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魔王の隣で勇者を想う  作者: 遠山京
第二部 第二章 令嬢と勇者

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061裏話:アタシがフェドーラになった時

フェドーラのお話です。読まなくても後のお話に影響はありません。

シリアス注意。

「わたしは、死なんとあかんのでしょうか」


そう口にしたわたしに、大きな竜はしばらく黙り込んだ後、こう言ったのだ。


「貴様のような幼子に、そう言わせてしまう今の在り方で本当に良いのか、我も分からぬ」


バタリと尾で地面を力なく打った後、月のようにきれいな瞳がわたしを見据えた。


「刻竜王様でも、わからんことがあるんですね」


へへっと笑うと、刻竜王様は目を細めてゆっくり頷いた。


「わからぬことだらけだ。だが、貴様は憂い顔よりその笑顔の方が良く似合う。それは確かだ」


笑顔が似合うだなんて言われたのは生まれて初めてで、嬉しくて恥ずかしくて、頭が燃えるように熱くなって、わたしは何も返事をせずにその部屋を飛び出してしまった。刻竜王様とわたしが言葉を交わしたのは、それが最初で最後だった。


=====


「フェドーラ、こんなところにおったんか」


王宮の外れ、大人たちがあまり通らない通路の奥。不用品をとりあえず置いておくガラクタ置き場になったそこに、ケージがまたわたしを探しに来た。


「ケージってヒマなん?」

「アホ!お前のこと探してこいって訓練の途中で呼び出されたんや!いっつもいっつも俺ばっか!あんなぁ、俺らもう十歳になるんやぞ!ええ加減ちゃんとせえよ!」


そんなケージの御小言を聞き流しながら、わたしはガラクタの山に手をかけて、一つ一つどんなものなのか確かめる。


「……お前、何しとんや?」

「面白いものあらへんかなーって。よその国のこととか、全然教えてもらえへんから、そういうこと書いた本とか読んでみたいねん」

「よその国のことなんか知らんでええんや!教えを知らん民族とかかわると堕落するだけなんやから!」

「ケージ、うちのお父さんとおんなじこと言うとるわ。あはは」

「何わろとんねん!」


わたしが笑うと、ケージは顔を真っ赤にして怒る。だけどケージが顔を赤くするのはわたしが笑った時だけだった。


「前から言うとるやろ。俺らはわろたらあかんねん。人類のせいで神様はおらんようになった。俺らはこの世界の行く末を見届けるために生きとるだけで、楽しんだりしたらあかんのや」

「人類のせいちゃうよ。人間やろ。刻竜王様は前にそう言うとったで」

「刻竜王様にとっては全員人間なんや。もとは人間しかおらんくて、魔力の影響で種族が分かれて俺らみたいな獣人やエルフ、ドワーフが生まれただけなんやから。刻竜王様にとってその違いなんてどうでもええことやねん」

「あー、なんか前に授業で言うとった気がするわ」

「ちゃんと覚えとけよ……」


ケージががっくり肩を落とす。だけど自分たちの存在を否定するばっかりの授業なんて、聞いていて何も楽しくない。


「でもね、わたしは笑うのやめへんよ。だって刻竜王様がわたしには笑顔が似合うって言ってくれはったんやもん」

「またそれか……聞いたら親に怒られるで」

「怒られる筋合いあらへんもんね。刻竜王様の御言葉は絶対やって言うとるんは、大人達やんか」

「あんなぁ……」


まるで聞き分けのない子供を見るように、ケージは渋い顔をする。


「刻竜王様は人類を嫌っておられるんやから、そんなことおっしゃるわけないやろ!」

「ほんまに嫌いなんやったら魔物からわたしらを守ってくれるわけないやん」

「それはお優しい刻竜王様のホドコシや!」

「ホドコシくれるんやから嫌われてへんやん」

「もー!わからずややな!」

「こっちのセリフやわ。なんでケージも大人達も、そんな嫌われとることにしたがるん?」


このやり取りも何度したか分からない。

わたしはもともとじっとしているのが苦手な方で、小さい頃から教えを聞く時間より走り回っている方が楽しいと感じていた。そして楽しく笑っていると、必ず叱られる。叱られたって、楽しい時には気づけば笑っているんだから仕方ない。

