〈八〉
バレンタインデーというのは、日本では、女性が好きな男性にチョコレートをプレゼントする日になっている。
けれど、それはお菓子会社がチョコレートを売るために言い出したことだ。元々はキリスト教のお祝いなので、クリスマスと一緒で、クリスチャンでもない人間が祝うのは、本来ならおかしいはずだ。
(いや、クリスマスは、まだ許す。でもバレンタインデーはおかしい)
真由は今まで、バレンタインデーにチョコレートをプレゼントしたことなど一度も無い。他人から勝手に決められた日に、何かをプレゼントするという行為に馬鹿馬鹿しさを覚えるからだ。本当に相手を思う気持ちがあるのなら、どの日かは関係無く、好きな時にプレゼントを贈ればいい。
しかし、そんな風にずっと考えてきた真由が今、スーパーのバレンタインセールのコーナーに立っている。
(んなアホな。っていうか、違うねん)
これには事情がある。
今までは毎年、母が父にチョコレートを渡していた。それが今年は無しになる。
そりゃそうだろう、いちいちチョコレートを渡すためだけに、母が家に来るとは到底思えない。
というか、絶対に無い。
しかし、今年だけチョコレートが無いというのは、父が不憫だ。
だから父には内緒で、母の代わりにチョコレートを贈ろうと考えたのだ。
(なんちゅうエエ娘なんやろ、アタシは)
お菓子会社の作戦にハマるのは不愉快だが、父には優しく接しておきたいのだ。
どんなに頼りなくても、父親に変わりは無いのだから。
ただ、やはり恥ずかしさは否めない。こんな姿をクラスメイトには見られたくないし、早く選んで退散したい。
しかし父にプレゼントするのだし、何でもいいから適当に買うというわけにもいかない。
(それにしても、世の中にはこれほどの種類のチョコレートがあるんやな)
真由は、半ば呆れるように首を振る。
(なんかもう、ギンギラギンの入れ物もあって、きらびやかすぎて目がチカチカするわ。売りたい気持ちは分かるけど、もうちょっと目に優しいパッケージにしてくれや)
形も色々あるし、大きさも色々ある。
だが、大きい方が必ずしも良いとは限らない。
ジャンボサイズの板チョコも置いてあるが、明らかに笑いを取りに行っている商品だ。本気で好きな男に、そんなチョコを渡す女性はいないだろう。
(もしおったら、ちょっと頭のおかしい奴やな)
真由の近くに来た女性が、一個三十円の小さなチョコに手を伸ばした。無造作な感じで、それを十個ほど鷲掴みにして買い物かごに放り込む。その作業を三度繰り返し、彼女は立ち去った。
明らかに義理チョコだろう。
(本命の男に安いチョコを何十個も渡すんやったら、それはそれで面白いけど)
バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣は、まだ百歩譲って認めるとしても、義理チョコだけは、どうしても真由には受け入れ難い。
「義理チョコです」
と宣言して渡す女性もいるようだが、もう義理と認めている時点でおかしいと思うのだ。
お菓子会社が決めたルールによれば、バレンタインデーは好きな男性にチョコレートを渡す日のはずだ。それなのに、好きでもない面々にチョコレートをばら撒くのであれば、バレンタインデーの意味が変わってくる。
それでも、お菓子会社としてはチョコレートがたくさん売れるから別に構わないのだろう。というか、むしろ義理チョコの習慣がある方が嬉しいのだろう。
だが、それはともかくとして、真由には義理チョコをばら撒く女性の気持ちが理解できない。
義理で仕方無く渡すぐらいなら、最初から渡さなければいいと思うのだ。
(それに、義理チョコを貰って喜んでる男もどうかと思うわ。義理で物を貰って嬉しいんかい)
真由が父にプレゼントするチョコレートは、義理ではない。本当に父のことを大事に思って渡すのだから、これはこれで本命チョコとして成立している。好きな人にプレゼントするというのは、恋人や恋愛感情のある異性に贈るという意味に限定されていないはずだ。
