〈九〉
真由が母のマンションを訪れるのは、これが三度目だった。
だが、これまでの二回とは、気持ちがまるで違っている。
今までは、どこか妙な緊張感があったが、今回は「来るなら来い」とでもいうような強い気持ちになっていた。
なぜ、そんな風に思ったのかは、自分でも説明が出来ない。そもそも「来るなら来い」というのは成立していない。
(だって、こっちがマンションへ行くんやから)
真由がマンションへ行くことになったのは、どうしても母に会いたくなったとか、そういうことではない。
裕子から、話があると言われたからだ。
昨日、つまり金曜日の夕方、珍しいことに裕子から電話が掛かってきた。
珍しいというか、家を出てから初めてのことだ。
「お母ちゃんが電話してくるなんて、どういう風の吹き回しや。せやけど、お父ちゃんやったら、おらへんで」
母がわざわざ電話を掛けてくるからには、どうせ事務的な手続きなど大人の問題であり、父と話があるのだろうと真由は思ったのだ。
だが、そうではなかった。
「今日はお父ちゃんやなくて、真由に話があって電話したんや」
裕子は言った。
冷静に考えれば、この時間に父が留守なのは母も知っているはずだ。
だから電話が掛かってきた時点で、真由はそのことに気付くべきだったのかもしれない。
「アタシに話って?」
「明日、用事とかあるか?無かったら、会われへんかなあと思って。お父ちゃん抜きで、お母ちゃんと真由だけで」
(どういうことや?)
母から会いたいと言ってくるなんて、不可思議なこともあるものだ。
しかも、二人だけで会いたいと注文を付けるなんて。
「別に暇やけど、なんかあるんか?」
真由は、大して興味が無さそうな態度を装った。
「ちょっとな、大事な話があるねん」
「電話で言うたらエエやん」
「いや、電話では難しいわ。やっぱり、直接会って話した方がエエと思う」
そこまで言うからには、よほど大事な話なのだろう。
しかし、そんな言い方をされたら、気になって仕方が無い。今すぐ知りたい気分にさせられる。
(さすがに、それは我慢しとこか)
「会うのはエエけど、場所は?」
「お母ちゃんがそっちに行ってもいいんやけど、お父ちゃんが家におるやろ。そしたら、顔を合わせることになるし、それは避けた方がいいと思うねん」
「さっきから、なんでお父ちゃんは仲間外れになってんの?」
真由は尋ねた。
「この話は、最初にお母ちゃんと真由だけでしたいねん。もちろん、後からお父ちゃんには話すよ。でも、これは真由にとって大事なことやから、まずは真由に話すべきやと思うねん」
(曖昧すぎて、全く答えになってないし)
その答えも含めて、会うまでは分からないということだろう。
「ほんなら、アタシがそっちのマンションに行ったらエエんやろ」
真由は淡々と告げた。
母は「そっちに行ってもいいんやけど」と口にしたが、家に来る気など全く無いだろうと真由は察した。それなら、こっちが出掛けていく以外に無い。
「真由の希望があったら、どこか外で会っても構わへんけど」
「いや、そんな面倒なこと、やめとこうや。お母ちゃんも、自分のマンションの方が落ち着いて喋れるやろ」
「そしたら、こっちに来てくれるか」
「分かった。ただ、お父ちゃん抜きってことは、今回はそっちに行くことも内緒にした方がエエんかな?」
「いや、それは言うても問題無いよ。お母ちゃんのトコに遊びに行くって言うたらエエんとちゃうか」
「なるほど。ほんなら、そういうことで」
そういう経緯で、真由は母のマンションを訪れることになったのだ。
*****
インターホンを鳴らすと、今回はすぐに裕子が出て来た。
前回の訪問では険しい顔付きだったが、今回は満面の笑みで真由を出迎えた。
(逆に不気味やな)
母の笑顔が、どこかしら異常なものに見えた。その裏に何か隠されているのではないかと、真由は感じた。
「よう来たなあ。さあ、上がって」
裕子は真由を招き入れた。
その時点で、真由は何となくピンと来た。なぜかは分からないが、たぶん前回の訪問で出会った高木という男性がいるのではないかと、そんな予感を抱いた。
そういう時の予感というのは、どこからか急に頭の中に飛び込んで来る。そして、的中する確率は、意外に高かったりするのだ。
