緑の森
この状況を、どう言葉にすればいいのだろう。
朝起きたら木の上で、それがとてもとても高い木のようで、その上見ず知らずの男に後ろからがっちり抱え込まれて身動きもままならないとか。
視界に映る木の葉っぱが人の頭よりも大きくて、その上日の光とは説明のつかない輝きをうっすら帯びているとかそういうこともこの際瑣末なことだと思う。
アニメ映画の中に登場した謎の巨大ふかふか生物は、恐らくこんな筋肉質な胸板とか大きくて厚い手のひらとかは持ち合わせていないはずだから、振り向いてもきっとモコモコの毛皮に埋もれたつぶらな瞳で見つめ返してくるとかそういう展開は期待できないだろう。
どう考えても、背後にいるのは男だ。
「何かする気なら、寝てる間にしてるよねー」
「……するかよ」
何気なく口から出てしまった言葉に、瞬時に不機嫌そうな呟きが返ってきて麻衣は思わず硬直した。
「動くなよ、落ちるから。俺も、不本意なんだ」
再度不機嫌そうな声が頭の上でうなるように呟いて、腰に回されていた腕が慎重に外される。
大人の胴回りぐらいありそうな太い枝の上を、落ちないようにソロソロと動いて男と距離を取る。
改めて向かい合う形になった麻衣を、男はじっと見守っているようだった。
「どうやら大丈夫そうだな」
「あ……はい」
問い掛ける声に思わず顔を上げて、男が想像していたよりもずっと若そうなことに麻衣は意外な気持ちを隠しきれずそっと目を瞬いた。
黒い髪、黒い目、うっすら生えている無精ひげと黄味がかった肌に彫りの浅い顔。どう見てもアジア系、いや、日本人だ。
その時麻衣は、自分が何となく男は外国人だと決め付けていたことに気づいた。
こざっぱりと整えられている短い髪は、洒落っ気はないものの清潔感があり、麻衣をじっと見ている目も、目つきに鋭さは感じるものの暗さや濁りは感じられない。
麻衣は、こういう時の自分自身の人を見る目には少しばかり自信があった。
「昨日は突然押し掛けて悪かった。色々説明したいことはあるけど、まずは下に下りてからだな」
探るように麻衣を見ていた視線を緩めて、男は微かに口の端を引き上げた。
早速行動を開始しようとする男の腕を取り、引き止める麻衣に男は問い掛けるような視線を向ける。
「ひとつだけ教えてください。ここはどこですか?」
「そうだな。ここは異世界だって言って、信じられるか?」
器用に片眉を上げた男に、麻衣は神妙な面持ちで頷いた。
「普通じゃないことが起きたのは、何となく理解出来てます。この木も、普通じゃないですし」
「ああ。日本にはこんな木はないし、俺の知っている限り他の国にもこんな木はないな。この世界でも、ここだけらしい」
男はそう言って、一旦言葉を切る。
そして危なげない滑らかな仕草で立ち上がると、そのまま遠くを見つめる。
「この世界はリエンディーンと呼ばれている。そして俺は、エセルメリアという名の姫を探していてあんたを見つけた」
「念のため言っておきますが、私は間違っても姫じゃないと思いますよ」
「まぁ、それは追々な。行けばわかる」
そう言って、男はニヤリと不敵に笑った。
その横顔を、地の果てから顔を出した太陽が照らす。
半ばあっけに取られながら、麻衣はその横顔に問い掛ける。
「行くって、どこへですか?」
「まずは風の塔だな。そこに導があるらしい」
恐る恐る立ち上がった麻衣は、男の隣に並んで遠くを見渡す。
そこには、朝焼けに染まった見渡す限りの緑の木々と、南国の鳥のような鮮やかで華やかな鳥たちが舞う荘厳な景色が広がっていた。
「遠くに見える、あれが当面の目的地だ」
男の指し示す先には、不思議な形の柱のようなものが立っている。
「カッパドキアみたいですね」
