ハニワのはにぃ
「快さん、起きてください」
俺の身体を優しく揺り起こす、硬質な手。
「もう、快さんったら、お寝坊さん」
聞いたことのない少ししわがれた声は嬉々としていて、寝ぼけた脳みそに響いてくる。耳に響くというよりは脳内に反響するような不思議な声に、未だに夢の中にいるのだと自覚した。
俺は寝返りを打ちながら少しずり落ちている布団を引っ張り上げ、頭からかぶる。布団のぬくもりに再び、眠気が訪れる。素直にその微睡に意識を任せようとしたところ、するりと布団になにかが潜り込んできた。
「快さんっ」
俺の背中にはごつごつと堅くて冷たい感触が伝ってくる。痛い。せっかくつかみかけていた微睡がそのせいでどこか遠くへと行ってしまった。
しかし、俺はまだ、眠たいんだ。眠らせてくれないか。
「快さん、朝ですよ。早く起きないと、遅刻してしまいます」
あと五分でいいんだ。この布団のぬくもりをもう少し……。
……………………。
「って、今、何時だっ!」
「八時ですよ、快さん」
「……八時っ?」
俺は告げられたありえない時刻に、反射的に飛び起きた。そして、時刻を告げたと思われる人物に視線を向けて苦情を口にした。
「なんで早く起こしてくれないんだよ……って。おっ、おまえはだれだっ!」
俺の布団には、茶褐色のざらつく肌を持った物体Xが眠っている。まん丸の目は空洞で、鼻の下に少し離れて丸い口が開いていて……そう、明らかにアレだ。
日本史の教科書の頭に載っている、ハニワ、だ。
……ちょっと待て。
今、こいつがしゃべった? 動いて俺を起こし、しかも布団に潜り込んできた?
「はっはっは、ハニワが自分で動くとか、ありえないだろ」
俺はあまりの非現実さに、思わず声に出してみた。
起きているはずだが、もしかしたらまだ、夢の中にいるのかもしれない。夢ならば、ハニワが動いてしゃべっていても問題はない。
これはまだ、夢の中での出来事だと願いを込めたのだが……。
「なにをおっしゃっているのですか、快さん」
その願いはむなしく、ハニワに思いっきり否定されてしまった。
ああ、夢だったらどれだけよかっただろう。
これは現実だということを知らしめんといわんばかりに、布団に寝転がっていたハニワは思っている以上にスムーズな動きで起き上がってベッドに腰掛けた。
グレイのブレザーの中は白い丸襟のブラウスに赤いリボン、赤とグレイのチェック柄のひざ丈のプリーツスカート。それは毎日見ている、俺が通っている学校の女子用制服だ。それをハニワのくせに違和感なく着ている。ハニワはスカートの裾を恥らいながら直すと、俺を見上げた。
「快さんがあまりにも気持ちよさそうに寝ているから、ずっと見てました」
と言って、ハニワは頬を赤らめた。……たぶん。
それよりも、ハニワ。おまえ、今、すっごく重大なことを言ったな? 俺の寝顔をずっと見ていただって?
「こっ、このっ、ストーカーハニワめっ!」
「だって、快さんがあまりにもすてきだから……」
ハニワは頬に手を当て、もじもじしている。ハニワが恥らうなんて、間違っている。見られていたこっちが恥ずかしい。
俺は恥ずかしさを振り払うために強い口調でハニワに責めの言葉を吐いた。
「黙れっ、ハニワの分際で!」
その一言にハニワは動きを止め、視線を逸らした。
「……ごめんなさい」
ものすごく申し訳なさそうにうなだれて謝ってきた。それを見て、少し言い過ぎてしまったかもしれないと罪悪感に駆られる。
「……わっ、分かればいいんだ」
俺が悪いわけではないのに、激しい後悔が押し寄せてくる。どうにもこういう表情に弱い。
ハニワをちらりと見やると、俺の言葉に安堵した表情を浮かべた……たぶん。
いちいち「たぶん」とつけるのは、ハニワゆえに表情がいまいち分かりづらいのだ。なんとなく雰囲気で「きっとこうだろうな」と思っているだけなので、実際、ハニワがそう考えているかどうかは分からない。
「快さん、それよりも大変です!」
ハニワは壁掛け時計に腕を向けた。残念ながら、ハニワには指がないようだ。いや、それは今は些末な問題なんだ。
「って、うわあああっ!」
時計の針は八時十分を指し示している。まずい。完璧に遅刻だ。
「ハニワ! 遅刻したら恨むからな!」
やばい。遅刻の常習犯としては今日、遅れるのは激しくまずい。
しかしだ。寝る前に遅刻しないようにと目覚まし時計をたくさんかけておいたはずなのに、鳴った覚えがない。机の上と床にセットしておいたはずの目覚まし時計に視線を向ける。
「おい、ハニワ」
俺はハニワをにらみつける。ハニワは空虚な目を俺に向けてくる。てか、こっち見んな。
「おまえ、時計を壊したな」
机の上の時計も、床の上の時計も、なんとも無残な姿をさらしている。寝る前はあんなに元気だったのに、どうして粉々に砕けちゃったの……。
