014裏話:シェディオン
一章シェディオン視点の振り返りです。
長くなってしまいましたがあまり本編に関わらないので読み飛ばし可。
<Side:シェディオン>
「やれやれ、ティナは一体何を考えているんだ」
アカネの部屋を出て、ため息をつく。
いや、本当に考えが分からないわけではない。
なぜそんな強引に手引きしようとするのかは理解できないが。
自室に戻り、ベッドに横たわるも、やはり眠気は湧いてこない。
アカネに促されて思い出話をしていたせいか、ずっと回想を繰り返してしまう。
やはり色濃いのは気持ちに気付きだした頃のことだ。
==========
アカネの縁談を潰し続け、さすがにまずいと思い始めていたある日。
朝の鍛錬を終え、朝食の前に着替えるべく自室へ向かっている途中にアカネと鉢合わせた。
いつものように挨拶をしようかと口を開きかけた瞬間、彼女はその場で足を止め、怯えたような目で俺を見つめる。
そんな視線を向けられたのは、初対面の時以来だろうか。
何か変なものでもつけているだろうかと自分の体を見下ろしてみるが、思い当たるものはない。
背後にも…何もない。
もう一度アカネに視線を戻すと、眩暈でも起こしたかのように壁に手をついて額を押さえていた。
何事かと急いで駆け寄る。
「アカネ、どうした!?」
アカネは健康な子で、これまで大きな病気をしたことなどない。
数度風邪で寝込んでいるのを見たことはあるが、歩くことすらままならないような様子は見たことが無かった。
だからこそ、この様子はただごとではない。
しかしアカネは近寄る俺に、びくりと体を震わせた。
近づくことを拒否するかのような反応に、伸ばしかけた手が止まる。
「アカネ様は朝から少しお加減が悪いようで…
先ほどは元気になったとおっしゃっていたのですが…」
動揺する俺をフォローするように、ティナがそう言った。
それは今の反応の説明にはなっていなかったが、本調子でないのは確かなようだ。
「そうか…無理をしない方がいい。部屋で休んでいろ」
そう言って再度おそるおそる手を伸ばして頭を撫でてみるが、今度は特に拒絶の気配が無かった。
むしろ安堵したように表情を和らげるアカネに内心ほっとする。
もしかしたら貧血を起こして、混乱していただけかもしれない、と。
そして『部屋で休ませた方がいいのでは』とティナに提案しようとした瞬間、信じられない声を聞いた。
「シェディオン…?」
頭を撫でていた手が止まる。
その声は間違いなくアカネのもので、唇も確かにそう動いていた。
アカネの目はハッキリと俺を捉えており、意識が混濁している様子も無い。
「…アカネ?」
思わず震えたような声が出た。
シェディオン…アカネに呼ばれたそれは、家族としての枠を外して俺自身を指すような響きを持つ。
ひょっとして数々の縁談を断ってきたことが耳に入ったのだろうか。
アカネが嫁入り先について何かを語ったことなどなかったが、公爵夫人や王子妃は多くの貴族令嬢が憧れるはずのものだ。
だとしたらこの呼び方は、お前はもう他人だという絶縁の証?
