〈六〉
(我ながら、情けないこっちゃで)
真由は、軽い自己嫌悪に陥っていた。
大晦日だというのに、彼女は風邪をひいてしまい、朝からずっと寝込んでいた。
昨日の昼頃から、鼻がグズグズして調子が悪かった。だが、すぐに治るだろうと甘く考えていた。それで調子に乗って、夜遅くまで起きていたのが失敗だった。
今朝、目を覚ますと、余計に状態は悪化していた。
ベッドから立ち上がろうとしたら、目の前がクラクラして倒れそうになった。喉も痛いし、鼻水も止まらない。
これはマズいと思い、とりあえず風邪薬は服用したが、それで急に治るはずもない。今はもう午後七時だが、まるで状態は良くなっていない。
気合いで何とかしようと試みるのだが、いかんせん体が言うことを聞いてくれない。仕方が無いので、真由はパジャマ姿のままベッドで寝転んでいる。
泰彦からは病院へ行くことを勧められたが、真由は頑なに拒否した。
病院は大嫌いだ。余程のことが無い限り、行きたくない。たかが風邪ぐらいで病院の世話になるなんて、有り得ない話だ。
(しかし、退屈ではあるな)
暇は持て余しているが、体を動かす元気は無い。
風邪の時には睡眠が一番だし、寝ればいいのだろう。
ただ、午前中に薬を飲んで睡眠を取り、午後五時頃に起きたばかりなので、さすがに眠気も消え失せている。しばらくは、目が冴えて眠れないだろう。
そんなわけだから、ただひたすら、ボーッとしているだけだ。
時計が時を刻む音が、やけに大きく聞こえてくる。
そこへ、別の音。
コンコンと、ドアがノックされた。
泰彦が様子を見に来たのだ。
「真由、ホンマに何もせんで大丈夫か?お父ちゃんに出来ること無いか?」
泰彦は心配そうな表情で言う。
真由は面倒そうに、チラッと視線をやる。父は、つい二十分ほど前にも来たばかりだ。
「ただの風邪やから、静かに寝てたら治るって。さっきも言うたやん」
「そうかもしれんけど、やっぱり気になるやんか」
「エエから、お父ちゃんはテレビでも見ときって。しょっちゅう来たところで、状況は何も変わらへんで」
「そうか。ほんなら、何かあったら遠慮せんと呼ぶんやで。また後で来るけど」
「分かった、分かった」
真由は手で追い払うような仕草をした。それで、泰彦はようやく部屋を出て行った。
(全く、これで何回目やろ)
真由は、げんなりする。
先程から父は何度もやって来て、その度に同じようなことを聞いてくる。だから真由は、何度も同じようなことを答えている。
もちろん心配してくれるのは嬉しいが、そんなに何度も来られたら、落ち着いて休んでいられない。その度に相手をしなければいけないし、余計に疲れてしまう。
喉の渇きを覚えたので、真由は台所へ行くことにした。
立ち上がるだけで体力を使うが、水が向こうから来てくれるわけでもない。泰彦が来た時に水のことを頼めば良かったのだろうが、その後で喉が渇いたのだから、仕方が無い。
真由の部屋は二階にあるので、台所へ行くためには階段を下りなければならない。今の真由にとっては、それだけでも重労働だ。
階段を一段ずつ確かめるように下りながら、真由はふと気付く。
(何かあったら遠慮せんと呼べってお父ちゃんは言うたけど、こっちから行っても大差が無いやん)
父を呼ぶためには、大きな声を出す必要がある。
それでエネルギーを使うぐらいなら、自分で台所まで行っても、あまり労力は変わらないだろう。
フラフラとした足取りで真由が台所へ行くと、泰彦は戸棚の上に置かれている固定電話に手を掛けていた。
真由に気付いた泰彦は、ギョッとした顔でそちらを見た。
「なんや真由、歩いたりして大丈夫か?」
「ちょっとぐらいやったら平気やろ」
真由は壁に寄り掛かりながら、返事をする。
「それより、どっかに電話するんか?」
「ああ、いやな、お前に卵酒でも作ったろうと思ったんやけど、作り方が分からへんねや」
「だから?」
「それで、お母ちゃんに電話して教えてもらおうかと思ったんやけど」
(マジかよ、やめてくれや)
真由は疲労感に襲われる。
そんなくだらないことで、わざわざ母に電話など掛けて欲しくなかった。
(そんなん、恥ずかしいやん)
「お父ちゃん、別に卵酒なんか作ってくれんでエエってば」
「いや、そやけど、もう卵も割ったしな」
泰彦がテーブルを指差した。
そこに置いてあるボウルの中に、割られた卵が入っていた。
(なんで作り方を知らんのに、卵だけ先に割るかな。後先を考えて行動しようや)
真由は呆れる。
それ以上、父の電話を止めようという気になれなかった。
いつもなら、もっと強い態度に出ていたかもしれない。やはり風邪でエネルギーが不足しているのだろう。
泰彦は電話を掛けたが、すぐに
「アカンな」
とつぶやいて受話器を戻した。
「留守番電話になってるわ」
真由はホッとしたが、すぐに疑問を覚えた。
(大晦日の夜に、お母ちゃん、どっか行ってんのか?)
