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魔王の隣で勇者を想う  作者: 遠山京
第二部 第二章 令嬢と勇者

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055メディゴーラ薬店

神都の大通りから西に一本外れた通り、緑の看板が目印で、猫の獣人がやっているお店。メディゴーラの薬屋について知っている情報はそれだけだった。どういう関係なのかとかも聞くべきだったんだろうけど、辛そうな彼女の様子を見ていたらそんな気にもなれなかった。ケージさんから聞いた話とも合わせて考えるなら、そのお店はおそらく……


「ここですね」


ダニエルが足を止めたのは、色が剥げて木の色があちこちむき出しになった看板が立てかけられた小さなお店の前。薄暗い店内をのぞき込むと、たくさんの瓶や箱が並んだ棚の奥に、椅子に座ってくつろいでいるおばさんの姿が見えた。その頭には茶色い虎柄の三角耳。背後にちらりと覗く細い尻尾からして、おそらくフェドーラさんが言っていた通り猫の獣人だろう。キジトラって感じだ。


「ごめんください」

「んん?」


ダニエルがそう声をかけると、おばさんは眉を跳ね上げてこちらに視線を向けた。


「お客さん?」

「いえ。実は旅の途中で、ある人にこの店に手紙を届けるよう頼まれまして」


事前の打ち合わせで、そういうことになっている。フェドーラさんなら私たちが不利になるような手紙を書いたりしないとは思うけれど、何が理由で追われることになるか分からない。あくまで私たちは手紙を運んだだけ、という体をとることにしたのだ。

ダニエルが差し出した手紙をいぶかし気に受け取り、フンフン匂いをかいだ後、おばさんは封を開けた。私たちはその間に急いで退散する。内容がどうであれ、深入りしない方が無難だ。今後の潜入のためには今問題を起こすわけにはいかない。すべて事が済んでから届けるという案もあったのだけれど、フェドーラさんの気持ちを思うと一刻も早く届けてあげたかったし、今後の展開によっては届ける間もなくこの街から逃げ出す事態になるおそれもあった。とりあえずこれでミッションは完了だ、と足早に店から離れていると、不意に頭上に影が落ちた。あれ、この魔力の気配は……と


「アカネッ!」

「ダニエル、伏せろ!」


ファリオンとヴェルの声が同時に聞こえて、私はファリオンに抱き込まれた。目が回る視界の端で、ヴェルに覆いかぶさられて顔を地面に突っ込んでいるヴェルと、さっきまで私がいた場所にゆらりと立っている獣人が見える。……さっきの薬屋のおばさんだ。これはまずい事態になっただろうかと身構えていると、おばさんは顔をあげてパタパタと手を振った。


「ちょい待ちい。そないに逃げんでもええやろ。悪いことにはせんから、話聞かせてくれん?」


困ったような顔でそういうおばさんに、私は体の強張りをとく。けれどファリオンは私を庇う姿勢を変えなかった。ヴェルもダニエルを引き起こし、いつでもその場を離脱できるような体勢を崩さない。近くを通る人々が、何事かとこちらを見ている。おばさんは参ったというように頭を掻きながら、ゆっくりこちらに近づいてきた。ファリオンはおばさんを睨みつけたままだ。


「そうやねぇ……どうしたら信じてもらえるやろか……この手紙の主はあたしにとって娘みたいなもんで、その娘からあんたらのことを助けてやって、って書かれとるんやわ。そのまま帰したら、あの子に言い訳できへんやろ」

「……なんで捕えようとした?」


ファリオンが小声で尋ねる。私にしか聞こえないくらいの声量だったけれど、獣人であるおばさんには聞こえたんだろう。耳をピクピクさせた後、胸を張った。


「そりゃあ、あんた。あんなあからさまに逃げ出されたら追いかけたなるのが猫の性ってもんやんか」


……猫なら仕方ないね。猫だもん。

ファリオンの服をクイクイ引っ張ってそう意思を伝えると、彼は大きなため息をついた。ダニエルの方を向いて軽くうなずく。ダニエルは砂まみれの顔を払いながら、頷き返した。


「じゃあ、話だけ聞きます。別のところで仲間が待っとるんで手短にお願いします」

「あんた警戒した鼠みたいやねぇ」


鼠ダニエルは口をへの字に曲げて黙りこんだ。



=====



おばさんはクレアと名乗った。そして店を一度締め、裏で仕事をしていたらしい旦那さんのキーベルさんも呼び出して、お茶の準備をしてくれる。断りをいれて、ヒナ吉に消音をはってもらった。会話内容次第では、店の外に漏れ聞こえるとまずい。ぬいぐるみ型の魔術具というのがこの国の人には物珍しいらしく、二人は感心したようにヒナ吉を観察していた。ヒナ吉、照れちゃダメ!今の貴方は魔術具設定!


