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魔王の隣で勇者を想う  作者: 遠山京
第二部 最終章 令嬢と魔王

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071選択の時

「う……思ったより魔力、回復してないかも」


焦りのせいか、あるいはずっと魔力を使い続けていたせいで不調なのか。風が不安定なうえに、魔力の減りが早い気がする。手持ちの魔鉱石とガリウトの実で、果たして迷宮まで持つだろうか。まだ海すら越えられていないのに。

鉄の鳥を借りることが頭をよぎるけれど、慌てて首を振った。王宮に乗り込んでしまえば事情の説明に加えて、下手をすれば出征パレードみたいなことまでされかねない。そんなことに付き合っている暇はない。


エレーナの用意してくれたサンドイッチを頬張りつつ、休みなく風魔術で体を飛ばす。一時間もすれば北大陸に入れたけれど、最初の魔鉱石を早速使う羽目になった。魔鉱石は魔力が周囲に拡散するので、少し回復効率が悪い。時折ガリウトの実をかじる。

この数日散々食べてきたけれど、少し渋くて食べづらい。その代わり、魔鉱石とは比べ物にならない回復量だ。


日が傾きだしたころには、魔鉱石を使い切っていた。ガリウトの実ももう二個しか残っていない。まだ迷宮までは結構ある。できれば夜になる前に着きたかったけれど……流石に限界だろうか。魔力切れの状態で迷宮に入ればたちまち魔物にやられてしまうだろうし、ガリウトの実を使い切るわけにはいかない。

歯噛みした瞬間、強いめまいに襲われた。ぐらりと視界が回り、自分の体がどこを向いているのかすらよく分からなくなる。


「っ……!やば!」


気付けば風魔術がとけていた。落下する感覚と、近づいてくる地面が視界に映り、慌てて風魔術を打ち出した。


「わっ!」


相変わらず出力が不安定な魔術は、衝撃の吸収を通り越して私を噴き上げてしまった。


「いっ……」


二度のバウンドの後、地に転がった。あのまま落ちるよりはマシだっただろうけど、結局そこそこの高さから落ちてしまった。バリアの魔術具が二度のバウンドからは守ってくれたようだけれど、最後の落下は作動条件の範囲外だったようで、体に痛みが走る。必死に呼吸を整えながら、癒しの魔術を練り上げた。じわじわと痛みが引いていくけれど、途中で魔力が枯渇するのを感じた。足を変にひねったのか、あるいは骨折していたのか……治りが悪い。頭が痛み、胸もムカムカする。魔力枯渇の影響だろうか。


「……う……」


バリアの魔術具、こんなところで使っちゃったなぁ。魔力も、治癒魔術なんて余計なことに使っている余裕はないのに……早くファリオンのところに行かなくちゃ。今、何を思っているだろう。魔王の魂に飲まれて、ファリオンは楽になっただろうか。自分の意識が侵食されていくことに、恐怖を覚えてはいないだろうか。

いなくならないでほしいという願いばかりが先に立って、彼の恐怖や苦悩に寄り添い切れていなかった。後悔はどれだけしたって足りない。


広い草原、街道からも離れたこの場所に人が通りかかることは無いだろう。助けは望めない。どれだけ焦れったくても、魔力が回復するまで待つしかない。涙がこめかみを伝っていく感触がした。


「うひゃっ!?」


不意に影が落ちたかと思ったら、生暖かく湿った空気が顔にかかった。反射的に飛びのいたけれど、足に激痛が走る。


「いっ……たたた」


まだ治りきっていない足に思いっきり体重をかけてしまったようだ。起き上がってみれば、一応上半身は動かせる程度に治っていることがわかる。目をこすって周囲を見渡すと、さきほどの空気の正体が目に入った。


「……馬?」


夕日に照らされた黒馬がそこにいた。フスフスと私の匂いをかいでいる。……妙に懐っこいな?


