134奴隷に落ちた日
そこは旅商人たちがあつまる宿場町のようだった。
宿が立ち並ぶ一角の裏路地に、彼らは居た。
「こいつがそのガキか」
薄汚い服装の男が、少年を見下ろした。
対峙するもう一人の男はごく普通の商人らしい身なりで、床にうずくまったままの少年を同じく見下ろして頷いた。
「そんなわけで、彼はパラディア王国では売れない。伯爵さまの奴隷だったのを強引に売りつけられた形だからね」
「よく言うぜ。どうせはした金で買い叩いたんだろ」
「とんでもない。手間とリスクを考えて正当な価格を出しただけさ」
そう話し合う男たちの声が聞こえているのかいないのか。
少年は身動き一つしない。
「まぁいい。この見た目ならカデュケートでも高く売れるだろう。この値でいいなら引き取ってやる」
「ああ、頼んだ。ちょうどカデュケートへ向かう奴隷商人がいて助かったよ」
「ふん」
薄汚い男は商人に金貨を数枚渡し、少年の首に鎖のついた首輪を嵌めた。
その鎖を強引に引っ張って、町はずれにある小屋の中へ入っていく男。
その姿を見ても、行きかう人間は眉を顰めることすらしない。
彼らにとっては見慣れた光景のようだ。
少年が押し込まれた小部屋には、同じように枷を嵌められた少年少女が居た。
皆一様に、光のささない瞳で虚空を眺めている。
新入りの少年に、誰一人視線を向けなかった。
「……また、これか」
そんな少年の言葉にも、誰も反応しない。
泣き出しそうな声を聞いて慰める者など無く。
「もう…いいか。どうでもいい。このまま死のうが、どうでも」
ましてやその呟きに、返事などあるはずもない。
無いはずだった。
『絶望の淵を覗きし者よ』
不意に聞こえたその声に、少年は顔を上げる。
しかし見回しても、奴隷達は誰一人少年を見ていない。
あの声の主らしき人影は見当たらなかった。
『己が無力をかき消す力が欲しいか』
再び聞こえた声は何もない空間に浮かんでいるかのようで、少年はぼんやりと天井を見上げた。
『その身に迫る強き望みを叶えたいか』
「……お前は、誰だ」
絶望に打ちひしがれていた表情を訝し気なものに変えつつも、そう問いかける少年の瞳には光が戻っていた。
『我は魔王の魂、その力の根幹。我が手を取り、その円環の一部となるのであれば、いかな望みでも叶えよう』
「魔王」
その言葉を聞いて、少年は自嘲するように笑みを浮かべた。
「勇者になりたいなんて小さい頃の願いが叶うとは思ってなかったけど、騎士くらいにはなれると思ったのにな……結局主人一人守れねー俺には魔王が似合いってことかよ」
力なくそう言う少年。
相も変わらず周囲の奴隷たちは何の反応もしない。
異様なこの空間に飲まれかけた少年は、それでも思い直したように首を振った。
「待てよ、どんな望みでも叶うって言ったか?」
その言葉を思い出したようで、俯きかけていた顔を上げる。
『観測者の目を欺かぬ限り』
「どういうことだ?」
『すでに観測された事象は覆らぬ』
「……過去は変えられないってことか?」
『然り』
「もっと分かりやすい言い方しろよ……勇者になりたいって言ったらそれも叶うのか?」
『勇者、勇者を望むか』
初めて魔王の声が震えた。
しかし、少年は気付かなかったようで顎に手を当て、思考にふけるようなそぶりを見せる。
「いや、俺は……違うな。そんな壮大なもんになりたかったわけじゃねーか」
『……然らば何を願う』
「俺はもう……誰かに守られるのはごめんだ。守りたいと思った相手はみんな、俺を守って傷ついていくばっかりで」
少年は悲痛な声を漏らした後、顔を上げた。
「チャンスをくれ」
『何を望む』
「魔王とやらになれば力は手に入るんだろう?」
『魔王は強大な魔力を操り、魔物を統べる王だ』
「魔力に振り回されたりしないで済むのか」
『然り』
「そうか……」
少年は安堵したように手のひらに視線を落とした。
長い沈黙の後、彼が魔王の魂に願ったのは……
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<Side:アカネ>
目を開くと、そこはシルバーウルフ首領の屋敷の部屋だった。
朝日が差し込み、鳥の鳴き声が聞こえる爽やかな朝だ。
久々に柔らかいベッドで眠れて、体の疲れがいくらか取れた。
なのに、涙が止まらない。
黒い渦に囲まれた夢なんか見ていない。
