第10話 元獣は案内人を務める
案内が始まってからしばらくの間エルは少女の尻尾にくるまり運ばれていた。目や鼻からはもう血はもう流れてはいない。
そもそも目や鼻から血が出るのは脳を行使ししすぎたせいでもあるため安静にするのが一番である。尻尾に包まれ宙に浮かされているため左右に揺れてはいるが柔らかなけとゆりかごのように穏やかに揺れる尾がエルにかなりの心地良さを与えている。
『置いていこうなど酷いではないか』
拗ねたように声を出すのは、少女の頭の上に陣取って動こうとしない猫のアイデンだった。しかし、顔の表情は猫であるため愛くるしさばかりが際立つ。
「別にいいんじゃねぇか? お前があそこまで来れるってぇことは強ぇんだろぉ?」
先ほどまでいた泉の場所は森の入り口からどれ程離れた場所なのかはよくわかってはいないが、かなり深い場所だと認知していた。
世の中には愛くるしい姿で相手を油断させ、その隙に攻撃をしかけるこざかしい魔物や亜獣が存在する。故に、四人は目の前の猫もそれの仲間だと思っていた。
『いや、儂は唯の猫じゃぞ。知識の中にある気配を消す技術を使って逃げ延びたにすぎん。儂は弱いのでのぉ、亜獣どころかただの野犬に襲われただけで死ねるわい』
「あぁ、泥棒の技術な」
アイデンの知識は人間並みだが、体は弱い猫なのである。そのため非常に弱い。
「ならあの時俺達の事弱者だどうとか言ってたが、お前それ自分にも当てはまるじゃねぇか」
『別に儂は自分が弱ではないと言った覚えはないぞ? 記憶力は大事ないか?』
「テメェ、喧嘩売ってんなら買うぜ?」
『短期じゃあのぉ。そんなことでは女子にもてんぞ?』
「ドラ猫が」
『なんじゃ、エテ公』
お互いの声音が低くなり雰囲気が剣呑になる。歩みを止めることなく睨みあい、威嚇しあう一人と一匹はお互い一歩も引かず、額をくっつける距離まで近づいていた。
「ねぇ、ほんと~に今更だけど聞いていい?」
『なんじゃ?』
歩いている途中でレティが名無しの少女の隣に歩み寄り話しかけると、先ほどまで睨んでいたアイデンが返事をする。その変わり身の早さに呆気にとられたギデだが、興が削がそがれたのかすぐに離れていった。
「いや、あんたじゃなくてさ」
「あ、私?」
「そう。結局のところ、あんたって何者なの? それと、ここはいったいどういう所なの? 知っていたら教えてほしいのだけれど」
心労と疲労、そして有り得ないことが募り聞くべきことを疎かにしてきたが、今が比較的安全であり心理的余裕も出てきたため、レティは名無しの少女に問いを出す。
「ここは森よ」
しかし、返ってきたのはレティが求めていた答えとはまるで違った。
「いや、もっと詳しく……」
『それは恐らく無理じゃろう』
少女が答える前に表情が何故か呆れた様子になっている猫が答える。
「なんでよ」
ここに長い間暮らしてきたのならば何かしらの情報を持っていてもいいはずである。そう思ったからこそ、レティは質問をした。だが、アイデンはそれが無意味であると言う。
『儂らだけではなく、ここにいる者達全員に聞いてもおそらく分からないじゃろう。儂は何なのか、ここはどこなのか、ここは何なのか、そんものを一々考える酔狂な奴は人間くらいじゃ』
間違ってはいないため三人は口を挟まない。
『儂達はたまたまここで生まれただけ。故に、儂らはこの場所に興味がない、興味が湧かない、沸き上がらないのじゃ』
「そうね。私達は生きていられればそれでいいし。あと、私が何者かっていうのは特に考えたこともないね」
最初の記憶は泉に浮かんでいただけ。それ以前の記憶は欠片も存在しない。しかし、そんなことを気にしていたら死んでしまう。故に考えることはなかった。
歩みを止めることなく返事をする少女は人間達を一瞥するとこれ以上はなすことはないというかのように再び外へ向かう方向を向く。
釈然としないと思いながらも三人は少女の後をついていく。
「あ、そうだ」
唐突に声を出した少女はゆっくりと三人の人間に視線を向ける。
「私今名前ないんだよ。だから、外に出るまでにいい名前考えてくれない?」
「また突然だなぁ。まぁ、確かに呼び方に困ってたのは確かだな」
「アイデンじゃないの?」
「それはこの知識の提供者の事じゃない。まぁ、その人はもう死んじゃってるから別に名乗ってもいいと思うけど」
さり気なく呟いた少女の言葉に三人は当然だと思ったが、ふとギデが疑問に思った。
「なぁ、アイデンって野郎は寿命で死んだのか? それともそれ以外の何かで死んだのか?」
ギデの言葉に二人は同時にアイデンという者の話を思い出す。
アイデンという人間は愛した者のために老人になりきっていた。口調も振る舞い方も格好も、そして、年齢さえも。愛した者が死んだ後も生きたと聞いていたが、それが何年生きたのかはわからない。
『寿命じゃないわい。そ奴は呆気なく、人殺しの犯人として捕まって処刑されたのじゃよ。まぁ、愛した者の最後を見れただけでも幸福じゃったんじゃないかのぉ。どうでもよいが』
「私達には分からない話よねぇ。愛とか恋とかよくわかんないし。それよりも名前。早く決めてよ」
悲劇の演目とすれば民衆に感動を呼ぶであろう話を一蹴する一匹と一人に三人は絶句するが、冒険者として体を動かしながら考えることを日常としている彼らは頭の中で少女の名前を考えていた。
「まったく。え~っと、アンジェリカなんてどうだ?」
「駄目」
自分なりにかなりいい名前だと思っていたギデだが、それを少女は膠も無く却下する。
「なんでだ?」
「長いから」
