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ほな、さいなら  作者: 古川ムウ
1/11

〈一〉

 「あのなあ真由、お母ちゃん、お父ちゃんと離婚するんや」


 母の裕子からそう言われた時、高野真由は特に何とも思わなかった。

 両親が少し前から、離婚について内緒で話し合っていたのを、真由は知っている。

 だから、打ち明けるのが遅すぎたぐらいだと思っていた。

 そういうわけだから、真由は

 「ふーん、そうか」

 としか答えなかった。


 裕子は娘の反応が物足りなかったのか、眉をしかめた。

 「なんや、親が別れるって言うてんのに、それだけで終わりかいな」

 「そやけど前から気付いてたし、びっくりしたフリするのも変やろ」

 「へえ、気が付いてたんか」

 「そうや。前もって準備が出来てたから、泣くのも無理やし。大体、離婚するって言うたけど、離婚した、の間違いやろ。昨日の内に離婚届を出したこと、知ってるで」

 「アンタ、まだ小学六年生やろ。若いのにドライやなあ」

 裕子は半ば呆れたように言った。

 「最近の小学六年生は、こんな感じやで」

 「違うやろ。たぶん、アンタは特別やと思うわ」


 (まあ、そうかもしれんな)


 真由は心の中で、つぶやいた。



 確かに同級生と比べても、特別だと言っていいかもしれない。

 ここでの「特別」というのは、勉強が優れているとか、スポーツが上手いとか、そういった才能のことではない。


 (そうや、それが問題やねんな)


 なぜ自分は、特別な才能を持って生まれて来なかったんだろうと、真由は残念に思う。

 何だって構わない。

 音楽でも、美術でも、本当に何だって。

 何か特別な才能があったら、それで食べていける。そうすれば、いい高校や大学に入るために苦労する必要は無い。もしも勉強の才能があったら、それこそラッキーだ。

 まだ真由は小学生だし、中学校は義務教育なので誰でも行ける。だから、そんなことを考えるのは早いのかもしれない。

 でも、周りには塾に通っている同級生もいるし、それで焦っているわけではないが、近い将来に受験戦争が待っていることを想像すると、ちょっと憂鬱な気分になってしまう。



 (というか、今はそんなこと、どうでもエエねん)


 真由は思考を元の場所へと戻す。

 彼女が特別なのは、裕子が言うように、性格がドライだということだ。

 同い年の子供達に比べると、確かにドライかもしれないと、本人も思っている。


 (ドライなのかクールなのか、よう分からへんけどな。そう言えば、ドライとクールの違いってなんやろ?ちょっと気になるな。まあエエけど)


 ただし真由は、自分がドライという以上に、同級生がガキっぽいだけなんじゃないかとも思っている。くだらないことでギャーギャー騒ぎすぎると感じるのだ。そのせいで自分がドライに見えてしまうんじゃないかと、そんな風にも思っている。

 そこには、都会より田舎の子供の方が、全体的に精神年齢が低いという事情もあるのではないかと、真由は分析する。彼女が住んでいるのは奈良県だが、これが東京の小学六年生なら、もっと大人びた生徒が多いのかもしれない。


 (せやけど、小学六年生がドライやったら、何か問題があるんか?)


 「そら、アタシはドライかもしれへんけどさ」

 真由は母に対して、ちょっとした反発心を覚えた。

 「せやけどな、ほんなら『別れんといて』って泣いたりして、ジタバタする方がエエんかいな。そんなん、うっとおしいでえ。アタシみたいに、あっさりしてる方が、親としても離婚しやすいやろ」

 「まあ、そうやけどな」

 そう言って、裕子は笑った。


 (なんで離婚すんのにヘラヘラと笑ってんねん。お母ちゃんの方が、よっぽどドライやがな)


 真由は冷たい視線を送る。

 だが、そんな娘の心情など知らず、裕子は言葉を続ける。

 「ほんでな、お母ちゃん、もう少ししたら、この家から出て行くからな」

 「えっ、そうなん?」

 離婚には平然と対応した真由だが、その報告には小さな驚きを示した。

 というのも、出て行くのが母ではなく、父の泰彦だろうと考えていたからだ。

 何しろ高野家では、完全に裕子が主導権を握っている状態だった。少なくとも、真由にはそう見えた。


 (悲しいかな、お父ちゃんは尻に敷かれてるもんな)