「だって……快さんの眠りを妨げる悪者だったから」
「だってもくそもあるかっ! ああああ、もういいから出て行けよ!」
今、このハニワに八つ当たりしたからといって、時間が巻き戻るわけではない。それよりもだ。今は一刻を争う緊急事態だ。
「快さん、二度寝は駄目ですよ?」
状況を把握しているのかどうかわからない、ハニワののんびりした声にいらだちを覚えつつ、反論する。
「寝るかっ! 俺は今から、着替えるんだ!」
その一言に、ハニワの動きが止まった。
「……おい、着替えを見るとか言わないだろうな?」
「え、いえ……あのっ」
気のせいか、ハニワの頬が朱に染まっている。
「えええいっ! とっとと出て行けっ!」
俺の一言に、ハニワは名残惜しそうに出て行った。
……ふう。ったく、なんだあのハニワ。
寝起き早々、疲労感を覚えつつもパジャマを脱ぎ捨て、素早く制服に着替えて鞄を持ち、部屋を飛び出した。
◇ ◇
そして今、俺はハニワとともに学校に向かって走っている。走らないとマジで間に合わない。いや、走っても間に合うかどうかの瀬戸際だ。一瞬も気を抜くことができない状況だ。
「うふふ、快さんと遅刻なんて、幸せです」
だれのせいでこんな目に遭っているんだ。遅刻したらおまえのその空洞に消しゴムを突っ込むぞ。
その前にハニワ、どうしておまえも一緒に走ってるんだ。ハニワが学校に通うなんて、おかしいだろ。さっきも思ったが、女子の制服を着ているなんて、シュール過ぎるだろう。しかもあの丸い胴体のくせに、どうやって着たのか分からないが、違和感がないってのもおかしい。あれか、ハニワの胴体に合わせて作った特注品か? それなら納得だが、……いやいや、そこで納得したらおかしいだろう、俺!
いやそれよりも、すでにハニワが動いている時点でおかしいのだから、これ以上、おかしなことはなにもない。と俺は自分に言い聞かせて学校へ遅刻しないように走ることに集中した。
俺が住んでいるマンションから学校までは歩いて五分、走れば三分くらい。だか、侮るなかれ。距離は短いが、色々と難関が待っている。さらにあちこちにトラップが潜んでいるというおまけつきの通学路だ。
俺が住むマンションと学校の間には、織り姫と彦星の逢い引きを阻むために存在する天の川のような大きな道路がある。そこがまず第一関門だ。そして無駄に幅のある道路には真偽はともかく陸橋を架けられないらしく、信号しか存在していない。しかも激しく広い道路のくせに、青の時間が異常に短い。その信号が点滅している。やばい、ここで引っかかると、一分以上時間をロスする。現在の状況ではそれは大変痛い。信号が点滅している間に渡りきるんだ!
俺はさらに加速した。すでにこの時点で心臓が口から飛び出しそうなくらいばくばく言っているが、後のない俺はここで足を緩めることはできない。そのおかげで信号が点滅しているうちに車道へと身体を入れることが出来た。よし、こうなればこちらのものだ。このまま突っ走れ!
いつも以上に大股で横断歩道を走った。対岸の歩道に足がついた瞬間、信号は赤へと変わった。ぎりぎりセーフ、助かった。
隣のハニワは俺の走りにぴったりと寄り添い、ついてきている。こいつ、ナニヤツ?
眉間にしわを寄せてハニワを睨み付けると、気のせいか、にっこりと笑みを返されたような気がした。俺は死にそうなくらい必死なのに、なに余裕こいてんの、このハニワ。
しかし、ここで気を抜いては駄目なのだ。速度を変えることなく俺は先を急ぐ。この先に第二の関門が待っている。トラップ付きという強敵だ。
遠目からでもわかる。今日もトラップは健在だ。俺は唇をかみしめ、眉根に力を込める。そして、第二の関門に突入した。
「にゃー」
もこもこのそいつらは、俺の姿を見ると奇声を上げて集まってくる。やばい、今日はフルメンバーだ。かわいい……! もふもふしたい!
「今日はすまない! 帰りに相手してやるからな!」
「にゃーにゃー」
最大の敵である猫は俺に対して抗議の声を上げている。
俺だって、おまえたちの相手をしてやりたいんだ!
無類の猫好きの俺にこんなもふもふなヤツらを置いていけなんて、どれだけの苦行なんだ!
「ごめんなああ!」
俺は立ち止まりそうになった足を鼓舞して、猫たちに絶叫を残し、さらに走る。
猫たちの泣き声がだんだんと遠くなる。あんなかわいらしい存在を無視して行くとは、ああ、なんと鬼畜なんだ、俺は!
しかし、これで少し学校に近づいた。だが、ここで油断してはならない。第三の関門が待っているのだ。ここは先ほどの猫と同じくらい、強敵だ。
「わんわんっ」
ああ、犬にももふもふしたい! あわよくば一緒にお散歩したり、ボールを投げたりして遊びたい!
