140ファリオンとヴィンリード
<Side:アカネ>
ホワイト・クロニクルがどうとか魔王の願いがどうとか、ヴィンリードとハイルさんにはさっぱり分からないであろう話をし続けてしまった。
それでも二人は空気を読んでキリのいいところまで我慢してくれたらしい。
とりあえず私は人前でイチャついてしまった事実を受けて、入れる穴を探したい気持ちでいっぱいです……
いつだったかも見たような光景で現実に引き戻されたものの、あの日と違ってファリオンは離れた私の側にすぐ寄ってきてその手を掴んでくる。
片時も離さないとでも言うような仕草に、顔が熱くなった。
そんな私達を鬱陶しそうに見ながら、ヴィンリードが立ち上がる。
その顔立ちはこの一年半、ずっと私の側に居た奴隷のものだけど、中身が変わっただけでその印象は全く違う。
どこか気だるげで人を食ったような雰囲気は紛れもなくヴァンと同じだ。
ヴィンリードが私たちに背を向けてハイルさんに向き直る。
それまでニヤニヤしながら私達を見ていたハイルさんは、それを見て笑みを穏やかなものに変えた。
「首領……有難う。おかげでヴィンリードに戻れた」
「おう、ヴァンっつー名前に間違いはなかったな。ワインみてぇないい色の目だ」
「本当は赤い目だった気がするって言っただけでヴァンなんて名前つけられるとは思わなかったけどな」
ああ、やっぱりワイン由来のその名前は、赤い目から来てたのか。
「ファリオンって名前は嫌だったんだろ?」
「俺の名前はファリオンだって思うのに、絶対俺の名前じゃないって感じてたからな」
影移しの効果だと言うその暗示は、どうやら完璧なものではなかったらしい。
入れ替わった後も、彼はずっとその違和感に悩んでいた。
名前も容姿も、本当の自分とは違う気がするなんて、気持ち悪かっただろうな。
唯一の救いは、その訴えを真剣に聞いてくれる人が側に居たことだ。
「こんな荒唐無稽な話を信じてくれて…本当にありがとう」
「息子の話を信じるのは当然だろ。ヴィンリード」
本当の名前を呼んでもらえて、照れくさそうにヴィンリードが笑みをこぼす。
そしてハイルさんは、ファリオンに視線を戻した。
「おう、魔王。俺の息子をよく振り回してくれたな。俺らの記憶までいじりやがってよ」
「……悪かった」
どんな事情があろうとも、ファリオンがヴィンリードの日常を壊したのは変わらない。
ハイルさんがいなかったら、ヴィンリードはずっと違和感に悩んだまま誰にも打ち明けられなかったかもしれないんだ。
ファリオンは素直に頭を下げた。
「でも、この紙をどこで?」
いつの間にか床に落とされていた紙。
真っ二つに破かれたその紙こそが、二人の姿を入れ替えていた魔術具だそうだ。
「迷宮の奥だよ。おそらくお前さんが本来行くべき魔王の部屋だ」
「もう用意されてるのか……」
「おう、礼は無しか」
「礼?」
「とっとと見つけて決着つけてやった礼だよ。嬢ちゃんにもこんな顔させやがって」
急に全員の視線がこっちに向いた。
まだ目元に涙が残っていたのを思い出して慌てて拭うけれど、もう遅い。
ファリオンは困ったように前髪を引っ張る。
ああ、リードだった時に何度か見た仕草だ。
「アカネ、ほんとに悪かった」
「……私は別にいいよ。でも、ヴァン…ヴィンリードとハイルさんには、どうしてこうなったのかちゃんと話すべきだと思う」
「そうだな……」
「ま、立ち話もなんだ。全員座れや」
ハイルさんの言葉に従って、教会の椅子に四人で腰かける。
「それで、何でこんなもん使うことになったんだよ」
そう問いかけるヴィンリードの声は刺々しい。
無理も無い。
一年以上も記憶を失った状態で別人として過ごす羽目になったんだから。