 だから真由は、絶対に父が追い出されるだろうと思い込んでいた。


 「そうか、お母ちゃんが出て行くんか」

 「当然やろ。他に誰が出て行くの」

 「お父ちゃん」

 「そういうわけにもいかへんやろ。この家の大黒柱は、お父ちゃんやし」

 「そやけど、床と壁と天井は、お母ちゃんやで」

 「上手いこと言うなあ。せやけど、お母ちゃんが出て行くのが一番いい形になるねん」

 「いい形って、なんかボンヤリした言い方やなあ。もっとハッキリ言うてくれんと」

 「ハッキリ言われへんから、ボンヤリ言うてんねやないの」

 「なんか、お笑い芸人みたいな言い方やな。まあエエわ。とにかく、お父ちゃんのことが嫌いになったんやな。それで、家を出てでも、離れたいと。こういうわけやな」

 「そんなキツい言い方はやめてや。別にお父ちゃんのことが嫌いになったとか、そういうわけでもないねんけどな」

 裕子はそう言うが、真由は額面通り受け取ることが出来なかった。

 嫌いになっていないのなら、家を出る必要も無いはずだ。


 (大人っちゅうのは、分かりやすい嘘をつく生き物やな)


 「ほんで、アタシはいったい、どうしたらエエの?」

 真由は聞いてみた。

 それは、両親のどちらと行動を共にすれば良いのかという質問だ。

 裕子が一人で出て行く様子だったので、真由にも薄々は分かっていた。それでも、一応は聞いてみるのが、娘としての役目ではないかと思ったのだ。

 「今まで通りや。お父ちゃんと一緒に、この家で生活するんや」

 真由が予想した通りの返答だった。

 「お母ちゃんの引っ越し先に連れて行っても構わへんけど、もうすぐ小学校も卒業やし。今、引っ越したら、ややこしいやろ」

 「まあ、そうかもしれんな」

 上手い言い訳をするものだと、真由は感心した。


 (さすがお母ちゃんや、ダテに長く生きてるわけやないな)


 普通の子供だったら、あっさり丸め込まれているだろう。

 真由も、納得したフリはしたつもりだ。どうせゴチャゴチャ言っても状況は変わらないし、言うだけ無駄だろう。

 そういう風に考えたので、真由は完全に納得したわけではないが、何となく分かったような表情をしてみせた。

 そこは難しいところで、「ちょっと疑問は持っているけれど」という風な部分は残した方が、それっぽく見える。


 「お母ちゃんも、そんなに遠いトコへ引っ越すわけやないから、いつでも遊びに来たらエエやんか」

 「もしかしたら、引っ越し先、もう決まってんのか?」

 「そうや。近い内に住所も教えるわ」


 (ホンマ、やることが早いわ)


 真由は苦笑した。

 まあ、既に離婚はしているわけだから、いつ出て行こうと、勝手と言えば勝手なのだが。

 それに考えてみれば、出て行く先が決まっていなかったら、引っ越しなど無理だろう。


 だが、冷静になってみると変な話だと、真由は考え込む。

 離婚するのは、仕方が無いとしよう。

 しかし普通は、離婚する前に、子供に言うべきではないのか。

 離婚してから打ち明けるというのは、順番が逆だろう。

 もしも真由が鈍感な子供だったら、言われてから初めて、親が別れたことに気付くのだ。


 (そんなアホなことがあるかいな)


 というか、そもそも別居する前に離婚届を出すというのも、変な話だ。それも順番が逆になっているんじゃないかと、真由は違和感を覚える。

 何か、よほど早く離婚届を出さないといけないような事情でもあったのか。

 そうだとして、それはどんな事情なのか。

 それに、なぜ十一月に離婚するのかと、それも真由には納得がいかなかった。

 年が明けて三月になれば、真由は小学校を卒業する。

 せめて、それまで待てないのか。


 (なんや、もう我慢でけへんかったんか。ウンコが漏れそうみたいな、ギリギリの状態やったんか)