「あ」


見覚えがある気がして頭をひねると、すぐにその正体に思い至った。


「……もしかして、ファリオンの馬?」


まだ学園に通っていたころに起きた、誘拐……もとい、駆け落ち事件。ファリオンとリードの入れ替わりがとけるきっかけとなったあの一件で、ファリオンは黒い馬に乗っていた。もともとはロッテが用意したというその馬を、ファリオンは魔物化させてスピードに特化させたという。私も背中にしばらくの間乗せてもらったけれど、確かベルブルク家の領地であるロイエル領で別れたはず……


「あ、ここって」


そういえばここはロイエル領だ。迷宮があるバルイト地方はロイエル領の隣にある。


「私のこと覚えてくれてるの?」


そっと手を伸ばせば、その問いかけを肯定するように鼻先を寄せてきた。……良かった、元気でいてくれたんだ。

再会できた喜びと、そして魔物であるこの子がまだ私に優しくしてくれている喜び。魔王であるファリオンがいなくてもこうして懐いてくれている。何より凶暴化していないという事実は、私にとって一番の希望だ。ファリオンはまだ、魔物を変異させたりはしていない。それならまだ、話ができるのかもしれない。


「……お願い。私をファリオンのところに連れて行って」


この子は言葉を理解しているのだろうか。スッと足を折り、姿勢を低くしてくれた。少しだけ回復したなけなしの魔力で再度治癒魔術を使い、痛みの和らいだ足を踏ん張りなんとかその背中にしがみつく。鞍も鐙もない状態だ。たてがみに捕まるしかない。

そんな私の不安定さが伝わっているんだろう。黒馬は最初、できるだけ私の負担にならないように走ってくれていた。そのうち私に余裕が出てきたのを見て取ると、次第にスピードが上がっていく。私が風魔術で飛ぶときほどではないとはいえ、かなり早い。餌は魔力だったはずなので、少し回復した魔力をお礼に流し込むと、喜ぶようにますます速度が上がった。

途中でいつの間にか二頭の別の馬も並走しだし、そういえばシルバーウルフのところから連れてきた馬も最後に魔物化させてから野生に返していたことを思い出した。きっとその子たちだろう。私に気付いて寄って来てくれたのだろうか。そのころには一時間以上走りづめだったので、休憩をとるべく黒馬に速度をゆるめてもらうと、その馬達も足を止めた。


「あなたも協力してくれるの?」


収納魔術具から取り出した食事をもぐもぐしつつそう聞いてみたら、二頭の馬も肯定するように鼻先を寄せてくれる。有難い。黒馬にのせてもらっているばかりでは負担が集中する。三頭が交代しながら乗せてくれた方が、きっとスピードを維持できるだろう。


「有難う。お願いね」


迷宮の場所は理解している。一時期迷宮のことを調べていたおかげで、地図は頭に入っていた。とはいえ地面におりてしまうと方角や位置が分かりづらい。手綱も無いので方向の指示はほとんどできていないのだけれど、三頭の馬は迷いのない足取りで駆けていく。ファリオンがいる方向を理解しているようだ。魔物は魔王の位置を感じ取れるのかもしれない。ファリオンが魔物化した子だからという可能性もあるけれど。


日が暮れてからも交代で走り続けてもらって、おそらくもう日付が変わろうかという深夜。バルイト地方の入り口が見えてきた。



=====



バルイト地方は迷宮が地下に広がっているとおぼしき、十キロ四方くらいの区域を取り囲んだ一帯のことをさす。おぼしきというのは、いまだに全容が解明されていないせいだ。もしかしたらもっと広範囲に広がっている可能性もある。

バルイト地方はロイエル領を含む複数の領地に取り囲まれていて、それらの領は迷宮から湧き出る魔物が領地より外に逃げ出さないよう、討伐の義務と、バルイト地方を囲む石の壁を保持する義務を負っている。高い石の壁は迷宮から湧き出す魔物を閉じ込めるためのもので、迷宮の周りをうろつく魔物は弱いものが多いのでたいていはこれで大丈夫。強い魔物は迷宮の深部の方にいることが多いせいだ。ただ、ごく稀にその強力な魔物が外に出てきて壊されることもあるらしい。これの修繕は素人目線でもかなり大変そう……

ずらっと並ぶ石の壁の先に、建物が見えてきた。ロイエル領が管理する、バルイト地方への入り口だ。私なら壁を飛び越えることも可能なんだけど、トラブルのもとになるので正規のルートから入ることにする。


「これは……楔の女神様!」


二人の守衛がこちらに気付いて目を丸くした。戸惑い気味の敬礼をとられる。以前、ここでも魔物対策を行ったので、覚えてくれていたようだ。馬から降りて、一枚の紙を取り出す。これはずいぶん前……調印式よりも以前に、国王からもらっていたものだ。いざという時の為の書状。