「学校が終わったら遊んでやるから、待っていてくれえ!」
「わんわんっ!」
遊んで、かまってと俺に向かって吠えている犬を置いて、さらに走る。
第三の関門を抜ければ、学校まであと一息だ。
ずっと全力疾走していたから、さすがに息が切れてきた。喉の奥から血の味がする。だけどここで油断しては駄目だ。校門を抜けるまで、気を抜いてはならない。
ハニワは無言で俺の横をぴったりとついて来ている。ハニワのくせになかなかやるな。
ぜえはあという俺が吐く息が耳の奥で響いて聞こえる。正直、今日も遅刻でいいかな……なんて考えがよぎったが、そうするとかわいらしい猫と犬を無視してきた鬼畜な行為が無となってしまう。それは駄目だ。あいつらも浮かばれない……! ──いや、猫も犬も死んでないが。
猫と犬の俺を引き止める声を思い出しつつ、とにかく走り続けた。そうしてようやく学校が見えてきた。それと同時にチャイムが鳴り始める。まずい、鳴り終わるまでに校門を通り抜けなければ遅刻になる。
門の前には生徒会の役員たちと先生が立っていて、時計を見ながら閉める準備を始めている。まずい、非常にまずい。
俺は血を吐きそうになりながら必死に足を動かす。自分の吐く息がうるさいくらいに耳に届き、心臓の音が全身を駆け巡る。間延びしたチャイムは遙か遠くにしか聞こえない。
徐々に細くなっていく空間。
あと五メートル……あと三メートル……もう、少し、だ……。
倒れ込みそうになりながら、駆け込む。ぎりぎりの隙間を荒い息を吐きながら、どうにか滑り込んだ。
「亀山、今日はぎりぎりセーフだったな」
風紀の先生が悔しそうな表情をしながら俺の名前を呼ぶ。
「お……は、よう、ご……ざい、ま、す」
息も切れ切れに、俺は朝の挨拶をした。
「本鈴が鳴る前に教室に入れよ」
「……は、い……」
その場に座り込みたくなる衝動をおさえ、肩で息をしながら俺は教室へと向かう。
周りを見ると、俺と同じように遅刻ぎりぎりの生徒が数人いた。みんな俺と同じように息を切らせて死にそうな表情をしている。
その中に見覚えのある顔を見つけた。向こうは俺がぎりぎりで入ってきたのを見て、にやけた笑みを向けてきた。同じクラスの茅原美野里だ。
「おはよう」
「おはよう。今日も二人そろって来るなんて、ラブラブね」
俺とハニワを見て、美野里はさらににやける。
「はにぃもほんと、毎日こいつの面倒を見て、大変ね」
「ううん、そんなことないわ。わたし、快さんのお世話ができて、幸せなの」
「いやん、のろけ? ごちそうさまー」
ハニワと美野里は楽しそうに話をしている。
このハニワは美野里と面識があるのか?
それに今、さりげなく重大なことを口にしていたよな?
「このハニワ……」
「ん? もう、亀山ったらひどいなぁ。はにぃのことをハニワ呼ばわりするなんて!」
はにぃ、だと……?
このハニワには『はにぃ』なる名前がついているのか?
その前にちょっと待て。ハニワが動いていることに対して、疑問に思わないのか? ハニワだぞ、ハニワ。日本史の教科書によれば、古墳時代に豪族などの身分の高いものが亡くなった時に一緒に埋めていたという、あの、ハニワだぞ? 今から大体、千五百年前の時代に使われていた、あの、ハニワ、だぞ。
百歩譲って、千五百年前のハニワというところまではいいとしよう。博物館に行けば置いてあることもあるだろう。存在していても不思議はない。
ところで、ハニワってこんなに大きいのか? 横を歩いているハニワは、美野里とほとんど大きさが変わらない。俺との身長差は目測で約十五センチくらい。教科書の写真でしかハニワなんて見たことがないから分からないが……たぶんだが、ハニワってこんなに大きなものではないよな? ……まあ、いい。大きなハニワがあっても不思議はないということにしよう。そこまでは譲ろう。
ハニワって……無機質だよな? 日本史の教科書にはハニワが動いていたなんて書かれていないし、どう見てもあれは土で出来た焼き物だ。動くわけがない。
そうだ。ハニワが動くなんて、ナンセンスすぎる。
ありえない。ハニワが動くなんて、ありえない!
しかし、美野里はハニワ……はにぃに人間と同じように接している。
生徒会の役員たちも風紀の先生もはにぃを見て、特に驚いている様子はなかった。驚いているのは俺だけ。ハニワが動いていることがおかしいと思っているのは、もしかして俺だけか?
上がっていた息がだいぶ整ってきた頃、俺たちは校舎の中へと入った。それと同時に本鈴が鳴り始める。のんびりしすぎたようだ。俺は慌てて廊下を走ろうとした。しかし。
「快さん、廊下は走ってはいけませんよ」
くっ。ハニワに注意をされてしまった。なんたる不覚!
