075誰かの記憶2
これまで姓と名の間に"="をいれてたんですが、どうも"・"の方が一般的らしいと言う話を聞いたので全話修正しました。
ついでにシェド登場時点で男爵とかカッセード領主であるという記述も追加しました。
古びた石造りの壁。
格子に囲まれ、隙間風の吹く薄暗い部屋で、彼女は泣いていた。
背中に流れる赤銅色の髪は美しく月明かりを弾き、青い瞳から零れ落ちる涙が泣きぼくろを伝う。
世の男性の大半は、彼女を見れば溜息をつき、その細い肩を抱き寄せたいと望むだろう。
それほどの美貌を持ちながら、彼女は一人肩を震わせて冷たい牢の中に居た。
「…カミーユ…」
「はい」
思わず零したというような呼びかけに、返答を返す一人の影。
騎士服を着た、地味な顔立ちの男だ。
しかし、その騎士服に飾られるはずの国章がもぎ取られ、いくつも飾られていた勲章もすべて外されている様は異様だった。
まるで忌々しい物を全てむしり取ったかのよう。
黒い髪は光を吸い込まんばかりに真っ暗で、同じく黒い双眸は奈落の底を思わせた。
地味な顔立ち、暗い気配。
それなのに纏う気迫は強者であり勝者。
「お呼びですか?王妃様…マリオン」
「…何をしに来たの?」
乱暴に涙をぬぐい、気丈に返事をする女性…王妃マリオンに、男は無機質な表情で、優しい声をかけた。
「マリオン」
カミーユと呼ばれた男は格子の前まで歩み寄り、跪く。
決然と睨みつけるマリオンを、カミーユは表情一つ変えずに見つめた。
「貴女は…涙を孕む姿すら美しい」
「黙って」
「いつだったか貴女に贈った白薔薇のようだ」
「口を開かないで!貴方の声なんて聞きたくないわ!」
その言葉とは裏腹に、胸の奥に熱いものがこみ上げる。
幾度も、幾人からも聞いてきた『美しい』なんて賛辞なのに、彼が口にすると特別になる。
耳朶を撫で、鼓膜を叩くその声が、愛しくてたまらない。
白い薔薇。
もちろん覚えているわ。
人目を盗んで貴方がくれた、最初で最後の贈り物。
「…すっかり嫌われてしまいましたね」
「当然でしょう」
嘘よ。
「貴女の夫である王を殺したからですか?」
「……」
「何だかんだ言って、貴女達の間にも愛があったわけだ」
優しかった声が、冷たい響きに変わった。
それだけは、許せない誤解だ。
反らしていた顔を戻し、思わず声を荒げる。
「私はっ…!私がっ、愛していたのは…どうして貴方がそれを言うの!」
私が誰を愛していたか、誰よりも知っているはずの人が。
頬を伝い落ちる涙が、無機質な床に染みを作る。
カミーユは手を伸ばして、一瞬その涙をぬぐうようなしぐさを見せながら、ふと気づいたようにその手を握りこんだ。
「マリオン…貴女を最も愛しているのは王ではない。私です」
「嘘よ。だって貴方はソーマレイト国の……」
「…やはり、貴女は聡明なお方だ。もう私の正体にお気づきだったのですか?」
「……」
本当は、ずっと前から気付いていた。
だけど気付かない振りをしていた。
だって気付いてしまえば、側にいられなくなる。
「私は私の国を滅ぼしたこの国を許さない」
その言葉に、びくりと体が震えた。
分かっている。
私を含め、この国のすべては、彼の仇。
「私の父を殺した王は死んだ。あとはこの国を滅ぼすだけだ」
「っ、王の首は国の罪を贖う為のもの!王を殺したのならば、民は見逃して!」
「それはできません」
無茶な要求だ。
分かっていた。
十年前の戦争で、この国はソーマレイトにその義を通さなかったのだから。
一切の感情を殺したような声が全てを物語っている。
彼の恨みはそれほどに深い。
「でも」
カミーユはうっすら微笑んだ。
「貴女の命だけは見逃してもいいですよ」
「わたし…?」
「私の胸に縋り付いて、命乞いをして、その身を奴隷に落とし、ずっと私の側にいると誓えるのなら」
暗い笑みに、息を呑む。
なんて…
「…カミーユ」
なんて甘美な誘いだろう?
