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ジョギングクラゲ

作者: 徒花

 最近ジョギングを始めた。

 特に運動不足を意識して、というわけではない。ただ、最近読んだ本のなかで「仕事ができる男は運動もできる」とかいうことが書いてあったのを読んで、「なるほど」と思ったのである。

 ここで誤解してほしくないのは、僕が安っぽいビジネス書に書いてあることを鵜呑みにして実行するような単細胞では断じてない、ということである。僕はこれまでも同じような内容が書いてあるビジネス書をそれこそ腐るほど読んできたが、なぜか、このときばかりは「なるほど」と膝を打つようにしてそこに書かれたことが腹に落ちてきたのだ。

 とくに、その本が読む者に強い影響力をもたらすような世界的な名著というわけではない(だろう)。ただ、書いてあることが素直に腹に落ちて実行するに至るまでの年齢に僕が達したというだけなのだと考えられる。

 話がずれたが、とにかく僕は思い立ったら吉日な人間である。さっそくその日のうちに新宿のユニクロでパーカーと短パンを買い、ABCマートでナイキのランニング用シューズを購入して、仕事から帰ってきたあと、午後11時くらいに意気揚々とランニングに乗り出した。

 やはり、というか当然のことだが、高校生のとき以来まともに走っていなかった僕の体は「走る」という単純な運動行為に対してあまりにも脆弱だった。ものの300メートルほど走ったところで僕の向う脛は悲鳴を上げ、走るのが辛くなってきたのである。

 まったくもってなにがジョギングだ――と、僕が早速この愚行を公開し始めたその時、僕は自分のちょっと目の前にクラゲがふよふよと浮かんでいるのに気付いた。

 ゼラチン質の体を揺らしているその姿は、見まがうことなくクラゲである。そのクラゲの存在感は圧倒的なくらいクラゲで、つまり何が言いたいのかと言えば、それ以外の何物にも見えなかったのだ。

 クラゲは薄黄色く光り輝き、僕の走る先をほのかに照らしている(ただし、僕が走っていたのは交通量の多い甲州街道だったので、べつにそんな行燈はまったくもって必要なかったが)。クラゲは僕の走る速度に合わせるようにして、ゆっくりと僕の前を漂い続けた。

 毒針で刺してくるなら困り者だが、見ている限り、そうした危険な行為を及ぼしてくるようなまねはしなさそうである。特に何をするでもなく、クラゲはただふよふよと浮かんでいるだけなので、僕はあまり気にしないで走り続けた。途中から遂に僕の足は限界を迎えてとぼとぼと歩き始めたのだが、すると、やはりクラゲは僕の歩みに合わせてスピードを緩め、とにかく僕の眼前から離れない。それは面妖な光景だった。


 いよいよ走り(歩き)終えた僕は自宅のマンションに帰宅したが、クラゲはというと、さも当たり前のように僕の部屋の中までついてきて、いまも部屋の真ん中あたりで浮かんでいる。すると、クラゲの様子にやにわに変化が現れた。

 クラゲはそのゼラチン質の体をふるふると震わせながら変形し、なんと、女の子の姿に変わったのである。クラゲから女の子に変化する過程は、さながら死体が腐敗していく様子を逆再生しているかのようで、まったくおぞましいというほかないような光景だった。

「よう」

 と、少女になったクラゲは僕に挨拶をしたので、僕も挨拶を返した。

「歩いてたな。途中から」

 それの何が悪い。無理をして走ったら次の日の仕事に差し支える。実際、途中からジョギングはウォーキングに変わったが、僕のすねとふくらはぎはパンパンである。

「だらしないやつ」

 無表情のままクラゲはそのような生意気な口をきいたので、正直僕はムッとした。といっても、僕は普段から温厚で少しくらい他人からバカにされても癇に障って不機嫌になるような人間ではない。ただ、許可を取らないまま勝手に人の部屋に浮かんだ挙句、僕が意を決して始めた新たなるチャレンジに対して無責任かつ軽蔑した発言をする人外の存在に戸惑いをはらんだ苛立ちを感じただけなのである。