真由は玄関に入り、視線を下に向けた。そこには男物の靴があった。
予感は、確信に近いものへと変化した。
リビングへ赴くと、やはり高木の姿があった。しかも、前回と全く同じ場所に座っている。
(なんや、そこはアンタの指定席かいな)
「やあ真由ちゃん、久しぶり」
高木は立ち上がり、笑顔で迎えた。
(ちゃん付けするほど親しい関係やないやろ。それに、アンタも笑顔かい。二人ともニコニコして、気持ち悪いな)
真由は、高木に富美恵と同じ匂いを感じた。ということは、富美恵と同じぐらい神経を逆撫でする相手だということだ。
「真由、前に来た時に会ってるやろ。出版社の高木さんや。高木友則さん」
裕子が告げた。真由が挨拶を返さずに突っ立っているので、以前に会ったことを忘れているのではないかと思ったようだ。
「覚えてる」
真由は短く告げる。そう簡単に忘れるものではない。いや、忘れたくても忘れられない相手だ。
(というか、別にフルネームまで教えてくれんでエエっちゅうねん)
そもそも、なぜ高木がその場にいるのか。母と二人だけで話をすると言われていたのに、これでは約束が違う。
「とにかく、二人とも座って」
裕子が促す。
「そうか、ハハッ、立ったままで、ずっと喋るわけにもいかへんしな」
軽く笑って、高木は腰を下ろした。
(何がハハッやねん。何も面白いことは言うてないで)
このまま立ち続けてやろうかと、真由は反発心を覚えた。
だが、向こうが先に座ってしまったし、自分だけ立ち続けてもマヌケなだけだ。
真由は、丸テーブルを挟んで向かい側のソファーに腰を下ろした。
「ちょっと待っててな」
そう言って、裕子はキッチンへと向かった。
高木はタバコを取り出し、ライターで火を付けようとする。だが、パッと真由を見て、くわえたタバコを元に戻した。子供の前なので遠慮したようだ。
真由はタバコぐらい平気だったが、だからと言って「吸ってもいいですよ」と勧めるつもりも無かった。
(向こうが勝手に気遣いをしたんやから、ほっといたらエエことや)
裕子がお盆にコップを乗せ、リビングに戻って来た。彼女は高木の所にコーヒー、その隣にもコーヒー、そして真由の前にはオレンジジュースを置いた。そしてお盆をテーブルの下に滑り込ませ、高木の横に座った。
(なんでオッサンの隣やねん)
真由は苛立ちを覚えた。
それと、なぜ二人がコーヒーで、自分だけがオレンジジュースなのかと、それも不満だった。
(ちょっとした差別か。もしくはガキ扱いか。確かに年はガキやけど)
「二人はコーヒーなんや」
真由は無表情で、ポツリと言う。
「そうやけど、アンタもコーヒーが良かったんか?」
「いや、別に」
問題は飲み物の種類ではない。二人がコーヒーで、真由だけが違うということだ。
(なんや、お母ちゃんとオッサンだけ同じモンを飲んで、仲がエエことでもアピールしたいんか)
「最近、学校の方はどうや?」
裕子はコーヒーを一口すすり、そう尋ねてきた。
「別に、普通やな」
真由はそっけなく答えた。
母がそんなことを本気で聞きたがっていないことぐらい、お見通しだった。いきなり大事な話とやらを切り出しにくいので、とりあえず学校の話題から始めてみただけだろう。
「もうすぐ卒業やもんな。どうや?」
「そう言われても、何も無いよ」
(どんな風に答えたらエエねん)
母に意地悪をしているわけではなく、実際に真由は、卒業という事柄に関して何のコメントも持ち合わせていない。
小学六年生の子供には、誰にでも卒業の日が訪れる。それだけのことだ。
真由にとっては、それ以上でも、それ以下でもない。
「晩御飯、まだ頑張って作ってんのか?」
裕子は会話が広がらないと判断したのか、別の話題に切り替えた。
「作ってるよ」
(他に誰も作る人がおらんしな。晩御飯を食べるためには、作らなしゃあないやろ)
「真由ちゃん、晩御飯を作ってるのか。すごいなあ」
高木が感嘆の声を発した。
(ワザとらしいっちゅうねん)
すごいと言われても、真由はこれっぽっちも嬉しくなかった。
(なんにもすごいことあれへん。しょうがないから、やってるだけや)
「お母ちゃん、大事な話があるんやろ」
いつまでも、くだらない世間話で時間を潰していても意味が無い。向こうがなかなか切り出さないのなら、こっちから言わせるように仕向けるしかない。