恐怖をあおるような感覚は無い。
夢の中の登場人物に感情を持ってかれたりもしていない。
ここが現実で、さっきのは夢。
だけどこれまでの経験上、本当にあったことだ。
あの少年と、魔王の魂のやり取りも。
ああ、やっぱりそうだった。
メイドさんが部屋のドアをノックするまで、私はベッドの上でうずくまっていた。
「アカネ様、あまり眠れませんでしたか?」
昨夜に引き続き、洗顔からヘアメイクまで世話を焼いてくれるメイドさんが、そんなことを聞いてくる。
おそらく目が赤くなってしまっているせいだろう。
「いいえ、よく眠れましたよ」
「ならいいのですが」
穏やかに微笑むメイドさんは、多分私の言葉を信じていない。
これ以上突っ込まないでおこうとしてくれているだけだ。
「何かお手伝いできることがあれば何でもおっしゃってくださいね。こうしてお世話できることが、わたくしどもは嬉しいのです」
「ありがとうございます」
昨日聞いた話では、このメイドさん含め屋敷に居る使用人たちはみんな、ハイルさんを慕ってついてきた使用人らしい。
つまり、元はフランドルの分家に勤めていた立派な使用人たち。
その腕は確かで、久しぶりに令嬢の世話ができるということで張り切ってくれているようだ。
私の為に用意してくれてあったというワンピースに着替えると、メイドさんは恥ずかしくなるくらい褒めそやしてくれた。
よほど若い女の子の世話に飢えてたんだな……
この屋敷はシリウスのメンバーしか知らないし、さほど貴人が来るわけでもなければ、主人のハイルはあの通り首領らしい風貌を保っているから、着飾らせることもできないんだろう。
朝食を終え、身支度を整え直してから呼び出されたのは昨日と同じ応接間。
ちょうどドアの前でハイルさんと出くわした。
「おう、お嬢ちゃん。よく眠れたかい?」
「はい、とっても。服まで用意してくださって有難うございました。ヴァンはもう中に?」
「いいや、ヴァンの出番はまだだ。先に会ってほしい奴がいる」
「会ってほしい?」
首を傾げる私をよそに、ハイルさんはノックも無くドアを開けた。
「おう、ジャン」
「ハイル」
呼びかけに答えたのは、男性だった。
貴族だと一目で分かる服装と雰囲気。
彼が座っているソファのそばには杖があるから、足が悪いのかもしれない。
しかしそれ以外が良く分からないのは、奇抜な仮面で顔を覆っているせいだろう。
ヴェネチアンマスクに似てる気がする。
ただし顔全体を覆うフルマスクなのに口元はおろか目元も穴が空いていない……視界はどうやって確保しているんだろうか。
服装にもマスクにも汚れ一つなくて清潔感はあるけれど、思わずギョッとしてしまう風貌だった。
ソファに座るその人の背後には、カミラさんが立って控えている。
この包帯の人がカミラさんの主…ジャンさんらしい。
「今日は僕にとって嬉しい相手を連れて来てくれると言う話だったよね。どうやら女の子の気配を感じるけど?」
ジャンさんは見えないはずの顔をこちらに向けて朗らかに言う。
気配ってなんだ。
性別まで気配で分かるものなのか。
「おう、アカネっていう嬢ちゃんだ」
「初めまして、レディ。僕はジャン・ラシュレー。仮面姿で申し訳ない。過去に負った傷で見せられた顔ではなくてね。目も見えないからこうしているんだ」
「あ、アカネ・スターチスです」
そうか、怪我を隠すために……
一瞬変な人だと思いました、ごめんなさい。
そのやり取りを聞いて、カミラさんが口を開く。
「まぁ、主は怪我をする前からこういう仮面つけてましたけどね」
やっぱ変わった人なのは間違いなさそう。
カミラさんの言葉に肩を竦めた後、ジャンさんは目が見えないはずなのに首を傾げながら私をじろじろ眺めるような仕草をする。
「ハイル。彼女が僕の喜ぶ人間なのかい?うーん…?ハイル、僕の好みって難しいんだ」
「へ?」
「いや、お前が喜ぶって容姿の話じゃねぇよ。お前のお人形を調達してやる義理はねぇんだ」
「僕はもう奴隷をお人形扱いしたりしていないよ。でもそうか。てっきり美少女か美少年を連れてくるのかと」
「なんで目ぇ見えてねぇのに容姿がわかんのかねぇ、お前は」
「目が見えなくなってから感覚が研ぎ澄まされてね。少なくとも僕の好きな美しさを持つ人物かは判別できるんだ」
えっと、とりあえず失礼なやり取りをされてる気がするな?