 それにしたって、そこは子供に対する気遣いがあってもいいんじゃないかと、真由は思う。


 (お母ちゃんは賢い人やけど、その辺の気配りは抜けてんねんな。お父ちゃんは残念ながら、そんなところで気配りを期待しても無駄な人やしな)


 結局、親に恵まれなかったのが不幸なのだろうと、そう考えることで、真由は自分を納得させようとした。


 「それで、いつ出て行くつもり?」

 真由は心の内を隠し、飄々とした感じで母に尋ねた。

 「とりあえず、十一月中には出て行くわ。年末になったら色々と面倒やから、なるべく早めに出て行こうとは思ってる。一応、来週の水曜日で予定は立ててあるけど」

 裕子は淡々と返答した。


 (おいおい、来週ってか。ごっつい急な話やな)


 「荷物は、どうすんの?」

 「知り合いの人に、引っ越しを手伝ってもらうように頼んであるから」

 「知り合いって?」

 「アンタに名前を言うても知らんやろ」

 「知ってるか知らんかは、言うてもらわんと分からへんで」

 「仕事関係の知り合いやから」

 「つまり仕事関係の人はみんな、お母ちゃんの離婚を知ってるわけか」

 「みんなかどうかは分からんけど、いつも一緒に仕事をしてる人には言うたよ。隠しても、いつかはバレるし、いちいち隠すことでもないしな」


 (やっぱりドライやで、この人)


 「確かに、おっしゃる通りですな」

 真由は、やや芝居じみた口調で言った。

 「嫌やわあ、真由。そんな言い方して」

 「いやいや奥さん、確かに奥さんの言う通りでっせ」

 「せやから、そんな言い方しなって」

 「はいはい、奥さん。おっと、もう離婚したから、奥さんではなかったですな」

 「ホンマに嫌らしい子やなあ、アンタ」

 苦い顔を作る母を見て、真由は小さくうなずく。


 (確かに、おっしゃる通りですな)


 *****


 しばらくして、裕子は出掛けて行った。

 ラジオ局で打ち合わせがあるらしい。

 裕子はラジオ番組で司会を務めている。いわゆるDJという仕事だ。

 ラジオと言っても、地元のミニFMとか、そんな程度ではない。大阪にある、関西ローカル局の番組だ。

 裕子が担当しているのは、『台所から愛を込めて』という番組だ。


 (しかしベタなタイトルやな。誰やねん、そのタイトルを付けたのは)


 真由は思う。

 もう少しセンスのあるタイトルは無かったのか。

 そして、両親の離婚を知ったことで、

 「リスナーに愛を込めるより、お父ちゃんに愛を込めたらどないや」

 とツッコミを入れたくなってしまう真由であった。


 裕子は、DJが本業というわけではない。

 彼女は昔、雑誌の編集者をやっていた。ある時、その関係で、ラジオ番組のミニコーナーでレギュラーを務めることになった。そのコーナーの評判が良かったため、そこだけ独立させて別の番組を作ることになったのだ。

 番組の人気が出て来たこともあり、裕子は編集者の仕事を辞めて、“キッチン・コーディネーター”という肩書きで仕事をするようになった。

 今ではカルチャー・スクールの講師や企業のアドバイザーなど様々な仕事を請け負っており、ラジオのDJも約四年に渡って続けている。


 ちなみに裕子は、キッチン・コーディネーターではあるが、家で料理を作ることは、ほとんど無い。昔は作っていたが、最近はやらなくなった。食卓に並ぶのは、電子レンジで温めれば食べられる物や、スーパーで売っている惣菜などが多くなった。

 「忙しいから仕方が無い」

 というのが、裕子の言い分だ。

 しかし真由は、ラジオのリスナーやカルチャー・スクールの生徒が知ったら、母が言っていることの説得力が無くなってしまうんじゃないかと思ったりもする。


 ただしキッチン・コーディネーターというのは、料理を作る仕事ではないのだが。

 それにしても真由からすれば、キッチン・コーディネーターというのは怪しい仕事だ。

 大体、コーディネーターの意味が分からない。


 (なんでもかんでも英語にしたらエエっちゅうモンとちゃうで)


