036その手を汚すのは2
知らない男性の声だった。
いや、それは誤りだ。
聞いたことがある。
随分前に……この人は……
記憶を手繰っている間に、ごろりと、何かが転がる音が耳に届いた。
「……掃除屋。ずっと俺達のそばをうろついていたのはこの為か」
これはファリオンの声だ。
わずかに震えている。
掃除屋と呼ばれた男性が、笑った気配がした。
「やはり泳がせてくれていたんですか」
「殺気を感じなかったからな。かえって気味が悪かった」
「ずいぶんな言い草だ。私はただ君たちの護衛を買って出ただけだというのに。そこのご令嬢が故郷に帰るときにも声はかかったのですが、魔女が捕まったからお役御免だと言われまして。ようやく訪れた機会だったんですよ」
アドルフ様が言っていた、次善策という言葉が脳裏をよぎる。
「護衛?お前が?掃除屋ではなく?」
「まあ、同じことです。言ったでしょう、いずれ借りは返すと」
「……俺のことを」
「魔王のことは、首領から全て聞いています。まぁ、もとより姿が変わっても、貴方の気配は独特だ。分かる人間には分かると思いますよ」
「……だから、この任務を受けたのか?」
「ええ、きっと貴方は躊躇うだろうと。私もそう思ったので。何せ私をわざわざ介抱するお人よしですからね」
ふと、錆臭さが広がっていることに気付く。
「その首は、いつぞやの礼に」
その一言で、何が起きたかを悟った。
手をかけることを躊躇ったファリオンの代わりに……この人が……シルバーウルフの掃除屋が……
足音は無い。
衣擦れの音さえも。
ただ、彼の声だけでその居場所がわかる。
視界を覆われている今、彼が言葉を発さなければ私はきっと彼の存在にすら気付けない。
これが、シルバーウルフ暗殺部隊のトップ。
「……」
「やれやれ、感謝しろとはいいませんが、そんな顔をされる筋合いはないんですがね」
「……わかってる」
「貴方は人が死ぬことを恐れている」
ファリオンが息をのむ気配がした。
「それを恥じ入る必要は無い。その手を誰かを守るために使うと決めたのなら、無理に手を汚す必要はありません」
声は次第に近づき、私の隣を通り過ぎていく。
「私には、それができなかった」
最後のつぶやきは小さく、彼が足音の一つも立てていれば聞こえなかっただろう。
私の背後にある扉の前のあたりで、声が振り返った。
「貴方のような人間がいるから私のような人間にも仕事が生まれる。貴方も上に立つ者ならば、手駒を上手く使うことを覚えると良いでしょう」
そう一言残して、相変わらず足音はおろか物音の一つもなく、その場からベルテンの声だけが消え去った。
ファリオンが緊張をとくのが、強くつかまれた肩越しに伝わってくる。
「……貸したもんを返されるどころか倍返しにされて借りを作らされた気分だ」
「ファリオン」
かぶせられた布をそのままに、ファリオンが強く私を抱きしめた。
「もし、エルヴィンを手にかけてたら。俺はこうしてアカネを躊躇いなく抱きしめられなかったかもしれない」
「……うん」
「剣は散々振るってきた。血で濡れたことだってある。魔物とはいえ、命をさんざん奪ってきたはずだ。なのに……」
「……人と魔物が違うのは当然だよ」
人を見ると襲ってくる習性があり、意思疎通もできない魔物と、言葉を交わせて情も交わせる、同族である人間。
その死に対して違う感情を抱くのは自然なことだ。
「……偉そうなこと言ったって、俺はまだ躊躇いなくこの剣を人に振るえない。アカネを脅かすに決まってる相手だっていうのに」
悔し気な声。
安堵と後悔が入り混じるその色。
ファリオンはもしかしたら、自分の手で決着をつけたかったのかもしれない。
「私はね、もしファリオンが誰かを手にかけても、汚らわしいとか思ったりしない。こうして無事に生きていて、こうして抱きしめてほしい」
「……」
「でも、きっと悲しいよ。ファリオンはたぶんずっとそのことを気に病む。ファリオンはその剣をずっと、人を守るために振るってきた。誰かを守るために別の誰かを殺すことが必要なんだとしても、簡単に割り切ったりできないファリオンが、私は好き」
その葛藤と躊躇いこそが、私が恋した勇者ファリオンの高潔な魂だ。
この世界のあなたも、魔王になっても、それが変わらないことがとても嬉しい。
「もし、いつか俺が誰かを殺したら……」
「うん……」
それ以上ファリオンは言葉を紡がなかった。
私は何も言わずにその沈黙を受け入れて、暗闇の中で目を閉じる。
もしエルヴィンがあそこで私を人質に取ろうとしたり、なにか危害を加えるそぶりがあれば……ファリオンはためらいより先にその命を奪っていたのかもしれない。
覚悟を決めきれないまま、その手を汚して、そしてこうして悩むことすらできずに黙って傷を背負ったんだろう。
ベルテンさんは、ファリオンの心を守ってくれた。
最高の護衛だ。
「……ベルテンさんにあの時のこと、謝れば良かったな」
「やめてやれ……」
古傷をえぐる行為だとファリオンに窘められた。
じゃあやめておくよ、なんて小さく笑ってから息をつく。
どんなに軽口をたたいても、鼻腔をくすぐる生臭い匂いが私に現実を突きつける。
「ねぇファリオン……私、やっぱり今でもローザのことは憎めない」
「……アカネ」
「姿は違ったけど、友達になったんだよ」
変な人だ。
どうしようもない人だ。
少年趣味の変態だ。
だけどナディア様の姿をしていたローザだってきっと彼女の一面だった。
