020反撃のシェド
「び…っくりした…な、なんですか?シェドお兄様…」
いくら強面に慣れたとはいえ、いきなり背後に立っているのはやめてほしい。
普通の人でも怖いのに、暗い廊下で振り向いていきなりシェドだとうっかり『悪霊退散』とか叫んでしまいそうだ。
それは(シェドのメンタルに)めちゃくちゃ効果がありそうなので、お互いのためにも避けたい事態。
しかしシェドは私の呼び名に眉をひそめる。
「お兄様?」
「…失礼しました、シェド様」
まずいまずい、うっかりしてた。
あれ以来、兄と呼ばれるのをあからさまに嫌がるようになったシェド。
もはや使用人たちに訝しがられることを厭いもしない。
兄と呼ばれ続ければ私自身にも周囲にもそれが刷り込まれ、不利になるから嫌だとかなんとか。
今更な気もするし、それはつまり周囲に自分の気持ちを受け入れさせたいということ。
外堀が勝手に埋まるならそれでいいというスタンスに切り替えたらしい。
…私としては正直迷惑な話なのだが、なんだかんだ言うとおりにしてしまうのは、慣れない好意を向けられた弱みか。
結局のところ私もシェドに甘い。
それにしても…もともと機嫌が悪そうだったところにさらに火に油を注いでしまったようだ。
じりじりと廊下の壁に私を追いやってくる。
「えぇと…シェド様、良い夜ですね?」
「全くだ。すっかり良い時間だというのに
こんなところでお前に出くわすとは思わなかった」
ついに廊下の壁に背がついた。
やばい、顔を見たらすぐ逃げ出すべきだったか。
…その後、落ち込んだ兄をフォローするのは誰かと言うと私だけども。
「あ、あの、シェド様、何をお怒りに?」
「…なぜアカネがこの部屋から出てくる?」
「このって…リードの部屋ですか?」
「リード?」
ピクリとシェドの眉がはね上がる。
あ、やばい油注いだ所に風まで送り込んだようだ。
シェドさんシェドさん、阿修羅みたいな顔になってるからちょっと落ち着こうか。
その顔が見えない角度にいるティナとエレーナは、あわや壁ドンか顎クイかという私達の距離に小声できゃあきゃあ言っているが、間違いなく顔を見たら静かになるだろう。
泣く子は更にギャン泣きするが、野次馬なら黙らせられるのがシェド様なのだ。
「ずいぶん親しげに呼んでいるな。
しかもティナとエレーナを部屋から出して、二人で何をしていた?」
一人で部屋から出てくるところまで見られていたようだ。
シェドの追及に視線をおろおろと動かす私。
やましいことなどしていない。
していないけど、なんか変な爆弾発言はされたものだからうっかり動揺してしまう。
「看病して、ちょっと話をして、栄養ドリンク飲ませただけですが」
「彼は目が覚めたのか?」
その問いに頷くと、少しだけ安堵したように『そうか』と吐息する。
なんだかんだで心配はしていたらしい。
もともと優しい人なのだ。
ちょっぴり和む。
「それで、何故人払いをした?」
すぐさま矛先を戻されて和んだ表情が再び凍りついた。
「いや、あの…彼が目を覚ました時、
部屋に居るのは同年代の私だけの方が
心を開いて色々話をしてくれるかもしれないと…」
ティナとエレーナに使った言い訳を繰り返す。
二人は仕方ないなぁと受け入れてくれたけれど、シェドはそうも行かないようだ。
「アカネ」
「はい」
「危機感が足りない。年頃の娘が一人で男に会うのは控えろ。
ましてや素性のハッキリしていない男だぞ」
「はい…」
正論で怒られた。
これでリードが未来の魔王だと知れたらどうなることやら…
「で、何もされていないだろうな?」
「何もって…看病しただけですよ」
「どこも触られたりしていないか?」
その問いに思い出すのは、人を呼ぼうとしたら引き止められたときのこと。
私の指先を優しく握ったその手は、シェドのように骨ばったものではなかったけれど、確実に私の手をすっぽり包んでしまうであろう男の子の手だった。
気付けば視線が右の指先に落ちていて、シェドは目ざとくそれに気付いてしまう。
「手を…どうされた?」
「え?えっと…」
静かな声が怖い。
制止の為に掴まれただけなんだけど、それすら言うのを憚られる雰囲気だ。
だというのに。
「そういえばアカネ様、往来でヴィンリード様にハンドキスされたそうですね!」