ちょっと苦しい言い訳かもしれないが、真由としては、そう解釈している。
「あれっ、真由ちゃん?」
背後から、聞き覚えのある声が響いて来た。
聞き覚えがあると言うより、聞き覚えたくない声と表現した方が適切かもしれない。
振り向かなくても、真由には声の主が誰なのか分かった。
(この声は、富美恵やな)
真由は聞こえていないフリをした。出来ることなら、そのまま通り過ぎてくれないかと期待した。
「ほら、やっぱり真由ちゃんや」
不愉快な声が、すぐ近くに寄って来た。
(くそっ、気付かへんまま行ってくれたらエエのに)
しかし、そこまで来て無視するわけにもいかず、ゆっくりと真由は振り向いた。
「久しぶり、真由ちゃん。どう、もう風邪の方は大丈夫?」
富美恵は涼やかな笑顔で話し掛ける。
(風邪って、いつの話やねん。正月の話やんけ。話のきっかけに、そんなトコからネタを引っ張って来るか)
「とっくに治ってる」
平坦な口調で、真由が返答する。
「そうか、良かったなあ」
(良かったも何も、もう治ってるのが当たり前や。今でも風邪が続いてたら、それは完全にヤバいやろ)
「ところで真由ちゃん、バレンタインのチョコレートを買いに来たん?」
(やっぱり、そこを突っ込んできたか。しくじったな)
「ちょっと見てただけや」
真由は愛想の無い言葉を返した。
ただでさえ恥ずかしいのに、よりによって最も避けたい相手に見つかってしまった。
(なんか弱みを握られたような感覚になってしまうやんけ)
「別に隠さんでもエエのに。バレンタインのチョコレートを買うのは、女の子やったら普通のことやねんから」
富美恵は微笑んだ。
その言い方に真由は苛立つ。
ちょっと上から見ているようだと、そう感じられた。
(何が「普通のことやねんから」や。悪かったな、アタシは普通やないねん)
「私も、この店じゃないけど、もうチョコレート買ったよ」
富美恵が言う。
別に彼女がどんなチョコレートを買おうが、真由にはどうでもいいことだ。
ただし、一つだけ気になることがある。
「誰に買うたんや?」
「真由ちゃんは、誰に買うの?」
富美恵は逆に聞き返してきた。
(くそっ、はぐらかしやがって)
「別に誰でもエエやんか」
真由はぶっきらぼうに告げる。
(そっちが答えてないねんから、アタシも答えるかいな)
「好きな男の子にあげるの?それって、同じクラスの子とか?」
富美恵はさらに突っ込んで聞いてきた。しかも、どことなく嬉しそうな顔だ。何をニヤニヤしているのかと、真由の苛立ちが増す。
(もし好きな男がおるとしてや、おらへんけどな、それがどないやっちゅうねん。アンタに関係あるかい)
「アタシはお父ちゃんにプレゼントするんや。それに、買いたくて買うわけでもない。お母ちゃんの代わりに買うたるだけや」
変な勘違いをされたままだと嫌なので、真由は正直に答えた。
「それと、お父ちゃんには内緒にしてあるんやから、アタシがチョコレート買ったってバラしたら、マジで怒るで」
「分かった、内緒にしとく。二人だけの秘密やね」
富美恵は人差し指を唇に当て、微笑した。
(この女は喋るかもしれんな)
真由は危惧したが、それ以上はどうしようもない。
(しかし、なんでこんなことをわざわざ説明せなアカンねん。ホンマ、うっとおしい女やで)
「そうか、お父さんにあげるんか。真由ちゃんは、お父さん思いなんやね」
感心したように、富美恵が言った。
その言葉に、真由はますます疎ましさを覚える。富美恵に良い子扱いなど、されたくなかった。
「ほんで、アンタは誰に買うたんや?」
「ふふ、秘密」
富美恵は笑ってはぐらかした。
(言えやボケ。気持ち悪い笑い方してる場合か。相変わらずムカつく女や)
「ほんなら、もう行くわ。またね、真由ちゃん」
富美恵は手を振り、愛嬌を振り撒きながら去って行った。
その後ろ姿を、真由は睨み付ける。
しかし、富美恵が誰のためにチョコレートを買ったのかというのは、良く考えてみれば、真由にとっては微妙な問題だ。