ハルを交えて三人で笑って話していた時の姿が紛れもない彼女なら、私は彼女を好きだった。
「……また、お茶飲んでおしゃべりしたかったな」
ぐす、と鼻をすすってそう呟くと。
「あの、アカネ様……私、生きてるよ?」
「へ?」
気付けば近くに来ていたらしい声が響いた。
「あ、待って布は取らない方がいい。ていうかこの場から離れようよっていうか私はどうしたらいいんだ、ヴォルシュ侯爵。なんで私は見逃された?」
問い詰めようにも張本人すら混乱しているようだ。
そうだよね、だってローザはエルヴィンもろとも処罰される覚悟でファリオンを促してたし。
「掃除屋が依頼を受けたのはエルヴィンだけなんだろ。仕事外の殺しはしないのがプロだ」
「え、私殺されかけたことあるけど?」
「……まあ、趣味と仕事は別なんだろ」
趣味で殺されかけるとか笑えない。
「ローザ、お前の罪は消えない。でもエルヴィンと違って、お前は生きていた方が償いになる可能性がある」
ファリオンの言葉に驚いたのはローザだけじゃない、私もだ。
ずっとローザを敵視していたファリオンが、被害者の一人とも言えるはずの彼が、そう言った。
「……それは、私に……」
「貴女の叡智なら、きっと多くの人を救えるわ。傷つけてきた人よりもずっと多く」
呆然としたようなローザの呟きに、そう付け加えたのはマイルイの声だった。
「そうだ!マイルイ!?マイルイ大丈夫!?」
エルヴィンの記憶を見せられてからこっち、マイルイの存在を忘れていた。
ずっと大人しかったから。
「大丈夫よ。世界の記憶を読み取るなんて慣れてないから姿を保てなくなってたの。魔力泉も消えたことだし、もう大丈夫よ。助けてあげられなくて悪かったわね」
ローザは魔力泉もちゃんと消してくれたらしい。
外で起きていたかもしれない魔物騒動が落ち着くといいんだけど。
「そうはいっても姿は痛々しいままだな、大精霊」
「無粋な魔王ね。あ、アカネは布とっちゃだめよ」
みんなに念を押される。
いや、私も見たくなんて無いけど。
「とにかくマイルイもローザも無事なんだね?」
「私は無事と言っていいのか?三人が買ってくれるのは嬉しいんだが、たぶんどちらにしろ指名手配されてるだろう?」
「……それは」
まあ、たぶんされてるだろうなぁ……
「それはこの人に任せてみたら?」
マイルイのそんな言葉が聞こえた次の瞬間、爆音が聞こえた。
思わず音の方を振り返って布をどかすと、土煙の向こうに崩れた扉が見える。
そしてその奥には……
「ナディア様!?」
美しいブロンドに華やかな容姿。
年に似つかわしくない妖艶な雰囲気を持つ美少女がそこに居た。
服は質素なワンピースだけれどそれでもその美貌がかげることは無い。
細い眉をぎゅうっと寄せて、溜息をつく姿までもが艶やかだ。
「まぁまぁ、酷いところですわね。下僕ども、あれを片付けなさい」
おそらく私たちの背後にはエルヴィンの遺体がある。
しかしその光景を見ても面倒くさそうにそう言うだけ。
なんという胆力。
羽扇子をびしっと突き付ければ、彼女の背後に控えていた数名の男たちが無言で素早く動き出す。
「ど、どうして……貴女は隣の部屋に閉じ込めていたはず」
ローザが動揺する気配がした。
本物らしいナディア様はローザに目を向けると、ますます眉を顰めた。
「ああ、その無粋なネックレス外してくださる?ずっと気になっていましたの。ドレスにそれは似合わないわ」
「あ……」
ローザはナディア様の姿をしていた時の姿のままだ。
ドレスはナディア様のものだけど、ネックレスはローザが作った魔術具。
王女様の美的センス的にその組み合わせはアウトらしい。
細い指がひょいとローザの首からネックレスを奪う。
「全く。よくも汚らしいところに何か月もとじこめてくれましたわね」
隣の部屋に閉じ込められていたというナディア様。
おそらく隣もこんな土を掘っただけの暗く狭い部屋なのだろう。
生粋の王女様がよく耐えられたものだ。
「まあ、食事は悪くありませんでしたし、時々来てくれた貴女のお話も興味深かったですけれど」
ローザはきっちりナディア様のお世話をしていたらしい。
ハルのことも気にしていたし、巻き込まれた王子と王女のことはずっと心配していたんだろう。
「まあ、おかげで何が起きていたのかはすぐ理解できました。記憶さえ戻れば下僕を呼ぶなど造作もないことですわ」
下僕下僕と先ほどから呼ばれている男たちは、格好こそ違うけれどたぶんお城の騎士なんじゃないかと思う。
しかし下僕と言われるたびに恍惚とした表情でナディア様を見ているので、ちょっと騎士としてはアウト。
王女様、部下に対してどういう教育をなさっているの……
「ローザ・ベネディクトと言ったわね」
いつの間にか跪いていたローザに、ナディア様はぐっと顔を近づける。
「お前、覚悟はできているのよね?」
「……はい。処罰はいかようにも」
「よろしい!その返事を待っていたわ」
ナディア様はいい笑顔でそんなことを言う。
本物のナディア様と会うのは初めてで、その人物像はよく分からない。
奔放な方だと聞いてはいたけれど、ローザに情けをかけてくれるものかどうか……
「お待ちください、ナディア様!お怒りはごもっともですが、ローザは……」
「貴女がアカネ様ね?貴女も被害者の一人のようですから口を挟みたくなるのはわかりますが、わたくしは何か月も閉じ込められていましたの。この者へ償いをさせるのはわたくしが先です」
……ん?先?