「帰って良いですか?」
「おうおう、嬢ちゃん、落ち着け。気を悪くさせたなら悪ぃな。ジャンは性別問わず顔の整った人間ばかり偏愛する癖があるんだ」
フェリクス王子みたいな人だな。
まぁそりゃ、リードやヴァンに比べたら私の容姿なんて平凡だけどさぁ…
失礼なのは同じじゃない?
「今でこそ落ちぶれたが一応パラディアの貴族でな。見目のいい奴隷を多く抱えていた」
その言葉に背けていた顔を戻す。
パラディア王国はカデュケート王国に比べると奴隷に関する制約が少なく、堂々と囲っている貴族もいるらしい。
この人もその一人だったわけだけど…
見目のいい奴隷って……
「まさか」
「ジャン。お前が一番気に入っていた奴隷の話をしてやってくれ」
「うん?」
「このお嬢ちゃんはな。おそらくお前の気に入っていた奴隷の今の主人だ」
その言葉を聞いて、ジャンさんは勢いよく立ち上がった。
「あの子はっあの子は無事なのかい!?僕の可愛い」
すぐにふらついて言葉が止まる。
目が見えないうえに足も悪いのに急に立ち上がったら、そりゃそうなるだろう。
慌ててカミラさんが支えていた。
「ああ、済まない。カミラ。それで、ハイル…いや、アカネと言ったね。アカネ嬢、本当に君は…」
「落ち着け、ジャン。どうだい嬢ちゃん、聞くかい?嬢ちゃんとは全く価値観の違う人間の思い出話になるがな」
私の前に、彼の主人だった人の話。
聞くのが怖いような気もするけれど、どうして彼があんなに奴隷というものにこだわっていたのか分かるかもしれない。
「聞かせてください」
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<Side:リード>
「くそっ、何が信用しろだよ!」
俺の制止を聞かずにアカネがヴァンについて行ってしまって間もなく、ヒナ吉からの通信が途絶えた。
殺されたわけではない。
まだ繋がっている気配はあるが、おそらく意識を失っている。
このタイミングでまさか偶然他の魔物に襲われたなんてことは無いだろう。
シルバーウルフ側の手によるものだと考えた方が良い。
くそ、こうなったら手段なんて選ばずに魔術でもなんでも使って……
そんなことが頭をよぎるも、慌てて首を振る。
駄目だ、落ち着け。
アカネはまだ首輪を外されていないかもしれないし、何よりアカネと落ち合う前に魔王化する可能性が高い。
そうなれば本末転倒だ。
俺を乗せて走り続ける白馬の首を撫でる。
「悪いがほとんど休憩はやれそうにない」
俺の声に猛々しい嘶きが返って来る。
この馬も黒馬同様、魔物化済みだ。
やはり馬によって性格に差があるのか、この馬は妙に荒っぽかった。
ベルナルア一族の馬って感じだな。
スタミナは十分。
アジトの場所がどこかは分かっている。
このスピードのまま走れば、明日の夕方には着けるはずだ。
シルバーウルフが何をたくらんでいるかは知らないが、アカネがすぐ危険な目にあわされることはないと信じるしかない。
「……ジャン、か」
アカネとギリギリ音声が繋がっていた時に聞こえた名前を思い出す。
パラディア王国ではありふれた名前だった。
でも、俺にとってその名前で思い出すのは一人だ。
カミラという女の主人らしいその男。
「まさかな」
あいつがここに居るはず無い。
仮にも伯爵様だ。
シルバーウルフがカデュケート王家公認とはいえ、パラディアの貴族にまで繋がりがあるとは……いや、無いとは言い切れないが。
そうだとしたら世間が狭すぎる。
アカネの前に俺の主人だった男は、常に仮面をかぶった変な奴だった。
でも、俺の中での奴隷というものの意識を大きく変えたのはあいつだ。
俺が奴隷に落ちたのは、他でもない自分のせいだった。
考えなしで行動した、自業自得の結果だ。
馬を操りながら、ぼんやり昔のことを思い出していた。
=====
デイジーが目の前で攫われたあの日。
俺はそのまま彼女を追いかけた。
