世界の現実
「それは、いわゆる憑依とか、乗り移ったりしているということですか?」
眉を寄せ、難しい顔をした麻衣が問い掛けると、アクティスと名乗った人物は余裕を崩さない穏やかな笑顔のまま、答える。
「状態としてはそれに近いですが、明洋にも了承を得ていることですから、あなたの心配なさるようなことは何もないのですよ」
全てを説明する気がないのは、明洋もこの人も一緒のようだと、麻衣は思った。
麻衣の表情が晴れないことに気づいたのだろう。アクティスは柔和な笑みを浮かべたまま、再び口を開く。
「そう言ったところで、あなたは易々と信じてはくださらない方のようだ」
「ええ、そうですね」
うなずいた麻衣に目を細めて、アクティスもうなずく。
「私をお疑いになると?」
アクティスの言葉に胸の内で小さく、違う、という声が上がるのを麻衣は不思議な気持ちで聞いた。
思わず胸元を押さえた麻衣の仕草に目を止めて、アクティスはわずかに唇の端を持ち上げた。
「ええ、分かっております。姫は決して私をお疑いにはならない。麻衣様、あなたが明洋をお疑いにならないように」
アクティスの言葉に、今度は微かな安堵感が広がる。
それは、自分の感情ではない感覚が入り込んで来るような違和感。
でも不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ一人ではないことに安心感さえ感じるような、そんな優しい感覚に麻衣は満たされていた。
「麻衣様、今エセルメリア姫の魂はあなたと重なっている状態です。ですから、その感情はあなたのものではありません。もちろん、あなたと私の間には今までもこれからも特別な感情、特別な関係は成り立ち得ないと私は考えています」
あらかじめ用意しておいた台詞を話すように一気にそこまで言い切ったアクティスの勢いに押される形で、麻衣は良く分からないままうなずいた。
「あなたには、私共を 責め、なじり、害する権利があります。ですが私は、今は全てを飲み込んであなたにこの手を取っていただきたい」
スッと差し出された手を、麻衣は見る。その手は、昨日から今日に掛けての混乱の中で、麻衣を守り抜いてくれた手だ。なぜ、何から守られているのかも知らない。それでも命懸けで守ってくれたことだけは知っている。
そんな義理はないと突っぱねることはとても簡単だ。恐らく、そうしても明洋もアクティスも責めないだろうと思う。
ただ、アクティスは決して引き下がらないだろう。じっと逸らされることのない視線には、拒否できない強さがある。
それは覚悟を決めた人の眼差しだった。
焦り、不安、恐怖。全てを抑え込んで、守りたいと望む者の目。
「私も姫も、国の争乱に巻き込まれ拘束された際に魂のみ異界に逃れ、今のこの状況があります」
自分をまっすぐに見つめ、痛いほど真摯な口調で語り掛けてくるアクティスの雰囲気に飲まれそうになる。
全てを掛けて生きよう、守ろうとする人の迫力に、麻衣は言葉を発せずにいた。
「責任が、あるのです。全ての民、全ての命あるものに対する責任が」
大きくて重たいものを背負う姫とは、どんな人なのだろう。
不意に麻衣は、大伯母の言葉を思い出した。
『鏡には、不思議な服を着たそれは美しい乙女が映ると言われているのよ。その乙女は、その鏡から来た異界の姫だと言われているわ』
相手の意識が自分から逸れたと感じ取ったらしいアクティスが、器用に片眉を上げる。
「何か?」
「大伯母から聞いた古い伝承を思い出して……」
「ほぅ。それはどういったお話なのですか」
「……鏡から来た姫、という言い伝えなんです」
「そのように伝わっているのですか」
伝承という言葉が出た途端に、どこか作り物めいたアクティスの表情が生き生きとしたものに変わり、彼は興味深げに身を乗り出した。
どうやらこの人も、明洋と同じように何かにのめり込むタイプの人間らしい。そのつもりになって見てみれば、いかにもカビ臭い本に埋もれた生活が似合いそうな雰囲気がするような気がしないでもない。
意外とこの人も、普段は研究しか頭にない学者なのかもしれない。
麻衣は思わず苦笑を浮かべた。
そんな麻衣の表情に気づいたアクティスは、決まり悪そうにひとつ咳払いをして言葉を接いだ。