先ということは、後があるということで。
「ローザ、貴女わたくしの代わりに学園へ通っていたのよね?」
「は、はい」
「貴女こんなことができるほど頭が良いのですもの。成績はきっとよろしいのよね?」
「周囲に怪しまれない程度にしておりましたが……」
「怪しまれて結構!今からでも講義を増やして卒業単位をとっておしまいなさい!それまで影武者は頼みましたわよ!」
羽扇子を広げ、にっこり微笑んでそんなことを宣った。
「え、えっと?」
「文句は言わせませんわ。これは償いよ。ああ、それにしても良い身代わりが飛び込んできてくれたものですわ。本来の私の影ったら、私が少しお出かけをするためにアリバイ作りを頼んでもすぐお兄様たちに報告してしまうんだもの。最後にはしばらく影と会うななんて取り上げられてしまって。お父様に至っては、そうでなければ学園にまで影を代わりに通わせそうだなんて当たり前のことを言ってくる始末。困っていたのよ」
「ナディア様……」
「まさかどこの誰とも知れない怪しげな研究者が自ら身代わりを買って出てくれるとは思わなかったわ」
ナディア様は嬉々としてそんなことを語る。
ローザへ温情をかけているのかとも思ったけれど、この様子を見るに本当に喜んでいるようだ。
……奔放な人だと言うのは事実だったらしい。
しかも想像以上にダメな方向で。
どこの誰とも知れない怪しげな研究者を自らの影武者にするなど正気だろうか。
「お前が学園に通っている間、わたくしはお前の姿で悠々自適な生活を送らせてもらいましょう。閉じ込められていた哀れな娘に向かって、お兄様たちも学園に通え、公務をこなせなんて無体なことはおっしゃらないはず。けれど対外的にこの事件は明かせませんから、わたくしの影が学園に通う必要があるはずですわ。わたくしの代わりに優秀な成績で卒業してくれる影、素晴らしいですわね!」
扇子に頬を寄せてうっとりと独り言を続ける王女様。
その間にも部屋の中の片づけは続き、いつの間にやらエルヴィンの遺体も道具の数々も運び出されていた。
がらんとした地下室の中で、王女様がにっこり微笑む。
「無事卒業出来たら解放しましょう。アカネ様並びに他の方への償いはその後ですわ。わたくし優先よ」
ローザは目をぱちくりさせている。
「……えっと、私を生きて帰してくださるのですか?」
「ええ、まあ、結果的にわたくしそんなに困っておりませんし。貴女の姿をしていた時はやつれていたけれど、そっくり体が戻ったので体調も悪くありませんし。あらでもちょっとお肌が荒れてるわ。夜更かしはしないでほしかったですわね。わたくしの元へ来ていたのも深夜だったのでしょう。地下で時間なんて分かりませんでしたけれど、王女のわたくしが抜け出すには夜が一番ですもの」
自分の体を乗っ取った犯人に向かって呑気な文句を言う王女様。
紛れもなく大人物である。
なんたって……
「そうそう、影を任せるには一つ条件がありますわ。このネックレスがわたくしと入れ替わる魔術具だと言っていましたわね?このデザインはわたくしの好みではありませんの。わたくしが選んだネックレスに付与し直しなさい。できるわね?」
世界の記憶なんて言うとんでもないものに干渉するとんでもない魔術具を、気軽に作り直させようとしているのだから。
いや、そこまで知らないのかもしれないが。
「世界の記憶に触れるようなものなのですから、もっと見栄えに気を遣ってほしいものだわ」
知ってたわ。
いつもご覧いただきありがとうございます。
ベルマンはこのシーンの為に登場させたキャラクターです。
このためだけにアカネから強烈な一撃を食らう羽目になった彼にどうか大きな拍手を←