「さて……何から話すべきやろねぇ……まさかフェドーラが手紙をくれるやなんて……」

「……キーディーの望み通り、フェドーラは他の国に逃げられたんやな」


黒猫耳を持つキーベルさんは、顔に濃い皺のある優しそうな風貌の人だった。手紙に視線を落とし、細く息を吐きだす。


「まずはこの子らの警戒を解いてやらんと。北大陸の人間がこの国のことをどこまで知っとるかわからん。フェドーラから話を聞いたんやったら、なおさら酷いイメージ持っとるやろ」

「ああ、そうやねぇ……あの子の家は文官の家系で、厳しかったから」

「文官?」


ファリオンが声を上げた。


「そうそう、執政官をつとめてらっしゃる人間の王のもとで、働いてはるエリートがご両親やから」

「……」


フェドーラさんが文官の家系……なんというか、ちょっと想像がつかない。


「この国の教義のことは、フェドーラから聞いとるんやろ?」

「フェドーラから具体的に聞いたわけじゃねーけど、人類は滅ぶべきで、そのために魔王を手助けする……って感じなんだろ?」

「まあそんなとこやね。とはいっても、本当に幼いころからそう言い聞かされて育つんは一部やけど」

「一部?」

「刻竜王様のお近くに侍ることになる人たちやね。刻竜王様のお世話をして、魔王様の発展を祈る司祭の一族。そして刻竜王様をお守りする四人の王達。その城を守る兵士や使用人たちの一族。彼らは刻竜王様の教えを守ることにその生涯をささげとるから」

「……この街に来てから、服装が少し質素な人達を見かけるようになったんですが」

「ああ、その人たちは十中八九そういう一族やわ。彼らにとっては華美な装飾も娯楽も避けるべきものやから」

「では、本当に刻竜王様を信仰しているのは彼らだけなんですね」

「いいや?」


私の問いかけに、クレアさんはあっさり首を振り、困ったように微笑んだ。


「あたしらも、刻竜王様のことは大好きやよ」

「……えっと?」

「刻竜王様はね、人を憎んでおられる。やけど同時に、愛してもくれてはる。たとえばこの街に魔物が侵入することはあらへん。刻竜王様が見張っとって、もし魔物が近づけばその時間を止めて守ってくれるし、王宮の下にある魔力の渦は本来、魔物を呼び寄せるそうやけど、それも刻竜王様が対処してくれとる。もしこの国のどこかで災害が起きようとすれば、その時もまた、時間を止めて被害を抑えてくれる。人類は滅ぶべきやって言うとってもね」

「……人類を、守ってくれてるんですか」

「寝ぼけただけやて毎回言い訳されてはるらしいわ」


カラカラと笑うクレアさんの言葉を聞くと、一気に刻竜王への印象が変わる。もっと強固に人を憎んでいるものだと思っていた。


「王様や周囲に侍るもんもほとんど同じなはずや。昔からこの地を守ってくれとる刻竜王様のことが大好きなだけ。その刻竜王様は、大昔の人間が犯した過ちによって、愛する神様を失ってしもた。やから、人類はいずれ滅びる、我々も魔王様に協力する、そうすればきっと神様はお戻りになるとお伝えして、そのお心をお慰めしたいだけやねん。あたしらも、刻竜王様の御前に立つことがあればきっと同じようにお伝えするやろね」

「王様も、本音は破滅派じゃないってことですか?」

「破滅派の王様がおられたんは二代くらい前の話やね。二代目魔王様が現れたころくらいが一番破滅派が多くて、そこからは徐々に減っていったって聞くわ」


マイルイから聞いた情報って、もしかして古い?何せ長い時を生きる大精霊様だからなぁ。マイルイの本拠地は北大陸みたいだし、この神都は大きな魔力泉があるせいで魔力が濃く、マイルイは長時間滞在できないだろうから、情報精度が落ちていても不思議はない。