文官をしている両親はそんなわたしに手を焼いていたようだ。椅子にくくりつけられて授業を受けさせられたことも何度もある。毎日のように喧嘩をしていたけれど、ある日ひと際きつく叱られ、折檻を受けて、わたしは堪らず逃げ出した。絶対に親に見つからない場所と思って逃げ込んだのが、刻竜王様のお部屋だった。

見張りはいない。刻竜王様が嫌がるからだ。だから子供は小さい頃から厳しく言いつけられる。決して近づいてはならないと。近づくばかりか中にまで入ったことが知れればそれこそどんな折檻が待っているか分からないけれど、今見つかれば同じだと思った。

そうして逃げ込んだわたしを、刻竜王様は追い出さなかった。そしてわたしの問いかけにまで答えて、笑顔が似合うとさえ言ってくれたのだ。お礼も言えなかったけれど、それだけでわたしは立ち直れたし、今みたいに笑って過ごすことが間違っていないと思えるようになった。当然ものすごく叱られて折檻を受けそうになったけれど、刻竜王様の名前と笑顔が似合うと言われたことを盾にするようになってからは、少しシツケが緩くなった。両親もわたしをどう扱えばいいのか測りかねているようだった。


=====


「……今にして思えば、刻竜王サマって、まわりにエガオで話してくれるヒトがほかにいなかったんじゃないのかなー」


手紙を書きながら昔のことを思い出し、ふとそう思った。

周囲の大人たちはみな、刻竜王様の気持ちを慮って笑顔を見せないようにしていたと思う。神様を失う原因となった自分たちが笑っているところなんて刻竜王様に見せてはいけない、というのが教えだった。

もちろん刻竜王様の前以外では笑う人もいたけれど、ウチの両親やケージの両親は、刻竜王様の前以外でも笑顔を一度も見たことがない。

だからこそ、アタシは彼女を見たときに驚いた。こんなに曇りの一切ない、満面の笑みを浮かべる人がこの世にいるんだって思って。


「キーディー……」


=====


薬屋の娘である彼女に出会ったのは、十一歳になった頃のこと。王宮勤めの人間は家族と共に王宮内で暮らすことが義務付けられていて、わたしとケージも例外ではなく、ずっと王宮の中で暮らしていた。周りには王宮勤めの大人と、その子供たちだけ。

『それだけでは視野の狭い大人になってしまうのでよくない』と王様たちが親たちを説得してくれたおかげで、十歳以上の子供は月に一度、王宮の外に遊びに行けるようになった。最初の一年位は親がついてきていたけれど、正直それはわたしにとって窮屈なものだった。自由に歩き回ることができないし、親は周囲の人間を見ては『教えを守っていない』と眉を顰めるので、そんな言葉を向けられた人たち自身もこちらに嫌な顔をするし……

だから親の手を振り切って行動することが増えた。刻竜王様の名前を持ち出しては反抗するわたしのことを持て余し気味だった親は、この頃にはもうわたしのことを見限っていたのかもしれない。厳しく言われることが減ったから。


そして一人で行動するようになって間もなく、いつも親と歩いていた大通りから一本横の道を歩いてみた。そこで彼女に出会ったのだ。初めて見る薬屋というものをまじまじと見ていた時に、同じくらいの年だと思われる少女が声をかけてきた。


「いらっしゃーい。なんか探しとる?」


ニカッと笑ってそう声をかけてきた、猫の獣人の女の子。その笑顔はこれまで王宮では見たことがないくらいの満面の笑みで、街の中でみかけたどんな表情よりも、わたしには輝いて見えて。


「こんなに笑顔が似合う人初めて見た!」


わたしなんかよりずっと、笑顔が似合う人だ。そう思って、ついそんなことを口走った。彼女は驚いたように目をまんまるくした後、頬をそめる。


「やばっ、アタシそんなん言われたんはじめてー!照れるやん。やめてよ、もー」


そう言って、またくしゃりと相好を崩し、わたしの視線を奪った彼女はキーディーと名乗った。それからいろんな話をした。王宮の文官の娘だということを話したら、『やば、アタマむっちゃイイ人たちやーん!』とキーディーはまた笑った。

それ以来、わたしは外出の日の度に彼女に会いに行った。


「フェドーラ、またあの女に会いに行くんか?」

「せやけど?ケージも行きたいん?」

「んなわけあらへんやろ。あんま外の人間と関りすぎんな。ろくなことあらへんぞ」


ケージが時々、遠くからわたしのことを見ているのは知っていた。キーディーと話している時にも何度も視線を感じて、キーディーにからかわれたこともある。もう親ですらわたしに小言を言わなくなったのに、いまだにわたしを心配して口うるさくしてくるのは、ケージくらいのものだった。


