薬師の心得
風の民の森を抜けると、そこかしこに足跡が目につくようになった。
それは小動物のものであったり、明らかに大きな動物のものであったり、はたまた魔獣のものであったり。
その都度ラキアが足跡の主について丁寧に説明してくれたが、動物の足跡を普通の女子高生がすぐに見分けられるはずもなく、麻衣は切実にメモ帳が欲しいと思った。
もっとも、メモを取ったところで、標本のように足跡がしっかり原形を留めているはずもなく、図鑑の絵を描いている人のように精密な絵を麻衣が描けるはずもなく。
麻衣は思わずため息をついた。
「大丈夫だ。心配しなくても俺が覚えてる」
無自覚なうちに、百面相をしていたらしい。
頭をポンポンと撫でて子供のように扱う明洋に、麻衣は赤面してうつむいた。
「ありがとうゴザイマス」
照れなのか別の恥ずかしさなのか、それとも子供扱いされた苛立ちなのか。良くはわからないが、語尾から感情がスポンと消え失せる。
何となく複雑な感情をもて余す麻衣だった。
「色々と見ていればそのうちに区別が付くようになりますから、大丈夫ですよ」
にこにこ笑いながら、ラキアが助け船を出す。
心底ホッとした気分で、麻衣も笑った。
「それよりも麻衣様は薬草の知識と活用法についての方がお得意なようですね」
「ああ。俺はそっちは無理そうだから助かる」
「えっ、そっ、そうですか?」
「はい。なかなか教え甲斐があります」
生徒に花丸をつけた先生のごとく満面の笑みを浮かべたラキアと、ほめているのか丸投げしているのか良くわからない明洋だったが、麻衣は良い方に解釈することにした。
俄然やる気になった麻衣の様子を見て取ったのか、ラキアは嬉しそうに微笑む。
「何か技能を身に付けたいのでしたら、麻衣様は薬師を目指されてもよろしいかと思います」
「薬師、ですか?」
「はい。薬草の知識を活用して、人々を癒す立派な仕事です。癒し手と共に治療を行えば重篤な傷病も治せますし、薬師でしたら特別な力が扱えなくてもなれますから。しかも、どこに行っても必要とされる技能なので、大抵の地では歓待してもらえますから」
「それは凄いですね」
「身に付けといて損はなさそうだな」
明洋にまで勧められて、麻衣はニヤリと笑う。
「わかりました。明洋さんが怪我したら手当て出来るぐらいには仕込んでもらいますから、ご安心ください!」
「ああ、任せた」
真顔でうなずく明洋とやたら偉そうに胸を張る麻衣を見比べて、ラキアは軽やかな笑い声を上げる。
「今日一日で血止めぐらいは出来るようにしましょうか」
「はーい。よろしくお願いします、先生」
ノリノリな麻衣に対して、ラキアは表情を引き締める。
真剣なラキアの表情に、麻衣も自然と静かになる。
「まずは、薬師に必要なのは症状の見極めです。怪我なら出血の程度、傷口への毒の有無などです。自分の技能では手当て出来ない傷の場合は、状況によって、延命処置を施すか、痛みを除くか、両方を施すか。最後の手段としては、苦しみを長引かせないように処置することが求められる場合もあります」
「それは、私の手でその人の死期を早めるということですか?」
「ええ。生易しい道ではありませんよ。覚悟を決められますか?」
ラキアの問いに、麻衣は考える様子を見せてから、ふと気づいた様子で問い返す。
「もしも旅先で私が戦いに巻き込まれたとして、私がこの手で助けられる人の方が多いですか? それとも、死期を早める人の方が早いですか?」
「麻衣様の技能の程度にもよりますが、楽にしてやることの方が多いでしょう」
ラキアの答えに、麻衣の表情が曇る。
足元に目を落とした麻衣は、しばらく考え込み、顔を上げる。
「私には、まだ覚悟は決められません。でも、私が少しでも誰かの役に立てるのならその知識は欲しいです。それじゃいけませんか?」
麻衣の回答に、ラキアは厳しい表情を和らげる。
「急に申し上げてもこればかりは難しかったですね。まずは、私の知る限りの知識をお伝えするところから始めましょうか。最初にお断りしておきますが、私は厳しいですよ」
「それは大丈夫です。私だって、いつまでもラキアさんに頼ってばかりじゃだめですから。頑張ります!」
握りこぶしを作る麻衣に、ラキアが笑う。
「頼りにしてるからな、薬師の卵」
「はい」
満面の笑みで応える麻衣を、眩しいものを見るようにラキアは見る。
「ひとつだけ約束してください」
「何ですか?」
「もし、麻衣様が私の処置をしなければならなくなった時は、ためらわずに処置してください」
「それは……」
眉を寄せる麻衣に、ラキアは静かに諭すように言葉を紡ぐ。
「深い傷や呪いを受ければ、主である長がそばに居られなければ私が助かることは難しいでしょう。特に呪いを受けた場合は、すぐに処置しなければ私の手で麻衣様や明洋様を害すかもしれない。その覚悟だけは、していただきたいのです」
真剣なラキアの表情に、麻衣はハッとする。
ラキアとの旅路があまりにも穏やかだから、いや、楽しいから忘れたつもりになっていた。
でもこの世界は今、戦いが蔓延している。いつ誰が死んでもおかしくない世界だったと。
ラキアは間違いなくその世界に生きている人で、その世界に足を踏み入れた麻衣に覚悟を決めろと言っているのだと、麻衣は唐突に理解した。
薬師の心得。それは、誰もが死ぬということを麻衣に覚悟させるための方便なのではないか。
じっとラキアを見つめ返して、麻衣はしっかりとうなずいた。
「わかりました。その時は、必ず」
乾いて張り付きそうな舌を動かして、麻衣は言った。
「ありがとうございます」
木々の葉を透かして降り注ぐ、柔らかな陽光が微笑むラキアの肩に、髪に、揺れている。
それが暖かそうだと、麻衣は働かない頭で思った。
満足そうに微笑むラキアと、蒼白な顔で硬い表情を浮かべる麻衣とを、明洋は何も言わずじっと見ていた。




