035その手を汚すのは1
「……嘘でしょう」
私は思わずそう呟いていた。
「もう戻って来たのか。やはり世界の記憶となじみやすい体は読み取るのが早いらしい」
そんなエルヴィンの声はろくに耳を通っていなかった。
だって私は衝撃を受けている。
この……この人を人とも思わぬろくでなしが!あんな好青年だったなんて!
「なんで、なんでこうなっちゃったの」
「世界の記憶と強い繋がりを持っているはずの君でもまだ知らない話だったかね?魔王とは、神がこの世界を滅ぼすべく生み出した存在だと竜の王がそう言ったのだ」
強い繋がりというのは世界の記憶との話だったらしい。
だけど今はそんなことどうでもいい。
「あのまま真っすぐ育ってればきっとイケオジになってたのに!」
思わずエルヴィンをにらみつけてそう叫ぶ。
そうしたら、きっとアンナが委縮してしまうことも悲し気に笑うことも無かったのに!
あ、でもそうしたらアンナとアドルフ様が無事結婚しちゃって、ドロテーアの入る余地が無くなっちゃうのか。
幸せそうなドロテーアの表情を思い出し、それはそれで困るなと額を押さえた。
「……何の話をしている?」
「ちょっと黙ってて。私は今、友人二人が幸せになる道を模索しているの」
「何故今友人の心配をしているのかね。私の記憶を読み取ったのではないのか?」
「読み取ったわよ。とんでもない出会いをしたのね。その結果、私の友人の一人が不幸になり、また別の友人が幸せになろうとしていることに思い至って愕然としてるのよ」
「なぜそう思い至ったのかは全く分からないが、神が魔王を生み出したという事実に思うところは無いのか?」
「魔王の魂が魔術具だって聞いた時から、神様が作ったのかもとは思ってたわよ」
確かに、ショックな話ではある。
マイルイが懸念していた通り、神様は消えてしまった。
そしてその神様が残した魔術具……ヴァールこそが魔王の魂で、歴代の魔王を見て分かる通り多くの人を殺めているのだから。
「……でも……」
本当に、神様は人を滅ぼしたいと思っているのだろうか?
どうにも引っかかる。
「まあいい。これで私の考えは理解してもらえただろう?人類は大きな歴史を失っている。神という偉大なる存在、その叡智、そしてこの世界がたどる運命。知るべきことを知らないまま安穏と生きていた日々がどれほど愚かしいことか、今の君になら分かるはずだ」
「いや、分かんないから」
確かに知るべきことは多いと思う。
だけどだからといってエルヴィンの行動を良しと思えるはずもない。
同意などしたくない。
これがただの聖遺物研究や歴史研究で、誰かの犠牲の上に成り立つものでなかったのなら返答も変わったのに。
しかし私の言葉が予想外だったらしいエルヴィンは血走った眼を見開いた。
「何故だ!?私に協力すればその力を有効活用してやれる。世界の理を知れば世界を握るも同然だ。覇権を握らせてやってもいい。世界の果てに眠る財宝だって見つけられるやもしれぬ。そのすべてを君は手にできるぞ!」
「は!?富の為にこれだけのことをしてきたの!?」
結局ほしいのはそれなのか。
そんなことのために、一体どれほどの犠牲を。
そう思って叫ぶも、予想外にエルヴィンは激昂した。
「私を愚弄するなぁ!」
あまりの大声に体が強張る。
正気を失ったように息を荒くし、エルヴィンは私をにらみつけた。
「私は真実を知りたいだけだ。世界の理に触れる、それは神話と一体化すること。その崇高な目的の前に、金銭など些末なこと!私は対価を示しただけだ!」
「怒鳴らないでよ!分かったわよ!だけど……私だって富なんかいらない!あんたの非道な実験に力なんて貸せない!」
私の明確な拒絶を受けて、それでもエルヴィンは笑った。
「そうか、富などいらないと。ならば君の望むものを共に探ろう」
「私の望むもの……?」
「魔王……君の愛しい婚約者は、魔術を使うと正気を失うのだろう?魔術決闘の折に見た限りでは、君でもなかなか御しきれていないようだ」
「それは……」
「魔王の逸話は数あれど、君のように魔王を抑え込める力についてはまだまだ未知数。力を貸してくれさえすれば、彼の力を安定させる術を見つけることも不可能ではないと思わないかね?」
その言葉に、一瞬ぐらついた。
本当はずっと怖かった。