「……では……本当に人類が滅びるべきだと考えている人は、それほど多くはないんですか?」

「そうやね。それこそ王宮勤めしとる人らは子供には厳しく教えるわ。子供のうちには建前と本音なんて分からんからね。大きくなるにつれてそのへんのさじ加減を理解してくるんやけど、やっぱり小さい頃は教えられた通りの言葉を口にするし……まあ、もちろん大人になってもほんまにそう考えとる人もおるわ。破滅派て呼ばれとるんやけど。フェドーラの両親もそうやったし、やっぱり破滅派の親に育てられた子供はそうなりやすいなぁ。フェドーラは不思議なくらい正反対の子やったけど」

「我が国からの移民はみんな連絡が途絶えてしまうんですが、それは?」

「ああ、それはきっと破滅派が取りこんどるせいやね。移民を担当しとる文官は破滅派やったはずや。北大陸の考えを持ち込んで刻竜王様に失礼があっても困るいうて、教育しなおされるて話は聞いたことあるわ」


移民が洗脳されるのは事実らしい。


「その人たちは……無事なんでしょうか」

「よっぽど手荒な真似はされんと思うよ。刻竜王様がお怒りになるからね」

「それも止めるんですか?」

「お優しい方なんよ。それでも破滅派の中には刻竜王様のお言葉を理解せん人らもたまにおるけどね。そういう連中が時々事件を起こすんや……あの優しい刻竜王様が、それで傷つくことも知らんとねぇ」


目を伏せるクレアさんを見て、私はファリオンと顔を見合わせた。今の北大陸の状況と、その刻竜王の話は少し矛盾がある。


「刻竜王は北大陸を滅ぼす気だ」

「なんやて?」

「時限式の魔術具が北大陸の各国に設置された。発動すれば広範囲が吹き飛び、大勢の命が失われる」

「まさか!」


この情報は一般国民には知らされていない。あの円柱のせいで避難命令が出ていることはわかっていても、その原因が刻竜王にあることは国家機密となっているのだから。当然フェドーラさんも知らないのだろう。手紙にはそんなことまで書かれていなかったようで、クレアさんとキーベルさんは信じられないというように目を見開いていた。


「……フェドーラからの手紙には、友達のファリオンがラカティで何かするつもりみたいやから助けてほしいとだけ書かれとったけど……まさか、あんたらが来たのはそれを止めるため?」

「その通りだ」

「まさかそんな……それは本当に刻竜王様のなさったことなんか?」

「浄化の女神がそう証言してくれた」

「浄化の女神様!」

「ご存じですか?」

「刻竜王様と同じ、神様から生み出されたお方やとは聞いたことあるわ。刻竜王様はあんまり女神様のお話をしはらへんようやから、私らみたいな下々のもんは詳しくは知らんけど。この地にも過去に何度かお訪ねになったことがあるらしいけど、刻竜王様は一度もお会いにならんかったらしいし、女神様もすぐにお帰りになったそうやから……」


やっぱりマイルイ、北大陸の滞在時間短そう。

キーベルさんが項垂れて首を振る。


「刻竜王様が……せやけど、魔術具って……」

「ほらあんた、一年位前からなんか実験してはるって聞いたやつやないの?」

「ああ、その実験のせいで雨が降らなくなったんやないかって言われとるからな。……そうか、そんな物をお造りになるほど、刻竜王様は追い詰められてはったか……」

「魔王様のことで大層お悩みやったそうやからね」


胸を痛めながら交わされる二人の会話に、聞き捨てならない話が混ざった。


「魔王……さまのことで?」

「ああ。魔王様は神様がお造りになった、人類を滅ぼすための仕組みやっていうのは知っとるやろか?」

「はい……滅ぼすためかはわかりませんが、神様が作ったらしいというのは……」

「滅ぼすためやなかったら何やの」

「ええと……」


人類育成計画みたいな説も出ているけれど、あくまでこれも推測の域を出ていない。マイルイはその説に否定的っぽいし。


「ともかく、刻竜王様はその神様の遺志を尊重して、魔王様のことを応援してはる。やけど今の魔王様は、どうも社会に溶け込んで、魔王らしいことをしようとなさらんとかで」

「……人類を滅ぼそうとしないのは、人類にとってはいいことだと思うんですけど」

「そりゃあたしらかて滅ぼされたいわけやないよ?せやけど……刻竜王様のお気持ちとしては複雑なんやと思うわ。さっきも言うたように、刻竜王様はお優しいお方や。ご自身では人類を見捨てられんくても、神様は人類を滅ぼそうとなさっとる。その板挟みになってはる刻竜王様にとっては、神様の代理である魔王様がさっさと人類を滅ぼしてくれれば、これ以上悩まずに済むんやないかねぇ」

