印のある民
「もうお発ちになると伺いましたが、せめて夜明けを待たれてはいかがですか? もちろん、わたくしとしましては少しでも早くに長を探していただけるのは嬉しいのですが、もう少し色々とお話ししたかったですわ。異界のお話しもうかがいたかったですのに」
目を潤ませてそう言うユゥシュアに、麻衣は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
こうした姿を見ていると、いかにもイメージ通りの貴族のご令嬢のようにしか見えない。
しかし、見た目に惑わされてはいけないということを、麻衣は既に骨身にしみて理解している。
そう。あの忘れようもないうんざりするような時間。もう一度話したところで、またしてもナルちゃんな自己陶酔演説を延々と拝聴させられるようなイメージしか描けない。
出来れば二度とごめんだ。
これだけ殊勝なことを言っている今でも、麻衣や麻衣の属する世界には毛の筋ほども興味を抱いていないだろう。実際、少し気をつけて聞いていれば相手を気遣う言葉が一切出てこないのはいっそ清々しい程の徹底ぶりだ。
表面上ですら、相手に興味を持たないのって意外と伝わるものなんだなと麻衣はあきれを通り越して関心した。
どういう教育をすればこういう人物ができあがるのかは分からないが、ユゥシュアは確実に彼女の閉じられた狭い世界にしか興味を抱かない。そのことを、彼女は気づいてもいないけれど。
可愛そうな人だ。きっとこの人を本気で守りたいと思う人もまた、ここにはいないのだろう。
麻衣は、ガランとした塔をまるで鳥かごのようだと思った。さしずめユゥシュアはそこに囚われた羽を切られた小鳥だろうか。
その姿形も声も、全てが汚れを知らず美しいほどに哀れだ。
救いなのは、ユゥシュア本人は今もこの先も、自分の境遇を嘆くことはなさそうなことぐらいだろうか。
そんな麻衣の思考を、不意に響いたノックの音が遮った。
「ご歓談中恐れ入ります。入ってもよろしいでしょうか」
「お入りなさい」
思いもよらない第三者の登場に、麻衣と明洋は思わず背後の入り口を振り返った。
時間が時間だけに、ユゥシュアの自室の次の間で話しをしていたので、まさかそこに割って入り、ユゥシュアがそれを許すような人物がいるとは大きな驚きだった。
このワガママお嬢様は、間違いなく自分の邪魔をされるのが一番嫌いなはずだ。こういうタイプは見覚えがあると麻衣は思った。
「わたくしが呼んだのです。大して役に立たないとは思いますが、長の探索の間お二人の身の回りのお世話ぐらいは出来るでしょうから。麻衣様のそのみすぼらしいお召し物も、あの娘が是非にと言って聞かないものですから、身分もわきまえず頭の弱い娘ですがどうぞお許しくださいませ」
深々と頭を下げたユゥシュアに、麻衣は思わず隣の明洋を確認してうんざりした表情を隠そうともしない彼を肘でつついた。
ハッとした様子で表情を引き締めた明洋にこっそりとため息をついて、入室してきた人物を振り返る。
くすんだ金の髪を耳の下辺りで切りそろえた、長身の女性が顔を伏せたまま立っている。その服装は、麻衣と良く似た中世ヨーロッパの狩人のような服装と言えば良いのだろうか。ユゥシュアが中世のお姫様なら、この女性はロビンフッドかウィリアム・テルのようだ。
ふんわりとして可愛らしいのがユゥシュアなら、彼女はキリリとして凛々しいタイプのように見える。
ユゥシュアから麻衣の服装を整えたのが彼女だと聞いた時から思っていたが、この人なら頼りに出来るかもしれないと、麻衣は心の底から安堵した。
「初めてお目に掛かります。ラキアと申します」
目を伏せたまま、流れるような美しいお辞儀をする彼女は麻衣の目には控えめだが芯の強い、自立した女性のように見える。
とてもではないが、ユゥシュアの言うような頭の弱い女性には見えない。
チラリと隣に目を走らせれば、お前がだろうと今にもツッコミを入れたそうな明洋がいた。必死に表情を隠しているが、目が死んでいる。
気を取り直した麻衣は、思わずラキアに対して微笑む。