もしも泰彦のためにチョコレートを買っていたとしたら、不快な気分になるだろう。
だが、別の男のために本命チョコを買っていたら、それはそれで気分が悪い。どっちも嫌だ。
(せやから、最初から富美恵がチョコレートなんか買わへんかったら良かったんや)
結論としては、そうなった。
(買ったとしても、ここで声なんか掛けへんかったら良かったんや)
チョコを買ったと聞かされていなければ、そんなことで頭を悩ませる必要も無かった。
真由は、以前に富美恵が料理は得意だと言っていたことを思い出した。
だったらチョコレートも自分で作ればいいのだ。
(何をノコノコと買いに行っとんねん。手抜きすんな)
だが、そんな思考を、いつまでも続けているわけにはいかない。そこから早く立ち去らないと、また別の知り合いに見られてしまう可能性もある。
結局、真由はピーナッツ入りのチョコを買った。値段はそんなに高くないが、大事なのは気持ちだ。
というか、そんなに高い商品を買っても意味が無いだろうと考えたのだ。
(所詮、相手はお父ちゃんやしな)
*****
二月十四日。
真由が学校に行くと、みんな妙に落ち着きが無い様子だった。
もちろん、バレンタインデーだからだ。
日頃から落ち着きの無い連中も少なくないが、そういう面々も、やはり普段とは違う種類の落ち着きの無さを見せている。
特に男子は、異常なテンションで騒々しくしている。その中でも一番騒いでいる男子に限って、あまりチョコレートを貰えないようなタイプだったりする。
逆に「全く興味が無いぜ」といった表情で、知らん顔している生徒もいる。だが、そういう男子の方が、実はものすごく気にしていたりするのだ。
そういう生徒がチョコを貰ったとしたら、その時はすました顔で受け取って、誰もいない場所で大喜びするだろう。
それが義理チョコだったとしてもだ。
ゴイラでさえ、真由をからかうのも忘れて、変な感じになっている。
(いやいや、アンタには全く縁の無い行事やで)
女子は女子で、妙なテンションになっている。こちらはテンションの高さを露骨に示すことは無く、むしろ抑えようとして、普段とは違う態度になっている面々が多いようだ。
誰にチョコレートを渡すのか、腹の探り合いをしながら会話を交わしていると思わしき生徒達も見受けられる。
(ある意味では、グロテスクやな。精神的にな)
真由は、客観的に分析する。
いくら周りが騒ごうとも、真由には関係の無いことだ。学校には、チョコレートを渡すような相手もいない。
(他人にチョコレートを買うぐらいやったら、自分で食べるわ)
それが真由の考え方である。父に渡す分は購入したが、あくまでも母の代理という意味で買っただけだ。
「なあ真由ちゃん、ちょっと付き合って」
タエボンが歩み寄ってきた。
「どないしたん、なんか用事か?」
「うん、ちょっと」
ためらいがちに、タエボンが言う。
「なんや、ハッキリ言うたらエエやん」
「チョコレートやねんけどな」
「ああ、ヒロヤに渡しに行くんか。ホンマは一人で行った方がエエと思うで」
真由はタエボンの言いたいことを推理し、勝手に解答を出す。
「うん、でも……」
「どうせ恥ずかしいから無理やって言うんやろ。しゃあない、付いて行ったるがな」
「ちょっと違うんやけど。ヒロヤくんに渡すんじゃなくて、靴箱に入れに行くから付き合って欲しいんやけど」
「はあ?」
真由は首を捻る。
いくらタエボンでも、それは一人で行けるだろう。
(幼稚園児やないねんから。いやいや、園児でも一人で靴箱に物を入れるぐらいは楽勝やろ)
「タエボン、靴箱にチョコレートを入れるだけやろ。それも恥ずかしいんか?」
そう尋ねると、タエボンは黙ってうなずいた。
(なるほどな。まあ、この子はそういう子やもんな)
真由は納得した。
心の中で色々と思いながらも、彼女はタエボンに付き合うことにした。
(自分に拍手を送るわ。なんて優しいんや、アタシは)