問いを向けられたファリオンは破れた紙に視線を落としながら口を開いた。
「ファリオン・ヴォルシュ以外の誰かになりたかったからだ」
「……俺じゃなくても良かったのか」
「言い訳はしない」
「何があった」
ヴィンリードは眉根を寄せながら、詳細を促す。
なんとなく思う。
彼はあえて問い詰めるような言葉を選んでいる。
ファリオンが言い訳をしやすいように。
それに気付いているんだろう、どんな文句も黙って受け入れると言うような姿勢だったファリオンは、細く息を吐き出してからポツポツと語り出した。
「そうだな……そもそも俺は、誰かを傷つけてばかりで。別の誰かになることで自分の無力さから抜け出したかったんだろう」
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<Side:ファリオン>
俺はヴォルシュ家の嫡男として生まれた。
なかなか子供を授からなかったらしい両親は、念願の息子である俺をとても大切にしてくれた。
母は体が弱かったが優しく意志の強い人で、父をいつも言い負かしているような女性だった。
父は困ったように笑いながら『敵わないな』と言って母を抱きしめる。
今思い返しても幸せな家庭だ。
それを壊したのはアーベライン侯爵の暴走。
ついに俺達の屋敷も囲まれた時、父に異変が起きた。
何も居ない宙に向かって話しかけだしたのだ。
悲痛なものを見るように顔をゆがめる母と使用人達。
でも俺は、別の気配を感じていた。
小さい頃から普通の子供より魔力が高く、敏感だったせいもあるだろう。
強い力を持つ何かがそこにいると感じたんだ。
それに禍々しさは感じなかったが、父が決定的に変わってしまうという漠然とした予感はあった。
希望にすがるように手を伸ばす父の姿を見た瞬間。
俺は咄嗟にその強い力を跳ねのけようとした。
禁じられていた、光魔術を使って。
その場で何が起きたのか。
俺は一体どんな魔術を使おうとしたのか。
よく分からない。
ただ、俺の魔術が暴走したことだけは確かだ。
屋敷は爆発ではじけ飛び、アーベライン侯爵もろとも全ての人間が死んでしまった。
ジーメンス家に飛ばされた俺と母を除いて。
父は俺と母がジーメンス家へ逃れることを願った。
俺の魔術の暴走と、その願いが叶ったのはほぼ同時だったのだろう。
魔術だけがヴォルシュ伯爵邸に残され、俺本人は無事にジーメンス家へ飛ばされたのだ。
俺を抱きしめていた母は、俺から魔術が放たれる瞬間を目撃してしまっていた。
息子が多くの人間を殺めてしまったという事実が、もともと体の弱かった母に止めを刺した。
ましてやこの時、父もその被害にあったと思われていたのだから当然だ。
俺はなんとなく父は無事だと感じていたし、実際魔王になってからそれが事実だと分かった。
父は俺の魔術を感じ取った瞬間に防御魔術を展開していたのだ。
優秀な光魔術の使い手だった父は、魔王の魂を受け入れて魔力が乱れた状態でもある程度魔術を使用できたらしい。
おかげで命は守られたが、代わりに魔王の魂の受け入れが完了する前から魂に飲まれ、正気を失うことになった。
魔王になったことで空間魔術も扱えるようになった父はその力で迷宮へと転移し、魂が馴染むまで迷宮で臥せっていたようだ。
しかし、そんな話を知る由も無い母に父の生存を信じさせることなどできはしない。
仮に父が無事だったとしても、俺の魔術が多くの人間を殺したのは事実。
おそらくそれがなければアーベライン侯爵の手で虐殺が行われただけだろうが、それは仮定の話であって、俺の罪が消えるわけではない。
母からその話を聞いた伯父のジーメンス子爵は、離れにある小さな小屋へ俺と母を押し込んだ。