「そうやな、今日はそれで来てもらったんやもんな」
裕子が真由の顔をじっと見て、深くうなずいた。
「これから喋るのは、真由に関係がある話や。急なことやけど、最後まで話を聞いてほしい。いずれはお父ちゃんにも話はするけど、先に真由に言うべきかなあと思ったんや」
「前置きが長いって。分かったから、早く本題に入って」
真由は焦れたように言った。
「自分の娘に対して、そういうことで嘘をつくのは悪いと思うから、やっぱりお母ちゃん、正直に言おうと思う」
(おいおい、まだ本題に入らんか)
真由は半ば呆れたような表情になった。
詳しいことは不明だが、高木が同席している時点で、母が何を言いたいのか、大体のことは想像が付いている。
「勿体付けんでもエエって」
「そうやな、ほんなら言うわ。お母ちゃん、ここにいる高木さんと付き合ってる。それは、友達としての付き合いじゃなくて、それ以上の関係。分かる?」
やはり、予想した通りの内容だった。
そんなことは、口に出さなくても、様子を見ていれば分かることだ。
「つまり、二人は恋人同士ってことやろ」
真由は淡白に告げる。
すると裕子と高木は驚いたように顔を見合わせ、それから同時に微笑した。
(うわっ、なんかムカつく)
真由は煙たい顔になった。
(何を笑うことがあんねん。なんにも面白いこと言うてないで。そこで二人だけの世界を作るなよ)
「真由ちゃんの言う通りや。僕と真由ちゃんのお母さんは、恋人同士やねん」
高木が笑顔で言う。
(オッサンは関係無いっちゅうねん。アタシはお母ちゃんと喋ってるんや)
「真由にとって、自分の母親が父親以外の人と付き合うのは、嫌なことやと思う」
裕子が静かな口調で告げた。
「でも、お母ちゃんは高木さんのことが好きになってしもた。これは、どうしようもない事実や。だから、お母ちゃんは真由にも二人の関係を認めてもらいたいと思ってるんや。どうかな、真由?」
「認めるも何も無いんやろ。アタシが認めようが認めまいが、もう二人は付き合ってるわけやし」
真由は突き放すように言った。
「そうかもしれんけどな、真由ちゃん」
また高木が口を挟む。
(ええい、うっとおしいな)
「もしアタシが認めませんって言うたら、それで二人は付き合いをやめるんか?違うやろ。せやから、認めるも何も無いと思う。アタシの言うこと、間違ってるか?」
真由は、母が自分に何をさせたいのか分かっていた。
母は、前回の訪問で、自分と高木の関係がバレたと察知したのだろう。そして、そのまま放置しておくことに心苦しさを感じたのだろう。だから娘に認めてもらい、気分的に楽になりたかったのだろう。
たぶん、そういうことなのだ。
(せやけどな、そんな勝手なやり口に、そう簡単に乗ったるかいな)
強い反抗心が、真由の中に生じていた。
「真由ちゃんは、まだ小学生やのに、しっかりした考え方をするんやなあ」
高木が感心したように言う。
(アンタに感心されても嬉しくないわ)
真由は顔を歪ませる。
「でも、真由ちゃんの言う通りやな」
「そんなこと言うて」
裕子が困ったように高木を見た。
「いや、確かに真由ちゃんに認めてもらえんかったとしても、僕は君との付き合いをやめる気は無い。君もそうやろ?」
「それはそうやけど」
裕子は高木を見つめたままで答える。
(おいおい、また二人の世界の始まりか。アタシの立場はどうなってんねん。娘をダシにしてイチャイチャすんな)
「話が終わりやったら、もう帰ってもエエかな?」
このままいても馬鹿みたいだと、真由は思った。ただでさえムカムカしているのに、目の前で二人の仲睦まじい姿を見せ付けられたら、もっとムカムカが増してくる。
「真由、まだ終わってないねん。もうちょっと座って、話を聞いてくれるか」
裕子が慌てて引き止めた。
「あのな真由、これからは、もっと大事な話になる。真由にも関係してくる話や」
彼女はそこで間を置いて、コーヒーを一口飲んだ。それから確認を取るように、高木に目で合図を送った。
(なんや、やけに芝居がかっとるな)
真由は黙ったまま、向こうの出方を待った。
「あのな真由、今すぐではないけど、お母ちゃん、この人と近い内に結婚しようと思ってる」
裕子は重々しい態度で言った。
(結婚しようと思ってる?)
