心の在り方
そこは空気まで澄んだ清浄で静謐な場所。
どの時代、どの文化どの国でも変わらない、聖なる場所だと一目で分かる場所。
「お待ち申し上げておりました」
美しい仕草で一礼した老女が、見る者の心を融かす柔らかな笑みを浮かべる。
簡素な衣は非の打ち所のない白、ほつれの無いように結い上げられた、霜の降りたような髪も白。その瞳は氷の海のようなごく薄い青。
妙齢の女性の色香とは異なる、歳を重ねた者だけが持ち得る美しさを体現したような彼女は指のひと振りで場の濁りを祓う。
「此れは青の精霊殿。我らは清め記し世の流転を見守る者」
柔らかな笑みをたたえたままの老女の指先がスッと上がり、明洋の胸をトンッと軽く突く。
「澱みの中で仮初めの時を紡ぐ者よ。心せよ、お前はやがてその歪みによって最も護りたい者の命数を喰らい尽くす定め。人の目より隠し偽っても、水が高きから低きへ流れる様に定めは覆らぬ」
ごく軽く突かれたはずの胸を押さえてよろめいた明洋の様子を見定めて、老女はスッと目を細める。
笑みの形に歪められた唇が、言葉を吐き出す。
それは予言であり呪いであり、事実なのだと麻衣は心の深くで感じた。
「……それでも抗うのが我が性なれば」
絞り出すように呟いた明洋の言葉に、老女は声を立てて笑った。
「ならば抗え、定めの流れをたわめる程に」
「素より、その覚悟」
短く応じた明洋に、老女は小さく頷いた。
見る者の心を融かす柔和な笑みを浮かべ、老女はゆったりと歩み出す。
その様子に、固唾を飲んで遣り取りを見守っていた麻衣も胸をなで下ろす。
まずは合格、というところだろうか。
治らない胸のざわめきを抑え込んで、老女の後に続く。
「どうぞ、此方へ」
サラサラと白い衣が揺れる。
伸ばされた背が、揺らぐことなく先を行く。
天井が高く取られた広間をいくつも抜けて、迷いなく進む背を黙って追う。
塵ひとつなく清められた空間は、しかし麻衣たちの歩く音と老女の衣擦れの音以外、咳ひとつ聴こえない。
人の気配が絶えて久しい静謐な空間。
温もりの感じられない、ひやりとした空気だけがそこに余人のないことを伝える。
そのことに、抑え込んだはずの胸のざわめきが背筋を這う震えとなり、麻衣はギュッと明洋の袖を掴んだ。
その手を、前を見据えたまま掴む明洋の手にも冷たい汗が浮いていて、この空間の異様さに緊張しているのは自分だけでないことに麻衣は密かに息を吐いた。
「どうぞ、そのままお進みください」
人が1人通り抜けられる程度の出入り口をくぐった先の空間に、並んだ石の棺。
玄室のような空間を仄かに青白く照らすのは、複雑に編まれた術式。
麻衣の足先が触れた瞬間、それが唐突に弾け飛ぶ。
音もなく、圧倒的な力が爆発したと麻衣は思った。
一瞬、意識が空白になる。
風が、光が、解けて吹き抜けて荒れ狂う。
声も出ないほどの圧力が、身体中から何かを吸い出して絞り出して、奪い尽くそうとする。
「おい! 息しろっ!!」
バシッと、力加減を忘れた一撃に遠のいた意識が引き戻される。
息を吸うどころか、痛みにより一層息が詰まる。
「な…にすんのよ、」
勢い良く振りかぶったはずの手に力が入らず落ちるのを、強く握り込まれる。
相変わらず冷たい手。
余計寒いと、文句を言おうにも言葉にならず、苦しくて涙が溢れてくるのに麻衣はギュッと唇を噛み締めた。
何かが体の中から、ゴッソリと引き抜かれたような感覚が生々しくて、指先に力を入れることさえ苦痛を伴う。
「無防備な人間になんて事しやがる! 下手すれば死ぬとこだぞ」
怒りを押し殺した明洋の唸るような低い声が震えている。
「申し訳ございません。何者かの強い干渉を弾いた結果、術式が歪んで暴走したようです」
弾き飛ばされたのか、髪が解け、服のあちこちが擦れて汚れた酷い有様の老女が、慌てて麻衣に駆け寄り助け起こそうとする。
その手を、明洋が鋭い仕草で払い除ける。
「触るな。今迂闊に触れば、力の均衡が崩れる。均衡が崩れれば、今度こそどちらかが死ぬ。あんたはそっちの姫君の様子を見てくれ。こいつの方は俺で何とかなるから」
明洋の揺らがない態度に、僅かな躊躇を見せた老女は、黙って一礼すると傍の棺に歩み寄る。
「姫様、姫様、エセルメルア様、どうかお目覚めください」
老女が縋るようにして呼び掛ける棺の傍にもうひとつあった棺に何気なく視線を転じて、麻衣は目を見開く。
それは、何かに叩き潰されたように滅茶滅茶に壊れていて、中に封じられていたはずの人物の気配はどこにもなく。
「あいつ……咄嗟に自分を身代わりにしやがった。そんなことをされたら、俺が保たないと分かっているはずなのに、あの野郎。絶対覚えてろよ」
ブツブツと呟いている明洋の苦り切った様子に、エセルメリアを守ってアクティスが連れ去られたらしいことにようやく麻衣は考えが至り、青ざめる。
この状況を、一体どうやって切り抜けたら良いのか分からない。
唯一対応出来そうな人が、居なくなってしまった。
「落ち着きなさいな、イリュミア。泣いても何も始まらないわ」
不意に、鈴を転がすような声が緊張を孕んだ暗い雰囲気をゆったりと払う。
「簡単なことよ。奪われたものは、奪い返せば良いのではないの?」
心底不思議そうに首を傾げながら、石の棺から起き上がった姫君は周囲を見回す。
サラサラと零れ落ちる黒絹の髪を背に流して、陽に透ける若葉の色の瞳を瞬かせた彼女は、柔らかな微笑を浮かべる。
白と青を基調とした簡素な形のドレスのたっぷりとした袖を揺らめかせて、音もなく立ち上がると、ふっくらとした薄紅の唇に鮮烈な笑みを乗せる。
「姫様?」
老女イリュミアの不思議そうな声に、エセルメリアはゆったりと応える。
「そうよ。わたくしはこの国の姫。それならば」
なよやかな手がスッと上がり、宙を指す。
「民に仇成す者を屠るのもまたその勤め」
軽く指を弾く仕草に、悲鳴のような甲高い音が響く。
それはどこかで術を返された者の悲痛な叫びか、術そのものが立てた音か。
キュリアは感情を伺わせない目で何かを見定め、一瞬何かに祈るように目を閉じ、開く。
揺らがない静かな顔に確かな覚悟を乗せて、エセルメリアは歩を進める。
「まずはアクティスを迎えに行かなくてはね」
何気ない様子で歩みを進めるその手がきつく握りしめられているのを、麻衣はじっと見ていた。