エレーナがぴょんぴょん飛び跳ねんばかりのテンションでそんなことをのたまう。
事実だ。
確かにそれもあった。
あったけどさ。
「なっなん…」
「隠しても仕方ないですよ、もうすっかり街では噂になってますもの」
お母様の言ったとおり、噂になっているらしい。
ドラマも漫画もないこの世界。
ドラマチックなシーンや痴話喧嘩が最高のエンターテイメントなのだ。
何故屋敷の中にずっといるはずのエレーナがそんな噂を知っているのかと言えばエレーナだからであり、何故こんなシーンでわざわざ言っちゃうかというとそれもエレーナだからである。
つまりエレーナはそういう子だ。
おそるおそる見上げたシェドの表情は…
「…っ…シェド様…」
思わず息を呑む。
どんな鬼の形相が待っているかと思ったのに。
酷く切なそうに見つめられているものだから。
そしてシェドは私の手をとって踵を返すと、背を向けたままティナに声をかける。
「ティナ、アカネを借りる」
「かしこまりました。明朝までのアリバイ作りはお任せください」
ティナは通常運転だ。
思わずといった感じでシェドの足が止まる。
「…いつもの就寝時間までには帰す」
「え、あと30分くらいですか…それはさすがに早…いえ、何も」
何を言おうとしたんだか、シェドから肩越しに一睨みいただいてティナはようやく黙った。
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シェドに連れられてきたのはサロンからつながるバルコニーだった。
スターチス家自慢の庭が一望できるこの場所は、シェドのお気に入りらしく、ここで晩酌する姿を時折みかける。
夜風がさわりと髪を撫でた。
さっきは苦し紛れに『良い夜ですね』なんて言ったけれど、庭の花々が月明かりに照らされている様を見ると…本当だったなぁ。
バルコニーの側には桜の木もあって、ちょうど満開だ。
ときおりバルコニーに散り掛かる花びらがとても幻想的で、刹那見とれる。
そんな私の手をそっと離し、シェドは自分が羽織っていたジャケットを私の肩にかけた。
「え?」
「まだ夜は冷えるからな。着ていろ」
「…有難うございます」
う、うわぁぁ『寒いだろ、これ着てろ』ってホントにあるんだぁ!
いい感じになった男子すら居たことが無かった私は当然初体験だ。
体温の残るぶかっとした男性物衣服の感触。
なんだかむずむずして変ににやけそうになる口元を必死に真一文字に結ぶ。
そんな私を見て、シェドは困ったように眉尻を下げた。
「…強引に悪かった」
「あ、あぁいえ…」
機嫌が悪いと受け取られたようだ。
シェドが私のことになると我を失うのは今に始まったことではないので、別にこんなことで怒ったりしない。
表情を緩めると、シェドはほっとしたように再び私の右手を取る。
それは先ほど私が見つめていた…朝市でリードにキスをされ、部屋では引き止めるべく掴まれた手だ。
辛そうな目をしながらも、触れる手つきは私を傷つけないように優しい。
…別にシェドの恋人でもなんでもないんだけど、浮気をしたようなバツの悪い気持ちになるのは何故だろう。
シェドは私の手に視線を落としたまま口を開く。
「あの少年を保護した経緯は母上から聞いている。
アカネは彼のことを前から知っていたわけではないんだろう?」
「ええ。まったくの初対面です」
「…はじめアカネは彼を買おうとしたと聞いた。
何がそんなに気に入ったんだ?」
さっきも同じこと聞かれたなぁなんて苦笑しながら、正直に答える。
「苦境の中で抗おうとする必死な瞳が気になったんです。
あとそうですね…以前話した夢の彼と…それが少し被りました」
その言葉に、シェドは弾かれたように顔を上げる。
「夢に出てきた男と同じ人物なのか!?」
「あぁいえ、違いますよ。外見も全く。
そうですね、うまく言えませんが眼差しが似ていたというか」
まさかそれが勇者と魔王という対極の存在だとは思わなかったけれど。
でも確かに小説でも最後の戦いのとき、二人はお互いの共通点に気が付いて攻撃の手が緩むシーンがあるんだよね。
あのシーン泣いたなぁ…ファリオンの葛藤が愛しくて。
しかしシェドは別人だという言葉に複雑そうだ。
「…ライバルが更に増えただけか…」
「ライバルって…リードは別に私のこと好きじゃないと思いますよ」