想定外の言葉が、一瞬にして真由の脳内を駆け巡った。
考えてみれば、恋人関係の先に結婚という形があるのは、珍しいことではない。交際していることを聞かされた時点で、それは理解すべき事項だった。
しかし真由の中では、少なくとも今の段階では、交際と結婚は全く別次元の問題だった。
母と高木の交際は容易に受け止めることが出来たが、結婚までは頭に無かった。
その衝撃を和らげ、受け止めるためには、しばしの時間を必要とした。
(結婚ってか)
真由は壁に掛かっている時計を見た。だが、何時なのかは確認できなかった。見ているようで、見ていなかった。針がカチカチと鳴っているのは聞こえた。だが、なぜだか時間が止まっているようにも感じられた。部屋は静かだが、沈黙という意味の重低音が響いているようにも思えた。
(なるほど、なるほど)
真由は、母の言葉を自分の中で噛み砕いた。それから、じっと母を見た。次に、高木の顔をまじまじと見つめた。
二人が醸し出す空気に触れ、真由の中に、ある推察が沸いた。
(この交際の始まりは、最近じゃないような気がするな)
「二人は、一年ぐらい前から付き合ってたんか?」
真由は尋ねた。
すると裕子も高木も、ぎょっとした表情になった。それから二人は互いに顔を見合わせて、同時に微笑した。
(アカン、やっぱり腹立つ。何も面白いことは言うてないっちゅうねん。そろそろ口に出して言うたろかな)
「なんや、もしかして、前から気付いてたんか?」
母が明るく言う。
「そやけど、一年より、もうちょっと長いかな。一年半ぐらい前かも」
「そうか、真由ちゃんは、そんなことまで気が付いてたんやなあ」
高木が続けて言った。
(なるほどな。そういうことかい)
真由は二人から視線を外した。
裕子と高木は勘違いしている。真由は、以前から気付いていたわけではない。たった今、ここで疑惑を抱き、それを確かめるためにカマを掛けて、それが的中しただけの話だ。
(アホみたいに簡単に食い付きやがって)
二人の交際期間が一年でも一年半でも、真由にとっては大差が無いし、どっちでもいい。
重要なのは、母が本を出版するために高木と知り合ったわけではなく、離婚するより随分と前から交際が始まっていたということだ。
そうなると、母が家を出たのは、父が頼りないからとか、そういう理由ではないという解釈が成り立つ。
(他の男と浮気して、お父ちゃんを捨てたっちゅうことか)
母の不倫を父は知っていたのだろうかと、真由はそのことが気になった。
たぶん、知らなかったのだろう。何も知らずに、「裕子さん」と呑気に呼んでいたのだろう。
(それって、ごっつ悲しいやん)
途端に真由は、父が不憫に思えてきた。
だが、そんな心情など、裕子は知る由も無い。
彼女は真由が全てを受け入れていると思ったのか、軽い口調で話し掛けてきた。
「ほんでな、この人は東京に住んでんねんけど、お母ちゃんも将来的には一緒に住もうと思ってる。今もたまに泊まったりはしてんねけどな」
(よう喋る女やな)
真由は思った。
以前とは別の意味で、母との距離を感じた。
(なんで「たまに泊まったりしてる」とか、言わなアカンねん)
そんなことを、わざわざ言う必要は無い。
調子に乗っている母の態度に、腹立たしさが一気に増幅した。
「そやから、まあ結婚してからになると思うけど、この人もエエって言うてくれてはるし、アンタさえ良かったら、お母ちゃん達のトコへ来てもエエんやで」
裕子は真由に微笑み掛けた。
(アカン、めっちゃ腹立った)
真由の脳内で、プチッと線が切れる音がした。
せっかく必死で気持ちを抑えて、爆発しないよう冷静に対処しているのに。
納得しかねることでも納得しようとして、自分なりに頑張っているのに。
そのことを、母は全く感じ取ろうとしない。
(このボケ、「アンタさえ良かったら」って、どういうことやねん)
「来てもエエんやで」などと、そんな言い方は無いだろう。
普通は「来てほしい」と言うべきではないのか。
(アホか。アホか。子供をナメんなっちゅうねん)
もう耐え切れなかった。我慢の限界を超えていた。
真由はスクッと立ち上がった。そして怒鳴った。
「あのな、ええかげんにせえや」
思ったより大きな声になった。裕子も高木も、ビクッと顔を強張らせる。
急に声を落とすのも変なので、真由はそのままのボリュームで言葉を続ける。
「お母ちゃんがお父ちゃんと別れたのを、アタシがホンマに気にしてないとでも思ってんのか。何も言わへんから、悲しくないとでも思ってんのか。そう思ってんねんやったら、お母ちゃんは底無しのアホや」
裕子も高木も、慌てふためいた表情になっている。
