001それは転生でも夢でもなく
目の前にあるのは瞬きするのも惜しくなるほどの美少年の顔。
ほんの少し身じろぎしただけで唇が触れてしまうのではないかと思うほどの距離。
私の顔の横についた腕はすらりと長く。
つまりはこのシチュエーションは現実ではあまり見られない夢のシチュエーション、その名を『壁ドン』…
なんだけれど、私はときめくより先に戦慄した。
「それで?」
なぜなら目の前の少年の微笑みは怒りに満ちているからだ。
まだ15歳のはずなのにこれほどの気迫をまとう様を見るたびに思う。
やっぱりコイツは…
「アカネ様、余計なこと考えてないで答えてください」
普段は砕けた話し方をしている彼が、敬語を使うのは本当に怒っている時だ。
彼はもともと奴隷商に売られていた少年。
それを私が買い取ろうとしたのが出会いの始まりだ。
今でこそ正式には奴隷と言う立場ではないが、彼は未だに私の奴隷であると言い張り、その立場を大きくは変えようとしない。
何故だかしらないが、奴隷である事を彼本人が強く希望しているのだ。
口調を崩させるのにも苦労した。
そして当初と同じ話し方で、彼は私を暗に脅している。
自分を拾った責任をとれ、と。
つまりは私に誠実であれということなのだ。
なんで奴隷より主人の方が立場が弱くなっているのか。
それは出会ったあの日にしてしまった約束のせいかもしれないし…
…彼が、未来の魔王だからかもしれない。
そう、私の奴隷を自称する彼は、この世界を震撼させる歴代最悪の魔王となる男。
こうして言葉にすると、本当に意味がわからない…
わからないけれどそれは事実で、そして私は今、未来の魔王に壁ドンされているのだ。
…けれどいくら凄まれても私は押し黙るしかない。
そんな私にしびれを切らしたように、彼は舌打ちする。
「そんなに言いたくないんですか?
ずっとアカネが想い続けているっていう男が誰なのか」
「…言ったらアンタ殴り込みに行きそうじゃないの…」
「消し炭にせずに耐えられたら褒めてほしいくらいだ」
拗ねたような声でサラリと恐ろしいことを言う。
けれどそんなことを除いたって、口が裂けても言えない。
私の好きな人は、『いつか貴方を倒す勇者』なのよ…なんて…
さて、この訳の分からないシチュエーション。
当然現代日本のお話ではない。
私は十村茜、18歳。
ごくごく普通の女子高生…だった。
けれど今はカデュケート王国、王都より少し外れたセルイラ領を治める
スターチス伯爵の娘…アカネ・スターチスとなっている。
名前が世界観とずれているのはご愛嬌。
名前だけは元の世界から持ってきてしまったのだから仕方ない。
そう、この世界は私がもと居た世界ではない。
私の大好きだった小説『ホワイト・クロニクル』の中だ。
どうしてそんな冗談のようなことになっているのか。
それは半年ほど前にさかのぼる。
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その日は雨が降っていて。
それ以外はなんの変哲も無い、高校からの帰り道を歩いている時だった。
不意に、猫の鳴き声が聞こえて体がびくりと震える。
その瞬間目が覚めたような感覚とともに足に衝撃が走った。
「いったあ!」
思わず口をつく悲鳴。
痛みにしゃがみこむと、足元には一冊の本が落ちている。
おそらくこれが足に落ちてきたんだろう。
そして痛みの正体を睨みつけて…その表紙を見た瞬間、心臓がドクンと音を立てた。
見覚えが…いや見覚えどころじゃない。
あまりによく知っている本だったから。
「いらっしゃい」
震える手を伸ばしかけた私をさえぎるように、そんな声が聞こえた。
驚いて顔を上げる。
「え…」
震える声が漏れ出て、そのまま言葉を失った。
なぜならそこはいつもの通学路ではなかったからだ。
6畳ほどの古そうな洋室。
中央に小さなテーブルが1セットある以外は、
四方を空っぽの本棚が埋め尽くしている。
…本当に埋め尽くしてる。
ドアが見当たらないほどに。
声の主はテーブルにいた。
若い女の人。
20歳かそこらだろうか。
ボブカットの茶髪を揺らす、どこにでもいそうな平凡な容姿の女性が、テーブルの上のさび猫を撫でながら私を見つめていた。
「えぇと…?」
私はいつからこんな場所にいたんだっけ?