「今の魔王が人類を滅ぼそうとせんから、脅したいんやないかな……これで魔王様が抗議においでになったら、説得するつもりなんやと思うわ」

「刻竜王様が自ら人類を滅ぼすつもりという可能性はないんですか?」

「あらへんと思う。それができんから、刻竜王様はずっと魔王様のサポートに徹しとったんやから」


きっと刻竜王自身は、人のことがどちらかといえば好きだったんだろう。けれど神様は人間のせいで消えてしまって、魔王という道具を残していった。人のことが憎らしいし、神様がそれを滅ぼそうとしているならそうしたい。けれど目の前の人たちが傷つこうとしている時、自分ではやはりそれを守ってしまう。だから、本当は魔王に滅ぼしてほしい。


「……複雑ですね」

「あたしらとおんなじやない?刻竜王様かて色んな感情をお持ちで、長年悩んでおいでなんよ」


もし刻竜王の考えがこの想像通りなら、マイルイの言うように、聖剣も神様が生み出したものだということを知らない可能性が高い。


「聖剣のことを、刻竜王様はどうお考えなのでしょうか?」

「ああ、魔王様を倒すために北大陸の人間が作りはった剣?」

「聖剣も、神様が作り出したものなんですよ」

「ええ!?」


今日一番の驚愕の声が響いた。


「……嘘やろ?」

「いや、これも浄化の女神が断言している」

「そんな……刻竜王様はまさかご存知やないってこと?」

「いやそれより、ほんなら一体なんのために魔王様は存在してはるんや」


その二つの疑問は私たちも答えが知りたいところでして。


「神様の意図はわかりませんが、私たちはこの事実を刻竜王様に伝えたいんです。そうすればきっと、神様が人類を滅ぼしたいわけじゃないって分かってくれると思います。人を好きなままでいていいんだって、きっと分かります」


そう訴えると、二人はいからせていた肩から力を抜き、脱力したように椅子にもたれかかった。


「……そうか。にわかには信じられへんけど、もしそれが事実やったら、俺も刻竜王様のお耳に入れるべきやと思うわ」

「あたしらも、刻竜王様のお傍で暮らし続けてええって話になるんやったら、その方がええしなぁ。よしあんた、この子らに協力しよ」

「協力ゆーてもお前……」


鼻息も荒く意気込むクレアさんと、鼻白むキーベルさん。


「協力はありがたいが、城に潜入することになるんだ。万が一その狂信的な連中に見つかれば、協力者もただじゃすまねーぞ」

「そんなん承知の上やわ。それよりも、あんたらが北大陸の人間なら、その肌の色は偽物やろ?マンドラゴラでもつこた?」

「そうだが……」


ファリオンは無関係の人を巻き込むのに消極的だ。当然だと思う。国や神を相手取るわけで、下手したら命に係わることだ。


「刻竜王様にお会いする目途は立っとるんか?すぐ動くんならええけど、もし宿でもとって何日か様子を見るつもりでおるんなら、やめた方がええぞ」

「どういうことですか?」


ダニエルが慌てたように尋ねた。そうするつもりだったことを否定されたのだから無理もない。


「この神都を警備する巡回の兵士に、最近兎が加わったんや。あんたらが見つかったら、すぐに捕まってまうわ」

「巡回の兵士……兎の獣人はどれくらいマンドラゴラに鼻がきくもんですか?すれ違っただけでわかります?」


険しい表情でダニエルが尋ねる。場合によっては、馬車で待機中のメンバーを急いで避難させないといけない。


「すれ違う近さなら当然気付かれるわ。家の中におっても、その家でマンドラゴラを服用したもんがおることはわかるそうやからね」

「でも、マンドラゴラってこの国では家庭でよく栽培されているものなんでしょう?」


確かそう聞いたことがある。


「栽培されとるマンドラゴラと、マンドラゴラを服用した人から漂う匂いは微妙にちゃうらしいわ。あたしらには分からんから、はっきりとは言えんけど」

「……そうなるとまずいですね。獣人ならともかく、人間の姿でマンドラゴラの匂いをさせとったらすぐに怪しまれてしまういうことですよね」

「そういうことや。あんた、すぐにマンドラゴラ飲むで」

「おう」


私たちが相談を始めるより先に、ご夫婦がそろって席を立った。キーベルさんが店先の薬棚から何かを持ってきて、クレアさんが水を汲む。止める間もなく二人は何かを服用した。いや、何かをというか……南国マンドラゴラなんだと思うけど。