視界がブラックアウトしそうになる中、アカネは視線を彷徨わせた後呟いた。
「お兄様?」
こう呼ぶのが正しかったか、と訂正するかのように確信めいた声でそう呼ぶアカネ。
これまで以上に兄妹関係を強調するその呼称に息を飲んだ。
何故だろうか。
可愛い妹が兄と呼んでくれているのに、壁を作られたような…
決して立ち入れない領域を作られたような心地になるのは。
"シェディオン"そして"お兄様"…
相次いで普段と異なる呼称をされたのは、もはや意図的であることが明らかだ。
それが何を意味するのか。
しかし思わず、それ以上の発言を阻むようにアカネを抱き上げた。
ひとまず具合が悪いのは確かなようだし、このままにもしておけない。
「あ、あ、あの!?」
腕の中でアカネは戸惑ったような声を上げる。
幼い頃は抱き上げてやったこともあったが、セルイラに来てからはすっかりアカネも大きくなっていたので特に触れる機会はなかった。
せいぜい再会した時に軽くハグをしたくらいか。
自分よりずっと小さな体は軽く、しかしすっかり女性らしくなってきた抱き心地を腕に伝えてくる。
なんだかそのギャップに翻弄されるような感覚を感じながら、支える手に力を込めた。
「じっとしていろ。部屋まで運ぶ」
そう告げるとアカネはおとなしく運ばれてくれたが、なんだか落ち着かない様子で縮こまっていた。
まるで知り合ったばかりの少女を抱きかかえているかのような反応に、こちらも戸惑う。
やはり、妙な距離感があるな…
ベッドにおろしてやると、アカネは頭を下げた。
「す、すみません…」
「いや…」
その様子はただ運ばれたことを恐縮しているようにしか見えない。
先ほど向けられた呼び名の意図とは…
いっそストレートに尋ねてしまおうかと口を開きかける。
しかし、と思いとどまった。
万が一ここのところの俺の振る舞いをこの場で追及されたとして、果たして俺はどんな言い訳をするつもりなのか。
妹を案じる兄の領域を超えている自覚はある。
その感情に、もしや、とも思うが、まさか、とも思う。
そんな迷いを、ここで吐露するわけにもいかない。
アカネの方から核心を突かれる前に、退室することを選んだ。
「朝食は部屋に運ばせよう。今日は無理をするな」
「はい…」
アカネは少ししょんぼりした様子だった。
…もしかしたら、名前を呼んだり兄と呼んだりしたのは、相当勇気を振り絞ってのことだったのかもしれない。
二つの呼び名で俺がどんな反応をするのか確かめるために。
ティナにはアカネの側にいるよう告げて、カメリアへ朝食の手配を頼むと足早に自室へ飛び込んだ。
扉に背を預け、深くため息をつく。
アカネが破談話を知っているかは分からない。
だが少なくとも…俺に何かしら思うところがあるのは確かだろう。
アカネに縁談が来るようになった頃から…
彼女が少女ではなく女性として扱われることに気付いた時から。
俺は彼女へどう接していいか分からなくなった。
兄としてどこまで触れていいものかと。
そのくせできるだけ視界に入れておこうと、合間を見てはアカネの様子を見に行ったり、散歩に誘い出している。
自分の縁談もそれなりにある。
以前はひとまず会うことくらいしていたのだが…
最近は話が来た時点で断ることが多くなっていた。
義理立ての必要がある縁談であれば一度は顔を合わせるが、もともと人当たりの悪い顔立ちな上に、断ろうというこちらの気持ちが透けてしまっていたのだろう。
すっかり気の失せた相手方から早々に席を立たれ、申し出を取り下げられるばかりだった。
何か言いたげな両親には『まだ妻をもらうには未熟ですし、俺の顔で怖がらせてしまうので』とか言ってはみたものの…
母には『そぅお。じゃあしっかり者で怖がらないでいてくれる女の子じゃないと駄目ねぇ。仕方のない子』なんて、何かを察した笑みで返された。
自覚はある。
アカネの縁談を執拗に潰すこの行動は、恋敵に焦った男のそれと同じだと。
自分の縁談に気が乗らない理由がアカネであることも。
だが俺は彼女の恋人ではない。
…兄だ。
今だってそのつもりだ。
しかし自分の感情や言動がその枠に収まらなくなってきているも事実で…
そんな俺の迷いは、おそらくアカネへの接し方にも表れていた。
それがアカネ本人にも伝わってしまっているのだ。
…自分が妹ではなく女性として見られているかもしれないと、伝わってしまっているのかもしれないのだ。
己の業の深さに頭を抱えた。