走りたい気持ちをぐっとこらえ、早足に教室へと向かう。幸いなことにチャイムが鳴り終わるまでに自分の席に着くことが出来た。
ぎりぎりセーフ。
俺は一時間目の日本史の教科書を準備して広げた。はじめの数ページをめくると、そこには古墳時代のことが書かれていた。ハニワの写真が数枚、載っている。
当たり前のように隣に座っているはにぃと見比べる。……どう見てもそっくりだ。
俺の目にははにぃはハニワにしか見えない。俺の目がおかしいのだろうか。
ゆっくりと周りを見回す。だれ一人として、はにぃのことを疑っている者はいない。
それよりも、はにぃが今、座っている席は別の人間が座っていたはずだ。……いや、だれかが座るはずなのに、ずっとそこは空いていた。
「よーっし、授業を始めるぞ」
社会科の教師なのに無意味に熱い八井田が入室してきた。その声に、なにかひっかかりを覚えていた俺の思考は吹っ飛んでしまった。
「亀山は……お、来ているな。はにぃ、えらいぞ!」
八井田は俺を見て、さらに隣に座っているはにぃを見て満足している。
だからちょっと待てって。ハニワだぞ、ハニワ。あのハニワが制服を着て俺たちに混じって授業を受けようとしているのに、どうしてだれもおかしいとか疑問に思わないんだ。
しかも八井田は社会科の教師だ。今から日本史を教えようとしているというのに、はにぃを見て普通に接しているのは、明らかにおかしいだろうっ! どうしてはにぃと名を呼び、えらいぞとほめているのだ。
「ほんと、はにぃはいい奥さんになりそうよね」
「亀山、はにぃさんに世話をしてもらうとか……。リア充、爆発しろっ」
ちょっと待て。爆発するのは俺じゃないだろ。しかも、どうしてうらやましがられないといけないんだ。ハニワだぞ、ハニワ!
クラスメイトはだれ一人としてはにぃが動いていることに対して、疑問に思っていないようだ。それどころかうらやましいとか。おかしいだろ、それ!
「さて、前回の続きを始めるぞ。稲作が始まったことで食料を安定して入手出来るようになったため……」
あー、かったるい。縄文時代に弥生時代はもう、どうでもいいじゃん。古墳時代もハニワだし、飛ばしていいよ。
俺は八井田の子守歌としか思えない声を聞きながら、ぼんやりとトリップしていた。遅刻しないようにと全力疾走してきたため、今日の体力が尽きていたのもある。
***
『快、ごめんね……』
黒くて長い髪の少女がベッドに横たわったまま、泣いている。日に当たっていないのと血色が悪いのもあり、白を通り越して青白い肌。黒い宝石のようにきらきらと光っている汚れを知らない瞳。唇はかさついて、色もよくない。
『なに泣いてるんだよ。早く元気になれよ。一緒に学校に行こうぜ』
『快、あたしが元気になったら、朝、きちんと起きてくれる?』
『ああ。おまえが元気になるんだったら、俺はがんばって早起きをするぞ』
『ほんと? じゃあ、あたしもがんばるね』
少女は儚い笑みを浮かべる。俺の心はきりきりと痛みを覚える。代われるものなら、代わってあげたい。俺にはどうしてあげることも出来ない。ただ、見ていることしか出来ない歯がゆさ。
『快、ありがとう』
突然のお礼の言葉に俺は面喰らう。
『なんだよ、いきなり……』
『うん、なんだかお礼を言いたくなったの。毎日来てくれて、ありがとう』
『そんなの、あっ、当たり前だろっ』
嫌な予感に激しく動揺している俺のことはお構いなしに、少女は手を伸ばしてきた。俺の手の甲にあたった指先は氷かと思うほど冷たい。その冷たさに不安な気持ちがさらに強くなる。
『泣くから、手が冷たくなってる』
『冷たくないよ?』
『冷たいだろっ!』
俺は少女の手を自分の手で包み込む。
『あ、ほんとだ。快って暖かいね』
泣いた名残を残したままの瞳は潤んではいたが、いつもの笑顔を浮かべてくれた。それを見て、俺はようやく安堵する。
こいつはまだ、大丈夫。これだけ笑っていられるから、大丈夫だ。
『快──』
少女の瞳が閉じられる。一筋の涙が流れる。それを見て、美しい──と思いながら、俺は少女に顔を近づけ……。
◇ ◇
「亀山っ! 聞いているのか!」
突然の怒声に俺は驚き、立ち上がる。
「はっ、はいっ!」
「授業中に寝るとは、いい度胸だ」
寝ていない、起きていた! と反論できなかった。俺は先ほどまで、なにか夢らしきものを見ていた。八井田に怒鳴られて吹っ飛んでしまったが、妙な切なさだけが俺の心にくすぶりを残していた。
周りを伺うと、みんなが俺に注目している。頭に血が上ってきた。恥ずかしい。
そしてふと、隣の席に座っているはにぃと目が合う。黒い空洞は心配そうに俺を見ている。……てか、やっぱりおまえ、こっち見んな。
「まあ、いい。遅刻常習犯のおまえが今日は来ている。はにぃに免じて許してやろう。しかし、これからきちんと起きて、聞いておけよっ!」
「はっ、はいっ!」
八井田に引きずられるように俺は右手をまっすぐに挙げ、熱血に返事をしてしまった。
「よしっ、いい返事だ。……座れ」
八井田の許可が出たので俺は椅子に座り直した。
それにしても、先ほどのあれはなんだったのだろう。
「亀山っ! 聞いているか!」
「聞いてますっ!」
考えるのは後にしよう。俺は八井田に怒鳴られ、しぶしぶ日本史の教科書に視線を戻した。
日本史の授業が終わり、休憩時間。隣の席ではにぃと美野里が話をしている。
「はにぃってこれにそっくりだよね」
美野里は教科書に載っているハニワを指さし、そんなことを言っている。
「うん、よく言われるの」
ん?
