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世界はまるで泡(うたかた)のように  作者: 深海聡
第三章 流転する世界

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役割と望みと願いと

 繰り返し呼ばれる名が聞こえる。

 囚われ、縛られたままの体を引っ張るような強い力ではなく、そっと触れて存在を確認するような弱く小さな声。

 遠慮がちに呼ぶその声が、アクティスはずっと好ましいと思っていた。

 呼ばれる度、泣きたくなる。

 大切で、切ないほどに心の奥底を震わせる響き。


「ひめさま」


 あの日も、この身を盾にしてこの世界から逃がした。

 裏切られ、敵と味方が入り乱れ、様々な思惑が絡み合った場から逃さねば、あの方の身も心も砕けて崩れてしまいそうだったから。

 半ば以上強引に世界に穴を穿ち、あの方を押し込んだ。

 そういうやり方でしか守れないほど、切羽詰まっていた。

 全ては想定外だった。

 あの時は誰もが今よりも未熟で、他の方法を探す余裕がないほどに追い詰められていた。

 だから行先も分からない場所に、後先考えずに放り込むしかなかった。

 何とか追っ手を撒いて、穿った穴の中に身を投じたところで力尽きたアクティスは、エセルメリアをすぐには追い掛けることが出来ずに長い眠りについた。

 ようやく目覚めた時には長い年月の経過と共に姫の痕跡は消え、探して探して、明洋の協力を得られたことでようやく探し当てて、その目覚めを待ち焦がれた。

 胸を焦がす感情に、あの頃は名前を付けることをためらったけれど。

 もうこの心を偽ることも、無視することも出来ない。

 今も遠く離れ、隔てられても大地に満ちる力を感じる。

 エセルメリアの祈りを、紡がれる力の流れを、大地を潤す願いを感じる。

 この感覚は術者にしか分からないだろう。

 触れるだけで自分自身の存在の全てに、歓喜が染み込んで来る。

 一度手放したことでより一層強く感じる、存在の根源を揺さぶる歓喜だ。


「……アクティス」


 目を開ければ、深い闇の中でこちらを見つめる人物に呼び掛けられる。

 懐かしい声に、アクティスは無言で声のする方を見つめ返した。


「予定が、狂った。お前にはしばしここに留まってもらう」


 感情を交えない無慈悲な宣告と、自身を取り巻く力の波動にアクティスは心の中でため息をついた。

 本来ならば、この場に縛り付ける術式を全力で打ち払ってでもエセルメリアの元へ戻らなければならない。

 しかし、無理を重ねてエセルメリアが受けるはずのひずみを受け続けたアクティスの状態は、この場を離れることが難しいほどに深刻だった。


「エスティオーラ様は、この事態をいかに見ている?」


 アクティスは眉を寄せ、闇の中に佇むその人物を強い視線で見つめた。


「私がいない間に、一体何があった?」


 起き上がることすらままならない状態で、アクティスは強く唇をかみしめた。


「アーティ、なぜ、このような事を?」


「なぜ? なぜと、お前は問うのか?」


 アクティスの問いに、男の声が震える。

 鋭く息を吸ったのは、どちらだったのか。

 闇の中に、それよりも重苦しい沈黙が落ちる。


「……他に方法があれば、私とて、こんな」


 男の言葉が、悔しげな、忌々し気な響きを帯びて途切れる。

 再び落ちた沈黙を、またしても男が破る。


「この激流を、止められる者などおらぬ。止められるものならば、疾うに私が止めていた。それでも、あの方は力を尽くされたのだ。それを否定などさせぬ」


 零れ落ちた言葉は苦渋に満ちて苦く、その響きにアクティスは合わせていた視線を逸らし、目を閉じて息を吐いた。


「もう、全ては定まった後なのだ。あの時に、我が君は全てを定められてしまった。もう覆せぬ。お前も知っているだろう?」


「ああ」


「ただ、少しだけ時が必要なのだ。僅かの時を、あの方は欲した」


 闇の中にあっても、アクティスには男の表情が手に取るように分かった。

 何も見えなくても、その声色からありありと感じ取ることが出来た。

 だからアクティスは目を閉じたまま、じっと男の言葉を聴いていた。


「私を姫様から奪えば、その時間を作り出せるとでも?」


「お前を奪われればあの巫女姫のことだ、大きな行動など起こすまい」


 男の言葉に、アクティスの唇が笑みの形を描く。


「アーティ、全ては移ろい行き、誰もが変容していくものだ。時の流れは全ての者に平等であり、それは誰しもに否が応なく変化をもたらす。果たして、姫様が大人しく待つかな?」