「成り立ちは大体同じらしい。今は一体が森だけど、昔は何もない岩地だったらしいからな。風が削って作った岩柱を更にくり貫いて住んでいるらしい」
先ほどまでの不機嫌が嘘のように心底楽しそうに風の塔について語る男を、麻衣は不思議そうに見上げた。
その視線に気づいた男は、苦笑を浮かべると遠くを見つめた。
「俺の専攻は、考古学だったんだよ。中東付近の、石窟を研究してた」
失われた何かを懐かしむような雰囲気に、麻衣は首を傾げる。
「また戻れるんですよね?」
「ああ。そうだな」
ふと我に返った様子で半ば無理矢理のように笑みを浮かべる男に、麻衣は何となく引っ掛かりを感じながらもまだ名前も知らないことに気づいて、些細な違和感を忘れてしまった。
「そういえば、名前聞いてないですね。私は麻衣です。麻の衣と書いて麻衣。橘麻衣」
「俺は、明洋。明るい太平洋の洋で明洋。苗字は上の森と書いてなぜか(かんもり)と読む。よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
手を差し出す明洋と握手を交わして、麻衣はふと自分の足元を見た。そして、遠くにそびえる風の塔を見る。
「そういえば、私の靴はどうすれば良いんでしょうか」
麻衣の視線をたどった明洋は納得した様子で、背負っていた革の鞄から皮のブーツのようなものを取り出す。
「そういうこともあるだろうと、用意しておいて正解だったな。サイズは大体合うと思う」
ブーツのようなものは、底が補強された革を革紐で止めるようになっているようだ。
ついでにチラリと明洋の足元にも目をやると、どうやら同じものを履いているらしい。
「それを履いたらこれを着て。その服装、目立つから」
そう言われて、麻衣は差し出されたものを広げる。それは黒いマントのような上着で、その長さなら靴以外は見えない。
明洋を見れば、ざっくりしたセーターとスラックス姿の上からマントを羽織った姿はすっかりファンタジーな世界の魔法使いのようだった。
「明洋さんって不思議な人ですね。やたらと用意は良いし、とても落ち着いてる」
「いや、橘さんだっけ。君には言われたくないよ。混乱もせずこの状況で平然としてる君の方がよっぽど異常だね」
その言葉に反射的に反論しようとして、麻衣は開きかけた口を閉じた。
明洋の言葉は悔しいことにとても正しい。
理由を探して、麻衣は視線を空に彷徨わせた。
「たぶん、予感がありました」
「予感?」
「あの子が、そんなことを言ったから」
それきりぴたりと口を閉ざした麻衣の言葉を無理に促そうとせずに、明洋は麻衣の言葉の続きを待つ。
「それに、なぜか心の奥で感じるんです。この場所を、懐かしいと」
「そうか」
「はい」
何も問わず、静かに微笑む明洋に麻衣も静かに頷いた。
明洋の静かな横顔を見上げながら、いい人だなと麻衣は思った。
口も態度も悪いが、それだけだ。絶妙な距離感で互いの領域を踏み荒らさないように、しっかりと線を引いてくれるし、自分も相手の領域には踏み込まない。
ただ単に興味がないだけかもしれないけれどと心の中で呟いて、そっと苦笑する。
「俺が先に下りるから、ゆっくり来れば良い。高所恐怖症とかじゃないよな?」
「高いところは好きじゃないですが、あまり下を見なければ何とかなると思います」
「まぁ、落ちてきたら受け止めてやるよ」
唇の端をクイッと器用に引き上げて、意地悪そうな表情を作ると明洋は身軽に枝や幹を伝いながら木を下り始める。
「速過ぎ……」
その姿をあっけにとられて見送りながら、麻衣はもう一度木々の向こうを透かし見た。
そこには光り輝く緑の森があるばかりで、胸の奥底から湧き上がる焦燥感の理由を見つけることも出来ず、麻衣は困惑したように頭を振った。