あの時みたいに、ファリオンはきっといつか魔術を使う。
誰かを守ろうとしたときにきっと。
そしてその時また、彼が戻ってきてくれるのか、連れ戻せるのか、自信が無かった。
「世界の記憶に触れられるようになってから、君が世界の記憶に太いパイプを持つ人間であることがわかった。もともとその強大な魔力は気にかかっていたが、それを知ってますます君の存在は興味深くなったのだよ」
嬉しくないです。
「影移しの魔術具はもう一つある。君の血を取り入れ替わることも考えたが、君のその力が魂に依存するものであれば、入れ替わったところでその能力が手に入らない、あるいは失われないとも限らない。できれば君が積極的に協力してくれると助かるんだが」
「血を……って……」
そして思い返す。
ジェラルド王子の姿をしていたエルヴィンの行動は、私になんとか近づき、懐柔しようとしていたのではないか。
中身がこの男だったのなら、ただ純粋に私に好意を寄せていたなどあり得ない。
「何、一滴でいいのだ。大怪我を追わせたかったわけではないよ。とはいえジェラルド王子の姿で近づいても君の周囲のガードは固かったがね。妙に勘のいいメイドに阻止されるわ、ハンドキスに見せかけて取ろうにも魔王が割って入るわ……」
棘のついた花束やハンドキス、私へのアプローチに見せかけてまさか血を採取されようとしていたとは。
ぞっとする。
エレーナ達が居てくれてよかった。
「まあ、さきほど私の記憶を見てもらっている間に採取できたのだが」
「!?」
エルヴィンが手元で指輪を転がす。
慌てて手のひらを見てみると、人差し指に小さな切り傷が出来ていた。
記憶があまりに衝撃的だったために、気付かなかったようだ。
この人の前で意識を飛ばすなんて危険だとわかっていたはずなのに、まんまと策にはまってしまった。
「さて、どうする?私に乗っ取られるか、それとも快く協力し、君の愛しい魔王を救うか」
酷い二択だ。
どちらにしろエルヴィンに協力するしかなくなってしまう。
だけどもし、前者を選んでしまえばエルヴィンが何をするかわからない。
私の大切な人たちに、私の姿でこの男が近づく。
考えただけで恐ろしい。
ファリオンは……ファリオンは気付いてくれるだろうか?
もし私がこのエルヴィンの姿になってしまったとして、一目見て私だと……
一瞥もされずに処刑される、が一番確実な未来だろう。
ぐっと拳を握る。
それならまだ、自分の意思の介入余地がある後者の方が……
意を決して口を開いたその瞬間。
「話にならねーよ」
不意に隣でそんな声が聞こえる。
振り向けばそこには、金髪の美丈夫が立っていた。
「ファリオン!」
しかしそんな私の声を搔き消すような苦悶の声が響いた。
慌てて視線を戻すと、指輪を手にしていたはずのエルヴィンの手から血が流れている。
ファリオンの手には切っ先に赤いしみのついた剣が握られていた。
「こんな気色悪いもん作りやがって」
バキ、とファリオンの足元から高い音が響く。
その靴の底に踏みつけられているのは、紛れもなくさっきまでエルヴィンが手にしていたはずの指輪だ。
なるほど、それを奪ったのか。
早業だ。
「卿……!」
ローザがエルヴィンの腕を取り、急いで止血を始めた。
何だかんだで放っておけないらしい。
「くそ……何故こうも早く……!」
「俺はアカネのことならすぐにわかんだよ」
エルヴィンの呻きに、何でもないことのように返すファリオン。
何それカッコいい。
しかしエルヴィンは失笑した。
「ああ、なるほど……魔力泉が仇となったか。魔力泉の中心がどこか、魔王なら魔物を使えばすぐ見つけられそうだな。うかつだった」
「……それがなくたって、俺はアカネを見つけてる」
あっさり種明かしをされたファリオンが不満げにそう呟いた。
何これ可愛い。
エルヴィンは額に脂汗を浮かせつつも、笑みを浮かべて見せる。
「今からでも遅くはない。ファリオン・ヴォルシュ。君も含めて協力してくれれば、君たちの悩みの解決に私も尽力する。手を組もう」
「ふざけんな。俺の力を抑えるためにどれだけの犠牲を払わせる気だ。お前の罪は重すぎる」