もしかしたら具合が悪いのは、心労がたたってのことかもしれない。
そう思うと胸が痛む。
何故誰よりも大切な人を苦しませているのか。
「アカネ…」
今日の仕事予定である視察から帰ってきたら、もう一度彼女の部屋を訪ねよう。
そして、やはり彼女が俺のことで頭を悩ませているようだったなら…
兄として気持ちに整理をつけよう。
==========
しかし、夜にアカネを訪ねてみると、なんだかまるで全ての悩みが解決したとばかりに晴れやかな笑顔で迎えられた。
昼の間に一体何があったのか…
拍子抜けしつつも、空元気ではないだろうかと少し不安になる。
「調子はどうだ?」
「もう大丈夫です。
今朝は変なことを言ってごめんなさい、シェド様」
慣れ親しんだ呼び名。
今朝のことを無かったことにしようとしているアカネの様子に、視線が揺れる。
俺の迷いを知っていそうなティナや母が何かフォローを入れたのか。
または俺の煮え切らない様子を見て、優しいアカネは疑問を胸に秘めようと考えてくれたのかもしれない。
しかし、ただそれに甘えては卑怯な気がして…
「…呼び方を戻したのか?」
「え?」
そう、問うてみる。
非難する機会をもたせるつもりで。
アカネは首を傾げて心底不思議そうにしている。
何故わざわざ掘り返すのかと思われているのかもしれない。
それでも、ここで彼女が今朝のどちらかの呼び方を選ぶなら、きっとそれが彼女の気持ちだ。
それを確認する義務が俺にはある。
しかし、返されたのは予想外の言葉。
「どう呼ばれるのをお望みですか?」
ぐ、と一瞬答えに窮する。
アカネは間違っていない。
立場をはっきりさせるべきなのは俺の方なのだから。
俺の意見をまず述べろということか。
「…アカネの呼びたいように」
しかし咄嗟にどちらの態度をとることもできずに、再度決定権をアカネに戻してしまう。
つくづく仕方のない…さすがに愛想をつかされるだろうか。
そう思っていると、アカネはふむ、と吐息を漏らした後…
「では、お兄様で」
そう言った。
その呼び名を選択した意図はなんだろうか。
やはり兄として自覚しろということか。
それとも煮え切らない俺に呆れてのことなのか。
しかしまだ兄としては見てくれる、これまで通りでいてくれるということなのだろう。
ひとまず胸をなでおろした。
少なくともアカネは俺に兄以上のことなど求めていない。
そう察して、やはり気持ちを入れ替えようと決意した。
しかしその決意を翌朝には容易く破ってくれたのは…アカネ本人だった。
「おはようございますお兄様!今日も精が出ますね」
朝、いつものように鍛錬している場所へ現れたアカネは満面の笑みでタオルを渡してくれた。
セルイラへ来る頃にはアカネもレッスンなどで日々忙しくなっており、こうして鍛錬の様子を見に来ることも無くなっていたのだが。
…ましてや、ここまでわくわくしたような笑みで近寄ってきたことなど、カッセードにいた時にも無かった気がする。
ぎこちなく挨拶と礼を返す俺を見て、アカネは不安げな顔をした。
ひょっとしてこれは彼女なりの気遣いなのか。
兄妹としてやり直そうという意志表示。
俺の反応が鈍いので不安にさせてしまったのかもしれない。
俺は兄だ、と心の中で唱えながら頭を撫でると、アカネはまるで初めて触れられたかのように緊張した面持ちの後、なんだかくすぐったそうに微笑んだ。
その笑顔にくらりと眩暈がする。
なんだ、アカネは俺をどうしたいんだ。
しかし愛らしい妹はすっかり満足したようで、軽い足取りでその場を去った。
呆然とする俺を残して。
しかし彼女の行動の変化はそれに留まらない。
ここのところアカネを見るなり足早に駆け寄っては声をかけていた俺。
それを模倣するかのように彼女は俺を見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて『お兄様』と懐いてくる。
その日たまたま4,5回顔を合わせる機会があったが、毎度花が綻ぶような笑顔を向けて近寄ってくるのだ。
幼い頃でもこんなに素直に甘えてきたことなど無いくせに、一体どういう考えでこの行動に至ったのか。
戸惑いこそあれ決して嫌なわけではない。
嫌なわけがない。
戸惑うままさらに翌日…
その日、アカネが魔力を暴走させた。
不自然な雨音とアカネの悲鳴に気付いて駆けつけた先で見たのは、あり得ない光景だった。
アカネと目の前の花壇にのみ、集中的に激しい雨が打ち付けていたのだ。
