008戸惑うお兄様
シェドと最初に会ったのは、この世界に来た初日。
様子を見に来ていた両親と一度別れて身支度を整え、ティナに付き添われながらダイニングへ向かっていた時だ。
向かいから歩いてくる長身強面の男性に、私は身を強張らせた。
元の世界ではとてもお近づきになることが無かった容姿の人だ。
人を見かけで判断しちゃいけませんなんて言うけど、どうしたって防衛本能は働く。
この時はまだ記憶が曖昧で、アカネ・スターチスの記憶と十村茜の感覚がうまく混ざり合っていない状態だった。
『この人は家族だ、優しい人だ』というぼんやりとした記憶が浮かんでくるのに、茜は『こんな人知らない。怖い』と感じている。
言いようのないごちゃまぜの感情に目眩がして、私がふらりと壁に手をつくと、慌ててティナが支えてくれた。
そんな私の姿を見るや、その男性は酷く焦ったように駆け寄ってきたのだ。
「アカネ、どうした!?」
「う…」
突然の至近距離に動揺して後ずさる私。
そんな態度をとられて戸惑う男性に、ティナが声をかける。
「アカネ様は朝から少しお加減が悪いようで…
先ほどは元気になったとおっしゃっていたのですが…」
「そうか…無理をしない方がいい。部屋で休んでいろ」
そっと頭を撫でながら優しく声をかけられて、少しだけ力が抜ける。
大丈夫だ、やっぱり怖い人じゃない。
少しずつハッキリしてくる記憶の中に、名前が思い浮かぶ。
「シェディオン…?」
その名前を口にすると、頭を撫でていた男性の手が強張った。
あれ、間違えただろうか。
この男性の名前だと思うんだけど…
「…アカネ?」
動揺したような声色にハッとする。
この人はアカネ・スターチスよりかなり年上だ。
きっと兄だ。
海外ならば兄を呼び捨てることも普通にあるようだが、この世界は日本の小説が発端であるがゆえか、伯爵令嬢が兄の名前を呼び捨てにする事などまず無い。
驚くはずだ。
でも、だとしたらなんて呼んでいたのか…
その記憶はまだ浮かんでこない。
とりあえずお兄様あたりにしておけば、もしお兄ちゃんとか呼んでたんだとしても、さっきの両親のように『お年頃だから』で片づけてもらえるかもしれない。
「お兄様?」
これでどうだ。
しかしその一言でシェディオンが息を飲んだのがわかった。
やはり外したようだ。
けれど両親の時のような軽い雰囲気ではない。
まるで、呼ばれるはずの無い呼び方をされたかのような。
ひょっとして兄ではなかっただろうか。
でもぼんやり浮かんでくるこの人との関係性は、兄としか思えない感覚なんだけど…
必死に思考をめぐらせて俯いていると、突如体がふわりと浮かんだ。
シェディオンに抱き上げられているのだと気づき、慌てふためく。
「あ、あ、あの!?」
「じっとしていろ。部屋まで運ぶ」
やっぱりどこかおかしいと思われたようだ。
まさか人生初のお姫様抱っこを、異世界初日にして味わうことになるとは。
彼は服の上からでもわかるほどがっしりと鍛えられた体格をしていて、私を抱き上げる様に危なげな様子はない。
ティナも信頼した様子で後をついてきている。
せっかくのお姫様だっこだというのに、この人の容姿が怖いことにくわえ、気を悪くさせただろうかということが気になってときめけない。
別ベクトルのドキドキはしているんだけど…
ベッドにおろされたところで頭を下げた。
「す、すみません…」
「いや…」
そのまま彼は何か言いたげにしばらく私を見つめていたけれど、思い直したように息を細く吐き踵を返した。
「朝食は部屋に運ばせよう。今日は無理をするな」
「はい…」
部屋を後にする彼に、ティナが声をかける。
「シェディオン様、有難うございました。後の手配は私が…」
「いや、アカネの側にいてやってくれ。カメリアには俺が伝えておく」
カメリアというのはこの屋敷のメイド長だ。
シェディオンの言葉に、ティナが素直にうなずく。
「承知しました」
そしてシェディオンが退室し、扉が閉まるのを確認するや否や、ティナは私に向き直って顔を覗き込んだ。
「お嬢様、どうなさったんです?」
「え、えっと…」
何がどうおかしかったのか分かっていない私には何とも言えない。
「私、悪いこと言った…?」
「悪いと申しますか…」
ティナが口ごもる。
「いえ、シェディオン様からすれば嬉しかったかもしれませんね。
距離を縮めようとなさったんでしょう?
お二人は昔から仲がよろしかったですし、兄と呼ばれて悪い気はされないはずです…」
なんだか妙に含みのある言い方だ。
その後ティナに促されて少し横になり、ウトウトしたころ朝食が運ばれてきた。
優しく起こされ、ベッドに腰かけたまま朝食をとっている最中。
唐突に彼に関する記憶が蘇った。
シェディオン・カッセード・スターチス。
彼と本当に初めて出会った時のことは、もう覚えていない。
けれど、私はずっと彼のことを『シェド様』と呼んでいた。
彼を兄であると認識している感覚は間違いないし、彼がこのスターチス家の長男であることも間違いない。
しかし…
断片的な情報をつなぎ合わせると、なんとなく状況が見えてきた。
父と懇意のマーレイ伯爵という人がいる。
マーレイ夫妻は、時折うちにやって来てはシェドの事を気にかけていた。
マーレイ伯爵は厳格ながら良い人のようだったけれど、目つきの悪さがシェドによく似ている。
…うちの両親の子にしてはどうも顔立ちが違うと思った。
彼は養子だ。
元の名前はシェディオン・マーレイ。
彼がうちに来たのは私が物心つく前なのだろうか、まったく覚えていない。
娘二人しか授からなかった両親が、跡継ぎにと考えて迎えたのだろう。
…ねぇユーリさん?