やっぱり、美野里が見ても、はにぃはハニワに見えるのか?
「だけど、はにぃの方が断然、かわいいから!」
「やだぁ。照れちゃう」
はにぃは頬に手を当て、もじもじしている。どうやら、照れているらしい。表情が変わらないから、よく分からない。
しかし美野里。ハニワにかわいいもなにもないだろう。目も口も、丸く穴が空いているだけなんだぞ。逆に怖いだろ。
突っ込みを入れようとしたらチャイムが鳴り、次の授業が始まる。
俺はおとなしく席についた。
美野里の目にも、はにぃはハニワに見える。だけど、ハニワが動いていることを疑問にも思っていないようだ。
おかしいのは俺なのか、周りなのか。多数決の原理からすると、疑問に思っているのはどうやら俺だけのようだから、俺がおかしいのかもしれないが……いや、しかし。やっぱり、どう考えてもハニワが動くのはおかしい。俺はおかしくない!
「快さん、怖い顔してどうしました? お腹でも痛いですか?」
俺はいつの間にか、はにぃをにらみつけていた。心配していると思われるはにぃは、俺をいたわるように声を掛けてきた。
「……なんでもない」
「そうですか? 無理はなさらないでくださいね」
ハニワのくせに俺の体調を気遣うとは、できすぎだろう。
隣に座って当然のような表情をして授業を受けているはにぃのことを気にしながら、淡々と進む授業を受けた。そのせいか、いつもなら限りなく遠いと感じてしまうお昼の時間はあっという間に訪れた。
しかし、ここでとても大切なことに気がついた。急いで来たから、お弁当を持ってくるのを忘れた。ダッシュで購買に向かわないと、食べるものがなくなる。
俺は四時限目の終了を告げるチャイムとともに、席を立ちあがった。
「快さん、どちらに?」
立ち上がった俺に対して、はにぃはすぐに質問をしてきた。
「昼を持ってくるのを忘れたから、買いに行くんだよ」
俺の返事に対して、はにぃは満面の笑みを浮かべた……たぶん。
「それなら、わたしに任せてください!」
はにぃは俺の腕を力強くつかんできた。おまえの手、ごつごつしていて痛いんだ。それに、早くいかないと昼も食いっぱぐれる!
「離せ! 購買に行かないと……!」
死活問題だ!
手を振り払おうとしたところ、はにぃはにこやかな表情を俺に向けてきた。……こっち見んな。
そしてはにぃは俺をつかんでいない反対の手で重そうななにかを取り出した。それ、今までどこに隠していた?
「快さん、お弁当なら、わたしが作ってきましたから!」
はにぃは少し誇らしげにそれを掲げ持った。
……ハニワが弁当を作った……だと?
「はにぃったら、毎日、手が込んだすてきなお弁当を朝からがんばって作ってるわよねぇ」
「快さんの健康を思えば、これくらい平気です」
……ちょっと待て。またもや重要なことをさらりと言ったな?
毎日お弁当を作っている、だと?
「今日も快さんが好きなものばかりにしました」
はにぃは俺の机の上にそれは弁当箱というよりは重箱と言った方が正解なのではないかと言わんばかりの大きさの筐体をおもむろに置いた。ハニワ柄の風呂敷で包んであるとか、どれだけギャグなんだ、このハニワ。
「ちょっと、はにぃ。なにその包み! はにぃ柄とか、どれだけラブラブを見せつけてくれるのよ!」
「あ、やだ。気が付かれちゃった。は、恥ずかしい!」
本当だよ、どこまで恥ずかしいやつなんだ!
たぶん真っ赤になっているはにぃはそそくさと包みをほどいた。重厚感あふれる黒塗りの重箱は、二段重ね。
……これ、俺一人分なのか?
