8.言葉を覚え始める
あれから街を出て川沿いの街道の中を男と歩いている。両側には畑が広がっている。黄金色の穂を垂らした麦のような植物が一面に植わっていた。
ふと、男が立ち止まる。男は道の端の草むらに座り込み、峻太にも座るように指示した。峻太もおとなしくそれに従う。
男はポケットかどこかからパンのようなものを取り出して食べ出した。どうやら休憩らしい。それをちぎって峻太にも手渡して来た。
一口食べてみたが、はっきり言うとボソボソして美味しいとは言えない。少し甘みがあってその点に関しては良かった。
峻太は急に、英語が通じるのではないかと思えて来た。話しかけるには、今並んで座っている時がチャンスであろう。
「Do you speak English?」
しかし、男は峻太のいうことがよくわからないとばかりに肩をすくめるだけであった。
こうなったらヤケクソだ。万が一であるが日本語が通じるかもしれない。
「日本語話せますか?」
と、聞いてみるが、しかし反応は同じである。
峻太の手持ちの言語はこの二つしかないので、この問いかけは終わってしまうかに思えた。
だが、峻太の期待は裏切られ、
「Ж┴γ杙斷。」
と男が話しかけて来る。今度は峻太が首をかしげる番であった。
男は、少し考えるようなそぶりをして、今度は自分のことを指差しながら、
「アク エドウル」
とゆっくり発音した。少なくとも峻太にはこのように聞こえたのである。
峻太は考える。この男は自分を指差しながら今の言葉を発したのだ。もしかしたらこの男の名前かもしれない。どちらの単語が名前だろうか。それを確かめるため、峻太は男に対し、
「エドウル?」
と聞き返した。
男は、おや? というように眉を吊り上げて、そして
「イン。 アク エドウル」
と言いながら大きく頷いてみせた。
ここに来て峻太も男の名前がエドウルであることをほぼ確信した。となれば「アク」の部分は恐らく「私は」とかそういう意味なのであろう。「イン」は多分「はい。」とかそういう意味なんじゃないだろうか!
「アク シュンタ」
峻太は今度は男に対し、自分から自己紹介をしてみた。
男は再び眉を吊り上げて、
「トイト エプ シュンタ?」
と尋ねてくる。
「トイト?」
と峻太が逆に聞き返すと、男は峻太を指差しながら、
「トイ」
と応じてきた。恐らく「トイ」が「あなた」であろう。そう確信した峻太は、さっきの質問に答えるべく、
「イン。 アク シュンタ」
と発言すると、男は顔をほころばせながら手を差し出し
「アク エルトン トイヌー イルコイ」
と言ってきた。峻太もその言葉の意味こそは正確にわからなかったが、握手しようとしてきていることはわかる。きっと今のは、「よろしく」だとかそういう意味なのだろう。
「アク エルトン トイヌー イルコイ」
と繰り返して、男の手を取った。男は力強く峻太の手を握り上下させながら微笑んでいる。峻太もこの国に来て初めて、ほんの少しではあるが、曲がりなりにも言葉が通じたという嬉しさから顔が緩むのを抑えきれなかった。
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あの後もしばらく歩き続け、峻太の足が痛くなり、日もそろそろ傾いて来た頃、男—エドウルの家に着いた。屋根は茅葺で、素朴な感じの家だ。とはいえ、日本での平屋の住宅くらいの大きさはあるのでそれなりに大きいとも言える。
中に入ると、エドウルの妻らしき女と、小学校低学年くらいの男の子、幼稚園児くらいの女の子がいて、こちらを見ている。子供二人はエドウルに抱きつこうとしたが、後ろから峻太が入って来たのをみるとさっと身をすくめて母親の陰に隠れてしまった。
家の中は、入ったところが土間になっていて、農具やらが置いてある。向かって土間の左側に一段上がった板の間があって、その奥にはテーブルらしきものも見えた。
エドウルはその妻と何事か二人で会話した後、峻太の首にかかっているリードを扉にくくりつけ奥へ行き、子供二人も彼らに着いて行った。
しばらくすると、エドウルが奥から現れて、峻太を板の間の方に案内した。どうやら板の間は土足では上がってはいけないらしく、峻太は靴——奴隷商人の店で履かされた藁を編んででできたわらじのような靴——を脱いで板の間に上がった。
テーブルには食事が用意されている。今まで食べて来た、薄い乳と穀物の煮物に加えて豆と野菜のスープと思しきものがあって、豪華な食事である。
峻太はテーブルの席に着くよう、身振りで指示されたので、そこに座ることにする。峻太の隣にはエドウルが座り、二人の向かい側にエドウルの妻と、子供たちが座った。
ここで、エドウルから家族の紹介があった。エドウルの妻の名前はアーラというらしい。背は低く、(峻太的には美人ではないが、)愛嬌のある女性である。歳は35歳くらいだろうか。
男の子の名前はケルク、やんちゃそうな顔つきをしている。女の子の方はイルハというらしい。将来に期待が持てそうな顔立ちであった。
紹介が一通り済むと、ようやく食事となった。峻太にとってはこの数日間で最高の食事である。食事の質が高いことも嬉しいが、何より人間扱いしてもらえることが一番嬉しかった。
食事が終わると就寝となったが、峻太は板の間で寝るように指示され、毛布を一枚手渡された。エドウルたち一家は板の間の奥の部屋に引っ込んで鍵をかけてしまった。
峻太は一瞬、仲間外れにされたような寂しさを覚えたが、若い男である自分を警戒するのも当たり前かと思い直し、横になると、間も無く眠ってしまった。