海の嵐
ここはどこなのだろうか。薄らと目覚めていく意識の片隅でそう思った。
真っ暗の闇。光なんてどこにもない。ここにいるだけで頭がおかしくなりそうだった。なぜなら、その闇を嫌うのだから。それは憎悪ともまで呼べるほどに、強く、強く。
どうしてここにいるのだろうか。長い眠りについていたような気だるい気分が襲った。
自分の中に住まう負の心。どんな人間だろうとそれは必ずしも持っているものだ。けれどその心が大きすぎるほどに成長していたことが悔しかった。自分はそれを抑えることも出来ない人間だったのか。
いや、そうではない。全ては、この闇がいけないのだ。自分は何も間違っていない。
理由をつけて負に傾く自分を正当化する。それがすでに負の連鎖に囚われている者の証であるのかもしれない。
何がいけなかったのか。何が間違っていたのか。それすらも分からない。
けれど、そんな理由はもうどうでもよかった。こうなってしまった原因はきっと一つしかない。
悲しみは妬みへ。妬みは憤りへ。憤りは怒りへ。怒りは恨みへ。だんだんと変化していく感情はこの闇がもたらしているのだろうか。思考がメチャクチャになる自分を抑えきれそうにもなかった。
すると、そこに一筋の光が一瞬現れる。
「光が恋しいのですか?」
けれど、その光はすぐに消えてしまう。
自分に近づいてくる者の顔を凝視した。それはこの闇のなかでもハッキリと分かるほどに。
「お前は……」
「やっと目覚めましたね。さて……少し話でもしましょうか」
その人物は不気味な笑みを浮かべ、目の前に項垂れた小さな存在を見たのだった。
ノルンを出航したフィレーネ号ももうすぐサレッタに着こうとしていた。ダインの自慢の船だけあり、速度も他の船を遥かに凌駕しているのだ。その中で、リュートたちは船内で思い思いに船旅を過ごしていた。
「ダインさん!」
「何だ、坊主?」
船の中をあらかた探索したのだろうか。リュートはダインのいる部屋へ行き、思い切って話しかけた。
「ちょっといいですか?聞きたいことがあって……」
「おう!俺に答えられることなら何でも聞きな!」
「はい!えっと……海の嵐について聞きたいんです」
その言葉を耳にしたダインはまず驚いた。
「海の嵐?何だってそんなことを聞く?」
「前に言ってましたよね。この船でも海の嵐を越えられなかったって」
それはダインにとって苦い思い出でもある。確かにそれは口にしたし、そして同時に海の嵐を越えることが夢だとも口にした。それをリュートが覚えてたことにダインは感心する。
「よく覚えてたな。けど、それがどうしたんだ?」
「海の嵐ってどんなに凄いのかなって思って……。俺も海の嵐を越えてみたいんです!」
当然だがリュートは海の嵐を見たこともない。リュートだけでなく、ほとんどの人たちが見たこともないだろう。それ以前に近づきたいとも思わないはずだ。リュートも例に漏れず、つい最近まではそう思っていた。けれど知ってしまったのだ。海の嵐の向こうに広がる世界を。
「越える、か……。あれは相当なもんだぜ。本当にそこは嵐のようで、近づきたくてもそれが出来なかった。無理に行こうとしたら船が壊れそうになったもんだ。もしかしたら触れればたちまち圧力に耐えられないで死んじまうかもな」
「そんなに…ですか……」
想像以上なようで、リュートはあからさまに落胆の色を見せる。
「まぁな。けど、俺は不可能じゃないと思ってる。絶対にいつかこの船で越えてやるさ」
ダインは決してその夢を諦めることはしなかった。どんなに不可能だと言われても、どんなに馬鹿にされようとも。必ずその夢が叶うことを信じているのだ。
そんなダインの想いがリュートにも伝わってくる。
「そうですよね!俺も、いつか海の嵐の向こうに行ってみせます!知ってますか!?海の嵐の向こうにはここよりも広い世界があるのを!」
「そうだな……。船乗りの間じゃ伝説だ。海の嵐を越えた先にはこのセリアンス大陸と違う大陸があるってな。当然ほとんどのやつが信じちゃいねぇが」
「けど、本当のことなんです!妖精族のやつに聞いたんです!」
「妖精にだと!?おい、その話詳しく教えてくれ!」
「は、はい!」
ダインは心の中が喜びに震えるのを感じた。海の嵐の先にある大陸話など所詮は伝説である。ダインはそれを完全に否定はしていなかったが、信じているわけでもなかった。なぜならそれは結局越えなければ分からないからだ。だからこそダインはまず海の嵐を越えることだけを考えていた。けれどその伝説が真実なのだとしたら、どれだけ嬉しいことだろう。
「俺もそんなに知ってるわけじゃないんですけど……」
リュートはユーラウスに聞いたことをダインにも話す。リュートと同じようにダインもその話に関心を強く示していた。次第に二人の話は盛り上がり、その未知なる世界について話し合っていく。その顔は少年のように輝き、いつまでも忘れないものなのだろう。