「これを」

「は……検めさせていただきます」


私から書状を受け取り、サッと目を走らせた守衛の男の顔色が悪くなる。


「……確かに国璽を確認いたしました。お入りください」

「ありがとう」


もう一人の守衛も何事かと書状をのぞき込み、息を呑んだ。そこに書かれているのは、魔王討伐に際して勇者がすべての領において滞りなく通過、滞在し、迷宮に入れるよう便宜を図る命令だ。上長や領主へ伺いを立てたりする手間を省いてくれる。この書状を私が提示するということは、今この迷宮に魔王がいるということ。彼らは、魔物の対策をとったファリオンのことを知っている。人間側の為に働いていた魔王の存在を肌で感じている。そんな彼を、私が討伐しに来たという事実。おそらく迷宮を守る兵士たちには、魔王が覚醒する事態となった場合の対応について指導があったはずだ。ファリオンが危うい状態であり、いずれこうして勇者が訪れるかもしれないことは聞かされていたのだと思う。二人の顔に心痛は浮かべど驚愕がないのが何よりの証拠だ。

書状を返してもらって、私は馬から降りた。ここから先はどんな魔物が現れるか分からない。戦闘能力を持たないこの子たちには危険だろう。守衛たちに馬を預けて、開かれた門を抜けた。ここからがバルイト地方だ。


一面に広がるのは荒野だった。大小入り混じる岩場が広がっている。迷宮からあふれる魔力が濃すぎて植物が育たないんだろう。バルイト地方に入る前から次第にこんな景色に変わっていたけれど、塀を越えて一歩足を踏み入れると強い魔力が肌を刺した。

迷宮の入り口はいくつもあり、その内部は広大。ただし魔王が現れれば、その近くに魔物が集まるので魔物を辿れば魔王にたどりつくという。


この時間だと冒険者の姿もない。きっと迷宮内部を探索中の冒険者はいるのだろう。どうか魔物の強化が始まっていませんように。残り一つとなったガリウトの実をかじり、周囲の気配をさぐる。魔力の反応からして、魔物が密集しているあたりはそれほど遠くない。十キロ先まで歩かないといけないなんてことはなさそうで安心した。

一番近そうな入口に近づくと、そこにもまた守衛が立っている。バルイト地方に入ること自体は、冒険者以外でもできる。迷宮の入り口付近にいるのは弱い魔物なので貴族や王族が視察に訪れることもあるし、クラウス様とクラウディア様の誘拐につながった魔術具のお披露目会とかのイベントが行われることもある。魔王がいない時期限定とはいえ、ちょっと暢気すぎる気がしないでもないけれど。

けれどそのまま迷宮の内部に実力不足の人間が迷い込んではいけないので、見つかっている入り口には守衛が立っていて、審査を通過した実力者であることことを示す書状を提示しないと入れないようになっている。この制度はマリーの一件が発覚した後に作られた。当時のマリーは未成年で、まだ守られるべき少女だった。この制度があれば守られたはずだ、ということらしいんだけど、彼女を囮にして逃げ出したという仲間を弾くことはできないのでちょっと中途半端な制度のようにも思う。


「楔の女神様……!」


こちらに気付いて慌てて敬礼する守衛は、自分の守る入口へ視線を向けて唸った。


「……この入り口の向こうがどうも騒がしい気配があると感じていましたが……」

「魔王がが覚醒したせいでしょう。すでに魔王は中に居ます。迷宮の周辺が騒がしくなるおそれがありますから、貴方も危険を感じれば退避を。ロイエルの入り口に立つ守衛達には伝えてありますが」

「…………承知いたしました。じきに各入口へ通達が回るでしょう」


かかげた書状に目を通した守衛は、横にずれて私に道を開けた。岩に挟まれた間にある大きな洞穴。地下へとゆるやかな勾配が続いている。扉なんかはない。あったとしても魔物が飛び出して来たら壊されるからだろう。そこに一歩足を踏み入れた時、『魔王様……』という守衛の小さな呟きが聞こえた。

痛々しいその声には、魔王であるファリオンを慮る感情がこめられている。魔物対策の活動は、確かに実を結んでいた。ファリオンが魔王として覚醒してしまった事実を嘆いてくれる人がいる。ただ人々を恐怖に陥れる、得体のしれない魔王じゃない。元は人間で、それも心優しい青年であったことを知ってくれている人がいるのだと分かって、鼻の奥がツンとした。

