フィッツジェラルドがアイルランド総督に就き、支配権を確立させた。1541 年アイルランド議会はイギリス王ヘンリーⅧをアイルランド国王と認めた。ヘンリーⅧは融和策を取った。

②ピューリタン革命に際し新憲法を制定しアイルランドの独立を宣言したが、クロムウェルのイギリス議会軍がアイルランドを占領し土地を没収した。名誉革命ではボイン河の戦いでオレンジ公ウィリアムに敗れた。アイルランドはリメリック条約を受け入れ降伏し、以降アイルランド議会は、イギリス政府に従属した。

③反乱が鎮圧された後、イギリスはフランス軍とアイルランドの連合を恐れ併合し、イギリス議会には下院議員100名、上院32名選出を決定した。18世紀末の大飢饉後、アメリカに移民したアイルランド人は、IRBをニューヨークに設立、アイルランド人もこれに加わった。一方議会内ではパーネルはアイルランド議会党を組織し、オコンネルによる議会内改革運動、フェニアン運動そして農民運動を方針とした。この後1912年までに三度のアイルランド自治法案が提出されたがいずれも否決や延期にあい、成立しなかった。

④1905年アイルランドの民族独立を目指す共和主義者の政治結社シン・フェイン党が結成され、アーサー・グリフィスが党首となった。又IRB も再建された。両者共に独立を目指していたが、シン・フェインが比較的穏健な姿勢で出発したのに対し、IRB は強硬態度をとっていた。

⑤アイルランド議会党はイギリスの自由党政府を支持する見返りとして、自治法案の成立を求めていたが、法案は再々否決され、議会を通過したのはようやく1914 年になってからであった。第一次世界大戦に対し、統合維持論者は自治法案に反対すべくアルスター義勇軍を結成した。他方、自治法案賛成南26 州もアイルランド義勇軍を結成した。世界大戦が勃発、戦争の続いている間、アイルランドの自治の実施は棚上げされた。レドモンドがイギリスの戦争遂行にアイルランドの協力を約束したことから、アイルランド義勇軍の大半は国民義勇軍として応えた。それ故、20万人のアイルランド人がイギリス軍に参加した。反対派の少数集団はそのままアイルランド義勇軍を保持したが、その内部には分離主義要素の最も強いIRBを含んでいた。

⑥1916 年、ドイツ軍捕虜となったアイルランド人兵士によるイギリス軍と戦う部隊が編成され、更にドイツに武器支援を受けたアイルランド義勇軍はイギリスからの分離・独立を目指して蜂起、ピアスは、「アイルランド共和国宣言」を行った。イギリスは不意を突かれたものの各地の援軍が集結し、アイルランド民衆も家族や親せきが戦っているときに反乱を起こした人物たちの行為を裏切りとみなし冷淡な対応しかしなかったため、蜂起は1 週間で鎮圧された。しかし敵国であるドイツを利する行為を行った反乱であるとイースター蜂起を見なしたイギリスによる蜂起指導者の処刑に対し、アイルランド議会党、B.ショウ、リメリックのカトリック大司教らが非難した。更にアイルランドで1914年国土防衛法に基づいて多くのアイルランド人が無罪で逮捕されていたこともあって、結果、イギリスを情け容赦ない支配者であると見なしたアイルランド人は激怒した。

⑦世界大戦が終わった1918 年の総選挙で圧勝したシン・フェイン党は、イギリス議会をボイコットしアイルランド選出議員がアイルランド国民議会を創設した。1919 年ダブリンで第1回会合を持ち、議長にデ・ヴァレラ、副議長にグリフィスを選んだ。この時、シン・フェイン党にはIRBも合流していた。そこで、共和国樹立を宣言し、大統領にデ・ヴァレラを指名した。

⑧そして独立戦争が始まった。アイルランド義勇軍はイギリスの軍隊に対してゲリラ戦や政府関係者の暗殺を通して散発的に戦った。対イギリス独立ゲリラ戦争の最中の1920 年にイギリスはアイルランド自治法を提示した。しかし自らで国民議会を持ち独立戦争中の南アイルランドはこれを拒否、北アイルランドは受け入れた。北アイルランドは翌年に議会を持つ自治領として発足した。1921 年イギリス・アイルランド条約調印、イギリスはアイルランド32 県の内アルスターの6 県を除く南部・西部26 県にイギリス連邦自治領として、北アイルランド議会を設立した。結果として南アイルランドは連合王国から分離し、アイルランド自由国として発足した。

⑨アイルランド自由国では、この後、シン・フェイン党の内部でこの条約の受入れを巡って内部分裂が起り1922年の総選挙では条約賛成派が勝利したものの、結果内戦となった。その中で自由国政府のリーダーであるコリンズが暗殺され、条約反対派の首領たちも処刑されるなどアイルランド内は混乱した。結局内戦には条約賛成派が勝利し、1923年内戦は終結した。条約反対派であったデ・ヴァレラは「フィアナ・フォイル」を結成、やがて政権に復帰し、アイルランド共和国憲法制定に尽力した。


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