「ハッ……笑わせてくれる。魔王が発現すれば私の実験など笑い話にできるほどの犠牲が出るだろうに。分かっているぞ。君は今でこそ彼女の力で抑えられているが、いつ歴代魔王と同じ魔物の王になってもおかしくない。彼女の力の原理さえ解き明かせれば、彼女に負担を強いることもなくなるのだよ」
エルヴィンがそう説き伏せるように口にしても、銀色の瞳は揺らがない。
「その危険があれば……犠牲を生む前に、一人が死ねば済む話だ」
その言葉に息をのむ。
それは……その一人は。
「そもそも、どんな仮定のもとにおいても人の死が笑い話になることなんてない。どんだけ命を軽く見てんだ。アカネ、こんな奴に手を貸すなんて考えるなよ」
そう続けられて、はっと気づく。
自分の知識欲の為に多くの人々の命や人生を踏みにじってきたエルヴィン。
そんな男に、私は手を貸そうなんて考えていた。
「ごめん、目が覚めた。でも、ファリオンも一人の犠牲があればいいなんて言わないで」
「分かってる。……いいか、どんなに高尚な研究だって、社会を踏みにじるなら社会に必要とされない」
ファリオンの言葉に、ずっと隅で様子をうかがっていたローザがピクリと体を震わせた。
怯えるように。
それはきっと、自分の信念を揺らがされるような心地なのだろう。
自分がしてきたことすべてを、否定されるかのように。
だから私は口を開く。
「だけど、もし誰かの為を思って研究をしている人がいるなら、それに味方する人がいる社会であればいいと思う。間違えそうになるなら、あるべき姿を共に考える協力者に私はなりたい」
「アカネ……」
「ごめん、ファリオン。エルヴィンとローザは違う。私は彼女を憎めない。だってローザはずっと、私に助けを求めてた」
「助けを?」
「カデュケートに居た時からそう。何度もローザは私に接触してきた。ファリオンや護衛が傍にいた一回目はともかく、路地裏で会った時はローザが私を害そうとするならいくらでもできたはず。だけどそうしなかった。図書館で会った時にも、血を取るとか昏倒させるとか、ローザならきっとすぐにできたよ。それなのにそうせずに、パラディアに来た方がいいなんて言ったり、研究室に資料を残したり……私には、見つけてほしかったようにしか思えない。ハル・シュマンの姿をしたジェラルド様に引き合わせたのだって、止めてほしいって言ってるようにしか見えないの」
「黙れ!」
私の言葉にかぶせるように絶叫したのはエルヴィンだった。
「ローザ、耳を貸すな。お前の研究を無下にした貴族連中の言葉など信じてはいけない!」
「卿……」
「場を改める。ローザ、逃げるぞ!」
そう言ってエルヴィンが顎をしゃくるも、ローザは泣きそうな表情のまま動かない。
「何をしているローザ!脱出の魔術具を起動しろ!お前の足元に転がっているそれだ!まさかそれまで失敗作だとでも言うつもりなのか!」
「エルヴィン様……もうよしましょう」
力ない声で、しかしローザは確かにそう呟いた。
「何を言っている!」
「貴方は世界の理に近づけると言った。叡智を手に入れれば人々を救えると思った。私の研究も認められると。だけどどうだ。多くの人を犠牲にして、私達は追われる立場だ。こんなの……」
「ローザ……」
私の呼び声に応じて、ローザが顔を上げる。
「ごめんなさい、アカネ様。貴女を巻き込んでしまって。学園で、ナディア姫としてアカネ様と過ごした時間は楽しかった。本当に。友達になりたかったと言ったことは嘘ではないよ」
「この役立たずが!」
吐き捨てるようなエルヴィンの言葉に、ついに耐えきれず私は一歩踏み出す。
「役立たず?ふざけないでよ!」
慌ててファリオンが私を制止するように腕を伸ばすけれど、それくらいでこの怒りは収まってくれない。
足元にちらばった紙束の数々は、以前見たローザの筆跡と同じ。
どれほどあるのだろう、転がっているガラクタの山に見えるものだって、きっと彼女の作った試作品だ。
膨大なそれを見れば、彼女がどれだけの熱意を傾けていたのか分かる。
瞬間移動も空間収納も、どれだけ世の中の役に立つことか。
彼女が作ったという魔術具は殆どが、誰かの為に作られたものだ。
自分の利益の為じゃない。
エルヴィンではない誰かが彼女を後援していたら、きっと彼女は多くの人々に称賛される研究者として返り咲いていただろう。
「ローザは人を救える人!これ以上貴方が利用することも、愚弄することも許せない!」