泣いている場合じゃない。この先には魔物がひしめいている。光魔術で明かりをともし、あの日以来手をかけることのなかった聖剣を取り出した。



=====



「……ファリオン……のせいだよね、これ」


迷宮に足を踏み入れて二時間も立っただろうか。湿ったカビ臭い匂いの充満する迷宮の中を、私は何に煩わされることもなく歩いていた。魔物はいる。今現在も壁際に毛むくじゃらの雪男のような魔物が立ち尽くしている。視線の先の通路にも魔物はいるのに、みんな壁際に控えるようにジッと立って動かない。時々身じろぎはするから生きてはいるはずだ。けれど……まるで客人を迎え入れる使用人のように、私に道を開けている。

攻撃してくる気配はない。初めの数匹は警戒して私から攻撃をしかけたけれど、全く反撃することなく、なおも壁際に控えようとするのでそれ以上の追撃をやめた。

奥へと向かうほど魔物の密度は増していき、壁際にずらりと並ぶようになっていく。威圧感はあるけれど、相変わらず攻撃はしてこない。けれど油断したすきに襲い掛かってくるおそれもあるわけで、そんな魔物達に背中を見せて警戒し続けながら歩かないといけない状況はなかなか精神がすり減った。


ずっと魔物を辿って進んでいるので、もはや自分の現在地がどこかも分からない。マッピングしていないことに気付いたのは一時間前だ。もう遅いと思ってあきらめている。帰りのことは、その時に考える。今はそれ以上に考えたいことが多すぎるのだから。


そして目の前に光が見えた。自分の光魔術以外の明かりを久しぶりに見た。目の前の通路の左側に、部屋があるようだった。そこから漏れている光だ。

その部屋に扉は無かった。国王に跪くための広い謁見室のような空間がそこには広がっていた。天井に無数の光が浮かんで部屋をまぶしく照らしている。最奥には石でできた玉座のようなものが二つ並んでいた。一つは空席。そしてもう一つには……


「ファリオン」


私の声は広い部屋に反響した。足を組んで座っていた彼はスッと立ち上がる。金色の髪は光そのもののようにつややかに輝き、銀色の瞳は月を閉じ込めたように艶やか。身にまとっている黒い服は闇を編んだようにまったく光を弾かず、細部が全く分からない。いかにも魔王らしく……それでいてあまりに美しい容貌だった。ああ……魔王になっても、こんなに変わらない。むしろ色鮮やかに見えるようになったせいで、より魅力的に見えるくらいだ。落胆が胸をよぎった。できるなら、いかにも悪者らしく、憎らしく映ってくれたなら……


「アカネ」


ずっとその動きを注視していたつもりなのに、いつの間にかファリオンが目の前に立っていた。瞠目するより先に、私の耳に甘い声が落とされる。

……ファリオンだ。ファリオンが私を呼んでいる。

感傷に飲まれないよう、慌てて距離を取ろうとするけれど、それを阻むように腕を伸ばされた。闇の中に私の顔が沈む。抱きしめられている。それも、酷く優しい仕草で。


「怖がらなくていい。お前を害したりしない」

「……ファリオン?」

「ああ。聞こえてる」


きっと私の声には喜色がハッキリと滲んでいただろう。ファリオンの声は優しいままだ。以前と何も変わらない。


「私のこと、わかるの?」

「当たり前だろ」


じわりと視界に涙がにじんだ。ああ、よかった。ファリオンは魔王の魂に飲まれても、自我を保ち続けられたんだ。ひょっとして、長い時間をかけてなじませていったのが良かったのだろうか。


「ごめんね、ファリオン。こうして無事に魔王になれるなら、あんなに長時間苦しませるんじゃなかった。私、自分のことばっかりで……魔王に飲まれるファリオンの怖さとか、ずっと頼りないままだった私を置いて魔王にならなきゃいけない不安とか、全然考えてあげられなくて……」


頬を熱い雫が伝う。ぎゅっとファリオンの服を握りしめた。指先が闇に飲み込まれているかのように、ひんやりと感じる。迷宮の中は涼しいから、冷えてしまったのだろうか。


「泣くな、アカネ」


優しく私の涙をぬぐう指は暖かい。ああ、これで本当に、人類に味方する魔王が誕生した。


「お前を煩わせる外の世界は、全て俺が壊してやるから」


その言葉は耳に入っても数秒間、私の頭になじんでくれなかった。たっぷりと間をあけて、私の呆けた声が漏れる。


「勇者だとか女神だとか、人間たちが決めたルールに従うのがどれほど無駄なことか、やっと気づいたんだ。もっと早くこうするべきだった。アカネはアカネのままでいい。文句を言う奴は俺が全部ぶっ殺してやるから」