 母親の職種が良く分からないというのは、あまり気持ちのいいものではない。


 ちなみに裕子は最近、近所のスーパーで買い物をしなくなった。かなり離れた場所にあるスーパーまでわざわざ出掛けて行き、そこで買い物を済ませている。

 そっちの方が安いからだと、裕子は真由に説明している。

 だが、そんなに値段は変わらないことを、真由は知っている。

 そして、母が遠くで食料品を買い込む理由にも気付いている。

 なぜ裕子が遠出するかというと、近所の人に気付かれたくないからだ。

 レンジで温めるような食品ばかり買っていたら、料理をしていないことがバレてしまう。

 そのことで、近所で変な噂を立てられるのが嫌なんだろうと、真由は推察している。


 まあ、離婚して出て行くことになったので、今後はそんなことでいちいち遠出する必要は無くなるだろう。

 というか、そんなことよりも、離婚の方が近所で大きな噂になるんじゃないのかと、真由は思う。

 それは別に構わないんだろうか。


 (まあ、エエんやろな。悪かったら離婚せえへんもんな)


 それに、引っ越してしまえば、近所の噂話を聞かされることも無い。

 ひょっとすると、父ではなく母が出て行くのは、それが理由ではないのかと真由は邪推する。


 (たぶん違うと思うけど、そうやったら、かなり計算してる女やで、お母ちゃんは)


 実際、頭がいい人だから、そのぐらいのことを考えてもおかしくはない。

 だが、そこまで賢くても失敗することはあるのだ。


 (何しろ、あんなボーッとしたお父ちゃんと結婚するんやからな)


 最初から父と一緒にならなければ、離婚せずに済んだのだ。

 だが、その場合、真由は生まれて来なかったことになる。


 (それは困るしなあ。って、なんの話やったっけ?)


 真由は自分が何を考えようとしていたのか、良く分からなくなってしまった。

 (まあ、別にエエねんけどさ)


 *****


 「ただいま」

 間延びしたような声が、玄関から聞こえてきた。

 それはつまり、父の泰彦が会社から帰宅したということだ。

 まだ裕子は帰っていない。

 ほぼ定刻に帰宅する泰彦と違い、裕子は日によって出掛ける時間も帰る時間もまちまちだ。泰彦より帰宅が遅くなるのも、そう珍しいことではない。ただし、大抵は遅くても八時頃には戻ってくる。


 泰彦は小さな食器メーカーに勤めており、そこでデザインの仕事を担当している。

 真由からすると、普段の父を見ている限りでは、とてもデザインのセンスがあるとは思えない。なのに、未だにクビにもならず続けているのが不思議だった。

 まあ、クビになったら、真由は困るのだが。

 裕子が出て行くと決まったからには、ますます困る。


 「ただいま」

 居間に入って来た泰彦は、真由を見て、もう一度同じことを言った。

 「おかえり」

 真由はそう答えてから、さっそく本題に入ることにした。

 こういうことは勿体を付けず、さっさと処理した方がいい。

 「お父ちゃん、お母ちゃんから聞いたで」

 「何が?」

 「離婚のことや」

 「ああ、もう聞いたんか」

 上着を脱ぎながら、泰彦は淡々とした口調で告げた。

 だが、心中は穏やかでないのだろうと、真由は推察した。

 いつもは自分の部屋に行ってから上着を脱ぐのに、今日は居間で脱ぎ始めたからだ。

 たぶん、いきなり言われてドキッとしたのだ。それでも一応は大人なので、娘の前では平静を装ったのだろう。


 (そんなトコで変にカッコ付けても、普段がカッコ悪いから意味が無いのに)


 「まあ、そういうわけや」

 泰彦は真由と目線を合わさず、そんな風に言った。


 (そういうわけって、どういうわけやねん。さっぱり分からへん)


 「もっと早く言うべきやと思ったけど、タイミングが無かったんや。すまんな」


 (タイミングの問題かいな)


 しかも、泰彦は自分が離婚のことを打ち明けたような言い方をしたが、実際に打ち明けたのは裕子だ。

 泰彦の「すまんな」という言葉にも、真由は引っ掛かった。

 そこは謝るべき箇所ではないだろう。

 普通は、離婚という結果になってしまったことを謝るべきではないのか。


 (まあエエわ。お父ちゃんは、いつもこんな感じやし、今さら責めてもしゃあないな)