シルバーウルフがどこへ逃げたのかすら分からなかったが、やみくもに探し回った。
娼館"夕暮れの花束"はその一件で壊滅状態になったものの、死者はゼロ。
怪我人の治療や従業員の次の勤め先はそこの領主だったマーレイ伯爵が世話してくれたと風の噂で聞いた。
なんで急に伯爵が一介の娼館に手厚いケアを行ったのか疑問だったが、今にして思えばベルブルク家が手をまわしていたんだろう。
どちらにせよ、俺がそこを頼ることは無かった。
また大切なものを守れなかったという絶望で視野が狭くなっていたんだろう。
我武者羅に探し回ったところで見つかるはずもないのに。
金も食料も、何もない状態で歩き回った俺が倒れるのにそう時間はかからなかった。
このまま野垂れ死ぬのかと思っていた矢先、俺はまた拾われた。
人助けをしたデイジーとは違う。
俺を商品として扱う男だ。
奴隷商人は、今のカデュケート王国にも少なからず居る。
この国ではあまりいい顔をされないようだが、奴隷を持つことをステータスだと感じる人間や、嗜好品として考えている人間もいるらしい。
需要があるところに商人は現れる。
そういうものだ。
「お前は綺麗な顔してっからな。すぐ客が見つかるだろう」
俺を拾って勝手に商品にした男。
その独り言に俺は返事をしたことがなかったが、その通りにすぐ買い手がついた。
最初の主人は博打で一山当てたと言う太った男だった。
綺麗な少年少女を集めてはベッドにこもるのが趣味らしい。
俺も買われてすぐベッドに連れていかれたが、もちろん逃げ出した。
首輪から伸びる鎖はベッドの柵につながれたままだ。
その首輪と鎖だけを残して、俺は抜け出していた。
いつの間にか背後に立っている俺を見て、男はしりもちをついて驚いてたっけな。
まぁ、当然の反応だろう。
空間魔術。
俺がそう呼んでいるこの能力は、おそらく系統としては光魔術だ。
昔から光魔術が得意だった。
しかし、普通の子供より魔力が高かった俺は度々魔術の暴走を起こした。
光魔術は癒し、成長、明かり、反射など多様な現象を引き起こす。
その暴走は他の魔術と比較しても何が起きるか未知数で、俺は両親から使用を禁止されていた。
それでも小さい頃にありがちな『いつか勇者になる』なんて夢を持っていた俺は、魔術の練習をやめなかった。
バレないようにこっそりこっそり、出力を絞って絞って。
そんなことをしていたら空間に干渉する魔術ができあがっていた。
距離は短いが瞬間移動ができたり、何もない空間に物をしまって、再び違う場所でそれを取り出したり。
他にそんなことができるという話を聞いたことが無いので、できるのは俺だけなのかもしれない。
周囲が知れば驚いただろうが、そもそも魔術を禁止されていた以上、誰にも言わないままだった。
この力のおかげで大切なものを奴隷商たちに奪われることも無かったが、それ以外では決して使わなかった。
娼館で護衛業をしていた時にも。
……使えるわけがない。
俺はこの力で、多くの人間を死なせてしまったのだから。
だが奴隷に落ちた今、そんな理性は捨ててしまっていいものだろう。
もういい。
どうだっていい。
もしまた暴走して、今度は俺もろともはじけ飛ぶことになったとしても構わなかった。
しかしそんな時に限って魔術はうまく発動し続ける。
捕えようとする度に離れた場所へ姿を現す俺を見て、男は恐怖を覚えたようだった。
とうとう奴隷商人に泣きついて俺の引き取りを求めた。
返金しなくていいという男の言葉に、奴隷商人は喜んで俺を引きとった。
俺が瞬間移動するなんて言葉を奴隷商人は信じていなかったし、多少何か難があっても俺の容姿ならまたすぐ売れると踏んだらしい。
俺は大人しく奴隷商人の元へ戻った。
逃げようと思えば逃げられたが、金も無い状態で歩き回っても結局また別の奴隷商に捕まるか野垂れ死ぬだけだ。
デイジーを見つけることができない無力さを思い知った俺は、すっかり自暴自棄になっていた。