どう考えても自然現象ではない。
アカネはこれまで魔術を使ったことは無かった。
魔術とは誰でも使用できるものではあるが、魔術師から理論を教わり、魔力が体を流れる感覚を再現してもらって初めて行使できるようになるのが通例だ。
無論、アカネは魔術師から魔術を教わったことなど無い。
貴族の子女が習うことなどあまり無いからだ。
魔術は攻撃性の高いものがほとんどであり、治癒系の術に適性のある人間は少ない。
守られるべき存在である淑女には相応しくないと、古くからあえて習わせない家が多かった。
昨今は護身の為に、と習わせる場合もあるようだが…
スターチス家の両親も反対派というわけでは無いようだが、特に本人から要望が無かったので講師を付けていない。
それなのに、この状況は…
稀に生まれつき魔力が高い子供が何らかの魔力の流れに触れたりした拍子に覚醒し、暴発気味に魔術を発現することはある。
あるが、せいぜい小さな火種を生み出したりコップ一杯の水をぶちまけたり、強い風が吹いたりという程度だ。
いくら魔力が高くとも、うまく魔力を魔術に変換できないのだからそんなものだ。
間違っても天候を操って雨雲を作り出すなど…ましてこんな嵐のような大雨を引き起こすなどあり得ない。
魔物の仕業と思った方がよほど自然なくらいだ。
しかしそれなりの戦闘経験があるからこそ分かる。
今のアカネからはとてつもない魔力の放出を感じた。
この小さな体にこれほどの力を宿していたのかと、思わずたたらを踏んでしまいそうなほどのプレッシャーだ。
カッセードで上級の魔物と対峙した時もここまででは無かったのでは、と思うほど。
俺の後ろから追いかけてきた父は、その感覚をあまり持ち合わせていないらしく、ただ状況に唖然としているだけのようだが。
ともかく、このままではアカネが風邪をひくし、怪我のおそれもある。
内出血するのではないかと思うほど雨の勢いが激しさを増しているのだ。
「アカネ、止められないのか!?」
「ど、どうやって止めたらいいのかっ…」
雨が口内に入り込むようで、アカネは喘ぐようにそう答えた。
パニックも相まってか呼吸が危なげで、このままでは雨で溺れるのではと思えてしまう。
あいにく魔力適性があまり無い俺は魔術の訓練をまともに受けておらず、どうすればこの暴走を鎮められるのかも分からない。
せめて雨から守ってやるくらいはと、豪雨の中アカネに駆け寄ってその頭を守るように抱きしめた。
「お兄様っ…放してください」
「断る」
「今…力があふれ出すような感覚がとまらなくて、
方向を定めるだけで精一杯なんです!
下手したらお兄様に危害が及ぶような何かが起きてしまうかもしれません!」
「断る!」
こうして抱きしめているだけで俺に危害が及ぶような暴発など、アカネが無事であるはずがない。
最悪の事態が頭をよぎり、体の芯が冷えていく。
アカネを失った未来など、考えられない…
いつの間にか駆けつけていた母も加わってアカネを宥めようとしているが、事態が変わることもなく。
カルバンと名乗る胡散臭い魔術師が駆け付けてアカネを鎮めるまで、その状態は続いた。
アカネを救ってくれたことは感謝している。
しかし俺があの魔術師を気に入らないのには理由がある。
それは断じて、あの日アカネの手を取って魔力を鎮め、その後も手を取り合ったままアカネに尊敬の熱い眼差しを向けられていたからではない。
その翌日以降の魔力制御訓練でも触れあうことが多いが、少ししか気にしていない。
しかし…奴は、擬態を行っている。
この表現が正しいかは分からない。
ただ、魔物討伐の折、人に擬態する魔物と切り結んだことがあった。
その時と同じような感覚があるのだ。
少なくとも、何かしらを隠すような魔術を使っている気配がある。
冒険者の中には時折このような人間がいる。
そしてそれは往々にして、過去に犯罪を行って指名手配をされているだとか、元は貴族で家出同然の形で冒険者になっただとか…
そんな何かしら事情を抱えて顔を変えている者が殆どだ。
少なくとも後ろ暗い何かがあるのは間違いない。
冒険者間では実力と現在の人柄が全てで過去を詮索しない文化があるため、さほど問題とはされないのだが…
また、アカネの暴走に駆けつけた際もあまりにタイミングが良すぎる。
俺が気付いてアカネの元に行ってから、奴が来るまではほんの10分程度。
たまたますぐ近くにいたと言っていたが、市街地から離れたこの近辺を冒険者がうろつく理由とは一体?