 真由は次の展開へ移行することにした。

 「とにかく、これからアタシとお父ちゃんの二人で暮らすことになるんやから、覚悟せなアカンわな」

 「何を?」

 「つまり、今までお母ちゃんがやってたことを、これからはアタシとお父ちゃんで分担せなアカンっちゅうこっちゃ。せやろ」

 やや強い口調で、真由は言った。

 「お、おお。そやな」

 気圧されたように、泰彦の声が微妙に震えた。

 真由は嘆くように頭を押さえる。


 (なんでビビってんねん。相手は自分の娘やろ)


 「食事はアタシが作るとして、掃除とか洗濯とか、そういうことはどっちがやるのか、決めていかなアカンな」

 すると泰彦は黙ったまま、真由の顔をまじまじと見つめた。

 「なんや、気持ち悪いな」

 戸惑う真由。

 「いや、しっかりしてるなあと思って」

 「お父ちゃんがボーッとしてるから、アタシがしっかりせなマズいやろ」

 「ハハハ、なるほどな」


 (いやいや、笑ってる場合かいな)


 真由は呆れる。


 「とりあえず、早い内に分担を決めといた方がエエやろ。お母ちゃんがおらんようになってからバタバタすんのも困るし」

 「せやけど、そんなに急がんでも大丈夫とちゃうか。どうせお母ちゃんが出て行くまで、まだ日があるんやし」

 「そんなこと言うてる間に出て行ってしまうって。こういうことは、早すぎるぐらいで、ちょうどエエねん」

 「そうなんかなあ」

 「せやから、アタシが明日にでも家事の分担とか細かいことを決めて紙に書いとくから、それをお父ちゃんに見せて、問題があったら言うてくれたらエエから」

 「分かった。ほんなら、そうしよか」

 泰彦は早口で言うと、自分の部屋に引っ込んだ。

 それは、どこか逃げるような態度にも見えた。

 真由は大きく息を吐く。


 (ホンマ、頼りない父親を持つと、子供は大変や)


 真由にとって泰彦は、決して悪い父親ではない。

 すごく優しいし、いい人だと思っている。

 ただし、頼りがいがある父親だという印象は全く無い。

 性格的にも肉体的にも、強さが欠けているように感じられる。

 家庭の中でも、完全に裕子の尻に敷かれている姿を、真由は見ている。

 泰彦はテレビを付けっぱなしにしたまま寝てしまい、裕子に注意されることが多い。どうやら泰彦の癖らしく、どれだけ注意されても治らない。

 御飯を食べている時にポロポロとこぼしたり、テレビ番組を録画しようとして何度も失敗したり、そういう情けない部分も少なくない。

 老人ではないのだから、もう少し、しっかりしてほしいと真由は望んでいる。


 (ほんで、たまにカッコ付けようとしたら失敗するしな)


 真由は、去年の運動会を思い出す。

 保護者参加の障害物競走があって、泰彦は積極的に参加した。

 他の事は駄目でも、走ることには自信があったらしい。

 いざスタートの号砲が鳴ると、確かに足は速かった。

 ただし、わずか数秒だけ。

 泰彦は最初の障害である平均台で思いきり足を踏み外し、バッタリと顔から倒れ込んだ。

 まるで干からびた蛙のような形で、彼は地面と一体化した。

 生徒も保護者も大笑いだったが、真由は顔から火が出るほど恥ずかしかった。


 (お父ちゃんが爆笑を取った唯一の瞬間かもしれんけど、そんなマヌケなことで笑いを取ってどうすんねん。それは笑わせてるんやなくて、笑われてるんや)


 たぶん泰彦は、自分でも恥ずかしいと思ったのだろう。やたらと周りに笑顔を振り撒きながらゴールした。もちろん、順位はビリだった。

 真由にとって、それは忘れたくても忘れられない、嫌な思い出だ。


 (お父ちゃんは本人のやったことやから、笑われてもしゃあないかもしれんけど、それでアタシまで笑われるんや)


