風の竜族の姫
夢にうなされて夜半に目を覚ました麻衣は、窓の外に掛かる月を見ようと鎧戸を開けた。
「ガラスかぁ。結界とか、魔法とかじゃなくてこういう技術もあるんだ。意外……」
手を当てていると温かくなってくるガラスのなめらかな手触りは、不思議と心を落ち着かせてくれる。
歪んで波打ったガラスを通して、僅かに揺らいで見える夜空は水面に映った景色のようで遠いのか近いのか、現実か夢の続きか分からなくなる。
ふわふわと、足下が頼りないのは夢の名残だろうか。窓脇の壁にもたれて、空を見上げる。
月は地球の月よりも幾分大きく、黄色いようだ。そして、ネオンのない世界の闇は深く、月は極上の蜜のようなトロリとした光を放って闇の中でひときわ煌々と輝いている。
手を伸ばしても届かない光。つかめそうでつかめない。遠ざかるものをたぐり寄せるように、麻衣は伸ばした手を握りしめた。
思い出すだけで頭痛がしてくるようなユウシュアとのやりとりのせいで、思い出せないがどうやら夢見は最悪らしい。頬に乾いた涙の跡まであり、どこかで顔を洗いたい気分だ。
アクティスとのやりとりの後、どうにか気持ちを落ち着けた麻衣に服を着付けて、侍女の女性は塔を延々上った先にあった、賓客をもてなすために作られたらしい豪華な作りの部屋に麻衣と明洋を通した。
その時にユゥシュアとはまた明洋をどうするかで一悶着あったが、麻衣が何とか自分の意見を押し通して麻衣の横、下座に当たる場所に座らせることで話しがまとまった。
「では、その明洋と申す者は麻衣様の護衛でも従者でもなく、恩人ということなのですか?」
「そうですね、私を助けてくれた恩人でこの世界の歩き方を教えてくれる先生というところでしょうか」
「俺はそんな大層なもんじゃない。ただの護衛だ」
やっとユゥシュアに話しを聞いてもらうことが出来、麻衣の望む方に話しがまとまりそうになったのに、今度は当の明洋が話しを混ぜっ返す。
明洋の言葉に、麻衣は冗談じゃないとばかりに目をむいた。
「明洋さん、何を…分かってるんですか? 私が何のために言っていると!」
「俺は、大丈夫だ。君に守ってもらわなくても、必要があれば自分で道を開くことぐらいは出来る。今はこれで」
「わたくしを無視して話されるのは不愉快です」
主菜に出てきた鳥の骨付き肉をナイフで切り裂きながら、ユゥシュアが静かに呟く。
言葉を切られた明洋は、気にした風もなくスッと席を立ちその場で深々とお辞儀をした。
「女性同士の歓談に私が交じるのも無粋。申し訳ございませんが、私は席を外させていただきます」
何か言い掛けた麻衣に視線を向けて反論を封じ、明洋は驚くほど素早く部屋から出て行く。
明洋にも、きっと何か理由があるのだろう。
麻衣はユゥシュアに視線を向け、ため息を飲み込んだ。
この姫のおしゃべりから逃げるために出て行ったのだとしたら、後で姫に拘束されたのと同じ時間だけ苦情を言わなければと、麻衣は思った。
「明洋でしたか、あの者もそれなりに気が利くところがあるではありませんか」
「そうでしょうか?」
「ええ、私が麻衣様と話したいということを察したのでしょう。この塔は風の竜族の長が住まう地。この地に何かあれば、世界中に散った同胞がいっせいに動く手はずになっています。それを軽んじてここに押し入ろうという輩はおりませんもの」
ああ、だからか。麻衣はそう思った。
長が不在の風の塔で一番安全な場所は、長の代理となっているユゥシュアの傍ら。明洋はその一番安全な場所に麻衣を残して、自分は情報を得るために気を利かせたふりをして席を外した。
「それに麻衣様はわたくしたちにとっては大切なお客人です。わたくしたちの威信にかけてあなた様のことはお守り致しますわ。それに、粗相がないようにいつでも目を光らせておりますのでご安心くださいませ」
にっこり笑うユゥシュアに、麻衣は苦笑した。
「ありがとうございます。とても心強いです」
麻衣は、明洋が頑なに自分を重んじる必要はないと強調した意味が分かった気がした。
これでは身動きが取れないということなのだろう。
この世界について何も知らない麻衣と、この世界については知っていても今の細かい状況が分からない明洋もといアクティス。
今は切実に情報が欲しい。
「ところで、風の竜の長はどのようなお姿をされているのでしょうか?」
「艶やかな金の髪に鮮やかな緑の瞳、あれほど美しい殿方は見たことがございませんわ。わたくしたちはその容姿の美しさで力の程も測れると言われているのです。その中でも抜きん出てわたくしと長は美しいと言われているのですわ。正に似合いの2人と麻衣様も思われますでしょう?」
無邪気に、陶然として語るユゥシュアに麻衣は苦笑しつつ同意することしか出来ない。
「長も、わたくしが生まれたことによりようやく伴侶として釣り合いの取れる力を持つ者が現れ、大変喜ばれたと幼い頃から繰り返し聞かされて育ちましたもの。何か危険な役目を今も担われているので今もわたくしを遠ざけておいでなのです。ですからわたくしは必ず長を探し出して、そのようなご心配は無用、わたくしもご一緒しますとお伝えしなければならないのですわ」
1人で盛り上がり、力一杯決意を述べるユゥシュアは人によってはこれ以上ないほど可憐で可愛らしい恋する乙女に見えるだろう。