奴を講師として雇うと言い出した母にそれらを指摘したのだが…
「大丈夫よぉ、指導時には宣誓魔術具を使ってもらうし、見張りもつけるし」
と言われてしまった。
宣誓魔術具というのは、先んじて宣誓した内容を破ろうとすれば装備者にペナルティを与えるものだ。
貴族に素性の知れない講師を付ける場合には、『○○家に危害を加えない』と宣誓させ、講師の能力に見合ったペナルティを設定する。
戦闘能力を持たないインドア講師であればせいぜいちょっとした電撃程度だが、王国騎士やA級冒険者クラスとなると…命くらいかけさせないと危険と判断されるのが普通だ。
「奴はそれを飲んだんですか?」
「もう、奴なんて言っちゃダメよぉ。そうよぉ、飲んでくれたの。
アカネちゃんの魔力を制御できるような実力者で、
この条件を飲んでくれる人なんてそう見つからないわぁ」
高レベルの魔術師は生粋の冒険者であったりプライドが高かったりする為、いくら高額報酬をもらえるといっても宣誓魔術具なんてものをつけさせられてまで貴族の子女を相手にしたがらない。
ギルドで高難度の依頼を受けた方がよほど手っ取り早いからだ。
しかし、だからこそ進んで講師を引き受けるのはなおさら怪しいとも言えるのだが…
「放っておけないって言ってくれてるのよぉ。
今はその言葉を信じるしかないでしょう?」
俺の心を見透かしたように母が畳み掛けた。
しぶしぶ頷いたものの、やはりアカネに何かするのではと毎日のように魔術のレッスンを見に来てしまう。
断じてアカネの手以外に触れたら切り捨ててやると思っているわけでは無い。
そんな俺の様子を『過保護ですねぇ』と言って笑うアカネは、しかし決して嫌そうな素振りもなく。
あの日から相変わらずストレートに甘えてくる。
魔力暴走の後などは、『助けに来てくれてありがとうございました!』と抱きついてきたりした。
もちろん満更でもない。
そんな俺の気持ちを見透かしているかの如く、次第に彼女の行動はエスカレートしていった。
庭を散歩しているふとした瞬間に、さりげなく手をつないできたり。
すれ違う瞬間に甘えるように撫でることを要求してきたり。
こっそり後ろから近付いて(バレバレだったが)首に飛びついてきたり。
最後のは『危ないからダメだ』と諌めた。
アカネは首を絞めてしまったかと反省していたが、実際そんなヤワではない。
密着度が高くなるので俺の精神が危なかっただけだ。
甘えられるたびに、『兄たれ』という俺の中の決意が音を立てて崩れ、別の欲が首をもたげてしまう。
無邪気な笑みで『大好きです、お兄様』なんて言われる度に、外れそうになる箍を必死にかけ直す。
もしかしたらアカネは俺を試しているのかもしれない。
きちんと兄として振る舞えるのかと。
この他愛もない接触で動揺することがあれば、軽蔑されてしまうのでは…
そう思い至ってからは、どれだけ彼女に触れられても、こちらから触れることはできなくなっていった。
そんな行動が五日も続いた頃、俺たちはいつものように仕事とレッスンの合間を縫って庭で雑談をしていた。
東屋のベンチに腰かけて手を繋ぎながら。
後で思い返せば『この年の兄妹で手を繋いで座るのはおかしいだろう』とつっこみたくなるのだが、日を追うごとに慣らされるように手を繋ぐ機会が増していたため、混乱の中にいた俺は何が普通か分からなくなっていた。