「よし、五分もすれば効果が出るはずや」


ローザ謹製の丸薬に比べると効果が出るのがずいぶん遅い。ローザはかなり研究を頑張ってくれたようだ。


「えっと……どうして」

「急いであたしと一緒にお仲間迎えにいくで。今晩はうちに泊まってき。マンドラゴラを飲んだあたしらの店におったら、多少はごまかしがきくはずやから」


まさかここまで協力してくれるとは思わなかった。呆気にとられる私をよそに、ファリオンが立ち上がる。


「感謝する。この礼は必ず」

「……いややわ、かしこまったのは苦手やねん」

「ファリオン様、ええんですか?」

「ここまで来たら信用して巻き込むしかない。そもそもすでに刻竜王に気付かれてる可能性はあるが、もし気付かれていないのだとしたら、見つからない方が打てる手は増える。分断されないうちに、リード達を迎えに行った方がいい」


万が一ドロテーア達が捕えられて人質にでもとられたら、身動きしづらくなる。それを盾に、魔王としての覚醒を促されるおそれだってあるんだから。肌の色が変わったのを確認して、クレアさんが顎をしゃくった。


「ほら、行くで。誰か、案内頼むわ」

「俺が行く」


それまでずっと険しい顔で黙っていたヴェルが立ち上がった。


「一人で行く気か?」

「大勢やと悪目立ちする。アニキとアネキは離れん方がええし、ダニエルは戦えんのやから、今はおとなしくしとった方がええ」

「……ヴェルナー様、大丈夫ですか?」

「俺だってお前と一緒に情報集めたり活動しとったんや。万が一兵士に呼び止められてもそれなりに受け答えはできるから安心せえ」


ダニエルはしぶしぶ頷いた。


「ほらほら、ゆっくり話しとる暇なんかあらへんよ。あんたで決まりなんやったらはよ連れてってくれんと」

「分かった」


出ていく二人の姿を見送り、私はオロオロとキーベルさんを見た。


「だ、大丈夫ですか?クレアさん」

「クレアなら平気やろ。いざとなったら一人で逃げてくるわ」


キーベルさんはそう言いながらタオルを取り出して頭に巻き、私たちにもタオルを放った。


「え?」

「草むしりするで」

「草むしり?」

「何の理由もなくマンドラゴラ飲んどったら怪しまれるからな。普通は日焼け防止に飲むもんやねん。ちょうど裏の薬草園の手入れをせなあかんとこやったんや。手伝ってくれ」

「は、はぁ……」


そうして連れていかれた店の奥の庭は、想像以上に広かった。


「これとこれは雑草やから抜いてええ。他に判別つかんもんは俺に聞いてから抜くこと」

「……キーベルさん、これが雑草なら、結構いっぱいあるんですけど……」


畑を覆いつくすように生えている細い葉の植物。これが全部雑草とな?本来の薬草が覆い隠されてない?


「……最近、腰やってもうてしばらくさぼっとってん……」

「そのツケを俺らに払わせんのか……」

「協力しとんやから、こんくらい手伝ってくれてもええやろ」

「ファリオン様、おとなしく言うこと聞きましょう」


ダニエルの言うとおり、おっしゃる通りにするしかなかった。とりあえず、この国のミミズ、めっちゃでかい……



=====



石壁がのっぺりと暗い影を落とす殺風景な小屋の中。年老いた老人が横たわっている。その傍にはほんのりと光を帯びた、白銀の剣、精巧な人形、そして虹色に輝く水晶が転がり、老人はそれらを満足げに見つめていた。反して、その様子を泣きそうな顔で見下ろしているのは、浄化の女神マイルイだった。