「ありがと、ケージ。でも大丈夫やから」

「……」


そう言ってケージを振り切り、キーディーに会いに行く。そんなことを繰り返しながら、いつしかわたしは十五歳になっていた。


「こんにちはー」

「あ、フェドーラー!」


いつものように薬屋に顔を出す。わたしの声を聞きつけて、店番のキーディーが出てくる。いつも通りの光景だったけれど、彼女はわたしの顔を見た途端顔をゆがめた。


「ちょっ、なに……どないしたん!?」

「あはは、そんなやばい?」

「めちゃくちゃ、はれとるやんか!」


キーディーは急いで水とタオル、薬と包帯を取ってきて手当をしてくれた。鏡なんか見ないまま飛び出してきてしまったけれど、よっぽど酷い顔をしているのだろう。笑おうとするとあちこちが引きつる感覚があるし、たぶんうまく笑えていない。


「……親にやられたん?」

「……んー……あはは」

「わらいごとちゃうやろ。なにがあったん、フェドーラ」


まるで自分が殴られたかのように、キーディーの瞳に涙が溜まっている。いつもは明るくゆったりした話し方をする彼女の声が強張っていた。


「死にたないって言うてしもて」

「え?」

「そしたら、教えをここまで理解してなかったんかーって。そのまま殺されるんちゃう?ってくらい」


はは、と笑うわたしに、キーディーは唇をかんで震えていた。いつも笑顔の彼女が、今日は一度も笑っていない。


「キーディー?」

「わらわんで」

「え、なんで……」

「ムリにわらわんでええよ、フェドーラ!」


私の肩に置かれた手も震えている。


「……無理?わたし、うまく笑えてない?」

「……フェドーラ」

「なんで?刻竜王様に、笑顔が似合うて言うてもろたのに……」

「……」

「キーディーみたいに、笑いたいのに」


キーディーはわたしの手をとって、キーディーの頬に触れさせた。涙が伝っていくのが分かる。キーディーは顔を歪めて泣いていた。


「……アタシだって、わらえへんよ。フェドーラがこんな目におうとるんやから……」

「キーディー……」

「……うちに来とって、もっとオコられたりせえへん?」


ポツリとキーディーがそんなことを呟くものだから、わたしは弾かれたように顔を上げた。


「……ここに来たらあかんっていうの?キーディーも、あかんって言う?」


その時わたしはどんな顔をしていたんだろう。キーディーは息を呑んで、わたしを抱きしめた。


「いわん、いわんよ!だけどフェドーラが……もっとヒドイ目にあうんちゃうかって……」

「……これって、酷いん?」

「ヒドイよ……だってイタイやろ?ツライやろ?」


キーディーのその言葉に、わたしの瞳からもぽろぽろと涙がこぼれた。ああ、辛いと思っていいんだと、その時初めて知った。


「……刻竜王様、わたしは笑顔が似合うって」

「うん。しっとる」


なんべんも聞ーたわ……とキーディーがつぶやいた。


「なのに、笑顔でおるとお父さんもお母さんも、怖い顔するんや」

「うん」

「なんで楽しいことしたらあかんのやろ。笑ったらあかんのかな」

「うん……」


わたしを抱きしめるキーディーの腕に力がこもる。


「ごめん。アタシにチカラがあったら……フェドーラのこと、助けたれるのに」

「助けるって?」

「オーキューからつれ出して、だれにもヒドイことされんように、フェドーラのこと守る」

「……そんなことしたら、キーディーまでいろんな人に怒られるやんか」


へにゃ、と笑顔を浮かべると、キーディーはわたしの体を離して、涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、真剣な目で言った。


「べつにええよ。フェドーラよりタイセツなものなんかあらへんもん」


わたしはその言葉に呆けてしまった。


「……わたしよりって………刻竜王様は?」

「フェドーラのがダイジにきまっとるやん」

「神様、は?」

「フェドーラがいちばんスキや。セカイでいちばん、ダイジッ!」


こんな言葉、王宮で口にしようものなら、たとえ冗談だとしても今の私以上に殴られるだろう。けれど真っ赤な顔にじわりと汗を浮かべながらそう言うキーディーの言葉は嘘だと思えなくて。