初詣に行くには、まだ早すぎる。
大晦日も仕事をしているのだろうか。だが、いつも年末年始は仕事を入れない人だったはずだが。
「携帯の方に掛けてみよか」
泰彦は、独り言なのか真由に対する言葉なのか、どちらか分からないような感じで言った。
「いや、ホンマにええから」
真由は少し語気を強くて制止する。
(っていうか、掛けるんやったら最初から携帯にしたらエエやろ。なんで固定電話の方やねん)
ちなみに、真由は父と違って、母の携帯の番号は知らない。
以前の番号は知っていたが、引っ越しと同時に母は買い換えており、その時に電話番号も変わっている。
「せやけど、卵はどうしよか」
「なんやったら、目玉焼きでも作ったらどうや」
真由は言った。父に料理など出来ないことは知っているし、それは軽い冗談だ。
(まだ冗談が言える程度の元気はあるんやな。まあ、そんなに面白くはないけど)
泰彦は少し考えて、
「よっしゃ、作ってみよか」
と言い出した。
「えっ、ホンマに作んの?」
「作るよ。お父ちゃんでも、目玉焼きぐらいは作れるよ」
泰彦は自信ありげに、フライパンを取り出した。
(おいおい、なんで急に意欲を出してんねん)
真由は父を放っておいて、自分の用事を済ませることにした。冷蔵庫を開け、ペットボトルの水をゴクゴクと飲む。
泰彦はガスレンジに向かい、卵との格闘を開始した。「うわっ」とか「なんでや」とか、独り言を連発していた。
あえて真由は、そちらを見ないようにした。だが、たぶん失敗しているであろうことは、その声から予想できた。
「よっしゃ、とりあえず完成や。どうや、真由?」
満足そうな表情で、泰彦は言う。
真由はペットボトルを冷蔵庫に戻し、父の方に視線をやった。
(お父ちゃんには悪いけど、間違いは正すべきやな)
「それは目玉焼きじゃなくて、スクランブルエッグやろ」
真由は冷静に指摘した。
泰彦が完成させた料理は、百人に聞いて百人が“スクランブルエッグ”と答える物だった。もしくは、“卵を焼いてグチャグチャになったもの”という答えになるかもしれない。
「途中でメニューを変えただけや」
泰彦が軽く笑う。
(嘘ばっかり。目玉焼きに失敗したからグチャグチャにしただけやろ)
「食べるか、真由?」
(いらんっちゅうねん)
それを口には出さず、真由は首を横に振った。たぶん、味付けもイマイチだろう。そんな物を食べて、余計に体調が悪くなったらシャレにならない。
真由は小さく嘆息する。
(しかし、どんな大晦日やねん)
*****
大晦日から元旦に変わる時、真由はぐっすりと眠り込んでいた。
昼頃になって、まだ体は重いものの、立ち上がってもフラつかない程度には回復した。
そんな風に、せっかく体調が戻ってきたのに、真由の気分は最悪だった。
(それは、あの女のせいや。また来るか。しかも正月一発目から来るか)
あの女とは、森川富美恵のことだ。
彼女が訪問した理由は何かというと、「正月の挨拶」である。
そんなことで、わざわざ来る必要など無いだろうと真由は苛立った。
(なんのために年賀状があんねん)
来るだけなら、まだ何とか真由も許容範囲だった。挨拶だけ済ませて、さっさと帰ってくれれば良かったのだ。
ところが富美恵は、
「どうしたん真由ちゃん、顔色悪いし、しんどそうやなあ」
と話し掛けてきたのだ。
(富美恵の目がギラリと光った瞬間やな)
いや、もちろん実際には光っていないのだが、そう思えたのだ。
真由は自分の行動を悔やんだ。
わざわざ富美恵に姿をさらしたことで、家に上がり込む口実を与えてしまった。
だが、引っ込んでいたら引っ込んでいたで、これ幸いと上がり込んで来たかもしれない。
「なんでも無いよ」
真由は仏頂面で対応した。そこでゴチャゴチャ言ったら、相手の思うツボだと考えたのだ。挨拶が目的で来たのなら、それだけで早く帰ってもらいたかった。
しかし期待も虚しく、父が横から
「実は、真由が風邪ひいてん」
と余計な情報を教えてしまった。
(そんなこと言うから、また富美恵の目がギラリやんけ)
「大丈夫か真由ちゃん、そんなに歩き回ったりして。薬とか、ちゃんと飲んでる?熱はあるの?何か食べた?」
心配そうな顔で、富美恵が質問を畳み掛ける。
(うるさいって。アンタに関係無いがな)
「卵酒を作ろうとしたけど、作り方が分からへんねん」
再び泰彦が口を挟んだ。