俺をはじめ、クラスメイトが見守る中、はにぃは重箱の上に乗せられている箸箱を避け、蓋をあけた。
「おおお!」
どよめきが走る。俺も思わず、感心してしまった。
上段には所狭しと色とりどりのおかずが詰められている。だし巻き卵に豚肉のアスパラ巻き、プチトマトにほうれんそうのお浸しなどなど。
朝食を食べていない俺の胃は、視覚情報だけでお腹を鳴らすには充分だった。
上の段を軽く持ち上げて横にずらし、横に並べる。下にはこちらにも目にも鮮やかなおにぎりがぎっしりと詰まっていた。赤いのはゆかりを混ぜたものだろう。のりが巻かれていたり、漬物で巻かれていたり。
……こいつ、なかなかやるな。
「さあ、快さん。遠慮なく食べてください」
水筒も取り出され、コップに注がれて準備万端。
周りの視線が激しく痛い。
「いいなぁ……亀山。愛妻弁当とか。……やっぱり、リア充は爆発しろ!」
ハニワに好かれてリア充って、間違っているだろう。
俺はとりあえず、椅子に座りなおした。
箸箱から箸を取り出し、まずはだし巻き卵に箸を伸ばした。が。
「快さん、きちんと食べ物たちに感謝の気持ちを伝えてから食べてくださいね」
……ハニワ、口うるさいな。
「……いただきます」
口の中でつぶやき、俺は遠慮することなく箸を伸ばす。
これがもう、だれが作ったものでもいい。
とにかく今の俺は、腹が減っているんだ。味はどうでもいい。食えたら……って。
「……なんだ、これっ!」
だし巻き卵を口にして、俺はあまりのことに目を見開いた。隣にいるはにぃは空洞の目を俺に向けて、動きをじっと見守っている。
「……おいしく、なかったですか?」
悲壮感漂う声に、俺は口の中に食べ物を入れたままだというのに口を開いた。
「うめーよ、これ!」
俺のその一言に、はにぃは明らかにほっとしているようだった。
「よかったです。……けど、食べ物を口に入れたまま、しゃべるのは」
「うるさい。わかったから、食べている間は黙っておけ」
俺ははにぃにそれだけ言うと、あとは夢中になって食事をすすめた。
こんなに食べられるわけないだろうと思っていたのだが、予想以上にお腹がすいていたらしい俺は、あっという間におかずもおにぎりも食べきった。
「はー。美味しかった。ごちそうさま」
空っぽになった重箱に視線を向ける。さすがにお腹がいっぱいだ。食べきったことに対しても俺は満足していた。
「快さんのお口にあって、よかったです」
安堵の声に、俺はとんでもないことをやらかしてしまったことに気が付いた。
「あ……俺、全部食べてしまったけど……」
そうだ。食べることに夢中になりすぎてすっかり忘れていた。この大きさならきっと、俺とはにぃの二人分だったのだろう。それなのに、俺ときたら……。
「わたしは大丈夫ですよ」
そういって、はにぃは幸せそうな表情を浮かべながら、空っぽになった重箱を片付けた。
◇ ◇
午後一番の授業は、体育だ。今日は朝から走ったから勘弁してほしかったが、机に座りっぱなしで授業を受けるのも苦痛だったからいい気分転換だと思うことにしよう。それに昼食の後の授業は眠くなる。
俺はようやくお腹がこなれてきたので盛大にあくびをしながら、体操着に着替え始めた。しかし、隣のはにぃは座ったままだ。
「次、体育だぞ。着替えないのか?」
もしかしたら次の授業がなにかわかっていないのかもしれないと思い、はにぃにそう声をかけた。しかし、このハニワは予想外の反撃をしてきやがった。
「快さん、わたしの裸がそんなに見たいのですか?」
このハニワ、なにを言っているんだ。おまえの裸なんて、見たいわけないだろう! むしろ、ハニワが制服を着ている方がおかしい。
「亀山、やらしいな!」
「おまえ、はにぃの裸、毎日見てるんだろう」
と男どもの野次が飛ぶ。
「男子たち、やらしいわね! はにぃは身体が弱いから、見学なのよ! ったく、あっちいって着替えなさいよ!」
……身体が弱い、だと? 朝、俺と一緒に全力疾走してきたヤツが?
「美野里ちゃん、ありがとう」
「いいのよ。はにぃ、男はみんなケダモノだから、気をつけてね。特にアレは突出してケダモノだから!」
と美野里は俺を指さしている。
ちょっと待て。突出してケダモノとか、ひどい言いぐさだな!
「俺のどこがケダモノなんだ!」
「きゃー! 露出狂!」
美野里はわざとらしく顔に手を当て、恥じらっている振りをしている。
それにしても、ひどい。着替えるためにシャツを脱いでいただけじゃないか。上半身裸の状態で露出狂呼ばわりかよ。
「快さん……」
うっとりとした声が横から聞こえた。
「す……すてきです」
待て。
男の裸を見てうれしいのか、ハニワ!
「はにぃ、見ちゃ駄目! 目が腐るわよ!」
ハニワに腐る目なんかない!