「どうぞ、顔を上げてください」
何気なく滑り出た言葉に、戸惑いを含んだ沈黙が落ちる。
「異界の巫女姫様がご所望だ、顔を上げよ」
状況に思い至った麻衣が思わず口を押さえたのと、ユゥシュアの不機嫌で厳しい声がピシャリとラキアを打ち据えたのはほぼ同時。
そんな周囲の状況全てがなかったことのように、ラキアは静かに顔を上げた。
深い緑の瞳が、まっすぐに麻衣を見つめる。その視線に、麻衣は思わず姿勢を正した。
澄んだ美しい瞳は麻衣をしばらく見つめた後、満足したのか僅かに光が和らぎ、細められる。
そのままラキアの視線は麻衣の隣、明洋に移り、視線だけでどんなやりとりをしたのか、二人は無言で頷き交わした。
「ラキアと申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
誰に促される訳でもなく、再び深々と頭を下げたラキアの態度には先ほどの事務的なやりとりとは明らかに違う雰囲気があって、どことなく敬意のこもったもののように感じられて思わず下がりそうになる頭を、麻衣は必死にまっすぐ保っていた。
まさに、日本人の性というものだ。頭を下げられると、反射的に自分も下げたくなる。
「この世界のことは何も分からないので、色々と教えて……」
「麻衣様、この娘にそのように畏まった態度を取られる必要はございません。この娘は確かに今この塔にいる者の中では多少は使える者の部類には入りますが、所詮は印持ちですから」
にっこり微笑んで話し掛けた麻衣の言葉を遮り、ユゥシュアはラキアに対する侮蔑をあらわにした態度で言い捨てる。
流石にムッとした麻衣が黙り込むと、すかさず明洋が話しに加わる。
「風の竜族の姫君、どうかお教え願いたいのですが、その印持ちとはどのような存在なのでしょうか?」
「ああ。力が弱く風の竜族の一員として力不足な者が、力の強い者と隷属契約を結ぶ代わりに足りない分の力を主となった者が補う、本来なら使い物にならない半端者を活用するための方法だ。長所としては消耗しても替えがきくことと、主の意向に忠実で決して逆らわぬことだな。まぁ、その娘は私ではなく長の印持ちだが、長が出立される折にわたくしに仕えるよう言い含められたということだ」
説明を聞く明洋の目が、底光りするような絶対零度の冷たさで得意げに語るユゥシュアを見ている。
麻衣は、そんな明洋の横顔を見上げながら自分がユゥシュアに対する嫌悪感を我慢出来るうちにこの場を去りたいと真剣に思った。
どう見ても優秀そうなラキアは間違いなく、何らかの事情で塔を離れざるを得なくなった風の竜族の長が、ユゥシュアのお目付役として、あるいはいざという時にユゥシュアの行動に自分の意思を反映させるために大切な右腕として置いていったに違いなさそうだ。
何だかんだ言いながらもこの大事な役目に彼女を送り出そうとするのは、ユゥシュア自身も彼女の優秀さに少なからず助けられてきた結果だろうと麻衣は思った。
それを、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがこうも悪し様に言うとは。
「ありがとうございます。無知な私に丁寧なご説明、痛み入ります」
「構わぬ。何なりと聴くが良い」
言葉にとげを生やしてふんだんに嫌みを振りかけたような声音で、恭しそうな態度と共に毒を吐く明洋に心の中で力の限り賞賛を送りながら、麻衣はまんざらでもない様子で笑うユゥシュアを見た。
「ありがとうございます。ですが、何分先を急ぎますので、そのお言葉のみいただきます」
「ユゥシュア様、あなたのことは決して忘れません」
深々と頭を下げて、麻衣はもう会わなくても澄むようにと心の底から祈った。
「寂しくなりますわ」
そっと涙してみせるユゥシュアを冷めた目で眺めて、麻衣はラキアに視線を転じる。
「案内をお願いします」
「かしこまりました」
言葉少なに礼を取るラキアを促して、麻衣は風の塔を後にする。
きっと涙を拭きながら手を振っているであろうユゥシュアを振り返らずに。