(勝手にアタフタしとけ。アンタらも好きなこと言うたんやから、こっちも好きに言わせてもらうで)
「ホンマは二人が離婚して、めっちゃ悲しいっちゅうねん。辛いっちゅうねん。せやけど、そんなん言うたらお父ちゃんもお母ちゃんも嫌な気持ちになると思ったから、ずっと我慢しとんのや。何も気にしてないとか、そんなん嘘じゃ。母親やったら、それぐらいのことは分かれ。せやから、他のオッサンと結婚するとか、アタシを引き取るとか、まだ早いねん。そんなんは言うたらアカンねん。アカンねん、アホッ!」
そこまで一気に捲くし立てると、真由は母に背を向けた。
「もう帰る」
真由は早足で玄関へ向かう。
「あの、真由」
気圧された様子の裕子が、そっと声を掛ける。だが、真由は振り返らない。ドアを乱暴に開けると、すぐさま走り出した。
部屋を出て行く時、また裕子が何か呼び掛けていたような気もしたが、真由は無視した。たくさん文句を言った後で、ゴチャゴチャと言い返されるのはまっぴらだ。
(言うだけ言うて逃げたった。ざまあみさらせ)
マンションの外に出て、しばらく走ってから、真由はようやく立ち止まった。振り返って、裕子が追って来ないことを確認した。
そんなに全力疾走したのは久しぶりだったので、息が切れた。ハアハアという荒い息遣いが、やけに大きく聞こえた。冷えた空気の中、白い息だけは熱を帯びていた。
真由は地面を見下ろし、肩で息を整えた。
(せやけど、さっき言うたのは全部、嘘やねん)
心の中で、独り言を語り始める。
(お母ちゃんがお父ちゃんと離婚して悲しいとか言うたけど、あれは嘘やねん。他のオッサンと結婚するとか言うたらアカンって怒鳴ったけど、それも嘘やねん)
あまりにも母が自分勝手なことばかり言って、高木と二人だけの世界を作っているので、騙しただけなのだ。腹が立ったから、母を困らせたかっただけなのだ。
(さっきのは、ちょっとしたドッキリや。ホンマは悲しいとか辛いとか、そんな風に思ったことなんか無いねん)
真由は自分に言い訳をする。
(せやから、目から水が流れてきたけど、それも意味は無いねん)
真由は、目尻から落ちる雫をゴシゴシと拭く。
(これは涙やないねん。目のよだれや)
「ええい、さっさと止まれや」
だが、目のよだれは、後から後から溢れ出して来た。
*****
どうやって家の近くまで戻って来たのか、真由はハッキリと覚えていない。
しばらくの間、心がどこかへ行ったままだったのだ。
何となく、家に帰りたくない気分だった。だが、他に行く場所があるわけでもなく、帰らなければ仕方が無い。
歩きながら、真由は少しずつ平静を取り戻していった。既に涙は止まっているが、駅のトイレで鏡を見た時には、目が赤くなっていた。泣いた痕跡がクッキリと残っている状態だった。
(いや、泣いてないよ)
真由は一人で強がった。
(泣いてないけど、他人が見たら泣いたと思うやろ。目の赤いの、早く消えろ)
彼女には、今になって分かったことが一つあった。
一年半ぐらい前から、母は
「打ち合わせが入った」と称して外出することが、やたらと多くなっていた。
今になって考えると、あれは打ち合わせではなく、たぶん高木と密会していたのだろう。そうに違いない。
外では高木と熱い時間を過ごし、家に帰って来ると、何食わぬ素振りで家族に接していたわけだ。
(さすがお母ちゃん、エエ根性しとるわ)
そんなことを考えていると、またイライラが再燃してきた。
だが、ずっと頭の中を空っぽにしておくのは難しい。だから、やはり色々と考えてしまう。
他の事を考えれば、イライラすることも無いだろう。もっと楽しいことを想像すればいいのだ。
だが、楽しいことなど何も思い浮かばない。
そう断定してしまうと、ひどく不幸な人生を歩んでいるみたいだが、そうではない。
ただ、特別に楽しいと思えるようなことは、今の真由には何も無かった。
(なんか平凡ですわ、アタシの人生は)
まあ、親が離婚するのが平凡かどうかは分からないが。
その上、母親がすぐに他の男と結婚しようとするのだから、やはり平凡ではないのかもしれない。
(ってアカン、また元の話題に戻っとるがな)
そうこうしている内に、真由は自宅のある通りまで戻って来た。
家の前まで来た時に、彼女は不快な人物と出会ってしまった。
そこに富美恵が立っていたのだ。
(なんでこいつ、こんなトコにおんねん。またウチに来たんか)
「久しぶり、真由ちゃん。どっか行ってたん?」
富美恵は脳天気な調子で話し掛けて来た。
(アタシがどんな状況で帰って来たのかも知らんと)
真由は顔を背けて舌打ちした。
(知らんのは当たり前やけど、雰囲気で分かれや。今はアタシに声を掛けたらアカンのや)