時間が経つのもあっという間だった。二人が話している間にフィレーネ号はサレッタに着こうとしていた。
「っと……もう着いちまったか」
短い時間だったがダインには大きな収穫だった。以前よりも、いっそう夢への決意を強くする。
「そうですね……。ありがとうございます、ダインさん」
「気にするな。それにしても妖精か……俺も一度会ってみてぇな」
「きっと大丈夫ですよ!」
リュートの描く未来には人間と妖精との共存がある。帝国との戦いが終われば、きっと少しずつ実現していくだろう。その想いを残して死んでいったリリのためにも、リュートはそれが叶うと信じていた。
「そうだな……。さて、他のやつを呼んでこい。船を付けるぞ!」
「はい!」
サレッタは目の前だ。他のみんなも気づいて甲板へ出ているだろう。リュートもそこへ行くべく小さく走り出す。
「リュート、遅いぞ!」
甲板へ出ると一番にキッドがリュートに気づいた。すでにそこには全員が揃い、船が港に付くのを待っていた。
「悪い。ダインさんと話してたんだ」
周りでは船員たちが船から降りる準備をしている。今ここでリュートに出来ることは何もないだろう。彼らに感謝しながら、リュートは準備が終わるのを待つ。
「気をつけて行けよ」
船も完全に付き、ダインも甲板へとやってきた。
「ありがとな、ダイン」
「気にするな。別にお前のためじゃねぇ」
ヘルムートに軽口を叩きながらダインはリュートたちに一人ずつ視線をやる。
帝国と戦うという彼ら。全員が自分よりも年が下だ。まだ余りにも幼いとさえ思う。出来る限りの力は貸してやりたい。けれど自分が出来るのもきっとここまでなのだろう。
「本当にありがとうございました」
すでに降りる準備は終わったようだ。全員が最後にダインにお礼を述べる。それを小恥ずかしい気持ちで受け止めながら、ダインも最後に挨拶を交わす。
「お前たちなら絶対やり遂げられる。だから、死ぬなよ」
「……はい!」
その言葉に力強く頷き、リュートたちはフィレーネ号から降りてサレッタを発っていった。
レーシャン王国へと入る方法は魔導国家マールと同じように、船で行くか国境を歩いて通るかの二つだ。国境はアルスタール城の真東にあり、当然両国の兵士が駐留し、監視の目も厳しい。それに比べて港町ダルタンから船で行くには監視も柔らかくなっている。リュートたちは必然的にダルタンを目指すことになっていた。
ダルタンは帝国領の南東にあり、サレッタからは直線的に真東の方向だ。そこへ向かうには二つのルートがあり、ユーベルト平原を通って南から迂回していくか、真っ直ぐに東へ向かって険しい山脈地帯を越えていくかだ。かかる時間はやはり山脈地帯を通っていくほうが短い。
最初リュートたちはセクツィアへの報告も兼ねて南から迂回していこうとしたが、いつ帝国がまた動き出すか分からなかったため、一刻も早くレーシャン王国へ辿り着くために山脈地帯を越えていくことを決めた。その道なりは決して容易なものではないと分かっていてもだ。
サレッタを出発し、ほとんど休む間もなく歩き続けるリュートたち。そろそろ問題の山脈地帯へと到達するころだろう。その前に体力を回復させようと六人は一休みしようとする。
「凄そうですね……」
もはや目前に迫る山脈を前に、リュートは感嘆の息を漏らす。
「言っておくけど、デオニス山よりも比べ物にならないわよ」
「そんなぁ……」
正確にはこの山脈地帯にデオニス山も含まれているのだ。リュートは以前通ったデオニス山のことを思い出す。あれだけでも通るのは大変だったはずだ。それが今度は幾つ分かを越えなければならないのだろう。
「まぁ確かにこれは大変そうだよな」
体力に自信のあるヘルムートも、これを見ればさすがにため息を漏らしたくなる。
「そうね……。貴方たちは大丈夫?」
マリーアは山脈を目にし何の言葉も出ないキットとキッドを見た。すると二人は慌てて取り繕うように答える。
「だ、大丈夫ですよ!なぁキット?」
「あ、あぁ……多分な……」
余りにも自信のなさそうな二人の返答にマリーアは思わず笑ってしまう。リュートもつられて同じように笑い、関心のなさそうなヒースに視線を向けた。
「ヒースは大丈夫か?」
「問題ない」
「そ、そっか……」
いつものように素っ気無い返事が返り、リュートは落胆しながらも答える。そんな二人の様子には周りのみんなも笑っていた。
「それじゃ今日は休みましょう。明日からはしばらく辛い山登りになるわよ」
「そうだな」
軽い脅しも交じりながら、マリーアの合図にそれぞれが休み始める。明日からのことで不安になりながら、六人からはいつもよりも早く寝息が聞こえてきた。