風の塔
空がとっぷりと暮れて星が瞬き出す頃、麻衣と明洋はようやく風の塔を見上げていた。
不思議な形にねじれたザラザラとした質感の壁は、土壁と雰囲気が似ている。
天辺の良くわからない塔の先っぽを探しながら、まるで巨大な蟻塚のようだと麻衣は思った。
何かの探求心が刺激されたのか、明洋はしきりに壁を触っては、強度がどうのとか質感がとか、色が云々と呟いている。
目を輝かせてただの土壁を触りまくる青年、という構図は良く見れば熱心な研究者、悪く見ればオタクのようにしか見えない。
何というか、十人中九人までが残念な人認定しそうだ。
現在の麻衣にとっては、残念な人というよりはイラッとする人だったが。
「明洋さん、急ぐんじゃないんですか? そこで時間を取ってる余裕があるんだったら、私は何か食べたいんですけど」
口調が自然と不機嫌になる麻衣に明洋は我に返り、気まずそうに襟足の辺りを掻いている。
「悪かった……って、昼にも言ったのにな。悪気はないんだ」
「そんなこと言って、本当は馬鹿にしてるんじゃないんですか? わがままで五月蝿い子供だと思ってるんでしょ」
うんざりと呟きながら眉間に皺を寄せ、への字を通り越してUを逆にしたような形に麻衣は口を歪め、顎に力を入れた。
元の造作が悪くないだけに、何とも落差の激しい不満顔が出来上がる。
空腹と足の痛みと疲労が一体となって、麻衣の不機嫌に拍車を掛け、明洋も麻衣の表情を目にした途端に顔をしかめた。
「信用がないことに関してご不満でしたら、今度こそ私もうっかり手が滑って不満を文字通りぶつけてしまうかもしれませんが、何か言うことがあったりしますか?」
一気に言い切った麻衣に、明洋は口を引き結ぶ。
文字通り閉口している明洋に、麻衣は勝ち誇った様子で笑みを浮かべた。
「何か言いたいことでも?」
「いや……何もない」
苦虫を十匹ぐらい噛み潰していそうな苦々しい声が吐き出されて、麻衣は満足そうに微笑んだ。
「あなただけが頼りなのに、二度も忘れたんですから文句の10や20聞くべきだと思ってもらえたみたいで嬉しいです。ちなみに違うとか言われたら、今度は急に足を振り上げる運動をしたくなりそうですが、私はそういう動きに慣れていないのでうっかりまずい場所に強く当たるかもしれませんけどね」
ニコニコと満面の笑顔になった麻衣に、疲れきったように明洋は項垂れる。
「悪かった。本当に、心から反省している。俺が悪かった……次はない、と思う」
少し情けない表情を作って約束する明洋に、麻衣は悪戯が成功した子供のような笑みを浮かべた。
和やかな雰囲気が流れ始めていた二人の傍に、音もなく歩み寄って来る人を見つけて明洋の表情が、再び険しくなる。
麻衣の肩に手を掛けてやや強引に自分の背後に押しやると、明洋は数歩分の距離を残して立ち止まったその人と相対した。
「異邦の方々、ようこそ居らせられませ。風の長の代理、シルヴァリのユゥシュアが謹んで参上致しました。我らが一族は御身を損なわず、その名誉と誇りを汚すことを良しとせず、恙無くご使命を全うされることをお助けするとここに誓約致します」
一息にそう告げると、その場にひざまずく女性に麻衣は言葉を失って呆然とその光景を見守っていた。
その人は春の陽射しそのもののようだった。
少し淡めの金の髪は光を含んで緩やかに波打ち、麻衣たちが着ているのと良く似た若草色の長い上着には優しい色の花模様の縁飾りが刺してある。
大理石のような白い肌は見るからに滑らかで、染みひとつなかった。
たぶんお姫様なんだろうと麻衣は思った。
金色の長いまつげに縁取られた瞳はエメラルドグリーンに良く似た深みのある緑。
不安そうにその瞳が揺れて、麻衣を見上げていた。
「どうか、我らの長を探し出してください。そして、願わくばこの地にお戻しください」
ユゥシュアの懇願に、麻衣の表情が揺れる。
それを見越したかのように、明洋がユゥシュアの視界から麻衣を隠した。
「この者はこちらの慣習に不馴れな故、私が口を挟むことをご容赦願いたい。風の竜族の姫君、その要請は麻衣に対してですか、エセルメリア姫に対してですか」
明洋の問いに、ユゥシュアは重さを感じさせない仕草で立ち上がると、軽やかな笑い声を立てた。
「成る程、青の姫は良い騎士をお持ちと見える。如何にも、この要請は異界の巫女姫に対してのもの。一度この要請を受ければ我との契約は成り、何人も破ることは叶わぬ。それ故、可能ならばと我も言っておるのだ。この条件に汝らの損となる要素などあるまい」
打って変わって尊大な口調になったユゥシュアに、麻衣は目を見開く。
身分が高いらしいユゥシュアがひざまずいたのにも驚いたが、さっきまでの懇願する様子とはまるで違う堂々とした物言いに、困惑を隠せない。
じっと伺うように明洋の背中を見ていると、明洋が振り向いて物問いたげな視線を向けてくる。
「麻衣、受けるも受けないも君の自由だ。俺は損はないと思う」
「えっ、私が頼まれてるんですか?」
「ああ。間違いない」
渋い表情をする明洋に不安げな視線を向けて、麻衣は考え込む。
明洋を見上げれば、真剣な思いがけない強い視線が返って来る。
状況は、はっきり言って良くわからない。でも、困っている人を放っておくのも麻衣の性に合わない。
「たぶん簡単なことじゃないんですよね?」
「君さえ腹をくくって掛かれば、意外と難しくないのかもしれない。恐らく、俺たちの件には関わってくる相手で間違いない」
「じゃあ、問題ないじゃないですか」
麻衣の言葉に、明洋は何か言いたそうにじっと麻衣を見つめ返していた。
ややしばらく何か葛藤していたらしい間の後、明洋は重々しくうなずいた。
「わかった。そのことに関しては、俺は何も言わない」
スッと身を引いた明洋の向こうでユゥシュアが安堵の表情を浮かべる。
「では、お受けいただけるのですね?」
「はい、どこまでお役に立てるかはわかりませんが」
思わず微笑んだ私に、明洋が表情を曇らせる。
そして、何かを決意した様子で背筋を伸ばした。
「どうぞ、塔の中へ。あなたは今からわたくしたちの客人の扱いになりますので」
サッとユゥシュアに手を取られて風の塔の中へと導かれながら、私は今更のように明洋の横顔を見上げていた。