ちらりとはにぃを見ると、俺を凝視している。……何度も言うが、こっち見んな。
俺は慌てて体操着を着た。
◇ ◇
今日は外でサッカーだ。
はにぃは美野里が言っていたように見学で、木陰に座ってこちらを見ている。
男子と女子に別れ、さらに半分に別れて、俺たちはサッカーの試合をした。女子はちんたらとやっているようだが、俺たち男子はかなり白熱した試合展開になっていた。ゴール前でのボールの攻防。俺も思わず熱くなり、本気になっていた。
ゴール前でボールの取り合いをしていたチームメイトたち。一人が相手チームの間を上手く抜き、思いっきりボールを蹴った。
「よしっ!」
それはおもしろいくらい飛距離を伸ばして、後方で待つ俺たちの元へと飛んできた。しかしそのボールはありえないほどカーブを描き……。
「危ない!」
あろうことか、見学をしているはにぃに向かって飛んでいっているではないか。
あのボールに一番近いのは、俺。間に合うかどうかはともかく、俺は反射的に走っていた。はにぃに当たったら、あいつは粉々に砕けてしまう。
しかし、どう考えてもボールの速度に俺が追いつくわけがない。
「はにぃ、逃げろ!」
俺の声にはにぃはようやく異変に気がついたようだ。驚いているような表情。突然のことにパニックに陥っているのか、そのまま固まっている。
俺は走りながら考える。
ボールはもう、すぐそこまではにぃに迫っている。
……そうだ!
俺は立ち止まり、靴を片方脱いだ。そして思いっきりそれをボールに向かって投げつける。
靴は美しい弧を描き、ボールの真上に落下した。靴はボールを捕獲したことで力尽きたようで、地面に投げ出された。靴を受けたボールは突然の出来事に地面にバウンドをして、方向を変えて転がった。
ほっとした空気が流れる。
俺は片足を靴下のまま、はにぃに駆け寄る。
「大丈夫か?」
「はい……。わたしは大丈夫です。その、ありがとうございます」
空洞の瞳を俺にまっすぐに向けて、はにぃはお礼の言葉を口にしている。
こっち見んな。照れるじゃないか。
……いや、違う! この心臓の高鳴りは走ったからだ! け、決してこのハニワに心ときめいているなんてこと、ないんだ!
「快さん。血が出ています」
はにぃは靴を履いていない側の俺の足を見て、悲しそうな声音でそう言った。
俺は視線を自分の足に向ける。靴下の先に少しだけ、血がついていた。靴下のまま走ったから、少し皮でもすりむいたのだろう。
「気にするな、痛くもなんともない」
言われなくては気がつかないほどだったので、大したことないだろう。
「でも……」
「本人が大丈夫と言っているのだから、大丈夫だ」
俺の言葉にはにぃはうつむく。
「ごめんなさい……。わたしのせいで、怪我をさせて」
「こんなのは怪我のうちに入らない。それよりも、おまえが怪我しなくてよかったよ」
はにぃは明らかにうろたえた。頬に手をあて、おろおろしている。
「快さんが怪我をするくらいなら、わたしが壊れちゃえばよかったのに」
突然の自虐的な言葉に、俺は思わず怒鳴っていた。
「なにを言っているんだ!」
「わたしはしょせん、身代わりなの」
こいつはなにを言っているのだ。なにが身代わりなんだ。
「はにぃは、はにぃじゃないか!」
俺とはにぃの間に重苦しい空気が流れる。それを打ち破ったのは、はにぃの一言だった。
「……ありがとう」
消え入りそうな声にはにぃなりに怖かったのだろうということに気が付いた。俺はそこまで気が付いてあげられなくて、さらに居心地が悪くなった。
「怒鳴って悪かった。ごめん」
はにぃは俺をじっと見つめている。その視線にいたたまれなくて、俺はボールと靴を回収に向かった。
◇ ◇
授業がすべて終わり、俺とはにぃは一緒に下校していた。なにを話していいのか分からなくて、お互い無言だ。いつもならあっという間の道も、妙に遠くに感じてしまう。なにを話せばいいのか、さっぱりわからない。
気まずさに耐えられなくて走って逃げたくなる衝動と戦っていたら、後ろから賑やかな集団が近づいてきていることに気が付いた。振り返らなくても分かっている、小学生の悪ガキたちだ。いつもなら騒ぎながら横を駆け抜けていくのに、今日は俺たちの後ろで止まった。
「ハニワが歩いてる!」
「ほんとだ、ハニワだ!」
小学生集団ははにぃを見てハニワと叫びだした。それだけでもいらだっていたというのに、
「変なの」
俺はその一言に切れてしまった。
「はにぃを馬鹿にするな!」
悪ガキは相手をするとつけあがるのでいつもは無視をしているのだが、はにぃのことを馬鹿にされ、無性に腹が立ってしまった。
「はにぃだって」
「この人、馬鹿じゃないの? ハニワに名前なんかつけちゃって」
頭に血が上る。
はにぃは確かに見た目はハニワだが、ハニワではないんだ!