気づけば傘も鞄も持っていない。
友達によく『茜はぼんやりしすぎ』と言われるけど、さすがに意識なく人様の家に迷い込んじゃうほどじゃなかったはず…
というかドアも無いのにどうやって?
「混乱してるよねぇ。そりゃそうだ。
ひとまず自己紹介しよう。私はユーリ。
元ピチピチの女子大生」
カラカラと笑いながら、女性は名乗った。
元、というのを妙に強調されたけれどそこを突っ込んでいる余裕はない。
「私は…十村茜です。あの、ここは…」
私がここにいる理由を知った風のユーリさんに説明を求めて視線を向ける。
けれど彼女は困ったように微笑んだ。
「そうねぇ…いつも説明に困るのよね。
ここは、というべきかこれはというべきか…
もしくは私達がとも言えるし、すでにあなたも含まれているんだけど…」
謎かけのような答えを返されて少し苛立つ。
なんなんだ、なぞなぞか。
「あの、もう少しわかるように…」
思わず身を乗り出して一歩足を踏み出した。
その瞬間、何かに足を取られて上半身が傾き、盛大にしりもちをつく。
「いったたた…」
さっきからコントかと思うほど流れるように痛い目にあっている。
私が何をしたって言うんだ。
「あらら…アカネちゃん大丈夫?」
ユーリさんがあわてて駆け寄ってきてくれる。
引き起こされて状況を確認してみれば、さきほど拾い損ねた本で足を滑らせたらしい。
踏みつけてしまったせいか、表紙から何ページかが破れてしまっていた。
「あああ!」
その絶叫は、私とユーリさんの声が合わさったものだ。
私は…よく知っている、いや、とても思い入れの深い本を破いてしまったことへのショックから。
そしてユーリさんは、私以上に青ざめた顔で猫の方へ振り返って叫んだ。
「どうしよう、モト!
本破れてる!これってどうなるのー!?」
そんなこと猫に聞いてどうする?
けれどさび猫はゆっくり起き上がって口を開く。
「知らん。ひとまずそいつを本にしまい損ねるのは避けた方がいいだろうな」
ね、猫がしゃべった!
既に訳のわからないことが起き続けているのだから今さらだけど。
しかも低めの男性の声…可愛くは無い。
「だよねだよねーっ…どうしよっかな…
とりあえずアカネちゃんを安全にしまってあげないとだよね」
さっきからしまうって…どういう意味なの?
一向に状況を説明してくれないまま、ユーリさんはどこからかペンと紙を取り出した。
「アカネちゃん、その本の中で好きな登場人物は?」
「え?」
「好きな登場人物!できれば優しそうな人がいいかな」
唐突な質問に目を丸くする。
そんな話よりももっと聞きたいことがたくさんある。
あるのだけれど。
「ファリオン…主人公の、勇者ファリオン!」
即答した。
迷うことなんてあるはずがない。
大好きなファリオン。
泣きそうな気持ちでその名前を頭の中で反芻する。
「いいね、勇者様か。
それじゃファリオンがいるのは…王都の近くか。
じゃあアカネちゃんもその周辺の街に。
アカネちゃんが苦労しないように、そうだなぁ…
権力争いにもさほど巻き込まれなさそうな、
そこそこ裕福な中流貴族の次女とかでいいよね?」
私が口をはさむ暇もなく、ユーリさんは訳の分からないことを口走りながらペンを走らせていく。
「よし、できた!モト!」
ユーリさんから紙を受け取ったさび猫は、私の足元の本を器用に開き、その紙を最初のページに挟み込む。
そして次の瞬間、ぐにゃりと私の視界がゆがんで…
「いってらっしゃい、アカネちゃん!」
ユーリさんのそんな声が聞こえた直後、私は…
「おはようございます、お嬢様」
メイドさんにかしずかれていた。
…ナニコレ。
ちょっぴりこの先の話とズレが出てきたので内容を修正しました。
大筋は変わっていません。
年齢設定がミスってたのを修正しました。