そんな複雑な家庭環境、汲みとれるわけ無いよね!?
言ってくれないと分かんないよね!?
文句の一つも言いたいけれど、こうして思い出せるだけ御の字だろうか。
記憶がさっぱり無い状態で放り出されていたら、完全なる記憶喪失令嬢だったわけだしな。
でもこれで彼が戸惑っていた理由がわかった。
両親が彼のことを『シェド』と呼んでいたためか、私は『シェド様』と呼ぶようになっていた。
この世界の貴族は、弟妹が兄姉を様付けで呼ぶことは珍しくない。
だからそのままでずっと過ごしてきた。
私と兄の仲が悪かったわけではない。
私は兄に懐いていたし、兄も可愛がってくれていた。
今朝、私の様子がおかしいとみるや、急いで駆け寄ってきてくれたくらいには。
けれどそんな妹が突然名前を呼び捨てたり、お兄様と言い出したりしたんだ。
どんな心境の変化があったのかと動揺するのは無理もない。
ああ、ややこしくなりそうな事しちゃったなぁ。
同日の夜、仕事を終えた兄が部屋を訪ねてきた。
思い出したからにはこれ以上失敗をおかすわけにはいかない。
両親に対するものと同様、敬語で話していたようだし、呼び名さえ気を付ければ下手をうつこともないだろう。
訪ねてきた兄は私を見ると気遣わしげに声をかけてきた。
「調子はどうだ?」
「もう大丈夫です。
今朝は変なことを言ってごめんなさい、シェド様」
挽回すべくそう声をかけて微笑みかけた私に、彼は複雑そうな表情を見せた。
「…呼び方を戻したのか?」
「え?」
朝呼んだような呼び方の方が良かったのだろか。
「どう呼ばれるのをお望みですか?」
「…アカネの呼びたいように」
そこで私にふられると困るんだけど…
まさかシェディオンと呼び捨ててほしいわけでもあるまい。
やっぱり家族らしくいくなら…
「では、お兄様で」
養子ということで壁を感じていた部分があるのかもしれない。
きっとこう呼んだ方が喜んでもらえるだろう。
そう思ったんだけど…
「…ああ」
微笑みながらそう返事をしたお兄様は、嬉しそうでもあり、少し寂しそうでもあった。
その真意は今でも分からないままだ。
==========
そんな初日の出来事を思い返しながら、目の前の人を見る。
私の手を取ってじっと見つめてくるシェド。
確かにこんな意味深な出来事があったら気になるだろう。
その上、呼び名の変化だけでなく、この後の私は記憶にある以上にシェドに甘えるようになった。
もともと一人っ子だった私。
異世界とはいえ兄ができたのは嬉しかったし、何よりシェドは私にとても優しかった。
少しずついろんな態度を試しながら、怒られないと見るやベタベタに甘えたのだ。
この年齢ならばまだ許されるのではと、抱きつくなどのスキンシップもした。
気心が知れてしまえば目つきの悪さや傷跡にも愛着がわくし、可愛がってくれればそれだけでこちらだって好意を抱く。
急に兄ができて、しかもその兄は私にことさら甘い。
そんな漫画のような展開にはしゃいでいたのだ。
しかし、それが令嬢としては相応しくなかった…
もしくはシェドにとっては負担になっていることもあったのかもしれない。
こんな思いつめた顔をしているのだからよっぽどだ。
「すみません。ここ最近はお兄様に甘えすぎていましたね」
「…違う、そうではなくて…」
暗に甘えるのを控えると伝えると、兄は焦れたように首を振った。
なんだろう。
先ほどから何か言いたげなのに躊躇っているようだ。
…話が進まない。
なんかイライラしてきたな。
私はティナの方へチラリと目をやる。
「ティナ。悪いんだけど席を外してくれる?」
「…承りました」
躊躇いがちに退室するティナの後姿を見送り、シェドに視線を戻した。
人払いをした私に目を丸くしている。
「お兄様。何かおっしゃりたいことがあるならハッキリとお願いいたします。
私は決して鈍感な方だとは思っておりませんが、
お兄様が今何を思っていらっしゃるのかは口にしていただかないとわかりません」
「アカネ…」
手を握り返してじっと見つめると、シェドは困ったように視線をそらした。
「…以前かわした約束を覚えているか?」
「約束?」
記憶を探ってみるけれど…
どれのことだろう。
「お腹を壊すまでお菓子を食べすぎないように、と注意された時のことですか?
それとも後ろからいきなり首に飛びつくのは危ないからやめろという話?」
ちなみにどちらも数日以内の話。
私がここに来てからやらかしたことである。
…この屋敷のシェフの腕は良く、調子に乗った私のスキンシップは激しかったのだ。
けれどそうではなかったようで、シェドは苦笑した。
「覚えていないかもしれないな。
もう五年も前のことだし、アカネは小さかったから…」
私が8歳くらいということか。
それくらい前になると確かに覚えていない出来事もたくさんあるだろう。
「俺がこの家に来た時のことは覚えているか?」
それにも首を振る。
それも未だに思い出せていないのだ。
アカネ・スターチスの記憶は、通常の記憶同様、あまりに小さい時の事はほとんど覚えていないことが多い。
おそらくシェドが来たのも私が小さい時だろう。
けれどシェドの様子から察するに、大切な思い出なのだろうことは確かだ。
申し訳なくてしゅんとしていると、シェドの大きな手が頭を撫でた。
「そうだな、まずは…俺がこの家に引き取られた時の話をしようか」
ぽつりぽつりと、シェドが語り始めた。