特に理由のない決断なのだとギデは理解し、同時に怒りも覚えたが勝てないことは分かっているので、決して手は出さない。
「なら、ヴィオラなんてどうだ?」
「駄目、言いにくい」
少しも考えるそぶりも見せずに再び少女は却下する。
「……ヒデ……」
「うん?」
頭上から聞こえてきた声に疑問を持ちその場の全員が見上げると、そこには目を薄らと開けているエルがいた。
「秀でている者、ということでヒデ、どうでしょう……?」
「う~ん」
初めて少女は考える時間ができた。
秀でていると言ってもどこかそうなのかが分からない。比較対象が今いる四人の人間ならば知識以外の全てが上回っているのは確実。しかし、あの死を想像させる何者かと比べると秀でているとは言えない。
「うん、いいねそれ、短いし、意味もいいし。それじゃあ、今日から私はヒデね。いい名前をありがとう、エル」
「……どう、致しまして」
優しく微笑む。疲れていたせいで表情を作るのが辛いだけだったのかもしれない。しかし、少女改めヒデにとってその笑みは、知識の中にある慈愛に満ちた優しい笑みそのものに映った。
「……」
ヒデは決心する。これ以上の傷を負わせる事無くこの人間達安全にかつ速やかに住処へと帰す。
当初、ヒデは守るとは言ったものの手足の一本程度はなくなっても問題ないだろうと考えていた。しかし、ここで図らずもエルの笑みがその危険をなくした。
唯の獣が人間の知恵を手に入れたとしても人間のように振る舞うことはまずない。
例外で、猫であるアイデンは人間の元で暮らし、尚且つ魔道具を埋め込まれたことにより人らしく振舞うことができている。今こうしてリッチェル達がヒデに案内を頼み、そしてそれを受け入れてくれたのは少なからずヒデに人間らしさがあったからに他ならない。
「うっ……」
「うん? まだ痛む?」
「え、ええ、少し」
本心から心配したヒデの脳内では、人間らしい感情、罪悪感というものは生まれていない。しかし、痛みによる辛さは知識だけでなく経験もしているため辛さが分かる。そしてヒデは一本の棘をエルに差し出した。
「なん……です、これは?」
「痛くなくなる奴」
「……どんな感じ、痛くなくなるんですか?」
「……気持ちよく? なる」
「いや、それダメだろ!」
差し出されたのは完全に薬物。痛みが無くなり、さらに気持ちよくなるというのはまさに麻薬による物に間違いない。
それを知ったギデは怒鳴りながらエルに差し出された針を奪い取った。
「いいか! 今度から絶対あれに触ったらだめだぞ! 分かったな!」
「……?」
まだ分かっていないのか少女は首を傾け、さらにギデが説明をする。その姿を隣で眺めていた三人はまるで娘を叱る父親のように思えて、場所も忘れて微笑んでいた。
暗い闇夜に和やかな空気が流れていた。だが、この時二匹の獣に戦慄が走る。
アイデンは初めて比で異状の殺気に顔を青くし、ヒデは二度目となる再開を果たしたことに自らの不幸を呪った。
「ん? どうし、うわっ!?」
「きゃっ! どうしたの、急に!?」
「のわっ!?」
額に汗を流し余裕のない表情を露わにしながらヒデは両脇にギデとリッチェルを抱え、口に三人の中で比較的軽いレティを咥えてすぐさまその場から離脱する。
尻尾で抱えているエルは安全のためしっかりと二本使って揺れないように拘束する。
大人四人を抱えてもなお素早く動くヒデの身体能力に驚嘆を隠せない四人だが、ヒデの恐怖に歪む顔を初めて見て只事ではない事態だというのを瞬時に理解した。
『な、なんなんじゃ、あ奴は……あれは、もう、化物じゃ……』
振り落とされないように必死にヒデの頭にしがみついているアイデンも余裕がなかった。殺気に当てられ気が狂いそうになっている。
「ガァアアアアアアア!」
「っ!」
一つの咆哮で状況は詳しく理解していなかった四人も危機感を持った。
それからヒデもヒデに抱えられた四人も一言も喋ることなくその場を後にした。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
肩を上下に揺らし荒々しい息遣いで苦しそうにしながらヒデはその場で膝をつく。
「大丈夫か、嬢ちゃん、じゃなくてヒデちゃん」
『だいじょうぶに見えるなら、お前さんは医者に診てもらうことをお勧めするのじゃ』
「何度とごらぁ、舐めた口きいてるとお前を研究者共の元へ連れて行ってやろうか?」
『なんと野蛮な。お主程野蛮な者は獣の中にもそうはおらんじゃろう』
「テメェ!」
先ほどまで危険が張り詰めていたにもかかわらず口論を始めるお互いに睨みあうギデとアイデン。それを眺める三人の目には呆れが混じっているものの緊迫した空気が和らいだことに感謝もしていた。
「ねぇ、さっきのあの獣の咆哮。一体何なの?」
その場の全員が気になっていることを空気も読まずに問うレティだが、他の者も気になっていた事だったので特に止めることはなかった。
「知らない。でも、あれに勝てないってことは分かる。だから、絶対に戦っちゃ駄目。戦ったら、確実に……喰われる」
ヒデは実際に戦ったことも出会ったこともない。しかし、遠くからでも感じることができた殺意の強さは肌で直接感じて理解できている。
あれと争ってはいけない。野生の勘が酷く警鐘を鳴らしながらそう告げている。
心の底からそう思っていることを理解した彼らは何も言わず、ただその危険な生物がいることを噛み締めた。
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次回でやっと森から出ます。長かった。実に長かったです。