実際間違いなく、そうなのだろう。もし仮に、風の竜族の長がユゥシュアのことを大切な存在だと思っているのだとしたら、これだけ一途に思われれば可愛くて仕方がないということもあるかもしれない。
でも麻衣は、ここまで思い込みの激しい上に人の話を聞かないユゥシュアを婚約者にしなければならない風の竜族の長に同情を覚えた。
「長はわたくしを子供扱いなさって、少しも相手にしてくださらないのですわ。危ないからと仰ってご自身が戦いに赴かれる時に連れて行ってもくださらないのですもの。騎士のリュチカも非力なのにご自分の目の届く場所に必ず置くほどに徴用されていますのに」
「ええと、ユゥシュア様。ユゥシュア様は、傷の手当てやお料理、ご自分の身を守ることは出来ますか?」
「それは、護衛の騎士や侍女のすることですわ。なぜそんなことをお聞きになるの?」
麻衣の問い掛けにきょとんとして不思議そうに答えるユゥシュアに、麻衣は頭痛がする思いだった。
この世界における戦闘がどんなものかは知らないが、間違いなくそこは自分で身を守ることも出来ず、自分の身の回りの世話も他人任せ、土や汗、ましてや誰かの血にまみれることなど思いもよらないお姫様が付いて行ける場所ではないはずだ。
麻衣は込み上げてくる苛立ちを必死に押さえながら、顔中の筋肉を総動員して何とか笑顔を作った。
「まずは長を立派に補佐出来ることを証明されてはどうですか?」
「そうするには、まずは長ご本人がいらっしゃらなくてはどうにもなりませんわ!」
「そ、それもそうですね」
再び自分の世界に入ってしまったユゥシュアに、麻衣はため息をついた。
どうやらあまり話しが通じるタイプではなさそうだ。
その後、ユゥシュアの好きな服や料理の話し、果てはユゥシュア自身の可愛いエピソードまで聞かされ、料理の味は分からなかったものの別の意味でお腹が一杯になった麻衣だった。
「結局あの後2時間拘束されたんだよね。その割には、ほとんど役に立つような話し聞けなかったなぁ。ユゥシュアの「自分可愛い!」アピールが強過ぎて。あれはある意味才能かも」
「あまり悪口を言うなよ。聞かれてる」
「あ、明洋さん。何で入って来てるんですか? それに、聞かれてるって何です?」
麻衣は後ろを振り向き、次の間との間の扉に明洋の姿を見つけて驚いた。
いつからそこにいたのか、腕を組み扉にもたれかかった明洋は声を潜めて麻衣に注意を促す。
「うなされているような気配がしたからな、それで来た。その分なら大丈夫そうだな。…聞かれるというのは、そのままの意味だ。ここの壁には遠耳の術式、つまり俺たちの世界で言う盗聴器のような術式が仕掛けられている。今は俺が無効化しているが、風の竜族相手じゃ長く持たない」
「そんな…じゃあ、昨日のアクティスの話しもですか?」
「あれもアクティスが対策しているから聞かれていない。だが、それが不信感を呼び起こしたみたいでな。今日餌代わりにうろついてみたら向こうから食い付いてきた」
小さくため息をつくと、明洋は麻衣に歩み寄る。
「どうやらもう、長は300年は不在らしい。表面上は平静だが、この塔は既に半分以上遺棄されているようなものだということだ。だから」
「早々に、出て行かなければならないんですね」
「ああ」
「分かりました、準備をします」
表情を引き締めて頷いた麻衣に、明洋は表情を曇らせる。
「まさか、こんな状態とは思っていなかった。俺が思っていたよりも、状況はずっと悪いのかもしれない」
「それでも私、大丈夫です。傷の手当ても、屋外でのお料理経験も、戦うことも出来ませんけど、覚悟だけは出来ています。…たぶん」
「そうか」
胸を張った麻衣に、明洋もようやく笑みを浮かべた。
「俺は一足先に、風の竜族の姫君にご挨拶をして来る。急ぎ長を探しに発つと」
「私もなるべく早く行きます」
「ああ。そこの衣装箪笥に新しい服が用意されているはずだ。それを着ると良い」
「わかりました」
明洋を見送って、麻衣は箪笥を開ける。
ハンガーのような作りの木製の衣装掛けに掛けられた服は、くすんだ緑色に染め上げられた筒型の袖とズボンの端を、紐でくくってぴったりと止める形の実用重視の服だった。
「これに革の編み上げ靴って、ファンタジーな狩人さん一直線かも。これで弓を背負っていたら完璧にコスプレかも」
思わず笑いを漏らして、やや厚みのある布地の肌触りを確かめる。
素材としては、木綿の厚地の服といった印象だろうか。布の目も詰んでいて多少の枝葉ならば防げそうな丈夫な作りになっている。
誰が選んでくれたのかは分からないが、これを選んでくれた人は必要なものをきちんと知っている人のようだ。
「知らなければ、知らなければいけない。出来なければ、出来るようにならなければいけない。存在していれば良い、存在しているだけで尊い存在なんてどこにもいないんだよ」
ぽつりと呟いて、麻衣は着替え終わった夜着をたたみ、長い髪をまとめ上げた。
「私は、無力なお姫様でいたくなんかない。だから、行くよ」
麻衣は、開けられたままの鎧戸を振り向く。梢の向こうに消えた月を祈るように見つめると、麻衣は明洋の後を追うために身をひるがえした。