いつ暴走するともしれない力を持つ甥。
しかもアーベラインの事件の生き残りとなれば、トラブルの元でしかない。
日に一度使用人が食事を届けに来るが、俺を恐れるようにすぐ帰っていく。
俺達の世話をまともにしてくれる人間はいなかった。
「俺がいなくなれば、母上だけなら屋敷で世話をしてもらえるかもしれない」
そう口にした俺を、母は叱りつけた。
「たとえ人を殺めても、貴方は私の息子よ。ファリオンの罪は私の罪でもある。自分ひとりが犠牲になればいいなんて思わないで」
そうは言っても隙間風の吹く埃っぽい小屋の中で母が養生できるはずもない。
かといって俺がいなくなれば心労に追い打ちをかけてしまいそうで結局離れることもできないでいるうちに、母はあっという間に弱っていった。
俺は治癒魔術くらいなら安定して使用できたが、治癒魔術は解毒や怪我といった急性の症状には効いても、慢性的な病気や疲労にはほとんど効かない。
それを除いても、言いつけを破って魔術を使い、人を殺めた俺だ。
母は二度と魔術を使うなと俺に厳命した。
そうなればやはり、病気の治癒に特化した医者を頼るしかない。
子爵に医者を呼ぶよう願ったが、俺達を匿っていることを隠したい彼は首を縦に振らなかった。
本音で言えば、早く俺達に死んでほしかったのだろう。
自ら俺達に手をかけなかったのは、彼のせめてもの良心だったのだと思う。
ヴィンリード・メアステラに出会ったのはその頃だ。
「何をしているんですか?」
医者を頼んで断られるという半ば日課になりつつあるやり取りを終えた後、子爵の庭に生えている薬草をこっそり摘んでいた俺。
背後から声をかけてきたのは、見覚えのない銀髪の少年だった。
年は俺と同じくらいだろうか。
少年の後ろには人見知りしているらしいさらに小さな少年が隠れている。
「……薬草を」
「薬草?えぇと、貴方は子爵のご子息ですか?」
「違う」
今の俺達の関係は、もはや親類とも呼べないものだろう。
「赤の他人だ」
俺が貴族の子供ではないと確認がとれたからか、少年は気が緩んだように笑った。
「あぁよかった。庭で遊んでいていいなんて言われたものの、貴族の子息がいたら気を遣うから。君が貴族なら馬車に戻ろうかと思ってたんだ。僕はヴィンリード・メアステラ。こっちは弟のヴェルナー。君は庭師の子供かな?」
庭師じゃないし貴族だ。
しかしそう言い返したりはしなかった。
今の自分の状況でそう言い張るのがどれだけ惨めなことか分かっていたからだ。
彼が名乗った姓は、俺でも聞き覚えがあるものだった。
「……メアステラ?」
「知ってるかな?これでも王室御用達の商家なんだけど」
ヴィンリードは誇らしげにそう言った。
知っている。
王家や貴族に重用されている、一代でなりあがった商家だ。
うちにも何度か来ていた気がするが、俺と同じくらいの子供がいるとは知らなかった。
美術品に興味の無い俺は、商人がやってきてもほとんど顔を出さなかったのだから仕方ない。
剣を振ったりこっそり魔術の練習をしている方が楽しかったからな。
「メアステラ家なら、薬を用意できるか?」
「薬?なんの薬?」
「……わからない」
俺は医者じゃない。
今の母に必要な薬が何なのか、見当もつかなかった。
むしっていた薬草も、ただ滋養強壮にきくと言われているだけのもの。
腹の足しになる程度だ。
「流石にそれだけの情報じゃ用意できないな……でも必要としている人の元へ必要としている物を届けるのがうちのモットーだ。後で父さんに相談してみようか。もちろん相応の代金はもらうけど」
その言葉を聞いて首を振った。
「いや、いい。忘れてくれ」