 それから、クラゲは部屋が汚いだの洗濯物を取り込めだのポスターのセンスが悪いだの僕の部屋に関する罵詈雑言を次々と吐き続けたが、僕は徹底的に無視することにしてさっさとシャワーを浴び、コンビニで買ってきたカップラーメンを胃の中に流し込んで寝ることにした(歯磨きはシャワーの途中で済ませている)。

 ちなみに、不思議なことだが、僕が寝ようと電気を消すと、それまであーだこーだと文句を垂れ続けていたクラゲは途端に黙り、僕の眠りを妨げることはなかった。


 筋肉痛はしばらく続いたので僕はジョギングを休んでいたが、3日ほど経つとようやく足の調子が元に戻ってきたので2度目のジョギングに出かけた。すると、僕が走り始めるのに合わせてクラゲはクラゲの姿に戻り、またしても僕のちょっと前をふよふよと浮かび始めたのである。

 そして、この時に初めて気づいたのだが、僕と同じようにランニングをしている人の前には僕と同じようにうすぼんやりと光るクラゲが漂っているのである。ただ、僕の正面から走ってきたちょっとベテランっぽいランナーの前を浮かんでいたクラゲは、僕のように薄黄色ではなく青い光を放っていた。まさに、青色LEDみたいな色合いである。あっちのほうがかっこよかった。

 僕は前よりも長い距離を走り続けられるようになり、走った後の疲労や筋肉痛は緩やかになった。季節はちょうど春から夏に移り変わる途中で、真夜中のジョギングにはうってつけの機構だったことも幸いしたのだろう。とにかく、少しでも長く快適に走れるようになったことで、僕のジョギングに対する気持ちはポジティブになっていったのである。同時に、僕はクラゲのいる生活もあまり気にならなくなってきていた。

 そんなある日のことである。

 いつものように僕の部屋で女の子の姿となって漂い、僕の部屋に難癖をつけていたクラゲがいきなり消え始めたのである。それはまさに、死んだクラゲが波にたゆたわれながら溶けていくようだった。女の子は瞳をとじ、安らかな表情でゆっくりと中空に消えていく。僕は紫煙をくゆらせながら、一抹のわびしさを感じつつ、その様子をぼんやりと眺めていた。


 さて、その後、僕の部屋に来訪者があった。

 土曜の昼間、ベッドに寝っころがりながら本を読んでいるとインターホンが鳴ったので玄関に出てみると、スーツを着たビジネスマンが顔面に微笑みを張りつかせながら立っていた。面妖である。

「弊社のゼリーフィッシュ、いかがでしたか?」

 その男の説明によると、しばらく僕に付きまとっていたあのクラゲはこの男が勤める会社が開発した新製品で、ジョギングのログを取ったり話し相手になったりと、QOLの向上を目的としたものらしい。部屋についてひたすらダメ出しを繰り返していたのも、僕の生活の質を向上させるための基本的機能の一部とのことだった。

「まことにぶしつけとは思いながら弊社ではゼリーフィッシュの性能にマッチした方を選別し、無料体験という形でお貸出ししていました。本製品をお気に入りの場合は正式にご購入手続きに進んでいただけます。試供版ではお試しいただけなかった機能が付加されているほか、お客様のお好みに合わせて性能をカスタマイズするとともに、今後も継続的にアップロードも無料で――」

 僕は男のセールスを丁重にお断りした。僕は社会人なので、彼だって本当はこんな土曜日の昼間に一人暮らしの男の部屋まで赴いてこんなことをしたくはないことを重々知っている。

 その後、僕はスーパーで買ってきたキクラゲを肴に酒を飲んだ。

 ちなみに、キクラゲはクラゲという名前がついているものの、キノコの一種である。一般的に日本で食されているキクラゲはいったん乾燥させたものを水で戻したものが多く、コリコリとした独特の触感が特徴的だ。中華料理に使われることが多く、ビタミンDやカルシウム、鉄分や食物繊維などを豊富に含み、栄養価の高い食品である。


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