(また言わんでエエことまで言う)
真由が小さく舌打ちする。
父が抜けているのはいつものことだが、風邪で体調が悪いために、余計にイライラが高まった。
だが、もう真由は、邪魔者の排除を諦めた。
(そこまで行ったら、もう富美恵の勝利やわな。完全に向こうのペースですわ)
「そしたら私、お粥でも作りますよ」
「いや、そんなん悪いし」
泰彦が言う。
「遠慮なんか要りませんよ。困った時は、お互い様ですから」
「そうか、ほんなら頼もうかな」
「でも、真由ちゃんがそんな状態やったら、今日の晩御飯はどうするんですか。おせち料理とか、どっかに頼んであるんですか」
「いや、特には。まあ、それは適当に出前でも頼むつもりやけど」
「それやったら私、晩御飯も作りますよ。さすがに、おせちは無理ですけど、普通の晩御飯で良かったら。こう見えても、料理は得意なんですよ」
富美恵が張り切った態度を見せる。
(うわっ、最悪や。料理にまで進出してくるか。それは進むのが早すぎるやろ)
自分の抵抗力が弱まっている時を狙うとは、ズル賢い女だと、真由は歯軋りをした。
早速、富美恵は台所へ行き、梅粥を作り始めた。
(なんでも早い女やで。これで帰るのも早かったらエエねんけどな)
真由はそんなことを思いつつ、自分の部屋に戻った。
富美恵が来たことで、また調子が悪化したかのように感じられた。
ベッドに寝転び、頭から布団に潜り込んでいると、富美恵が梅粥を持って来た。
「はい真由ちゃん、お粥作って来たよ」
(言われんでも分かってる)
真由は上半身を起こした。そのまま布団の中に隠れているのは、イジけているみたいで癪だった。
「味見はしたけど、口に合わへんかったら、ごめんな」
(心配すな、よっぽど下手に作らん限り、そんなに不味いお粥なんて無いから)
「はい真由ちゃん、アーンして」
そう言って富美恵は、レンゲでお粥をすくってフーフーと冷まし始めた。それから、レンゲを真由の口元に近付けてくる。
(アンタがフーフーしたモンなんか、食えるかい
真由は、しかめっ面になった。
「エエよ、自分で食べるから」
「そんなに遠慮せんでもいいよ。真由ちゃんは病人やねんから」
(遠慮と違うわい。アンタにおって欲しくないだけじゃ)
「ホンマにエエから」
真由は、先程より強い口調で断った。
それでも向こうが無理に食べさせようとしたら、今度は「それやったら食べへん」と言うつもりだった。
「そしたら、ここに置いとくわな。食べ終わったら、食器はそのまま置いといてくれたらいいから」
富美恵は、茶碗をベッド脇の棚に置いた。
(良かった。諦めたみたいやな)
真由は安堵する。
ここで富美恵に食べさせてもらったら、敗北感を味わうところだった。
「好きなだけ食べたら、残してくれていいからね。そしたら、ゆっくり休んでな」
そう言い残して、富美恵は部屋から出て行った。真由は無言で見送る。お粥を作ってくれと頼んだわけではないので、礼は言わなかった。
富美恵が部屋を出て行って、ようやく真由は落ち着いた。
(あの女がおったら、余計なエネルギーを使わなアカンからな)
だが、部屋からは出て行っても、まだ家の中に富美恵は残っているのだ。
それを考えて、真由は顔を曇らせる。
(なんで年が明けて早々、こんなブルーにならんとアカンねん)
*****
「しまった」
真由は時計を確認し、痛恨の表情になった。
まだ富美恵が家にいると分かっているのだから、もっと早く気付くべきだった。
(アタシが部屋でおったら、お父ちゃんと富美恵が二人っきりっちゅうことやん)
それはマズい。
だが、真由は梅粥を何口か食べた後、ぐっすりと眠り込んでしまった。
目を覚ましてすぐに、そのことに気付いたが、もう遅い。何しろ時刻は夜の六時を過ぎている。
富美恵が来たのが午後三時頃だったので、もう三時間ほど経過している。
(いや、まあ大丈夫やとは思うよ)
真由は自分に言い聞かせる。
富美恵はともかくとして、父が何か変なことをするとは思えなかった。
変なことと言っても、二人でイチャイチャするとか、そんな露骨な行動をイメージしていたわけではない。
だが、どうであれ、自分が寝ている間にどんなことがあったのか、気になって仕方が無かった。
真由はベッドから起き上がり、階段を下りて行った。
体調は回復傾向にあったが、まだダルさは残っている。ただし、それが風邪のせいなのか、睡眠を取りすぎたせいなのかは良く分からない。