金ならある。
現金はないが、父に持たされたままだった短剣が手元にある。
宝石もついた豪華なものだ。
売ればそれなりの額になるだろう。
しかし家紋が入ったあの短剣は、母が父の形見だといって毎日眺めているから取り上げられない。
何より、ヴィンリードが父親に相談したところでジーメンス子爵の耳に入れば妨害される。
こうして今俺と言葉を交わしているのも、彼の怒りに触れる状況だろう。
商人だと聞いて焦ってしまった。
俺と接触したことが商談に影響して、ヴィンリードが怒られることになっては忍びない。
腰を上げ、小屋へ足を向けた。
「俺はもう行くから、好きに散策してろよ。花や畑は荒らすなよ」
薬草をむしってた俺が言う事じゃないが。
「客先でそんなことする商人はいないよ……必要な薬が何か分かればまた連絡してほしい。相応の代金はもらうけど」
「わかった、わかった。またな」
またな、なんて言いながら。
もう会うことはないと分かっていた。
母が息を引き取ったのはその一週間後だ。
たとえメアステラ家が医者や薬を用立ててくれたとしても、もはや手遅れだったのかもしれない。
=====
そこまで話したところで、ヴィンリードから待ったがかかった。
「……俺、そんなこと言ったか?」
「記憶戻ったんじゃないのか?」
「戻ったけど覚えてない」
「まぁ、お前にとってはよくあることだったんだろ。貴族の家を回るなんて日常茶飯事だっただろうし」
「まぁなぁ……」
俺たちの会話が切れたのを見計らって、アカネが声を上げる。
「あの、お母さんはどうなったの?」
「……遺体は子爵が引き取った。せめて埋葬はしてくれたと信じてるけど、詳しくは知らない。俺はすぐに追い出されたからな」
=====
「これ以上のトラブルはごめんだ。頼むから私を巻き込まないでくれ」
領地のはずれへ俺を連れて行った子爵は、すっかりやつれた顔でそう言った。
つまり、もう戻って来るなということだろう。
「分かった。その代わり、母のことは頼む」
「……分かっている。教会に頼んでしっかり埋葬してもらう。最後くらい世話をするさ。兄だからな……」
子爵は、優しい人だった。
アーベライン侯爵の事件があるまでに何度か会ったことがあるが、体の弱い母を気遣い、俺と遊んでくれたこともある。
気のいい人だったのだ。
ただ、小心者だった。
俺達が来てからはおそらくずっと、屋敷の奥で怯えて震えていたのだろう。
アーベライン侯爵本人は既に死んでいると聞いても、彼の遺志をつぐ何者かが俺達ヴォルシュ家を追いかけ、ジーメンス家もそれに巻き込まれるのではないかと。
俺は子爵を恨んではいるが、憎んではいない。
彼はより大切なものを……自分の家族を守りたかっただけなのだから。
俺だって逆の立場なら同じことをしたかもしれない。
しかし何だかんだ言って俺は貴族の子供で、無一文で放り出されてどう生きればいいかわからなかった。
そのまま隣のエルドラ領に入り、街を見つけたものの金を稼ぐこともできず。
行き倒れていたところを、デイジーに拾われたわけだ。
=====
「で、頼みにしてたデイジーさんはシルバーウルフに攫われちゃったんだよね?」
アカネはそう言いながら首領の方を見る。
どことなく責めるような色があるが、首領は気にした様子も無く笑った。
「おうおう、やたら活きのいいガキが居たってのは俺のとこにも報告が来てたぜ。もし行く当てが無さそうなら俺んとこ連れて来いって言ったんだが、どこ行ったかわかんねぇってなってな」
「……俺はシルバーウルフを追ってたんだが」
「行き違いってやつだな、人生そんなもんだ」
俺、その場で大人しくしてたらデイジーに会えたのか…?