 術式が施された祭壇に横たわったまま、アクティスは低く笑い声を立てた。


「あの方は、私の想定の上をいくよ。軽やかにしなやかに想定なんてものを飛び越えて、己の欲するものを掴み取るだろう。だって、あの方はもう昔のあの方ではないのだから」


 歌うように楽しむように言って、アクティスはその目をふと陰らせた。


「今があの時の続きだったなら、もっと多くのものを選び取れていたのにと思わずにはいられない」


「間違いなく今はあの時の続きだが、今更何が変わると言うのだ?」


「そうだね。確かに続きだけど、そうじゃない。……いや、今更だな。確かに」


 言い掛けた言葉を飲み込んで、アクティスは僅かに笑みを浮かべる。

 寂しげで悲し気な笑みに、男は沈黙を返した。

 これがあの時の続きだとしても、とアクティスは隔たった年月を思う。

 確かに今は過去の延長線にしかない。

 それでも、アクティスは今目の前にいる相手と分かりあうことのない虚しさをそっと心の内に沈めた。

 確実に、物事は、人は変化していく。

 今のエセルメリアならきっと、導く手を奪われて立ちすくむ幼子のようにはいかないはずだ。

 この男の想定は、過ぎ去った過去のものでしかないのだから。

 アクティスは、とっさに庇った時のエセルメリアの表情を思い出す。

 思わず目を奪われるような、鮮烈な瞳が今も瞼の裏に焼き付いている。

 隔てられた年月の中でエセルメリアはきっと、多くのものを見聞きし、恐らく悩み苦しんだこともあったのだろう。

 美しい硝子細工の人形のような巫女姫は、そこにはいなかった。

 儚く脆く、庇護の必要な弱々しさもまた、アクティスには好ましかったけれど。

 しなやかで強い、折れない命の輝きが今のエセルメリアにはある。

 だから必ず、エセルメリアは来るだろう。囚われたアクティスを開放しに、そして。

 あの日の約束を果たすために。


「それでも、私は」


 この隔てられた、決して戻らない、失われた時間を惜しむだろう。

 今となっては、この激流の行き着く先は定まってしまったのだから。

 結末を今更変えるには、もう、時がない。

 何ごとにもふさわしい時があり、それはもう過ぎ去ってしまったのだから、今なら叶うと惜しんだところでそれはもう、今更なのだ。

 人の身に、時を戻す力などありはしない。それは神にさえ、禁じられた行為なのだから。


「アクティス」


 呼び掛けに応じて視線を合わせると、男は笑みを浮かべていた。

 全てを受容した者の、透明で澄み切った笑みにアクティスは既に男の覚悟も決まっているのだろうと悟った。

 結末がどれほど残酷でも、これは既に配役の済んだ舞台。

 そこに上がった者は、それを演じ切るしかないのだ。力量不足ならば、代役が立てられるだけのこと。

 結末は何ひとつ変わらない。


「アクティス、私の意思は変わらぬ。結末が覆らぬのは既に承知の上で、それでもあの方の傍にいたいのだ」


 闇に慣れた目に映るのは、穏やかな笑みを浮かべる、見慣れた顔。

 黒髪に、森の中の泉のような、青と緑の中間のような揺らぐ色の瞳。


「兄上」


 アクティスの呼び掛けに、男はいつかの時のまま、変わらない笑みを浮かべる。

 それは失われたはずの、家族に対する情愛に満ちた温かな笑みで、アクティスはそれ以上言葉が重ねられずに沈黙した。


「今まで起きたこと、これから起きることがどのようなことにせよ、私はあの方を主に選んだことを、決して後悔せぬ。今も、今までも、そしてこれからも、あの方は私の唯一無二の主で、守るべきお方なのだ」


 それはお前も同じことだろうと、男の目が雄弁に語る。

 その視線を受け止めて、アクティスは静かに頷くしかなかった。

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