ティナも初めの頃は『お嬢様、幼子ではないのですから』と諌めていたのだが、『お兄様、ダメ?』と上目使いで聞いてくるアカネに『いや…誰にでもするわけじゃないなら…』なんて俺が返してしまうので、もはや何も言わない。
まるで幼い妹と兄のような状態のまま、アカネは俺を見上げた。
その表情は悪戯を思いついた子供のようにキラキラと輝いている。
「ねぇお兄様ぁ」
「…なんだ?」
普段より鼻にかかったような甘えた声に、思わず身を固くする。
とんでもなく可愛いが、最近の彼女は何を言い出すか分からないからだ。
「わたし、お兄様と結婚するぅ!」
にこにこと笑顔で告げられた言葉に、俺は刹那意識を飛ばし、ティナが『えぇ…』と声を漏らす。
何を言っているんだ、と窘めるところだろう。
普通の兄妹ならば。
笑い飛ばすような話なのかもしれない。
しかし、そうはできなかった。
アカネと結婚する。
それは不思議と考えたことが無かった。
いや、無意識に考えないようにしていただけかもしれない。
アカネの縁談をさんざん壊しておきながら、少しもその気が無かったなんて言い張るのは無理があるだろう。
それでも確かに、明確に想像したことも、そうなるべく行動したこともなかったのだ。
しかし一度頭に浮かべてみればこの上なくしっくりくる未来図だった。
アカネと夫婦になって愛し合い、ずっと領地を二人で守っていく…
あぁそうか、俺はそうなりたかったから、他の誰かに渡したくなかったのか。
これまで抱えていた迷いが形をハッキリ現してストンと心に落ち着いた気がした。
…俺はやはり、アカネを異性として好きなんだな。
「アカネ…」
「はい?」
アカネはわくわくした面持ちでこちらを見上げている。
…兄として振る舞ってほしいのに、こんな顔で返答を待ったりするだろうか。
もしや最近の行動は彼女なりのアピールだったのか。
だとすれば…
「分かった」
俺は頷き、目を丸くする彼女から手をそっと離して歩き出す。
ティナとアカネが『えっ』と息を飲む声が聞こえた。
もしアカネにほんの少しでも俺と同じ気持ちがあるのなら…
気が変わる前に父と母に話をつけてしまおう。
そうすれば後戻りはできなくなるだろうから。
そんなこすい思いで足早に執務室へ向かう俺を、アカネの慌てたような足音が追いかける。
「お、おぅ、おぉぉお兄様!冗談ですぅぅぅ!」
今さら撤回など聞きたくないと気づかぬふりで歩調を早めたというのに、聞いたことのないほど焦ったような大声が耳に届いてしまった。
…さすがにこれを聞こえなかったと言い張るのは無理があるだろう。
ゆっくり振り返ると、息を整えながら困ったような表情をしているアカネが居た。
俺は一体どんな顔をしていたのだろうか。
アカネは申し訳なさそうに視線をそらして『ごめんなさい』と小さく呟いた。
その謝罪が何を意味するのか。
考えたくなくて、俺はただ首を振り、彼女の頭を撫でた。
==========
果たしてアカネの気持ちに変化はあったのか。
わからないが、それ以降過度なスキンシップは収まった。
しかしその態度には信頼がありありと現れたままで、少なくとも距離を置かれたとは感じない。
本心を確かめたくはあったが、ただでさえ魔力制御のことで頭を悩ませているらしい彼女にこれ以上の負担をかけたくなかった。
実際、カルバンから本を借りてまで自分の魔力について調べようとしているようだ。