私の言葉と同時に、ローザの瞳から涙がこぼれた。
そして微笑み、唇を開く。
「ファリオン君……いや、ヴォルシュ侯爵。もう幕を引いてくれ」
「ローザぁぁ!」
エルヴィンの怒鳴り声を受けても、ローザはもう表情を変えなかった。
黙って後ろ手に壁を這っていた紐の一本を引くだけ。
怒りに任せたエルヴィンが飛び掛かろうとした瞬間、それを阻むように左右にあった木材が組みあがってその体を拘束する。
「な、なんだこれは!」
「動けないでしょう、卿。貴方は聖遺物に連なるほどの性能を持った魔術具以外、関心を示してくれませんでした。けれどそれは魔術具ですらない。ただの道具です。貴方が馬鹿にしていたただの道具でも、敵を拘束するくらいできる」
「敵だと!?貴様……!」
エルヴィンの体が光る。
魔術の光だと気づいて身構えるけれど、ローザは顔色ひとつ変えずに手を伸ばした。
「お忘れですか。貴方は魔術がうまくない。魔術師でもない私がこうして容易く抑え込めるほどに。」
ローザの手から放たれた黒い霧が光ごとエルヴィンを包み込む。
霧が晴れた時、エルヴィンは眠ったように目を閉じて大人しくなっていた。
「……貴方がこれまで大事を為せたのも多くの支持者があってこそ。その支持者を容易く手折ってきた結果がこれなのです」
「こ、殺したの?」
「いいえ、まだ。私が殺して差し上げて贖えるほど、彼の罪は軽くないので」
淡々と語るローザに怒りや憎しみの色は無い。
ただただ、悲しそうにエルヴィンを見つめている。
「ローザ」
「有難う、アカネ様。貴女のおかげで目が覚めた。もう遅いかもしれないけれど、虫がいいかもしれないけれど、最後くらいは私の信念を貫こうと思う」
そう言って、ローザはファリオンに向き直った。
「ヴォルシュ侯爵、どうか、私と彼を止めてください。貴方なら……魔術も魔術具も使わず、私たちの幕を引けるでしょう」
ローザの視線は、ファリオンが手にした剣に向けられている。
それを受けて、ファリオンは唇を引き結び、前方に構えた。
パーティーでは帯刀していなかったはずだ。
おそらく私を探す前に持ってきたのだろう。
それはつまり、こうなることも考えて。
「ああ、もちろん魔物を使ってもらっても構いません。貴方の気が楽な方で」
「……剣でも魔物でも変わらない。魔物をけしかけたって、その命令を出したのが俺なら、殺したのは俺だ。人の死は笑い話にならない。お前とエルヴィンだって同じことだ」
「貴方のそういう真面目なところは幼いころから変わりませんね。お手を煩わせてすみません……せめて、私たちを仕留めた功績だけでも、貴方に」
「余計な気遣いだ」
ローザは場違いなほど穏やかに微笑んでいる。
対してファリオンの表情は険しい。
銀色の瞳が細められ、頬に汗が伝うのが見える。
その手はわずかに震えていた。
そして気付く。
ファリオンは強い。
多くの戦闘もこなしてきたし、人の護衛をしていたこともあったという。
だけど人を殺したことはあるのだろうか?
ローザの口ぶりはそれをファリオンに望んでいる。
でも、もしファリオンが二人を殺すつもりでここに来たなら、あの時ファリオンの剣はエルヴィンの手ではなくもっと他の場所を狙っていたはずだ。
だけどそれをしなかった。
そもそも、ファリオンが人を殺したことって……
四代目魔王……ファリオンのお父さんが魔王の魂を受け入れた時の記憶がよみがえる。
もし、彼にとって人を殺した経験があれだけなら。
「ファリオン、やめ……」
彼の心を壊してまで、この二人を殺める必要なんてないじゃないか。
確かにローザはともかく、エルヴィンは生きている限り何かをしでかしそうだ。
彼の心はきっと刻竜王に記憶を流し込まれた時から壊れてしまった。
そしておそらくは司法の目から見ても、死を免れないほどの罪を重ねている。
だけどその後始末をどうしてファリオンがしなければいけないの。
本当は……どんな悪人相手だって殺したくないと思うほど、とても優しい人なのに。
そうして制止しようとした私の声は途中で止まった。
視界が何かに覆われたからだ。
布か何かが被さっているのだと気付いた時、それを外そうとする私の手を誰かが押しとどめた。
「……そのままにしておきなさい。君の婚約者が許可を出すまで」
「え?」