奴隷でいさせてくれという訳わからん要求はされてるけど。
「好きでもない相手に何故わざわざハンドキスなんかするんだ」
「いや…その意図はわかりませんけど…」
奴隷にやたらこだわっている彼の事だから、なんかそういう方向での意味じゃないかな。
決してシェドが気にしているような甘酸っぱい意図などあるまい。
「今は違ったとしても、きっとあの少年もすぐアカネを好きになる。
アカネは本当に…可愛いからな」
手をぎゅっと握ったまま、目を見てそんなことを言ってくる。
シェドの『可愛い』発言は前にも聞いたけれど、そう簡単に慣れるものでもなく…
「私のことをそこまで可愛いとおっしゃるのはシェド様くらいだと思いますが…」
照れ隠しに飛び出たのは可愛くない返事だ。
頬が熱い。
けれどシェドはそんな私をさらに煽るように顔を近づけてささやく。
「アカネ」
「…なんですか」
「呼び方、違うだろう」
言われて気付く。
ああ、そういえば前にそんな話を…
あれから二人きりになることが無かったからあれ以来呼んでいないけれど…
思い出して頬が熱くなる。
「……以後気を付けます」
「ダメだ。間違いはすぐ訂正しろ」
あぁもうなんでそういう事を…
羞恥に潤む視界で睨みつけた先には、私のことをたまらなく愛しそうに見ている男がいる。
そんな目で見ている相手の名前を呼んでしまうのは本当に正しいのか。
私たちはそんな関係ではないのに。
私が好きなのはファリオンなのに。
…名前を呼んでしまえば、シェドはますますその気になってしまうのに。
言葉にすれば少し傲慢なそれは、だけどきっと事実で。
でも駆け引きなんてできない私は素直に口を開いてしまう。
「…シェド」
その響きに満足したように彼は笑う。
そして私の手を取ったままその場に跪き、まるで神聖なものを扱うような仕草で指先にそっと口付けた。
月の光に照らされる中、春の風がその場に吹き抜け、桜吹雪が一斉に私たちに降り注ぐ。
昼間のハンドキスの記憶を上書きするかのように、鮮烈な光景だった。
もし冷静だったなら、出来すぎたシチュエーションに苦笑の一つもしたことだろう。
けれどこの空気に酔いしれさせるだけの力がその眼差しにはあって。
「アカネ。
俺はみすみす他の男にお前を渡すつもりはないからな」
私の脳内が熱暴走を起こすには十分な言葉だった。
跪いたまま私を見上げるシェドを、熱に浮かされたようにぼんやり見つめて何秒経ったのか。
『そんな目で見られると勘違いしそうになる』なんて先に視線を逸らされて我に返り、慌てて手を引っ込めた。
「な、なにしてるんですかっ…」
耳元で心臓がバクバク鳴っている。
うわ、嘘でしょ…私今、シェドに見惚れてた?
冷たい夜風は一向に顔の熱を冷やしてくれないものだから、顔を逸らすしか誤魔化す術がない。
赤くなった顔を手の平で覆うシェドは、なおも『頼むからそういう可愛い顔をこうも無防備に晒すな』なんてのたまう。
『からかわないでください』と言い捨てて踵を返す私を、苦笑気味の『おやすみ』という優しい声が追いかけてきて。
逃げるように自室まで駆け抜けた私。
部屋で待っていたティナはそんな姿を見て。
「あらまぁお嬢様…
随分とシェディオン様の自尊心を
満たしてきて差しあげたんですのね」
なんて言ってくる。
「何の話よ…」
「そのお顔と、それ」
そしてティナが指差したのは私の肩。
何かと見てみれば…
「あっ返すの忘れた…」
シェドのジャケットを羽織ったままだった。
「好きな女性が自分のことで顔を真っ赤にさせて
自分のジャケットを着たまま自室に戻るなんて、
男性からしたらたまらないでしょうね」
ティナはいやーんと肩を抱いて身をよじる。
何してんだアラサー。
そんな男性心理は知らないが、一体これはどんな顔をして返せばいいのか。
こうして、実はシェドの目論見通りな展開で、頭からすっかりリードとの事が抜け落ちた私。
未だに顔すら合わせたことのないファリオンと、目の前でストレートに想いを伝えてくれるシェド。
私は本当に自分の夢想を追いかけて、この人から逃げきることができるのだろうか。
ぼんやり不安になる夜だった。
この章はヴィンリードに焦点を当てて、シェドには大人しくしていてほしかったのですが…
何故こうなった。