彼が私に近づいたのは策略の為だった。
けれどそれでも、私に囁いた愛の言葉のいくつかは、きっと本物だったのだ。
私の告げた愛がそうだったように。
貴方と共に生きたいと、いつか口にした睦言を思い出す。
その願いを現実にするなら、今。
しかし私の身分がそれを許さない。
私のちっぽけな誇りが。
「…私の命の代わりに、民を助けて」
愛のない結婚だった。
この美貌を乱暴に食い散らかす王への情など無かった。
そこにあったのは義務だけだ。
そんな時に出会った、平民上がりの騎士。
私にはきっと初恋だった。
彼が亡国の王子だと気付いた頃にはもう歯止めがきかないほどに、私はどうしようもなく彼に惹かれていた。
何もいらないと思った。
この身分を捨てて二人で逃げられたらと。
だけど、だからと言ってこの国の民の命を見殺しにできない程度には、私は王妃だったのだ。
「…貴女は殺さない」
そんな言葉を残して、カミーユは踵を返した。
説得できなかった。
彼はこれから、さっきの言葉通りの殺戮を…
「待って!待ってカミーユ!」
私の声がどんなに背中を叩いても、彼は振り返らなかった。
心配なのは…
私が守りたいのは民だけじゃない。
王を殺した時の彼の顔を思い出す。
冷たい目。
全ての国民を殺した時、彼の心は本当に壊れてしまうのではないかしら。
ずっと私の隣で穏やかに笑っていてくれた貴方はどこにもいない。
本当の彼はどちら?
今の彼?
それとも、私の頬を撫で、耳元で愛を囁いてくれたあの時の…
だけどきっとそんな時間はもう、二度と戻らない。
目の前が真っ暗になるような心地がした。
『絶望の淵を覗きし者よ』
「え?」
一人残された牢屋。
周囲を見渡しても誰の影も無い。
カミーユが立ち去った階段の奥は沈黙し、部屋に一つつけられた篝火が不安げに揺れるだけ。
聞き間違いかと頭を振るも、その声はまた聞こえた。
『己が非力を嘆く者よ』
「非力…」
私にもっと力があれば、この状況を変えられたかしら。
『その身に迫る強き望みを叶えたいか』
「あなたは、誰なの?」
『我は魔王の魂、その力の根幹。我が手を取り、その円環の一部となるのであれば、いかな望みでも叶えよう』
魔王…
過去に二度現れたと聞く魔物の王。
その魂が、まだ残っている?
「…魔王になれば、この状況を変えられるの?」
『魂を受け入れるのと引き換えに叶う望みは一つだけ。その後は与えられた力を用いて何を為すかだ』
少なくとも、一つの望みは確実に叶えてくれるのだという。
「過去を変えることはできる?」
『世界は全ての事象を観測する。観測者を欺くことはできない』
…既に起きた出来事は変えられないということかしら?
そう、それならせめて…彼を欺こう。
「彼を…カミーユを、英雄にして」
『民衆の認識を変えるということか』
「いいえ、それだけではカミーユが傷ついてしまう」
彼が今起こした罪は、せいぜいが王家へのクーデター。
賢君とは言えなかった王は、民衆からそう人気があったわけではない。
ならば。
「私は民の命と彼の心、どちらも守りたい。彼の心が壊れないように…カミーユが起こした騒動の全ての動機を、英雄に相応しいものに変えるの」
大義名分を作り、彼自身もそのためにこの行動を起こしたのだと思い込ませる。
目指したのは国家転覆ではなく、この国を正すことなのだと。
『その男の記憶を改ざんすることになる』
「そうなるわね…無理かしら」
『可能だ』
「それならお願い。代償に私の身を捧げるわ」
『その願い、しかと聞き届けた』
熱い。
体が燃える。
血潮が質量と熱を持って、体を駆け巡るようだ。
世界が反転、景色が流れていく。
あれからどれだけの時が流れたのだろう。
燃えるような激痛を耐えている中ではそれすら分からない。
城の外で、民衆が声を上げている。
「愚王を打ち倒した英雄」
「カミーユ王」
そんな声が。
ああ、よかった。
カミーユ、貴方は…
「王妃マリオン。クーデターの仕上げだ。貴様を民衆の前で処刑する」
兵士を連れて牢屋にやって来た彼は、冷え切った瞳でそう言った。
「…カミーユ?」
私を見下ろす双眸には葛藤も、悲哀すらもない。
いえ、むしろこれは…憎悪?