「ちょうど真由ちゃんの家に来たところやってん。グッドタイミングやわ」
(なんで来たんか知らんけど、バッドタイミングの間違いやろ)
「真由ちゃん、家に入るんやろ。私も一緒に入れてほしいなあ。外は寒いし、中に入れてくれるかなあ?」
ニコニコと愛嬌を振り撒き、富美恵は言う。
(アカン、こいつも腹立つ)
母と高木にも憤りを覚えた真由だが、富美恵に対して、さらに強い腹立たしさを感じた。その口調が気に食わなかった。
「帰れや」
真由は静かに告げた。
そんなに激しい口ぶりではなく、なるべく落ち着いた調子で言ったつもりだった。自分で制御しないと、おかしなことになりそうだったからだ。
「えっ、何?」
富美恵が聞き返した。
(ボケ、ちゃんと一回で聞いて理解せえや。ホンマに聞こえへんかったんか、聞こえへんかったフリをしてるんか、どっちや)
「帰れって言うたんや」
少し大きめの声で、真由は言った。
(さあ、これで聞き取れたやろ。これ以上、アタシをイライラさせんなよ)
「そんなん言わんと、入れてほしいなあ」
懐柔するような態度で、富美恵が言った。
(アカンな、この女。何よりも笑顔がアカン。それがごっついムカつく)
「あれっ、真由ちゃん」
ふと富美恵が、何かに気付いたような様子を見せた。
「もしかして、泣いてた?なんか目が赤いけど」
(それはアカンで。やってもうたな、この女。最悪のパターンを選びやがった)
「泣いてない」
真由はキッパリと否定する。
「えっ、でも……」
「泣いてない」
(誰が泣いてるか。泣いてないっちゅうねん)
そこは絶対に触れてはいけない部分だった。もし泣いているように見えたとしても、放っておくのが優しさというものだろう。
せっかく気持ちを制御して冷静な対応に努めたのに、向こうが台無しにしてしまったことに、真由は憤慨した。
(そうかい、そういうことかい。もうエエわ、感情のコントロールもへったくれもあるか)
「帰れっちゅうたら帰れ!」
真由は思いきり怒鳴った。たぶん、近所に聞こえるぐらい、大声になっていただろう。だが、そんなことはお構い無しだった。
富美恵は動揺し、一歩後ずさった。
(アンタが悪いんや。すぐに帰ってたら、アタシも叫ばんで済んだのに)
「よう聞けや」
真由は富美恵を鋭く睨み付けた。
「もうウチには来るな。ハッキリ言うて迷惑や。アンタがお父ちゃんに気があるのはバレバレやけど、家にまで押し掛けて来るな。うっとおしいねん」
「そんなこと……」
「それとな」
何か言おうとした富美恵を無視し、真由は言葉を続けた。
「アタシはアンタを認めへん。絶対に認めへんからな」
真由は富美恵の横をすり抜け、玄関へと向かった。
すれ違う時、チラッとだけ富美恵の顔を見た。悲しそうな表情だった。
小さな針が、真由の心をチクッと刺した。
後ろで、コツコツとアスファルトを叩く音が聞こえた。真由が振り向くと、富美恵が沈んだ空気を漂わせながら去って行くところだった。
(さすがに言いすぎたかもしれんな)
そう思いながら、真由は無言でドアヘと向かう。
母との一件があった矢先なので、八つ当たりのような形になってしまったことを、そこに来て真由は自覚した。
(せやけど、元々は富美恵が言うことを聞いて早く帰らへんのが悪いんや)
真由は自己弁護した。
最初に帰れと言った段階で富美恵が帰っていれば、あそこまでキツく言うことも無かっただろう。
(そうや、だからアタシは悪くないで)
それに、言い方はともかくとして、富美恵の訪問を好ましく思っていないのは事実だ。
(お父ちゃんまで、他人に取られてたまるかって)
*****
晩御飯の時、真由は泰彦から、母を訪ねた時のことを聞かれた。
「どうやった、楽しかったか」
そう聞かれたので、真由は事実を語らず、
「まあ適当に」
などと曖昧な返答で済ませた。
「母親の所へ遊びに行って、適当ってどうやねん」
そう言って父は苦笑いしたが、それ以上詳しく質問することも無かった。
それから三十分ほど経った頃、裕子から電話が掛かってきた。それを受けたのは真由ではなく、泰彦だった。
真由は何となく、母から電話があるような気がしていた。
だが、電話に出る気は無かった。
向こうが謝罪するにせよ、反論するにせよ、とにかく今は母と話す気分になれなかった。平常心を保ったまま、母と話す自信が無かった。
真由は晩御飯を急いで食べ終わり、食器洗いもさっさと終わらせて、すぐに自分の部屋へと引っ込んだ。ただし、下から聞こえる電話の音には耳をそばだてていた。
電話の呼び出し音が聞こえたので、真由は忍び足で階段を下りて行った。そして父からは見えないよう、階段の一番下に座って身を潜め、両親のやり取りを盗み聞きすることにした。