「私はともかく、明洋は信頼に足る男です。今、この世界は争いに揺れている。誰を信じ誰に命を預けるかはご自分でお決めになるべきではありますが、一つはっきり申し上げられるのは、明洋はあなたを裏切らないだろうということです」
曇りのない自信に満ちた笑顔。
恐らく明洋が決してしない笑顔を浮かべて言い切るアクティスに、きっと本人もそういう笑顔が似合う好青年なんだろうと思った。
要するに、それはとても魅力的な表情だった。状況も忘れて思わず見惚れるぐらいには。
「え…えと、どうして言い切れるんですか?」
ギャップのせいだと自分に言い訳をして、うっかり赤くなったであろう頬を意識しながら麻衣はようやくそう言い返した。
「明洋はそうあるように私と約定を設けているからです。こちら風に言えば、“契約”を交わしているからです」
「契約、ですか?」
「ええ。あなたも既に交わしています。明洋の機転で大事にならず、私も安堵しました」
聞き覚えのある言葉に、記憶を探ってハッとする。
「ユゥシュアのお願い……?」
「あの場合、お願いというような可愛らしい代物でもなかったのですが、ね」
「どういうことですか?」
怪訝そうに眉をひそめる麻衣に、アクティスは静かにひとつうなずいて言葉を重ねる。
「風の竜族の姫君の“お願い”は風の竜族の長を見つけ出し、可能ならば風の竜族の姫君の元に連れ戻して欲しいということで、対価としてはあなたと明洋の身の安全と最大限の支援、賓客としての身分の保証を一族の者に限って守らせるということです」
「十分な内容じゃないんですか?」
「では、そもそも風の竜族の長はどこにいるのですか? ここからその場所に至るまでの危険はどのように回避すれば良いのですか? あなたは戦う術を持たない非力な女性で、明洋もまたあなたを守りながら宛もなく誰かを探してこの地を彷徨えるほどの腕はない。何者かに襲われた時に都合良く風の竜族が居合わせる可能性など、砂粒ほどもないでしょう。正にあの契約は風の竜族の姫君には損がなく、我々には多大な危険が伴うものなのです」
落ち着いた穏やかな口調で、ご自分の状況がお分かりですかと問うアクティスに、麻衣はとっさに何か言い返そうと口を開き、感情を言葉に出来ずに口を閉じる。
少なからず浮き立っていた気持ちが、針を刺された風船のように急速に萎んでいく。
うなだれて靴の先を見ていたら意味もなく涙が込み上げてきて、麻衣はそっと目を覆った。
「分かってる。私は何も知らない子供でしかないって。でも、あなただけが頼りだって言われたらどうにかしたいって思ったらいけないんですか?」
アクティスの言葉はきっと正論なんだろう。
麻衣も明洋も、アクティスにしてみれば自分の身を守ることも覚束ない頼りない存在でしかないのかもしれない。
だけど、求められたら応えたくなる。必要とされたいと心が叫んでいる。
この焼けつくかのような激しい痛みを誰かに理解してもらうのは無理だと、麻衣はとっくに知っていたけれど、それでも一度溢れ出した感情は止まらない。
不安、不満、不審。一度渦巻き始めた感情は大きなうねりになって麻衣の理性を押し流す。
完全な八つ当たりだと分かっている。
でも、今更止められない。
「何もかも分かったような顔をして、私の気持ちを否定しないで!」
思わず声を荒げた麻衣に対して、アクティスはどこまでも冷静な表情を崩さない。
「それは、一体どなたに言いたい言葉なんですか?」
何もかも見透かしたようなアクティスの言葉に、麻衣は青ざめ、よろめいて背後の洋箪笥に背を預ける。
「失礼しました。明洋が怒っているので、私はそろそろ引っ込むことにしましょう」
おどけた調子で呟いて、ゆったりと流れるような動作で礼をする。
「麻衣様。どうか私共に、ご助力ください」
麻衣が決して断らないことを確信しているアクティスの態度に、更に心が抉られる心地がする。
ズルズルと座り込んだ麻衣は、向き合っていた相手が背を向けて部屋を出て行こうとするのに気づいて顔を上げた。
その視線に気づいたらしい相手が、出て行きかけた姿勢のまま視線を向ける。
「着替えに手がいるだろう、呼んで来る」
返事を待たずに出て行ったその一見ぶっきらぼうなように見える相手の心遣いに、麻衣は心から感謝した。
下手に明洋に傍にいられたら、泣けないから。
「ありがとう、明洋さん」
明洋がゆっくりと侍女を連れて戻ってくるまで、麻衣は静かに声を殺して泣いた。