タエボンはヒロヤの靴箱の近くまで来て、キョロキョロと辺りを見回した。
チョコレートを入れる現場を、他の生徒に見られたくないのだ。
近くに誰もいないのを確認してから、タエボンはササッと靴箱にチョコレートを放り込んだ。それは普段の彼女からすると、信じられないほどの速さだった。
(こんな時だけは、スピードアップが可能になるんやな)
「真由ちゃん、行こ」
タエボンは真由の腕を引っ張った。その力も、いつものタエボンからすると信じられない強さだった。
(どうやらパワーアップも可能なんやな)
真由には、引っ掛かることが一つあった。
「タエボン、ちょっと聞きたいんやけど、手紙とかメモとか付けて無かったよな?」
「付けるって?」
「いや、チョコレートに手紙とか付けてないやろ。もしかしたら、チョコレート自体にタエボンの名前が入ってるとか?」
「そんなん、入ってるわけないやん」
キョトンとした顔で、タエボンが言う。
「そしたら、あれがタエボンのチョコやって、どうやってヒロヤに知らせんの?」
「知らせるつもりなんか無いけど」
「だって、それやったら誰からのチョコレートか分からへんやん」
「別にそれでも構わへんねん」
「はあっ?」
真由は脱力感に見舞われた。
それだと、プレゼントした意味が無い。
(エエんかいな、そんなんで。相手に自分の気持ちを伝えるために、プレゼントするんとちゃうんか)
だが、タエボンが満足したような表情を浮かべていたので、追及するのは控えた。
どうやらタエボンにとっては、ヒロヤに何かをプレゼントしたという行為そのものが重要であって、自分が贈った事実を相手に知ってもらうことは、あまり重要ではないらしい。
そういう気持ちが、真由にはサッパリ理解できなかった。
(恋っていうのは、そういうことなんかなあ)
そうだとしたら、自分には絶対に恋なんて無理だろうと、真由は思う。
*****
放課後になっても、まだバレンタインデー特有のテンションが、教室の中には満ち溢れていた。
(まだアホどもがギャースカ言うてるわ)
クラスメイトがどんなチョコレートをあげたり貰ったりしても、それは真由にとって、どうでもいいことだ。
問題は、父だ。
それは、自分がチョコレートをあげるから重要だという意味ではない。重要なことは、他にある。
夜になって、その問題の泰彦が会社から帰って来た。
余計な前置きは面倒なので、真由はすぐに本題へと入った。
「お父ちゃん、会社で森川さんからチョコレート貰ったやろ?」
それは確信に満ちた質問ではない。いわゆるブラフという奴だ。
すると父は、
「よう知ってるな。その通りやけど」
と、ビックリした表情で答えた。
(なるほどな)
真由の推理は的中していた。
「真由は、お父ちゃんにチョコレートくれへんのか?」
泰彦は、軽く笑いながら尋ねた。
それは真由にとって、微妙に気になる質問だった。
果たして、父の素直な発想として出て来た質問なのか。あるいは富美恵が約束を破って、真由がチョコを買ったことをバラしてしまい、それを知っていて口にした質問なのか。
しかし結果的には、どちらでも構わなかった。
どうせ、真由の答えは同じだったからだ。
「なんでお父ちゃんにチョコレートなんか渡さなアカンの。そんなん、あるかいな」
真由は冗談めかした感じで言った。
父にチョコレートを渡すのは、中止にしたのだ。
それは、富美恵が父にチョコを渡したと分かった瞬間に決めたことだ。
富美恵の後にプレゼントするというのが、どうにも承服し難いことだったのだ。
朝の内に渡しておけば良かったのだろうが、そんなことを今さら悔やんでも無駄だ。
真由は自分の部屋に戻り、買っておいたチョコレートに噛り付いた。少し切ない気持ちになった。しかし同時に、変なところで「ざまあみろ」という気持ちも沸いて来た。
複雑な感情が、真由の中でグルグルと回っていた。
(そういう気持ちを、一言で表現できるような言葉があったら楽やのになあ)
そんなことを思いつつ、真由はチョコレートを食べ終えた。




