閑話 瑠璃玻璃の世界
世界はずっと仄かな光に包まれたもので、人々は穏やかな笑みを浮かべているものだと思っていた。
優しくて輝いていて、満ち足りた世界だけが私の世界だった。
大人たちに囲まれて守られた箱庭のような場所は、いつでも心地よく整えられていたから、不足も不安も幼い頃の私は知らなかったように思う。
私は幼い頃から、感情を露わにして泣いたり怒ったりすることがなかったようだ。
それは、そんな感情を教えられなかったからなのか、〝聖女〟として施された教育によるものなのか、私には分からない。
私は、人形のような子供だったらしい。人前ではいつも微笑みを浮かべ、静かにそこに座っている、従順で心の存在を感じない、そんな子供だったらしい。
誰もが私の微笑みを、慈愛の心を、癒しの技を乞う。
光そのもののようにあることを求められ、痛みも苦しみも、全ての暗いものは私に前から遠ざけられた。
今思えば、私はとても無知な人間だったのだと思う。
だから、突然私を守ってきた楽園から現世に引き出された私は、困惑した。
飢え、渇き、傷つき死ぬ人々の悲嘆。憎しみ、陰謀、呪いの言葉。
世界はあまりにも濃い陰影が落ち、しかしそれ故に光はより一層輝いて見えた。
「姫。あなたの目に映る、この世界は美しいですか?」
私をまっすぐに見つめ、真摯に問うその人の言葉に込められた思いが、あの時は分からなかった。
悲惨な現実に心抉られる。私の力では癒すことの出来ない人が、今までは巧妙に遠ざけられて目に触れることがなかったのだと外に出て初めてわかった。
私は自分で思っていたよりもずっと非力で、無知で、傲慢だった。
そのことを教えてくれた人は、いつも古い書物の匂いがする人だった。
恐ろしく腕が立つのに、権力と暴力を嫌い、知識と学問を何よりも愛する穏やかな人だった。
若くして半ば隠遁者のようなその人が私の騎士になったのは、きっと偶然と必要の産物で、必然などではなかったはずだ。
でも、あの出会いは私にとって何よりも素晴らしい宝物だと思う。
何も知らなかった私に、あの人は世界の広さを教え、この世界には様々な色があることを教えてくれた。
そしてその色が鮮やかであればあるほど、そこには濃い影が添う。
この世界に落ちる影は、確かに濃く醜い。
人々は奪い合い、憎しみ合い、傷つけ合う。
息をするように嘘をつき、他者を落とし入れ、彼らは足ることを知らない。
留まることを知らない欲望のままに、皆生きている。
それでもこの世界は、私が生きている世界だ。
愚かでちっぽけで欲深い、私もそんな人間だ。
この世界に本当に神聖なものなど存在しない。全ては作られた偶像でしかないと、今の私は知っている。
それでも、祈り、迷い、傷ついてもしっかりと自分の足で大地を踏みしめて立つ人々の涙を、笑顔を、その温かさを私は尊いと思う。
それは、透明で冷たい箱庭にはない、生きている人間そのものだ。
「わたくしには、この世界が美しいかどうかなど分かりません。でも、心から愛しいと思う。だってこの世界は、あなたとわたくしが生きる世界だから」
目の前で跪くその人に手を差し伸べて立ち上がることを許す。
「今後、わたくしの前に跪く必要はありません。わたくしは、あなたと同じものが見たい。同じものが見える目を、わたくしに与えてください」
無造作に束ねられた黒髪は艶やかに肩を滑り、紺青色の瞳は穏やかに私を見つめる。
その容姿にも仕草にも華はないが、実直で誠実な人柄は嘘つきだらけの私の生活の中で、僅かばかり心許せる人だとずっと思っていた。
あなたが見るものを私も見たいと思ったことに偽りなどなかったけれど、私はまだこの時は、自分自身が何をすべきなのか正しく理解していなかったと思う。
ただ清らかさを体現していれば良かった無知な私は、とても利用しやすい駒に過ぎず、国の為、民の為になることが何なのか、目の前の1人よりも10人、10人よりも100人を取らなければいけないその苦しさも、自分の幸福すら犠牲にして人柱とならなければいけない悲しみも、背負う責任の重さなど何も知らなかったと、後から痛いほど思い知ることを、この時の私は思いもしなかった。
だからあなたが少し困ったように微笑むのは、主従の垣根を払おうとする私の態度が原因だと勝手に思い込んでいた私は、世間知らずの姫君だと揶揄される通りの人間だった。
「仰せのままに、我が姫君」
平穏な日々が続いていれば、私はあなたが私に隠していた想いも、私自身が気付かなかった想いも、分からないままに他の誰かの元へと嫁いだかもしれない。
でも、あの人が仮初めの平穏を壊したから、壊してくれたから今があることを私は口に出すことなど出来ないけれど、感謝している。
あの人は私と違って自分が背負うべきものを、正しく理解している人だったから。
だから私がもっと賢ければ、あるいはもう少し視野が広く思慮が足りていれば違う道があったのかもしれないと、今でも思う。
もうきっと、全ては手遅れなのだろう。
あの人も私も、今更歩み寄り手を携えることなど出来ない。
それでも、もしもと考えずにはいられない。
私は愚かで、欲張りで優柔不断だから、切り捨てることも出来ずにいる。
あの時、私の世界は瑠璃玻璃のように脆く儚く、美しく悲しいもので出来ていて、砕け散ったそれは、もう戻ることがない。
本当に美しいものは失われたものの中にしかないのだと、私は思う。
だから溢れる涙を溢れるままに、私は時折失われた過去の名残をそっと抱きしめる。
伏線回なので、読み飛ばし可。
話し言葉と地の文の一人称が違うのは、間違いではないです。悪しからず。