ガハハという首領の笑い声を聞きながら、こめかみを押さえた。
俺にとっては重要な分岐点だったが、『人生そんなもん』と笑い飛ばされては仕方がない。
「それで、奴隷になって。最後にラシュレー伯爵に買われたんだよね?」
「ああ」
「おう、そうだ。後でジャンに会ってやれや。お前の事ずっと気にしてっからな」
「やっぱヴェルナー達が言ってたジャンって、あのジャンか……」
「綺麗な仮面被ってたよ」
アカネの言葉に、思わず苦笑する。
ジャンの素顔は俺も知らない。
仮面そのものがジャンの顔だった。
没落してもそこは変わってないんだな。
でも、そうか…ここに居るのか。
もう二度と会うこともないと思っていたあいつは、まだ俺の事を心配しているのか。
「ま、その前に話は全部聞かせてもらうぞ。ジャンと別れた後、何があった?」
「……奴隷商に売られて…魔王の魂に会った」
首を傾げる二人にアカネが魔王の魂について解説を入れる。
魔王がもともと人間であることは知っていたらしい二人は、すぐに話を飲み込んだ。
「初代魔王の魂がずっと次の憑代を求めてさまよってるってことか。執念てのぁ怖いねぇ」
「初代魔王の執念はどうでもいい。それで、魔王の魂に俺との入れ替わりを願ったのか」
ヴィンリードの問いに頷き、俺はまた口を開く。
=====
ジャンと離れた後、俺の元に魔王の魂を名乗る何かが現れた。
正直、懐かしいと思った。
それはかつて父親の前に現れたものと同じだと、すぐに分かったから。
同時に察した。
あの時父は魔王になったのだと。
そして四代目魔王が既に英雄ベオトラによって討伐されたことも知っていた。
今ここにある魔王の魂は、父の死を見送った後なのだ。
ベオトラを憎く思ったことはない。
魔王らしく魔物に人間を襲わせていたという父は、既に父ではなかっただろう。
むしろ終わらせてくれたことに感謝している。
しかし何の因果だろうか。
その次の魔王に俺が選ばれるとは。
魔王の魂は一つだけ願いを叶えてくれると言った。
俺の願いは誰かを守る事。
でもそれは自分で為すべきことだ。
そこで俺は考えた。
この機会に別人になろうと。
これまで俺の目的を妨げてきた元凶は二つ。
一つは己の無力。
制御できない魔術など無い方がマシ。
しかしこれは魔王になれば自動的に解決するという。
二つ目は、ファリオン・ヴォルシュの名前だ。
ヴォルシュ家の生き残りだから、ジーメンス子爵は俺と母に辛く当たった。
ヴォルシュの名前を捨てられれば母を助けてくれるのかと叫んだこともある。
その時ばかりはジーメンス子爵が辛そうに顔を歪めたのを覚えている。
『貴族は名を捨てられない』とだけ告げた彼の答えは間違っていない。
貴族は生まれた時から墓場に入ってもなお、その家名を背負い続けるものなのだから。
二度目にヴォルシュの名前を煩わしく感じたのは、デイジーの元に居た時だ。
彼女は俺に色々なことを教えてくれた。
時々夢を見ているように不思議な言動を繰り返したが、それ以外の時は聡明で面倒見のいい女性だった。
俺の名前を知り、短剣を見た彼女は言った。
国王がヴォルシュ家の生き残りを探していると。
多くの人間の死亡が確認されたが、俺と父の遺体は確認されていない。
どちらかは生存しているのではと考えられているらしい。
国王の保護を求めるなら、この街の領主に名乗り出ればいいと教えてくれた。
ただしヴォルシュ家唯一の生き残りである俺の立場は危うい。
動乱の中に身を投じる覚悟が必要だ。
加えて、デイジーは王家を避けていた。
今にして思えば、単に今更王族に戻れないと考えてのことだったのだろうが、俺には王家と関わりたくないとしか伝えなかった。
つまり、俺が国王の下にいくということは娼館にデイジーを残していくという事。
彼女は娼婦の仕事に嫌悪感を抱いてはいたが、他に行く当てが無いらしい。
今の俺では彼女をここから救い出してやれない。
貴族に戻ればデイジーは俺との関わりを拒否する。