母と話すのは避けたいが、父とどんな会話を交わすのかは気になったのだ。
最初の内、泰彦は普段と変わらぬ様子で応対していた。だが、途中から少しずつ声の調子が変化し始めた。どうやら裕子が、昼間の出来事を話したらしい。
母が何を話しているのかは聞こえないが、父の発する言葉から、真由はそれを読み取った。
さらに裕子は、話の流れで、真由を引き取る意思があることも語ったようだった。
その辺りで、泰彦の態度は明らかに変わった。穏やかな口調で話しているものの、その言葉に強い怒りが込められていることが窺えた。
どうやら泰彦は、腹を立てても激しく感情を爆発させるのではなく、冷静な態度で表現するタイプのようだ。そのことを、真由は初めて知った。
今まで真由は、父が怒っているのを見たことが無かった。しかし、いつもはボーッとしている印象が強いので、静かな口調であっても、その鋭敏さで怒っていることはすぐに分かった。
たぶん他人には分からないだろうが、真由には分かったのだ。
そして、母もきっと電話の向こう側で気付いただろうと、真由は思った。一応は、少し前まで自分の夫だった相手なのだから。
「裕子さん、そういうことを打ち明けるために、真由を呼ぶのは自分勝手やろ。話があるんやったら、こっちへ来るべきや」
泰彦は、裕子を咎めた。
(いや、お父ちゃん、それは違うんや)
それに関しては、母を擁護せねばならない。呼び出されたわけではなく、こちらから行くことを申し出たのだから。
だが、もちろん真由は、飛び出して行って父に説明するような真似はしない。身を隠したまま、成り行きを見守るだけだ。
「真由に関係のあることやから、先に話したって言うけど、それは裕子さんが自分を正当化するための言い訳やろ。僕より先に真由に打ち明けたのは、僕と話し合いをする前に真由を味方に付けてしまおうとでも思ったんと違うか」
父が賢そうなことを口にしているので、真由は意外に思った。普段の父からは、およそ考えられない。「正当化」なんて、そんな堅苦しい表現、父の口から出て来る言葉とは思えない。
電話のやり取りは、なおも続く。
「違うよ。別に裕子さんに恋人がおったことで、怒ってるわけやないって。大体、他に男がおったことぐらい、気付いてたし」
(ええっ、気付いてたんか)
真由は驚く。そして、父の言葉に違和感を覚える。
恋人がいたことで怒っているわけではないと言ったが、そこは怒ってもいいのではないか。
(というか、気付いてたのに、普通に夫婦として接してたっちゅうことか)
真由は眉をひそめる。
(お父ちゃんも、その辺は甘いというか、なんというか)
しかし考えてみれば、父も母も、どちらも相手に嘘をついたまま、ずっと一緒に生活していたわけだ。
そのことに、真由はゾッとした。
(大人って怖いわ)
「知ってたよ。それぐらい、いくら鈍い僕でも分かるよ。分かってたけど、浮気されるってことは、奥さんを引き付けておくだけのモノが自分に無いっていうことやろ」
すごい考え方だと、真由は半ば感心し、半ば呆れた。
(なんて心の広い意見や)
奥さんに浮気されているのに、自分に問題があると考えるなんて。
父は色んな意味ですごい人だと、真由は思った。
(もしくは、どうしようもないアホやわ)
「裕子さんが急いで離婚届を出したがってたのも、なるべく早く、その男と再婚したいからやろ。否定しても分かるよ。裕子さんは隠そうとしてたけど、明らかに急いでる感じがあった」
(へえ、そういうことなんか)
父の言ったことが当たっているとすれば、やはり母は頭のいい人なんだろう。
それが良いのか悪いのかは、別にして。
(というかさ、お父ちゃんも自分の奥さんが浮気してたんやから、そこは怒れよ。浮気をやめろって言えよ)
なぜ知らんぷりで浮気を放置しておいたのか、真由には解せなかった。おまけに、離婚届も別居前に出したのだから、結局、父は母の言いなりになっているのだ。
(全然アカンやん)
「そうや、確かに怒ってることは怒ってるよ。僕はな、裕子さんが自分の身勝手に真由を巻き込んでることに怒ってるんや」
どういうことだろうかと、真由は首をかしげた。母の身勝手に自分が巻き込まれているという、その意味が理解できなかった。
分かったのは、どんどん大人の話になっているということだ。
(まあ実際、二人とも大人やけど)
「大体、真由と一緒に暮らしたいって言うけど、どこまで本気なのかも分からへん。正直なところ、かなり疑ってるよ。自分が浮気して家を出て行ったから、それで罪悪感から真由を引き取ろうと考えたんやないかって、そういう風に疑ってる」
(罪悪感でアタシを引き取ろうってか)