俺は朝、起きた直後に動くハニワに驚いていたことをすっかり忘れ、小学生の悪ガキどもにはにぃはハニワではないと怒鳴りつけようと大きく息を吸ったところで、はにぃが横にぶれた。
「はにぃ?」
俺の視界から、真横にいたはずのはにぃが消えた。
一瞬の出来事に驚き、地面を見ると、はにぃは倒れていた。
「はにぃ!」
悪ガキがはにぃを押したようで、突然のできごとに対応しきれなくてバランスを崩してしまったようだ。
「ぼ……ぼく、知らない!」
「おれも!」
「ボクも!」
悪ガキたちは青くなって、そのまま逃げていく。
俺は悪ガキどもをにらみつけながら、しゃがみ込む。
「はにぃ、大丈夫か?」
はにぃに視線を向けて呼びかけるが、返事がない。
「はにぃ?」
はにぃの身体に触れると、思っている以上に固い感触を返してきた。戸惑いつつも揺するが、反応がない。
前触れもなく突然、腕が地面に落ちる。それを合図に、膨らみのあったはにぃの身体はぺしゃりとつぶれ、粉々に崩れ落ちた。制服がふわりと風をはらみ、厚みをなくした。
俺にはなにが起こったのか、さっぱり分からなかった。
先ほどまで隣を歩いていたはにぃが突然、ただの土の塊になってしまった。
「はにぃ……」
その名を呼ぶが、あの特徴的な脳みそに響く声は返ってこない。
別れは突然やってくるんだな……なんて、俺はその時、妙に冷静に思っていた。
◇ ◇
どんなに悲しくったって、人々の上には平等に朝が来る。
昨日の突然の出会いと別れに、俺の心はどうすればいいのか分からずにいた。
俺ははにぃをその場に残し、家へと帰った。それからどうしていたのか、あまり記憶にない。
食欲がないと思いながらも夕食を食べ、お風呂にも入ってぼんやりと宿題をして……眠くはなかったがかなり遅い時間だったので、そのままベッドにもぐりこんだ。
なかなか眠れないと何度も寝返りを打っている間にどうやら俺は、眠りについていたらしい。
「快、ほら起きて!」
そして、いつもと変わらない俺を起こす声に、安堵する。
ああ、昨日の出来事は夢だったのだ、と。
「……はにぃ?」
いや、違う。
はにぃは昨日、土に還ってしまったんだ。これははにぃじゃない。
それでは、俺を揺り起こすこの手と声はだれのものだ?
「なぁに寝ぼけたことを言ってるのよ!」
なじみのある声に俺は重大なことを思い出し、飛び起きた。
「菜々恵っ? おまえ、入院……」
「おはよ、快。もー、なに寝ぼけたことを言ってるの。あたしのどこが病人に見えるのよ!」
俺は目の前に立つ、幼なじみの埴谷菜々恵を見つめた。相変わらず胸のあたりがさみしいが、見覚えのある顔だ。
卵型のきれいな輪郭の顔、意志が強そうな吊り上った眉、大きく見開かれた黒々とした瞳。少しへちゃげてはいるけど、愛嬌のある鼻。赤くて適度なふくらみを持った赤い唇。菜々恵は唇を少し尖らし、俺に向かって指をさしている。
俺の記憶の中にある菜々恵は生まれつき身体が弱くて幼い頃からずっと入退院を繰り返していた。青白い顔をしてベッドに横たわり、ごめんねって泣いていたのは……。
記憶の中と現実の菜々恵のギャップが激しくて、思わずその顔をじっと見つめてしまう。
「はいはい、幼なじみが薄幸の美少女じゃなくて残念でしたっ!」
黒髪をポニーテールにした菜々恵をぽかんと見つめる。
俺が知っている菜々恵はこんな活発な髪形をしていなかった。お下げにするか、髪を背中に垂らしているかのどちらかしか知らない。
それともそれは夢……だったというのか?
「ほら、早く起きないと朝ごはんを食いっぱぐれるし、遅刻もしちゃうよっ」
菜々恵にせき立てられ、俺は言われるがままに着替えを始める。ギャップを埋める手立てを求め、寝起きの頭は必死に回転を始める。
俺の脳裏には走馬灯のように次々とはにぃとの思い出がよみがえってくる。
そういえば、布団にもぐってくるのは菜々恵も一緒だなとか、妙に照れ屋なところも似てるなとか。
体育の授業の時。あいつはそういえばすごく悲しいことを言っていたな。
『わたしはしょせん、身代わりなの』
はにぃのその言葉を思い出した。
「ちょっ、ちょっと快! なにいきなり泣いてるのっ」
菜々恵の指摘に、俺は目に手を当てる。湿っぽい感覚が指先に伝わってくる。
言われて初めて、自分が泣いていることに気が付いた。そして、はにぃの言った言葉の意味を瞬時に理解した。
はにぃ……あいつ、菜々恵の身代わりになって……。
「なんでもねーよ」
俺はぐいっと涙を拭き取り、着替えを再開した。
「着替えたら、早く来てね」
菜々恵は釈然としない表情を浮かべながら、俺にそう伝えると部屋から出て行った。
そっか……あいつ。
はにぃ、ありがとう。
俺は消えてしまったハニワに向かって、心の中で感謝の気持ちを表した。
【おわり】