月の面影は胸にいたむ
石舞台に立って、月を見上げる。
少し欠けた月は、冴え冴えと青白い光を放って見上げる者の心など知らぬげに空にある。
詰めていた息を吐き出して、エセルメリアは吹く風にまとったショールを抑えた。
不思議と心は凪いでいた。
明洋には見透かされていたようだけれど、凪いだ心の水面の下に、沈めたままの悲しみが消えない。
月明かりの中に、どうしても探してしまう。
いつでもエセルメリアの手を取り、導いてくれた手を。
涙すれば、何も言わずに時に寄り添い、時にその涙を隠してくれた人。
舞を奉納するための石敷きの床に、影が落ちる。
ひとつしかないその影を、エセルメリアはじっと見つめる。
来いと、言われている。
エスティオーラが、終わりにしようと招いている。
ずっと昔に決まっていたことを、ただなぞっているだけだと分かっている。
この世界は、無情だ。
願わない、望まないことばかり押し寄せて来る。
気を抜けば、掌から大切なものばかり零れ落ちていく。
必死に繋ぎ留めても、拾い集めても、指先をすり抜けて消えていくものの方が多い。
その無力感に、打ちのめされる。
「それでも、わたしは諦められない」
覆せないことが多くても、守り抜けないと分かっていても、零れ落ちて消えると知っていても、望まれない結末だと理解していても、求めて止まない結末に、自分の心に嘘はつけない。
「偽善だとなじられても良い。わたしは、あなたを……」
誰も望まない言葉を、口にすることなく飲み込む。
声に出してしまえば、そこに思いを乗せてしまいそうだから。
その代わりに、光に向かって手を差し伸べて舞う。
裾をさばき、袖を翻して舞う。
浄化と安寧を願う舞に、拭いきれない哀切を乗せて。
涙が月光に照らされて、玉になって散る。
差し伸べた手に、ふわりと広がった髪に、衣に散る。
誰に知られることもなく消えていく涙を、あふれ出る思いを、全て術式に注ぎ込んで願う。
肩から外れたショールが、風に舞い上がる。
力の奔流に弄ばれて、指先をすり抜けて消えていく。
覆せない運命のように。
光が粒になって舞い上がる。
種のままの草花が芽吹き、光を集めてするすると伸びるとやがて花をつける。
石舞台の隙間から芽吹き始めた草花は、周りの岩地に、その向こうの森へと範囲を広げる。
一面に、色とりどりの光の粒が舞う。
鈴が転がるような音で、精霊たちが笑いさざめく。
エセルメリアの――巫女姫の祈りに、眠っていた命が、目覚める。
森に陣を張っていた反乱軍も、反乱軍の元を訪れていたイリュミアも、争いから身を隠していた民たちも、神殿で眠っていた麻衣と明洋も、あらゆる人々がその光に導かれるように石舞台を見上げる。
光を纏って舞う巫女姫は、豊穣の恵みを体現する希望そのもので。
その神秘的な光景に、人々は息も忘れて魅入った。
エセルメリアの祈りも、悲しみも、苦悩も、抱え込んだ痛みは誰の目にも映らない。
そこにあるのは、この世のものとも思えない圧倒的な力と、美しさと。
「アクティス、アクティス、アクティス……」
支えを求める手は空を切り、舞い切った舞台の上にエセルメリアはうずくまる。
舞い終えて跪いたように見えるその動きに、人々は熱狂した。
エルスメリアは自身が呼び起こした喧噪も知らず、見上げる月に冴え冴えとした冷たい横顔を、思い浮かべる。
その冷たい美貌が、笑みを浮かべると驚くほど柔らかな印象になることを。
前だけを見つめる瞳の強い輝きを、伸ばされた背の大きさを。
息を深く吸い、吐いて、エセルメリアは感傷を追い出す。
何ごともなかったかのように立ち上がり、涙を拭いて背筋を伸ばす。
「姫様」
「戻ったのね、首尾は?」
静かに歩み寄ってきたイリュミアに、エセルメリアは短く問う。
「反乱軍をまとめている将が、ぜひお目に掛りたいと申しておりました」
「そう。分かったわ、ありがとう」
朗報に、エセルメリアは淡々と頷く。
意識して浮かべた柔らかな笑顔をイリュミアに向けると、口を開く。
「明日の夜更け、月が中天に輝く頃にイェルニーの森で会いましょうと伝えて」
「かしこまりました」
踵を返して去っていくイリュミアの後ろ姿を見送って、エセルメリアは再び空を見上げる。
青白く輝く月は、白い顔の佳人を思わせる。
風に舞う金の髪、真夏の木漏れ日を受けて輝く青葉のような緑の瞳。
闇を孕んで激情に揺れる、ワインレッドの瞳。
色の変わる瞳は、呪いの代償だと言われ、心無い言葉に負けじと背筋を伸ばし、頑なに前を見ていた横顔を思い出す。
あの時とは、何もかもが遠い。
「そう、今更ね。ええ、今更なのよ」
義務と責任、それ以外の柔らかな感情に引き裂かれる思い。
きっと、消えることのない後悔だと分かっていても。
「もう、選べない。そうよね?」
どこからも返らない肯定を、自分で自分に言い聞かせる。
エセルメリアはもう一度月を見上げ、静かに背を向けて石舞台から降りる。
伏せた目を上げ、背筋を伸ばした彼女の表情には、綺麗に感傷が拭い去られ、揺らがない目は、しっかりと前を見据えていた。