「……ありがとう」


世界で一番大事だなんて、誰かに言ってもらえる日が来るとは思わなかった。わたしはそれだけで、心が軽くなったような気がした。奥からおばさんとおじさんも出てきて、わたしの顔を見てびっくりしていた。キーディーと同じように、自分が痛いみたいな顔をするから、これってやっぱり酷いことなんだなとわたしは実感できた。気分が落ち着いたから帰るというわたしに、キーディーは心配そうな顔をしていたけれど、最後にこう言った。


「いつかゼッタイ、フェドーラのことさらったるから」

「あはは、何それ」


わたしはその時笑ったけれど、キーディーは本気だった。

その日からちょうど一年。わたしが十六歳になった時、キーディーは言ったのだ。逃げようと。薬草園の茂みに隠れ、周囲の誰かに声を聞きとがめられることのないように。これほど気を付けながら言われた言葉なのだから、冗談だと笑い飛ばすこともできない。


「逃げる、って……」

「海のむこーにあるべつのクニに行くんや。北にあるクニは、ヒトが死ぬべきやとかいわんトコばっからしーから、そこまで逃げよ。ジェッラのちかくにある島まで行ったら、フネにのせてもらえるんやって」


亡命、という単語が頭をよぎる。それは罪だ。知れれば、その場で兵士に殺されるかもしれないほどの……


「……無理や、そんなん。すぐ捕まる……」

「だいじょーぶっ!アタシが守ったるから!」

「え……え!?キーディーも行くん!?」

「は!?アタリマエやん。おいてくつもりなん?」

「い、いやそうやなくて……だって、キーディーは逃げる必要あらへんやん」


優しい両親がいて、毎日笑顔で暮らしているキーディー。彼女が逃げる必要なんて全く……


「いうたやん。フェドーラのこと、うちがさらうって」

「……おばさんとおじさん、悲しむで」

「だいじょーぶ。ふたりもナットクしてくれた。フェドーラのこと守ったりって。ほんまはふたりも行きたいみたいやけど。足ひっぱるからやめとくって」

「そんな……」


キーディーはわたしの目を真っすぐ見つめて言った。


「来月、にげよ。フェドーラはなんも持たんときてええから。アタシがぜーんぶジュンビしとく。ふたりで、生きたいって思っても、笑っても、楽しくてしかたないって暮らししても、おこられたりせーへんトコにいこ」


わたしの人生に彼女を巻き込みたくない。けれど今の息苦しい生活から抜け出して、生きたいと口にしても咎められない場所でキーディーと一緒に生きるということはあまりに魅力的で。


「わかった」


わたしは思わず頷いていた。

それからの一か月は長いような短いような、不思議な感覚だった。閉塞感のある王宮も、もうじき離れると思えばまるで空気が違うようにも思えて。


「ケージにだけは、お別れ言うときたかったな」


ずっと兵士として訓練を積んできたケージは、十五歳になった時に正式に部隊へ配属されて、王宮を出て行った。神都の外が配属先になったそうで、もう一年以上会っていない。わたしは文官としての教育を受けてきたけれど、日ごろの奔放さのせいで仕事の世話もしてもらえていない。両親はわたしの存在を忘れることにしたかのように、ずいぶん言葉も交わしていなかった。だから、王宮に未練はない。


そしてついに、その日がやってきた。


「……うわ、ほんまに通れた」

「せやろ?あのウサギのおじさん、マンドラゴラの匂いキライやから、マンドラゴラのんどったらひきとめへんねん」


神都を出るには、門番の立つ通行門を通る必要がある。わたしが逃げるとしたら、絶対そこで見つかると思っていた。フェドーラであると見つからないように、初めて色のついたおしゃれな服を着た。肌の色が黒くなる、南国マンドラゴラの薬を飲んだ。初めてのことにドキドキしながら、わたしは旅に出た。

キーディーは馬を二頭つれて、わたしに馬の乗り方を教えながら街道を走った。

わたしがいないことに、王宮の人はいつ気が付くだろう。最近は授業もなければ仕事もないわたしは放っておかれるだけだったし、両親ともずっと口をきいていないから、もしかしたら一生気付かれずに済むかもしれない。予想通り追手がかかることもなく、わたし達はジェッラにたどりついた。