泰彦は居間にいた。
真由に気付き、彼は声を掛ける。
「調子はどうや?」
「うん、もう大丈夫やと思う」
体調が完全に回復したとは思わなかったが、とりあえず真由はそう答えておいた。ただの風邪なのに、弱っていることをアピールしすぎるのもカッコ悪いような気がしたのだ。
他に人の気配がしないので、真由は尋ねた。
「もう帰ったんか?」
「えっ?ああ、森川さんのことか。とっくの昔に帰ったよ」
「いつぐらい?」
「五時半頃やったと思うけど」
ということは、帰ってから三十分ほどしか経っていない。
(どこがとっくの昔やねん。っていうか、あの女も、いつまで居座っとったんや)
「かなり長い時間、家におったんやな」
やや嫌味っぽく真由が言う。
「そうかなあ。まあ、そう言われたら、そうかもしれんなあ」
「なんか、色々と喋ったりしてたんか?」
「どうやろ、まあ、そうかな」
「どんなこと喋ったん?」
「いちいち覚えてないけどなあ。まあ会社のこととか、近所のこととか、そういう感じやったかな」
何気無い感じで泰彦が答えた。
嘘をついているようには見えなかったし、そんなことで嘘をつけるほど器用な人ではないと真由は知っている。
どうやら、本当に大したことは喋らなかったようだ。
さらに会話を続けようとした時、真由のお腹がグウッと音を立てた。
途端に彼女は、空腹感に包まれた。朝から梅粥しか食べていないので、お腹が空くのも当然だ。
「おっ、腹の虫が鳴いてるな」
泰彦は微笑する。
「お腹が空いてきたか」
「うん、そこそこ」
「食欲があるのは、元気になってきた証拠やな」
「何か食べるモンあるかな?」
「森川さんが晩御飯も作っていってくれたから、好きな時に食べたらエエわ。台所に置いてあるから」
(ホンマに作りよったんかい。ずうずうしい女やな)
心の中で文句を言いつつ、真由は台所へ向かった。
豚肉のしょうが焼き、ブリ大根、きんぴらごぼうの三品がテーブルの上に並び、ラップで覆われていた。
「あざといメニューやのお」
真由は小声で言う。
いかにも家庭的だと男から思ってもらえそうなメニューだと、真由は感じた。
(それにしてもベタすぎるやろ)
しかし同時に、少しばかり感心するところもあった。料理は得意だと言っていただけあって、見た目は良く出来ている。
「せやけど、問題は味やろ」
真由はブリ大根を箸でつまみ、口に運んだ。
(くそっ、エエ味になっとる)
続いて真由は、しょうが焼きときんぴらも味見してみた。どちらも美味しかった。
(ホンマにあの女が作ったんかいな。お父ちゃんの目を盗んで、どっかで買って来たんやないやろな)
邪推した真由だが、すぐにそれを打ち消した。
さすがに、その考えには無理がある。
(しかし、なんか嫌な感じやな)
そこまで上手く作らなくてもいいのにと、真由は腹立たしさを覚えた。
こんなことをされたら、これから自分が作る料理を父が食べる時に、富美恵と比べてしまうかもしれない。そうでないとしても、真由としては比較されているような気になる。
いや、まだ自分より上手いのは、仕方が無いとしておこう。向こうの方が年も上だし、キャリアも長いはずだから。
(ただ、お母ちゃんの手料理より美味しいっちゅうのはアカンやろ。それはシャレにならん話やで)
最近でこそ作ることは少なくなっていたが、かつては裕子も、毎日のように料理を作っていた。そして真由は、それが美味しいと思って食べていた。
実際、今でも母の料理が美味しかったという感覚は変わっていない。
だが、それよりも富美恵の料理の方が、美味しいような気がしてしまったのだ。
認めるのは嫌だったが、本当にそう感じるのだから仕方が無い。
そして、本当にそうだからこそ、余計に腹が立つのだ。
(せやけど、よう考えたらアタシは風邪をひいてるから、それで味覚がおかしくなってるはずや)
真由は自分の感覚を否定しようと、反対意見を捻り出す。
(体調がエエ時に食べたら、そんなに美味しいと思わへんかもしれん)
そうに違いないと、真由は自分に言い聞かせた。
そんな風に思い込まないと、腹立たしさが簡単には解消されそうになかったのだ。
「なんで正月の初っ端から、そないにムカムカせなアカンねんっちゅう話やで」
愚痴りつつも、真由は空腹には勝てず、三品をきれいに平らげたのであった。