「もう限界よ……待ってて、トエロワを起こしてくるわ!それでヴァイレの時間を止めてもらいましょう!」

「……無理だよ、分かっているだろう、マイルイ。私が力を失っていると言う事実を止めるには、人間達の……この世界全ての時間を止めるしかない。それは何の解決にもならないよ」

「そ、そんなの……やってみないと分からないわ!トエロワを起こしてくる!」

「マイルイ……」


女神が飛び出していった扉を見つめ、神は息を吸い込んだ。そして語る。聞く者は誰もいない虚空へ向けて、最後に残したい言葉を。


一方、神の制止を振り切った女神は、空を駆けて遠い山の山頂を目指した。頂に深く穿たれた穴の中に、青黒く艶やかな鱗で覆われた巨体が丸まっている。一口で食べられてしまいそうなほど大きな竜に、マイルイは躊躇なく駆け寄った。


「トエロワ!起きて、起きなさい!」

「…………」


マイルイが顔の横で叫んでも、その瞳は開かない。鬱陶しそうに尻尾を一度パタリと打っただけで、眠りの淵から這い出す気配のない友の姿を見て、マイルイは涙ながらに懇願する。


「もう十分寝たでしょう!?何十年寝坊する気なのよ!お願い!起きてよ!ヴァイレがっ……ヴァイレが消えちゃう!」


その声を聞いてようやく、月が満ちるように金色の双眸が開かれた。


「……マイルイ?何を言っている?」

「いいからっ、いいから早く来て!もうヴァイレには力がほとんど残ってないわ!」


説明する間をも惜しんで急き立てるマイルイに、トエロワは狼狽えながら起き上がった。そして二人が駆け付けた時、小屋の中には年老いた神の姿も、三つの魔術具もすでにそこには無かった。ただきらめく光の残滓だけがその場に浮かび、形はなくとも確かに神の力がまだそこに残っていることを二人に教えている。


「ヴァイレ……これは、どういうことだ!?」


トエロワの怒声に答えるように、光が瞬き、音を成した。


『これから人の世は荒れるだろう。けれど人間達に手を貸してはいけない。そうすると彼らはまた甘えてしまう』

「ヴァイレ……」


遺言のような言葉がその場に響き、竜はその場に立ち尽くす。


『トエロワ、マイルイ、頼んだよ』



竜に残された言葉はそれだけだった。その言葉を最後に、光すらそこから掻き消えて、ヴァイレの名残は失われた。何一つ残されていない小屋の中、泣き崩れるマイルイだけがそこにある。無二の親友から何を頼まれたのか分からぬまま、竜はその小屋の上をぐるりと旋回した後、飛び去った。

そして人々はヴァイレの言葉通り、戦乱の世に身を投じていった。女神と竜は離れたところからそれをじっと見守っていた。


「あれは……あのヴァールという人間は、ヴァイレの作った道具の匂いがする」

「ええ、そうよ。あれはヴァイレの作った魔術具」

「……結局ヴァールは、人間を守りたいのだな」


竜は女神とも距離を置き、ヴァールの活躍を風で伝え聞き過ごしていた。まるでヴァイレがヴァールとなり、今も人々を守り続けているかのようで、その噂話だけが竜の孤独を慰めた。しかしその後、ヴァールが死んだという話を耳にする。神が作った魔術具が死ぬことなどありえない。そして竜は、女神から事の真相を聞いた。


「……人間どもが、ヴァールを?」

「ええ……ヴァイレはそれも予想していたみたい。ヴァールは人間に不要と判断されたと察して、そのまま……」


しかし竜は最後まで言葉を聞くことなく、大きく翼を広げてその場を飛び立った。人間たちの国を壊滅させてやろうと思った。最後のヴァイレの恩情までも踏みにじる愚か者たちへと。しかしそれを踏みとどまったのは、心優しい人間もいることを知っていたからだ。そして何より、友がどれほど人間を愛していたか知っていたからだ。

だからせめて住処を南の大陸へと移した。南の大陸の国々はヴァールとの関りが薄く、その暗殺にもほとんど関与していないと考えた。女神は時折、竜に会いに行ったが、竜はそれを拒むように魔力が噴き出す巨大な魔力泉に居座ったまま動かなかった。今は友の声も何も、聴きたくはなかった。