 しかも、泰彦は運動会が終われば、その場にいた人々と会うことも、ほとんど無い。

 だが、真由は違う。

 次の日から、学校へ行くと

 「お前のオトン、最高やったわ」

 と他の生徒に言われ、からかわれる日々が続いた。

 自分のクラスだけではない。他のクラスの生徒でも、わざわざ馬鹿にするためだけに、彼女の教室へ来た者もいた。

 真由はそんなことでヘコんでしまうような性格ではないが、それでも不快だったことに変わりは無い。

 その手の嘲笑が完全に消失するまでに、一ヶ月近くは掛かった。


 (お父ちゃんがカッコいい場面を見せることは、永遠に無いやろな)


 たぶん死ぬまで頼りない感じで、ずっと行くんだろうと真由は思っている。

 そういう意味では、しっかり者の母とは、ピッタリのコンビだったのかもしれない。

 まあ、裕子がフォローしてばかりだったような印象はあるけれど。



 (そう言えば、お父ちゃんがお母ちゃんのフォローしてるのって、一度も見たことが無いなあ)


 真由は考え込む。

 父は、何かで母の役に立っていたのだろうか。

 何も無かったような気がしてしまう。

 そうなると、やはり離婚されて当たり前なのかもしれない。

 しかし考えてみると、これからは、そんな父のフォローを真由がしなければいけなくなるのだ。


 (うーむ、ヤバいことになってるやん)


 普通は親が子供の面倒を見るはずなのに、逆になるということだ。

 ちょっと憂鬱な気分になってしまう。


 (酒でも飲まんと、やってられへんな)


 だが、もちろん、まだ飲酒が許される年齢ではない。


 (とりあえずコーラでも飲んで、それからキッチリ考えていこ。気合い入れんと、これからしんどいことになる感じやもんな)


 真由は台所に行き、冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出した。

 そこに、パジャマ姿で綿入れ半纏を羽織った泰彦がやって来た。

 泰彦は帰宅すると、すぐパジャマに着替える。その方が楽だというのだ。

 真由はその習慣を受け入れているが、だらしないとも感じている。

 「おう、真由、お父ちゃんにもコーラ入れてくれるか」

 泰彦はパジャマのズボンに手を突っ込み、尻をボリボリと掻きながら言った。


 (娘が色々と考えてんのに、気楽な人やで、ホンマ)


 真由は呆れつつも、コーラをコップに注いで父に手渡した。

 泰彦はコップを受け取ったが、一気に飲もうとして、こぼれそうになった。慌てて口を押さえた泰彦だが、指の間からポタポタとコーラの滴が床に落ちた。

 「すまん、こぼしてしもた」

 「それは見たら分かるって」

 真由は布巾を手に取った。

 「誰も取ったりせえへんから、もっと落ち着いて飲みや」

 床を拭きながら、真由は言った。


 (なるほど、こういうフォローが今後は増えるんやな)


 「今日は、お母ちゃんは遅いんかな?」

 まるで自分のヘマを誤魔化すかのように、泰彦はそんなことを聞いてきた。

 「そんなに遅くはならんと思うけど、ハッキリした時間は分からへんなあ。でも、八時頃には帰って来ると思うけど」

 「そうか。ほんなら、先に風呂でも入ろうかな」

 「お風呂、沸いてないで」

 「構へんよ、シャワーだけにするから」

 そう言いながら、泰彦は浴室へ向かった。


 (たぶん、お母ちゃんが離婚のことを話したのを知って、普通ではおられへんのやな)


 真由は、そう推測する。

 いつものペースで行くと、今日は入浴する日ではない。普段、泰彦は二日に一回しか風呂に入らない。だからこそ、今日は風呂を沸かしていないのだ。


 (ホンマに分かりやすい人やな)


 真由は苦笑した。

 絶対に隠し事は無理なタイプだ。例えば浮気をしても、態度ですぐにバレるに決まっている。

 まあ、どうせ浮気できるほどの度胸は無いだろうが。

 というか、浮気したいと思っても、相手がいないと不可能だが。

 そんな思考を巡らせて、真由は、ふと気付く。


 (そうか、離婚したんやから、これからは浮気にならへんのか)