民を助ける代わりに私の命を差し出すと言った。
言ったけれど、どうしてそんな顔で私を見るの。
困惑する私に構うことなく、兵士が牢屋に押し入ってきた。
魔王の魂を受け入れてから、体がずっと痛み続けている。
上手く立てない私の腕を、兵士が強引に引っ張った。
「きゃっ」
乱暴な扱いに体が軋み悲鳴が口から漏れ出るも、カミーユは片眉一つ動かさない。
どうして、これはまるで…
クーデターを起こした騎士が、罪深い王族を見るようだ。
そう思い至った瞬間、血の気が引く。
彼が王を殺した動機を、私は変えてしまった。
当初、この国のすべてを憎み、内部から崩壊させようとしたカミーユ。
彼はこの国の騎士となり、王に近づくべく私に接近した。
けれど私と彼の間には、確かに偽りのない恋心が芽生えていたはずだった。
それなのに。
「カミーユ…私のことを、忘れてしまった?」
「…?何を言っている?」
煩わしそうにしかめられた顔。
…彼は、クーデターを起こした英雄。
私は、壊滅するべき王家の一員。
国を新しくするために、私という存在を生かすことなどできるはずもない。
「カミーユ…白薔薇のことを…覚えてる?」
そう問いかけた声は、驚くほど震えていた。
なぜなら私はもう、気付いてしまったのだ。
魔王の魂に願ったのは、彼の心を守ること。
「ああ…さんざん王の情報を寄こしてくれた貴女への礼として贈ったものか」
私を愛したままでは…彼の心は壊れてしまうから。
蔑むような視線を向けられて、足元が崩れ落ちるような感覚を覚える。
過去は変わらない。
起きた事実は動かない。
贈られた白薔薇の存在は消えない。
交わした愛の言葉も残る。
伝え合った体の熱も。
変わるのは記憶だけ。
何を思って贈った花なのか、何を思って私に甘い言葉を囁いたのか、何を思って私に触れたのか、カミーユの中では、もう…
「…なんだ?」
側にいた兵士が一歩下がり、カミーユも眉根を寄せる。
まるで化物を前にしたような反応だ。
ああそうか…私、魔王になったのだったわね。
いつの間にか、体の中を暴れまわっていた熱が収まっていた。
恐怖をその顔に貼りつけるカミーユを見て、急速に頭が冷えていく。
秘めた関係。
人目を盗んで交わした愛を知るのは、私と彼の二人だけ。
けれど彼の記憶に残っていないというのなら。
愛し合った記憶を持つのが私だけだというのなら。
それは空想と何が違うと言うのだろう。
ああ…
「わたし、誰を愛していたのかしら?」
絶望に眩んだ視界が、憎悪に染まる気配がした。
「アカネ」
アカネ?