「ファ、リオン……?何言って……」


震える私の唇を、誰より愛しい人が塞ぐ。


「そんな邪魔な剣、さっさとしまってくれよ。アカネには似合わない」

「……ファリオン」


ガクガクと、柄を握っている手が震えた。


「この迷宮は俺達の城だ。外は俺達の庭。お前を貶める奴も煩わせる国も俺が全部滅ぼして……永遠に守ってやる」


空席の玉座は、私の為に用意された席だった。ファリオンは私のことを忘れていない。私を守るという誓いも。けれどそれ以外は失われてしまった。私以外、他の人達もすべて守りたいと思う感情を。

……魔王の魂は、やっぱりファリオンを飲み込んでしまった。


ぐらりとめまいが私を襲い……


「……………え?」


また間抜けな声が漏れた。私を抱きしめていたファリオンは消えていた。謁見室もそこにはなく、対照的なほど狭い空間がそこにあった。四方を空の本棚が埋め尽くすこの場所を、私は知っている。中央に置かれたテーブルセットでくつろぐ人物も、テーブルの上でくつろぐ猫も。


「おかえり、アカネちゃん」

「へ、え?あ………」

「うんうん、わかるよ。混乱してるよね。でも、私はちゃんと予告してあったはずだよ?」

「よこく……?」

「物語がクライマックスに差し掛かった時、アカネちゃんは選択を迫られる」


そう言われて思い出した。いや、ずっと覚えていたはずなのに、なぜか頭から抜けていた。


「そうだよね、ぼんやりしちゃうんだよね。仕方ないよ、あんなにいろんなことがあったんだし、現実世界への執着が薄れるようになるのも本の魔女の現象の一部だから」


ホワイト・クロニクルはファリオンが十九歳の時に魔王討伐に旅立ち、魔王と対峙してクライマックスを迎える。ちょうど同じ時期だった?ファリオンはまだ十九歳になってそんなに経っていないのに……

いや、そもそも物語の大半は、ファリオンがベオトラと出会って改心し、マリーと出会って恋をしながら成長していくお話だ。十分に実力がついた頃に魔王の誕生が発覚するわけで、魔王の発覚から討伐までの間はそんなに時間が経っていないのかもしれない。ファリオンの主な活動拠点は王都だったんだから、そこから迷宮に真っすぐ向かえばその旅路は長くないはず。明確な時間経過が描かれていなかったから分かっていなかったけれど、もしかしたら誕生日を迎えて二か月も経たないうちに魔王の誕生がわかって、そこからは一か月たらずの出来事だったのかも。


「……大丈夫?状況、整理できた?」


いつの間にか私は腰を抜かしていたらしい。柔らかいカーペットの上に尻もちをついている私に、ユーリさんが手を差し出す。


「……あの……選択、って……?」


その手をとると、ユーリさんは自分の向かいにある席に私を座らせてから微笑んだ。


「うん。アカネちゃんはこの先どうするかを選ばないといけないの」

「どうするって……」


ついさっきまでこの手に握っていたはずの聖剣はどこかに消えていた。気付けば服も、制服へと戻っている。まるでここに来たばかりの時のように。


「聖剣を使うか、置いてしまうかっていう選択ももちろんあるよね。世界の半分をお前にやろう、みたいな展開はさすがの私もちょっとびっくりしちゃったなぁ」


その軽口と笑い声は、今の私には少し気に障る。睨んでしまっていたのだろうか。テーブルの上の猫がパタリと尻尾でユーリさんの手を打った。


「ごめん、和ませようと思ったんだけど……えっとね。アカネちゃんには他にも選択肢がある」

「それって……どんな?」

「元の世界に戻りたくない?」


パカリと口が開いた。元の世界……


「言ったでしょ。本の世界に囚われなければ戻れるって。それはこういうこと。クライマックスのタイミングでこの部屋に戻ってくる。その時に元の世界に戻ることを選ぶなら、戻してあげられるんだよ」

「戻れる……」

「私はね、戻るのもアリかなって思うよ。だって今のアカネちゃんの状況、辛すぎるでしょ。ファリオンを倒すか、ファリオンと一緒に世界征服するかって。アカネちゃんはどっちも望んでないよね」


