マイノリティと海
青春時代、私は経験談を欲した。他者の人生を求めた。読み漁ったすべてが真実として私に残り、嘘や見栄であったろう小噺さえ、生々しく心に息づいている。存在させてほしい。あなたの中に。
私にはペニスがない。
それゆえ、人生のすべてにおいて引け目を感じる。
生殖の神秘を外れて暮らす、この生活の、途方もない無為さ。ただ消費して、ただ死んでいく。肉や穀物や野菜を咀嚼して嚥下し、内臓の中で糞尿へと変えて排泄する。命を奪いながら環境を汚染している、だけの存在なのだ、私は。
このように卑下することで他の誰かを傷つけてしまうかも知れない、というのは重々分かっている。数多生きる人々に、どのような事情があるとも知れない。子を成さないことを責められるような社会であって欲しくはない。結局、どの子も老いて死ぬ。赤ん坊の未来は死である。命は等しく無意味だ。生きる権利を必死に握り締めながら日に日に死んでいく。大いなる虚空にわずか明滅する、瞬間の自我を。ただひとときの時代を。人工の倫理観でわざわざ縛らずとも良いのではないだろうか。
ただ、それでも、私は自身を赦すことができない。
笑顔の溢れる幸せな家庭に、私は裁かれている。社会には不要な存在だと告げられている。ファミリーカーのコマーシャルを見るたび擦り減っていく心に気づき、成人してからは部屋にテレビを置かなくなった。
わかるだろうか。
つまり私は、現代社会の正当性を誇大化して唱え、被害妄想に身を投じ、その汚泥から抜け出すことができずにいるのだ。
誰にも頼まれていないのに、幸福でないことを主張し、赦されようとしている。
そう、私は赦されようとしている。
他者から不用意に傷つけられまいと先回りして自身を貶し、自尊心を保っている。私は恐ろしく卑怯である。どのような場面においても評価を下げられないことを優先し、その場限りの主張を掲げてみせ、自らの確固たる意志なんてものは持っていない。その癖こうして自己嫌悪に身を寄せてマジョリティを呪っている。
救いようがない。
救われたい。
湿った洞に蹲りながら、昇る日を待つ。私の背は小さい。道行く男どもが羨ましい。貧相な骨格が憎い。すべての幸せが眩しい。世界は美しく、この体は醜い。
赦されたい。
どうして私は性同一性障害者なのか。
選んだはずはない。いつのまにか「そう」だったのだ。そのように言い張ったところで、それでいったい誰の責任にしたいんだ、と世は問うだろう。免罪符でも寄越して欲しいのかと、白い目を向けられるに違いない、私はこうしてまた被害妄想に取り憑かれて呪詛を撒き散らす。
不快な存在になりたくなかった。
お前が勝手になったのだから責任を持て。
つい最近好きな女性ができた、食事に誘いたい。
馬鹿を言うな。なりぞこないのくせして。
意味のない命を燃やし、矛盾を燻らせている。今夜はとても涼しい。夏はもうきっと帰ってこない。