それは何を意味する言葉だろう。
誰かが私を抱きしめて、優しくその言葉を繰り返している。
いつの間にか場所はどこかの寝所に移っていた。
さっきまで朝明けに浮かぶ牢屋にいたはずなのに、月明かりが落ちる室内は夜の色。
ベッドの上で横たわる私。
誰かがそんな私を抱きしめてくれている。
真っ白なシャツが私の涙を受け止め、大きな手のひらが私の髪を梳いていた。
ああ、私はきっと夢を見ているのね。
あの日の追想をしてしまっている。
「…カミーユ」
そう口にした瞬間、その人物は驚いたように体を離した。
「…アカネ?」
カミーユじゃない。
あれ、でも私…この人を知っている。
綺麗な顔。
銀色の髪と白い肌。
まるであの日贈られた白薔薇のようだわ。
「おい、アカネ!」
掴まれた肩が痛い。
どうして彼はそんなに焦ったような顔をしているのかしら。
アカネって…
「アカネ!」
アカネは…
「…私?」
そう口にした瞬間、ぐらりと視界が揺れる。
頭にまとわりついていた何かが離れたように、思考がクリアになった。
「アカネ、俺の名前がわかるか?」
「…リード」
私の顔を覗き込んでいたリードが、ほっとしたように息を吐きだす。
その様子を見て、ようやく状況を把握する。
私…
「ごめん、寝ぼけてたみたい」
おどけてみせた声はかすれてしまった。
…あれは、寝ぼけているなんてものじゃない。
あの時、私は私じゃなかった。
「…マリオン」
険しい顔をして、リードはその名前を吐き出した。
「違うか?」
言葉少なな問いかけ。
けれど私は誤魔化す術を持たなかった。
リードは歴代魔王の記憶を持っている。
私が呼びかけてしまった男性の名前を、きっとリードは知っている。
頷く私。
リードはますます眦をつりあげて、思案気に黙り込んだ。
無意識のうちに、自分の肩を抱いていた。
いつもの悪夢みたいな悪寒や脅迫じみた恐怖感があるわけじゃない。
だけど、まったく違う怖さがあった。
前回はヴォルシュ伯爵の夢だった。
その時にはこうじゃなかった…はずだ。
記憶はおぼろげだけれど、第三者目線の映画を見ているような感覚だった。
今回も初めはそうだったように思う。
けれどいつの間にか視点が切り替わり、王妃マリオンの記憶を再生するような…
いや、まるでマリオン自身になったかのような感覚を味わった。
カミーユへの想いも、最後の絶望も、まるでついさっき経験したことのように思い返せる。
「…アカネ、前にいつもと違う悪夢を見た時、アーベライン侯爵の名前を出したよな」
リードは私の背を撫でつつも、難しい顔で口を開いた。
「ひょっとしてあの時、本当は…トルグスト・ヴォルシュ伯爵の夢を見てたんじゃないのか?」
その問いかけに、体が強張ってしまった。
私のその反応は、十分な回答になってしまっただろう。
「やっぱりそうか…」
納得したようにため息をつくリード。
「ごめん、黙ってて」
「…いい。ファリオン・ヴォルシュに関係する話をしにくくなってたのは俺のせいだしな。それで、どういう内容だ?」
「正直、ヴォルシュ伯爵の時のことはもうだいぶ記憶が薄れてきてるんだけど…どっちも魔王の魂を受け入れるときに何が起こっていたか…って感じだった」
「そうか…」
リードは目を細め、何か言いたげに唇を開いたけれど、結局何も言わずに閉じた。
「やっぱりこの悪夢って、魔王の魂と関係があるのかな?」
「普段の悪夢がどうかは分かんねーけど、少なくともその二つの悪夢は魔王の魂関係だろうな」
やっぱりそうか…
ヴォルシュ伯爵とマリオン。
両方リードの記憶にあるみたいだから、リードの中にある魔王の魂に関係してるはずだ。
「とはいっても俺の中にある魔王の魂とつながってるような感覚は何もなかったんだよな…」
"何かと繋がっている気配"を感じていつも駆けつけてくれているリード。
それなのに、自分の中と繋がっている感じはしないという。
…なんなんだろう。
結局、考えたところで答えは出ないだろうという身も蓋もない結論にいたり、この日の夜は解散することにした。
リードがいなくなった室内。
まだ空は夜に沈み、朝が来るには遠い。
悪夢の恐怖感は無かった。
だけど生々しい絶望感が胸の奥に残り、横たわって目を閉じてみても眠りにつけない。
ファリオンを見つけたあの日から、ずっと心の中にしこりが残ってる。
記憶を無くしたファリオン・ヴォルシュ。
うまくリードの目を見れなくなった私。
…私の態度が少しよそよそしくなったことに、リードはきっと気付いてる。
気付いてるはずなのに、何も言わずに変わらず側にいてくれてる。
本当に…リードは、優しい。
恋焦がれた銀色の瞳。
私をずっと見守ってくれる真っ赤な瞳。
脳裏にその二つが浮かんでは消える。
『わたし、誰を愛していたのかしら?』
マリオンの最後の慟哭が、耳に焼き付いて離れなかった。