二人目の主人もすぐに見つかった。
一山当てて大もうけしたらしい商人の妻だった。
太ったババアは俺に手こそ出さなかったが、あれこれ服を着せ変えては嘗め回すように見つめてきた。
気持ち悪かったので抜け出すことにした。
用心深いババアに魔力を封じる首輪をつけられていたので、瞬間移動はできない。
食事の時に出されたフォークをくすねて鍵を作り、首輪を外した。
この技を教えてくれたのは、奴隷商人のところに居る間、同室になった少年だった。
鍵開けが得意で何度も抜け出した結果、魔力を封じ、なおかつ鍵穴を隠す機能まである魔術具の枷に変えられてしまったと笑っていた。
俺もそうなると困るのでこの技は使わないつもりだったのだが、これ以上あのババアがニタニタ笑う顔を見ていたくなかったのだ。
地下の小部屋から抜け出して庭に出たところで、ババアの夫らしい商人と出くわした。
商人は妻が奴隷を買っていることを知らなかったらしい。
慌てた様子で俺から奴隷商人の居所を聞き出し、馬車に押し込んだ。
得意先に見つかれば信用にかかわるとかで、俺の返却はこっそりと行われた。
また返金は不要だということになったそうだが、奴隷商人はもう嬉しそうな顔をしていなかった。
そんなことがその後も三回ほど続き、俺は半年の間に五人もの主人の間を転々とすることになった。
最後の主人は隠棲している元宮廷魔術師の女だった。
その時には魔力も鍵穴も封じる枷をつけられていたが、女にお願いしてみたらなぜか顔を真っ赤にしてあっさり外してくれた。
聞けば初恋の人に俺がそっくりだったそうだ。
それに元とはいえ宮廷魔術師なわけで、俺が何かしても御せる自信があったのかもしれない。
しかしさすがに空間魔術は想定外だったらしい。
俺は逃げ出した。
悪い女ではなかったが、その初恋の人の名前を聞いたらなんと自分の父親だったので、流石に洒落にならんと感じた。
こじらせた初恋を俺にぶつけられても困る。
このころには俺を返品される時の、奴隷商人の愕然とした顔を見るのが楽しみになって来ていた。
自分でもちょっと性格が悪いと思うが、こんな生活で歪まないわけもない。
自分の足で戻ってきた俺を見て、奴隷商人は大口を開けて呆れていた。
『出戻り野郎』と言われたので『もう少しマシな客見つけろよダメ商人』と返したら殴られそうになった。
枷も無かったのであっさり避けたが。
奴隷商人はとうとう、自分の手に負えないと判断したらしい。
俺はパラディア王国で商売をしている奴隷商人へと売り渡された。
パラディアはカデュケートより奴隷の売買が盛んだと言う。
新しい奴隷商人は、前の奴隷商人のようにすぐ殴りかかってこない男だった。
それを指摘すると『殴らないのが普通だ』と苦笑された。
彼は『本当に求めているお客様に求めている商品を届け、返品されないで満足させるのが優れた商人だ』と語った。
その考え方には感心するが、商品は俺だ。
『感動させたいなら語る相手を選べ』と返したがまた苦笑されただけで殴られなかった。
パラディアの奴隷店は高級な服屋と変わらない門構えで、中も綺麗だった。
展示ケースも特殊だ。
客からは俺達が見えるが、中に居る俺達には鏡にしか見えないという仕組みになっているそうで、ほとんど客を意識せずに過ごせたのは良かった。
食事もそれなりのものを与えてもらえてなかなか快適だったが、俺はまたすぐに新しい主人が決まった。
従業員に促されて展示ケースから出ると、仮面をかぶったおかしな男がそこに居た。
「やぁ、近くで見てもやはり美しいね。僕はジャン。ジャン・ラシュレー。君の名前は?」
この国の貴族で伯爵様。
俺は奴隷になってから初めてまともに名乗られ、名前を聞かれた。
いつもご覧いただきありがとうございます。
リードの過去編に入りますが、あと三話ほどで終わります。
そう思うとやっぱりアドルフの愚痴は長かったですね。