ユーリさんの微笑みが、白々しいもののように感じてしまう。

なんて残酷なことを言うんだろう。家族や友人……現実世界にも本の世界にも、私には同じくらい大切な人達ができてしまったのに。できてしまった後に、こんな選択肢を提示するなんて。


「……もし、私が戻ったら……ファリオンはどうなるんですか?」

「どうもならないよ。無かったことになるから」

「………無かったことになる」


ユーリさんは、テーブルの上に開かれたままだった本をトントンとつついた。


「この本は、さっきまでアカネちゃんがいた世界のことが綴られた本。アカネちゃんがもとの世界に戻ることを選んだ瞬間、この本は消滅する。ファリオンとヴィンリードが入れ替わってたり、アカネ・スターチスがファリオンと出会って女神やら勇者やらになったりなんていう世界は、どこにも存在しないことになる。だからファリオンが一人取り残されるとか、そんなことは心配しなくていいよ」


滔々と語るユーリさんの言葉を聞いて、腹が決まった。


「戻ります」


私の言葉を聞いてユーリさんは穏やかに微笑んだ。


「……そう、やっぱり現実に」

「あ、あっ!ごめんなさい!違います!戻るのは、ファリオンのところに!」


自然と口をついて出ていた。私にとって戻る場所は、もう本の中の世界になってたんだ。


「いいの?現実に戻れるチャンスは一度だけ。今を逃したらもう二度と戻れないよ?」

「構いません。両親や友人たちには……申し訳ない気持ちはありますけど、でも彼らには未来があります。私がいなくても………だけどその本の世界は、私が選ばなくちゃ未来がないんでしょう?」


ユーリさんは困ったように眉を下げた。


「すーごい女神様的なこたえー」


不服そうなその声に思わず笑う。


「ごめんなさい。これも本音だけど、もう一つの本音を言います。なかったことになるなんて……嫌なんです」


姿が違ってもファリオンに気付けたこと。大好きだと伝えられたこと。愛してると言ってもらえたこと。大勢の人が私のために心を砕いて、守ってきてくれたこと。

ファリオンにはまだ私の気持ちの熱量を半分も伝えられていないような気がするし、大切な人たちの未来を勇者として守ることもできていない。それなのに無かったことにするなんて、あり得ない。


「だから私は、戻ります」

「ファリオンのところに、ね。わかった……本の世界にとどまることを決めた子には、これを言わないといけないと……あのね、本の世界には、すぐには戻れない。戻るためには条件があるから」


まだ何かあるのかと身構える私に、ユーリさんは身を乗り出して、真剣な顔で口を開いた。


「次の本の魔女が現れること」


意味がわからずに目を瞬かせる。次の本の魔女?


「本の魔女って……」


そういえば以前に本の魔女という言葉の定義について聞いた時は、よく分からない回答をされた気がする。


「ごめんね、このタイミングまで教えちゃいけないことだから、あの時は曖昧な説明しかできなかったんだ。本の魔女は人を取り込み、本の中へと誘い込む。そして選択の時が訪れて、本の中へ止まることを決めたら、前任者の本の魔女が、本の中に戻れるの」

「前任者って……」


ユーリさんは自分の胸に手を当てて頷いた。


「私も本の魔女にとりこまれた一人。現実世界に戻ることを拒んで、本の魔女の一部になった元大学生。だけど本の中にとどまることを選んでも、すぐにはかなわない。次にこの本の魔女にとりこまれる人を待って、その人を本の中に送り込み、その人が選択の時に本の中にとどまることを選んで初めて本の中へ行けるの」

「そんな……」


入れ替わりで、必ずこの部屋には取り込まれた人が待機している必要があるらしい。


「それって…どらくらいかかるんですか」

「わからないね。条件に当てはまる人がいつ現れるかによるから…私の前の人は五年待ったって言ってた。私はアカネちゃんがくるまで十年間ここにいるよ」

「十年……!?」


十年……いや、下手したらもっとかかるのかもしれない。それくらいの時間、戻れない本の世界のことを考え続けて……自分の選択は間違っていなかったのかと自問自答しながらこの狭い部屋の中で過ごすの……?


「さあ、どうする?アカネちゃん」

ようやくユーリのところまで戻って来れました。

あと少しお付き合いお願いいたします。

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