アカネと同じ体質を持つ、マリエルという女性について書かれている本らしい。
迷宮の魔女と呼ばれている、俺でも知っている魔術師だ。
本を借りた後自室に戻ったアカネを見送って数時間後。
そろそろ読み終えただろうかと訪ねてみた。
しかし、あまり情報は得られなかったようだ。
しかも…
「この本によると、彼女は迷宮内で仲間とはぐれて魔物に捕まり、
その後、魔王に魅入られて強大な魔力を授けられた、と」
「魔王…!?」
自覚して以降、アカネに対する愛しさは増すばかり。
たとえ結ばれなくともせめて平穏無事に幸せになってほしいと思っているのに…
魔王が関係するかもしれないと言われて平静でいられるわけもなく。
しかし本の信ぴょう性も分からないし、アカネは迷宮に行ったことすら無い。
であれば、アカネの原因はまた別のものなのかも…
どうやらアカネもそのあたりは同意見のようだった。
「アカネがなぜ強大な魔力を持っているのかはその本では分からないな」
そう結論付けると、
「そうですね…」
と静かな同意が返る。
しかしその瞳は揺れ動き、物憂げに表情が曇っていく。
軽率な言葉を言ってしまった。
分からないということは何よりも不安だろうに。
小さな体からは相変わらず魔力故のプレッシャーが迸っている。
アカネの近くに寄ることがある兵士や騎士は一様に慄いたほどだ。
しかし俺は変わらない。
愛しいアカネを恐れたことなど一度もない。
恐れるのはこの表情が曇ることだけだ。
「大丈夫だ。俺が側についているからな」
思わず近寄って抱きしめた。
あれ以来こちらから近づくことは避けていたし、アカネもそうだった。
随分久しぶりに感じる体温に目を細める。
「お兄様…」
そう俺を呼ぶ声が少し震えている気がして、腕の中を覗き込んだ。
随分体を硬直させている。
「すまない、驚かせたか?」
「い、いえ…あ、いや、やっぱり少しだけ…」
体を離してやると、アカネは真っ赤な顔を俯かせた。
赤くなっているのは、明らかに俺に抱きしめられたことが原因だ。
つい先日までアカネの方から散々飛びついてきていただろうに。
確かに思い返せば、俺の方から抱きしめたことなど無かったが…
しかし…それにしてもこの様子は、異性に抱きしめられたことに困惑する少女のようにしか見えない。
こういう顔をたまに見せるものだから分からなくなる。
本当に俺のことを兄だと思っているのか?
異性として見ていないと言えるのか?
その場に跪き、うつむいた顔を覗き込む。
逃げようとする小さな手をそっと掴んで引き寄せた。
視線が近づく。
「お、お兄様…?」
「アカネ…何か俺に隠していることは無いか?」
「え…?」
ティナの前だ。
はっきり言えなくてもいい。
俺に向けているその感情を少しでも見せてほしい。
しかし質問の意図が分かっていないらしいアカネに、もう少し踏み込んでみる。
「…その…最近様子がおかしいだろう?」
口にしながら、人のことは言えないな、と思って思わず目が泳いだ。
しかし、しばらく黙り込んで悩んだアカネは何を思ったか頭を下げる。
「すみません。ここ最近はお兄様に甘えすぎていましたね」
思ってもみない謝罪に目を丸くした。
まるで今後はそれを改めるというような言葉に焦る。
「…違う、そうではなくて…」
なぜ伝わらないのか。
ひょっとしてすべて俺の勘違いなのか?