少なからずデイジーに恩を感じていたし、あんなことがあってなお貴族に戻りたいとも思わない。
俺は娼館に残ってデイジーを護衛する仕事につくことにした。
しかし、常に不安があった。
いつかファリオン・ヴォルシュだとバレて連れ戻されるのではないか。
デイジーを守れなくなるのではないか、と。
この名前を煩わしく思ったのはこれが二度目だった。
そして最後がジャンと引き離された後。
ファリオン・ヴォルシュを奴隷として置いていたことが分かれば、ジャンの立場をますます危うくしてしまう。
また名前が俺の望みを邪魔してきた。
たとえ魔王になって身体能力が上がり、魔術を自在に操れるようになっても、今の俺の立場のままではしがらみが多すぎる。
守りたいものが出来た時、貴族の立場のせいでうまく動けないのでは意味が無い。
ある意味では奴隷の方が自由だった。
そこで思い浮かんだのが、あの日ジーメンス家で出会った少年だった。
ヴィンリード・メアステラ。
メアステラ家のキャラバンが魔物に襲われて壊滅したと言う話は、デイジーから聞いていた。
子供二人の遺体は見つかっていないと言うが、キラーアントは人も食う。
おそらく二人とも助かってはいないだろうというのが大衆の認識で、俺も例にもれずそう考えていた。
しかし遺体が見つかっていないのであれば、実は彼が生きていたとなっても問題は無いだろう。
だから俺は魔王の魂に願った。
「俺をファリオン・ヴォルシュじゃなくて…ヴィンリード・メアステラにしてくれ」
『具体性に欠ける』
「…俺とヴィンリードを入れ替えるっていうか…容姿をヴィンリードのものにして…できれば周囲に信じてもらうのに、本人しか知らない知識も欲しいな。あ、もちろん入れ替わったらキラーアントの腹の中ってのは無しだぞ」
『対象と容姿を入れ替え、記憶を移す魔術具が存在する』
「ああ、それでいい。あ、でも急に外見が変わったら奴隷商人に疑われるな……周りの記憶もいじれないか?違和感を持たれないように。今現在関わってる人間の記憶だけでいい」
もしいつかジャンやデイジーと出くわすことがあっても、俺はどんな顔で会えばいいか分からない。
彼らが接していたのがファリオンだという記憶のままであれば、ヴィンリードの姿で会ってもそれは初対面で済む。
『然らばファリオン・ヴォルシュとしての証を一切捨てよ』
「え?」
『メアステラの子供をファリオン・ヴォルシュに変えるのであれば、本人と周囲の記憶だけでは弱い。所持している証を差し出せ』
"本人の記憶"と、魔王の魂は言った。
この言葉を聞いた時点で、おかしいって気づいてればよかったんだよな。
でも"証"ってのが何の事なのかに気を取られてて、俺は何も思わなかった。
「ひょっとして…これのことか?」
俺が空間魔術で取り出したのは父親の形見の短剣だ。
ヴォルシュ家の家紋が入ったそれは、精緻な模様が施されていて、模倣は困難な代物。
証はそれで合っていたようで、短剣は魔王の魂が吸い込むように奪い去った。
俺は今からヴィンリード・メアステラになる。
そして代わりにファリオン・ヴォルシュは死んだことになるんだろう。
その証拠に使われるのかもしれない。
形見を奪われる事に思うところはあるが、この名前を捨てるにはそれくらいの覚悟が必要という事だろう。
俺はそんな風に考えていた。
そして魔王の魂が差し出したのは一枚の紙。
上に影移しの魔術書と書かれ、一滴の血の染みのようなものがついたその紙。
それ以外は何の記述も無く、正直これが何なのか俺には分からなかった。
言われるがままその紙にサインをした瞬間、自分とは違うものへと一瞬で変貌した肉体。
そしてその直前までのヴィンリード・メアステラの記憶を引き継ぎ、俺は愕然とした。
「ヴィンリードが……生きてた…?」
彼の人生を奪ってしまったと、その時初めて気づいた。
いつもご覧いただきありがとうございます。
あと二話で第一部完結です。
週二回更新に戻したばかりですが、書き上げられれば三連休の間に投稿してしまおうと思います。