そうだとすれば、真由を引き取ることで、裕子の罪悪感が消えることになる。
(そうなると、アタシっていったい、お母ちゃんにとってなんやねん)
真由は悲しさよりも、情けなさを覚えた。
「ホンマに真由と暮らしたいと思ってたんやったら、家を出る時に一緒に連れて行こうとするのが普通やろ。裕子さんは事情があったって言うけど、どういう事情なんや」
(なるほど、その通りやな)
今さら引き取りたいと言うぐらいなら、最初から連れて行けばいいはずだ。
(お父ちゃん、今日はなかなか冴えてるやんか)
「僕が身勝手?どう考えたらそんな言葉が出てくるんや。身勝手なのは裕子さんの方やろ。僕は父親やから真由と一緒に暮らしてるし、これからも自分の娘と暮らしていきたい。それは親として当たり前の考え方やろ。それを身勝手って言うんやったら、裕子さんはちょっとおかしいよ」
また真由は、父に賛同する。
子供が成長すれば別だが、親子が一緒に住むのは当然のことだ。父の言葉から察すると、母はそれを身勝手だと称しているようだ。
もしそうならば、それは間違っていると、真由は断言できる。
「裕子さん、それはアカンのと違うか。そっちの方が収入が多いとか、そういうことを持ち出すのは汚いやろ。確かに僕より裕子さんの方が、お金はたくさん持ってるかもしれへん。せやけど、僕に収入が無いんやったらともかく、真由に不自由が無い生活をさせるぐらいの金は稼いでるつもりや」
(おいおい、今度は金の話か)
真由は、ため息をつく。
(どないなっとんねん。ちょっと前まで夫婦やった二人やろ。なんちゅう醜いことで言い合いしてんねん)
しかし収入の勝負になると、父に勝ち目は無さそうだと真由は思った。正確な給料は知らないが、それほど大きな会社に勤務しているわけではない。
母の収入も詳しくは知らないが、以前に父より稼ぎが多いようなことを言っていた記憶がある。その時は言い争いの材料ではなく、笑い話として喋っていたのだが。
それに記憶を辿るまでもなく、母が住むマンションを見れば、どちらの収入が多いのかは予想が付く。
(ちょっと待てよ)
ふと、真由はあることに気付いた。
母は離婚する前と後で、それほど急激に稼ぎが変わったわけではないはずだ。一緒に暮らしていた頃から、今と同じぐらいの収入を得ていたと考えていいだろう。
だとすれば、なぜ高野家は裕福な生活になっていなかったのだろうか。あれだけのマンションに住み、あれだけの家財道具を一挙に購入できるぐらいの稼ぎがあるのなら、もう少しリッチな暮らしが出来ていたはずだ。
(お母ちゃんは稼いだ金をどこに使ってたんや。浮気相手にでも使ってたんか)
真由はそんなことを想像し、苦い気分になった。
「いや、それは無理や。それこそ身勝手って言われるかもしれへんけど、真由と電話を代わるつもりは無いよ。真由が裕子さんと話したいかどうかは分からへんけど、今は代わるつもりは無い」
どうやら裕子は、真由と話したいと要求したらしい。
このまま泰彦と言い合いを続けても、らちが明かないと判断したのかもしれない。
だが、父が拒絶するまでもなく、真由も電話を代わる気は皆無だった。
「本気で真由を引き取りたいって言うんやったら、ちゃんと話し合う用意はあるよ。それに、最終的には真由の意思を尊重する。真由が裕子さんと一緒に暮らしたいって言うんやったら、そうさせるつもりや。けど、本気でその話がしたいんやったら、電話で済ませるべきではないやろ。ちゃんと顔を合わせて話すべきや」
長いセリフを、泰彦はスラスラと全く噛まずに言い切った。
真由からすると、それだけでも驚くべきことだ。
それはともかく、父の考えに真由も賛成だった。
そういう大事なことは、面と向かって話し合うべきだ。
(だからこそ、お母ちゃんはアタシと会ったわけやし)
「ただ、一つだけ言うとくで。裕子さんが中途半端な気持ちで真由を引き取ろうとしてるんやったら、僕はそんな人に娘を渡すつもりは無い。それだけや。そしたら、切るよ」
力強く告げて、泰彦は電話を切った。
(おおっ、ちょっと男らしい感じやん)
真由は思わずニヤニヤした。
それから彼女は、物音に注意しつつ、自分の部屋へ戻ることにした。
(もしかして、お父ちゃん、自分に酔ったりしてないやろな)
そんなことを真由は思う。
珍しく男らしい態度を示した父に、彼女は嬉しくなった。
しかし部屋に戻った時、心のどこかで、少なからず寂しさを感じている自分を発見した。
(なんで、そんな風に思ったんやろ?)
真由は腕組みをして、答えを探す。
たぶん、父が見知らぬ別人に変身してしまったような、そんな印象を受けたからだろう。