次第に、魔物と呼ばれる存在が各地に現れ始める。ヴァイレが存在していたころにも似たような存在は目にしたことはあったが、その凶悪さも数も桁違い。竜が住む地にも数多くあふれるようになり、目の前に現れる度に尻尾で一薙ぎしてやったが、魔物は人間たちを好んで襲っているようだった。


「人間が好物なのか……?」


しかしその問いに魔物が答えることはない。その強大な竜の威光にすがり、周囲には人々が集まってくる。マイルイやヴァイレほどではないにせよ、竜も昔は人々を助けてやりながら暮らしてきていた。しかし……マイルイに言わせれば、この人間どもがヴァイレが神であることを忘れたせいで、その力を失うことになったのだという。


「去れ!貴様らの姿など見たくもない!」


そうは言っても、いざ目の前で魔物に襲われる姿を見れば放置もできない。結果的に自分を守ってくれる竜の近くで、人々が暮らし始めるのは必然だった。


「刻竜王様、なぜ刻竜王様は我らを憎んでおられるんでしょうか?」

「我を生み出し、貴様らを慈しみ続けた神の存在を、貴様らは忘れているからだ」


そうして語った刻竜王の言葉を人々は胸に刻み込み、恐れと敬いを忘れぬと誓いながら、その傍にあり続けた。魔物が現れるようになって百年も過ぎたころ、人々は次第に集まり始めた情報を噂として口にする。


「北の大陸には魔物を統べる王が現れとったらしいな」

「魔物を従えることができるそうや」

「魔王がおる間は魔物が強くなっとったとも聞いたぞ」


魔物を統べる王。竜はその存在が気にかかり、魔王が現れたという地を訪れた。口うるさい旧友に嗅ぎつかれる前にすぐ帰るつもりだったが、人が迷宮と呼ぶその地に足を踏み入れた途端、竜は何が起きているかを悟った。


「……これは……あの魔術具の……ヴァールの匂いではないか」


魔物の巣窟であり、魔王の根城でもあったという迷宮。それを作り出したのはヴァールであること、そしてその迷宮の地下にも何らかの道具が埋まっていて、それもまたヴァイレが作り出したものであることを、竜は瞬時に理解してしまった。


「……魔物も、魔王も……ヴァイレが生み出した存在なのか……?」


魔物がなぜ人を襲うのか。その答えが見えた気がして、竜はすぐにねぐらへと戻った。ヴァイレは本当は人を憎んでいる。人々を滅ぼすための仕組みを、消える前に残していた。当然のことだと思った。しかし信じがたかった。だからこそ竜は、魔王が再び現れたという話を聞いた時、迷宮へと向かったのだ。


「貴様はなぜ、魔物を人間にけしかける?」

「それこそが人間のためだからだ」


老人の姿をした魔王は答えた。どうやら今度の魔王は、人間を依り代にしているらしい。果たしてこの受け答えは、依り代となった人間のものなのか、魔術具である魔王の言葉なのか。竜には判断がつかない。


「人間が憎いのか?」

「いいや、私は人間のためにこうしている」


答えになっているようで、同じことしか繰り返さない二代目魔王。その瞳はぎらつき、正気なのかさえもわからない。しかしその姿に竜は、今は消えた友の影を見たような気がした。人間のためだと口にしながら、常に己をささげ続けた神。愛憎の末、選んだ結末が人類の滅亡なのかと。竜は『そうか』と一言つぶやき、その場を去った。

その後、魔王は再び討たれた。ヴァイレが死に際に作った魔術具がゆえに弱いのかもしれないと、竜は悲しんだ。しかし魔王は幾度も蘇る仕掛けがしてあったようで、復活するたびに魔王は人々の生活を脅かした。

魔王が現れる度に竜は魔王を訪ね、同じことを問いかけた。三代目の魔王は『もうすべてが壊れてしまえばいい』と力なくつぶやいた。もう何も考えたくないと。四代目の魔王は、『守りたいからだ』と繰り返した。何を守りたいかの答えは得られなかった。

竜には、すべて神の嘆きのように聞こえた。人間を守りたいという願いと、裏切られた絶望がせめぎあっているようにも。


「おそらく……魔王が人間を滅ぼすことに成功しない限り、ヴァイレの苦悩は終わらぬのだ」


魔王がその力至らぬのなら、いずれ自分が手を貸してやってでも。己を慕う周囲の人間に、気まぐれのような施しを与えながらも、竜は魔王を見守り続けた。

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