「すごい……これが、海の匂い……」

「うん、スゴイねー」


キーディーが楽しげに笑う。街の外れにある寂れた酒場に足を踏み入れ、そこの店主とキーディーが何かを話している間、わたしは周囲をキョロキョロ見回していた。神都とは少し違う町並み。追手を恐れて、宿場町でもあまり外を出歩かないようにしていたから、こうして知らない街の中に立っているだけでまだワクワクする。顔に自然と笑みが浮かんでいくのが分かった。ああ、生きてるってこういう感じ。


「フェドーラ?」


懐かしい声が聞こえて、わたしは咄嗟に振り返った。振り返ってはいけなかったのに。それはここで聞こえるはずのない声だったのだから。そこには、呆然としてこちらを見つめている青年の姿があった。


「ケージ……」

「なんで……なんでこんなところにおるんや!」

「まって、声大きい……!」


私が慌てて口に手をあてると、ケージも素早く周囲を見回して、私を建物の影へ連れて行った。


「フェドーラ、どうして……」

「お願いケージ、見逃して」

「見逃してって……」


ケージの目に迷いが揺れる。ケージは優しい。昔からずっと、ケージだけはわたしのことを見捨てずに、世話を焼いてくれた。だからこそ本当のことを知れば、ケージはわたしのことを放ってはおけない。だから。


「ケージ、今夜またここに来て」

「え?」

「ちゃんと話す。だから今は一人にしてほしい。お願い」

「………」


ケージは頭を掻いた後、ポケットから取り出した何かをわたしに差し出した。


「え?」

「時間がくるまで、ちゃんとした店で時間つぶしとれ。その金や」

「まってケージ、そんなん受け取れん……!」

「ええから!変な男に声かけられてもついてくんやないぞ!」


ぐいっとわたしにお金を押し付けて、ケージは踵を返した。その姿が角を曲がって見えなくなるのを見計らったように、キーディーが店から出てくる。どうやらこちらの様子に気付いて出てくるのを控えていたようだ。


「……フェドーラ。もう行った?」

「うん、ごめんキーディー。まさかここにケージがおるなんて……」

「フェドーラがあやまることちゃうけど。夜になったらもうでるよ?」

「うん、分かってる……せやけどケージはああでも言わんと、引いてくれへんから……」

「……ちゃんと話さんでええの?」

「本当のこと話したら、絶対止められる。その場でわたしのこと捕まえるよ」

「そーかもしれんけど……でもその……ケージくんて……」

「ええの、キーディー。言わんといて」


ケージがわたしに特別な感情を持っていることには何となく気付いていた。王宮出身者の結婚は、上司に厳しく制限される。結婚相手も、子供の数も、自由にできない立場のわたし達にとって、恋愛感情というのは縁遠い存在のはずだった。だからケージがいつまでもわたしに構うのは、義務や家族愛のようなものだとずっと信じていた。ケージが兵士として王宮から出ていく最後の日、別れの挨拶をする時までは……


「わたしは、応えられへんから」

「……アタシだって、こたえてほしくはないけど」

「大丈夫、わたしはキーディーと一緒に行くよ」


わたしがそう笑うと、キーディーも嬉しそうに笑う。そして日が沈むまで、キーディーとわたしはジェッラの東にある森の中に潜んでいた。


「むこーに行ったらなにしようなー」

「うーん。とりあえず仕事探さんと」

「シゴトかー。どんなシゴトがあるんかなー」

「それ以前に、何ができるんかな……わたし、あんまり勉強好きやなかったし」

「このクニで教えられたことなんか、きっとむこーじゃ役に立たへんよ」

「ますます不安やわ……わたしのええとこって何かある?」

「うーんと、オッパイおっきい」

「………」

「一年まえに抱きしめたときは、こんなにボリュームあらへんかったもん」

「………」

「ほめとるよ?」

「……内面でいいところは?」


キーディーに悪意が一切ないことは分かっているので、私はため息をついて話をすり替えた。


「んー、フェドーラはハナシしやすいなーと思う」

「話しやすい?」

「うん。それこそアタシなんて、フェドーラよりずっとアタマわるいけど、フェドーラはいっつもニコニコしてハナシきーてくれるし」

「キーディーの話聞くの楽しかったし」

「そんなヒトばっかちゃうから。それはフェドーラのええとこやと思うよ」

「そっかぁ」


人の話を聞くなんて言う仕事ってあるんだろうか。この国の中でも箱入りだったわたしは、よその国のことなんてもっと分からない。そしてすっかり日が沈み、森の中は真っ暗になった。夜目がきかないわたしには何も見えない。……怖い。そんな私の手をキーディーはぎゅっと握った。