 *****


 裕子が帰宅したのは、八時を少し過ぎた頃だった。

 泰彦は風呂から上がり、またコーラを飲んで、ビスケットをつまみ食いしていたところだった。

 「ただいま。ちょっと遅くなったかな」

 裕子はチラッと泰彦に目をやってから、真由に話し掛けた。

 「いいや、こんなモンやろ」

 真由は淡白に答えた。

 「すぐに着替えてくるから、その間に色々出しといて」

 裕子が言う。


 ここでの「色々」というのは、食事の準備のことを指している。裕子の帰宅が特に遅くならない限り、夕食は家族揃って食べるのが、高野家の日課だ。

 裕子が外出する前に、御飯は炊いてある。そして、電子レンジでチンするだけで食べられるチキンステーキ、惣菜パックのマカロニサラダ、納豆を買ってある。

 なので、何も調理する必要は無い。

 チキンステーキをレンジに入れてスイッチを入れたり、惣菜と納豆を並べたり、食器を出したり、そういうことをするだけだ。

 それらを全て合わせて、「色々」ということになるわけだ。


 そんな「色々」を真由がやっている内に、着替えを終えた裕子が台所に現れた。

 「おかえり、裕子さん」

 その段階になって、泰彦が声を掛けた。


 (言うのが遅いっちゅうの。帰って来てから、どれだけ経ってんねん)


 真由は心の中でツッコミを入れる。

 だが、裕子は特に気にする様子も無く、普通に返事をする。

 「ただいま、泰彦くん」

 こうして、離婚しても未だに同居している二人が、言葉を交わした。


 高野家では、両親は

 「泰彦くん」

 「裕子さん」

 と呼び合っている。結婚する以前、付き合っている時代からの呼び方で、それが今でも続いているのだ。

 その呼び方で、二人の上下関係が分かるというものだ。

 元々、裕子が大学の先輩、泰彦が後輩という関係だった。


 (その上下関係は、夫婦になっても変わらんかったんやな)


 ただし真由に対しては、互いのことを「お父ちゃん」「お母ちゃん」と言っている。

 真由としては、ややこしい感じもするのだが、本人達がそう呼んでいるのだから、そういうことなんだろう。



 食卓に本日のメニューが並べられ、高野家の夕食タイムになった。

 真由は食事が始まってから、あえて何も喋らないことにした。母と父、どちらが先に口を開くのか、何を言うのか、それに興味があったのだ。

 それほど時間が経たない内に、最初に話し始めたのは裕子だった。

 「あのなあ泰彦くん、真由に例のこと、話したで」

 「うん、知ってる。さっき聞いた」

 「そうか」

 そこで会話がプツリと切れた。

 少しどんよりとした空気が流れる。

 そういう時は、食器のカチャカチャする音が、妙に大きく聞こえたりする。それがますます、嫌な雰囲気を膨らませる。

 真由は両親の様子を窺いながら、そ知らぬ顔を取り繕ってサラダを口に運ぶ。


 「引っ越しのことも言うた?」

 泰彦が喋り始めて、空白の時間帯はとりあえず終了した。

 「うん、言うたよ」

 「ごめんな裕子さん、引っ越しは手伝われへんで。休みの日やったら大丈夫やけど、平日やからなあ」

 「構へんって泰彦くん、そんなん」

 「ホンマは会社を休んでもエエねんけど、やっぱり、ちょっとなあ」

 「せやから大丈夫やって。こっちで全部やるから」

 どうにも奇妙な会話だと、真由は首をかしげる。


 (出て行く女の引っ越しを、出て行かれる男が手伝おうとしてるって、どういう構図やねん)


 「まあ、大丈夫やとは思うけどさ」

 泰彦が言う。

 「うん、何も問題は無いって」

 裕子が視線を御飯に向けたままで応答する。

 「せやせや、その通り。お父ちゃんが手伝わんでも、問題は無いよ」

 真由は黙っていることに我慢できず、口を挟んだ。

 「それにお父ちゃん、その場におっても、邪魔になるだけやと思うで」

 「そう言われるとツラいなあ」

 泰彦は笑って頭を掻いた。


 (弱い父親やなあ)


 真由は情けなくなった。

 口を出したのは自分だが、少しぐらい反対意見を言ってもいいのに。


 (まるでヘタレですやん)


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