しかしアカネの方もこのままでは話が進まないと思ったようで、ティナを退室させてしまった。
こうもあからさまに人払いをすれば、さすがに怪しまれると思うのだが…
アカネは気にした風でもなく、子供を叱るようなトーンで俺に語りかける。
「お兄様。何かおっしゃりたいことがあるならハッキリとお願いいたします。
私は決して鈍感な方だとは思っておりませんが、
お兄様が今何を思っていらっしゃるのかは口にしていただかないとわかりません」
「アカネ…」
そう言われて気付く。
あぁ、俺はまたアカネの想いばかり図ろうとして、自分の想いを何一つ話そうとしていなかったのか。
どう呼ばれたいかと聞かれた時のことが蘇る。
あの時は答えを出せずに先送りにしようとしてしまった。
だが今はハッキリと自分の気持ちが分かっている。
…いい加減、隠し続けても仕方がない。
俺はあの日の約束を守れなくなってしまった。
「…以前かわした約束を覚えているか?」
そして、約束の事も、俺が来た時のこともほとんど覚えていないというアカネに、当時のことを語って聞かせた。
最初は覚えてない様子で慌てたりもしていたが、後半には納得したような表情をしている。
「思い出しました、お兄様。
きちんと約束を守って帰ってきてくださったんですね。
当時のカッセードの状況、今なら私も分かります。
四年も経たずに戻られたお兄様はすごいです」
無邪気な笑みで賞賛を送られて、思わず視線がそれる。
確かに当時の俺は寝食を削って仕事をしていた。
尊敬のまなざしを向けられて悪い気はしない。
しかし…そうして無理にでも早く帰ってきたというのに、すでに俺の状況は矛盾を孕んでいる。
アカネは気付いていないのか。
俺の様子を見て訝しげに首を傾げたアカネが何か考え出す。
まずい、気づいていないなら話を逸らしてしまった方がいい。
しかしそんなうまい話題替えをできるほど器用でもなく。
そうこうする間にアカネは何かに思い至ってしまったようで、彷徨っていた視線を俺に戻した。
「ねぇお兄様、来年には王国騎士団へ入られますよね?」
「う…」
まさに突かれたくなかったところを突かれた。
「もうずっと離れないような約束をしていたわりには、あっさりと離れてしまうんですね」
そう言って拗ねたような顔をするアカネは…すこぶる可愛い。
抱きしめてめちゃくちゃに甘やかして許しを請いたくなるほどに。
しかし、ただ純粋に妹を甘やかすには、俺には後ろめたいことが多すぎる。
じっと見つめてくるアカネの視線が次第に痛いものに変わっていった。
何も言えなくなっていると、呆れたようなため息が届く。
「お兄様?」
「…なんだ」
「今度は私が聞きましょう。何か隠してません?」
さきほどの自分の言葉を返される。
…何かを隠しているか否か…隠していることは…あまりに多すぎる。
「約束、守れなくなったんでしょう?」
少し優しい声色でそう促された。
約束を守れない。
まさに俺が感じていたことをそのまま告げられて瞠目する。
「やはり気づいていたんだな…」
もう疑いようもない。
ずっと核心には触れずにいたが…
気付かれているなら、隠し続けることのどんなに女々しいことか。
そして俺は生まれて初めて、おそらく生涯で一番大切な女性に、想いを告げた。
「アカネ、好きだ」
兄として側にいることは、もうできない。
その時アカネが呆けたような声がもれた気がしたが、一世一代の告白にすっかり緊張していた俺はその場では何も思わなかった。
==========
…こうして思い返してみると…
「アカネ、気づいてなかったんじゃないか…?」
そう口にしてみると一気に頭が痛くなる。
あの時『アカネは俺の気持ちに気付いているのでは』という疑念で頭がいっぱいで、彼女の行動すべてをそれに紐付けてしまっていた。
冷静になった今、アカネが気付いていたと確信できる要素があまり無い。
確かにアカネの行動はいろいろとおかしかったが、好きだと告げた後の反応は、必死に動揺を殺しているように見えた。
だとすると俺を遠ざけたいのか何なのかわからなかった行動の数々も納得がいく。
すなわち…単に俺に妹として甘えたくなっただけだ。
思わず床でのた打ち回りたくなるのをこらえる。
兄に甘えようとしていたら異性として告白されたのだ。
アカネの混乱を思うと居た堪れない。
しかし…アカネは自分の事を鈍感では無いと思っているようだが、果たしてそれはどうかな…
ため息をついて首を振る。
なんにせよ、もうハッキリ気持ちを伝えてしまったんだ。
今更どうしようもない。
今の俺に出来ることは…望みを実現する為にあがく事だけだ。
『シェド』と呼ばせた時の真っ赤な顔を思い出して、思わず頬が緩む。
あの顔も悪くないが…
いつかきっと、笑顔で当たり前のようにそう呼んでもらえる日まで己を磨こう。
もしそれが叶わなくても…俺の代わりにアカネを守る誰かが現れるまでは、全身全霊で彼女を守ろう。
そんな決意と共に、ようやく眠りについた俺は…
まさか数日以内と言う想像以上に早い段階で恋敵が現れることになるとは思っていなかった。
実は誰より暴走している兄。
第二章は来週の月曜から開始予定です。