「だいじょーぶ。フェドーラ。アタシがついとるから。海のむこーで、ふたりイッショにたのしく生きよーね」

「……うん!」


キーディーに手を引かれながら森を抜け、茂みに隠されていた小舟を出して、近くの浜に浮かべて乗り込んだ。昼間に寄っていた店の店主は亡命者を手助けするグループの一人で、小舟の用意とかをしてくれる人だったらしい。


「……ほかにもおるね」


真っ黒な海に、頼りない小舟が揺れる。少し離れた場所で、同じように船で漕ぎ出す人の影が見えた。はじめての舟に悪戦苦闘しながら、わたしとキーディーは必死で漕いだ。遠くの島影は、いつまで経っても近くに来ない。


「亡命者をとらえろ!」


そんな声が、背後から飛んできた。


「やばい、フェドーラ!いそぐよ!」


だるい腕を必死で動かして船をこぐ。兵士が亡命者を追いかけている。少し前に抜かした舟が、兵士に囲まれてひっくり返る音を聞きながら、振り返る余裕もなくこぎ続けた。


「待て!」


もうすぐで島に着く。そんなときに聞こえたその声は、ケージのものだった。夜に会おうって言ったのに。その約束を守るつもりがなかったわたしが責めることなんてできないけれど。


「フェドーラ!亡命なんて……何考えとるんや!」


島に上陸しても、ケージは追いかけてきていた。周囲に他の人の影はない。ケージはたった一人、わたし達だけを追いかけてきたようだ。


「ごめん、ケージ!見逃して!」

「お前は、また……!」


そしてケージの瞳が、キーディーをとらえた。憎悪に燃えた、見たことがない怖い顔だった。


「この女のせいか!」


そこから先の光景は、酷く朧げだ。視界がゆがんでゆがんで、何も見えない。

立ち尽くすケージの影が近くにあって、わたしはキーディーを抱きしめて。島に居た知らないおじさんに促されて、入り江に隠された船に乗り込んだことは覚えている。

ケージは、追いかけてこなかった。


キーディーは、最後まで笑顔だった。最後にわたしに何か話しかけていた気がするけれど、覚えていない。何度思い出そうとしても、思い出せない。『わたしも』と返したことだけは覚えている。何がわたしもだったのか、もうわからない。

船員に促されて、キーディーを弔ってあげられたのは、船が出て半日くらいしてからのことだった。微笑むキーディーが沈んでいくのを見届けて、わたしは誓った。


「ありがとう、キーディー。だいじょーぶ。アタシはちゃんと、キーディーとイッショに生きてくから」



=====



「……まさか本当に、胸が大きいことと話を聞くことが大事なお仕事につくとは思わなかったなー」


夢に見た新天地は思ったより亡命者に優しくはなく、アタシがつける仕事は多くなかった。だけどアタシは誓った。生きていく。笑顔で生きている限り、キーディーは傍にいる。

置いてきてしまった幼馴染への後悔と、おじさんおばさんへの申し訳なさ。それをぐっと押し込めて、アタシは手紙を綴る。もしかしたらこの手紙は迷惑なものかもしれない。思い出させないでほしいと、怒られるのかもしれない。

だけどもし、二人が今も後悔や悲しみに今もかられることがあるのだとしたら、伝えたい。二人が送り出してくれたおかげで、二人が育てた素敵な女性のおかげで、アタシは今幸せだと。『君に会えて良かった』『生きててよかった』、そんな言葉をたくさんの人から言ってもらえるなんて、あの国に居たままじゃありえなかった。

アタシがあんなに逃げ出したかったあの国で、ファリオンが何をしようとしているのかは分からない。だけどどうか、うまくいきますように。アタシの大切な人達が、ファリオンに優しくしてくれますように。そんな祈りに応えるように、キーディーの声が聞こえた気がした。だいじょーぶ、と。

暗いお話ですみません。

フェドーラにとっての王宮がどんなところで、キーディーがどんな人だったのかを書いておきたかったのです。

次はダニエル視点のお話です。そちらが終われば少しお時間をいただいてから、最終章に入ります。

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