嵐の夜 ~おわりのはじまり~
季節外れの嵐が、猛威を振るっていた。
外では、唸る風が空気を掻き乱し、時折落ちる雷が漆黒の世界を切り裂いて白く染めていた。
廊下には、見通すことの出来ない闇がわだかまっている。
古い作りの日本家屋の引き戸を吹き付ける風に抗いながらようやく閉めて、息をつく。
つるつるとした黒い玉石を埋め込んだ玄関のたたきを、全身から滴る水滴が濡らすのをらうつむきがちに見つめる。
稲光に照らされるその姿は、見事なまでに黒一色。
濡れてはりつく長い黒髪も、身に付けたセーラー服も、靴から鞄に至るまで黒。
まるで喪服のようで陰気極まりないと、自嘲の笑みを浮かべる。
その中で、雨に打たれて色を失った指先と髪の間から覗く血の気のない顔だけが、妙に白っぽく浮かび上がっていた。
ゆっくりと手が動き、はりついた髪をかき上げて娘は顔を上げる。
切れ長の、やや冷たい印象を与える瞳は何の表情も写しておらずぼんやりと見開かれて、人の気配が絶えて久しい室内をどこを見るともなしに見渡していた。
「何を、期待していたんだろう」
同年代の女の子たちに比べると落ち着いた、静かな声。
その声は自嘲する響きを含んで苦く、同時にひどく悲しげだった。
「誰もいないことなんて、わかりきっていたはずなのに」
家の中は長い間締め切られた家独特のかび臭い空気が充満し、それがより一層麻衣の気持ちを落ち込ませた。
もうひとつの家のように親しんだ場所。
そこが朽ちていく様子を、出来れば見たくないと思っていた。
朽ちていく様子を見てしまえば、いつでも温かく自分を迎えてくれた大伯母の記憶まで朽ちてしまいそうな、そんな気がしていた。
あの人は、もういない。
足元から這い上がってきたのは寒さなのか、悲しみなのか。
ゾクリと体を震わせた麻衣にも、よく分からなかった。
あふれてきた涙を押さえるように、彼女は両手でゆっくりと自分の顔を覆った。
深く息を吸って、吐き出す。
何度か深呼吸を繰り返して息を整えると、彼女は顔を上げた。
「まだ、生きてる。私は、まだ……生きてる」
呟いた声は低くかすれて、酷く皮肉っぽく、虚ろに響く。
それに重なるように、クツクツと喉の奥で笑い声を立てた。
「吐き気がしそう」
呟いた声は相変わらずかすれていて、酷く力なく聞こえた。
「……嫌いになれたら良いのに」
麻衣は眉を寄せて顔をしかめる。
声に出してみても、誰を嫌いたいのか自分自身にも良くわからなかった。
ただ、例えようのない喪失感と焦燥感が体の芯からジワジワと食い尽くしていくようだ。
酷く高揚しているのに、酷く冷たい石のような感情が腹の底に沈んでいる。
麻衣はおもむろに靴を脱ぐと、それと鞄を手に持ってまっすぐに伸びる廊下を歩き出した。
足元で使い込まれた木の廊下がきしむ。
長い歳月を経て飴色になるほど磨きこまれた床は、今は手を入れてくれる主を失って暗がりでもはっきりと分かるほどのほこりが積もっていた。
『麻衣さん、いつもありがとうね。べっぴんさんに磨いてもらえて、廊下も喜んでるわねぇ』
今でも耳の奥で響いている柔らかな声。
失われていくことは、とても悲しい。
「私は、かえりたい」
なくなってしまったものを追うのはむなしい。
「ここじゃない場所に」
叶う当てのないことを願うのは、苦しい。
「私を、かえして」
大伯母の葬儀に出ていた誰かが置いたのか、神棚に安置されていたはずの鏡が飾り棚の上に置いてある。
麻衣は、ゆっくりと歩み寄るとその覆いを取った。
『この鏡は、この家にずっと伝えられている古いものらしいの。麻衣さんのずっとずっとお祖母様に巫女さんがいらしたようなのよ。だからあなたには、その力が伝わっているかもしれないわねぇ』
不思議なこと、そう言って笑う大伯母の声に導かれるように、麻衣はその鏡に触れた。
いつからあるのか分からないほど古い鏡は磨耗しているものの、手入れを欠かさなかったお陰か今でもその背面に鳥の絵が対で刻まれているのがわかるらしい。
突然差し込んだ稲光に、鏡の表が不思議なほど白く光った。
「私は誰? 私は本当にあなたなの?」
泣きそうな娘が暗くぼやけた鏡の中から見つめ返してくる。
いつだってはっきり映ったためしのない鏡の中の娘も、麻衣と同じように長く黒い髪をしているようだった。
そうやって子供の頃に遊んでいて叱られたと、麻衣はにじんで来る視界をそっと拭った。
麻衣と並んで叱られた、あの子はここにいない。
『ごめんね、麻衣。もうすぐだから』
不意に掛けられた言葉は、短か過ぎて互い以外にはわからないような言葉だった。
真っ白な、そっけない壁にリノリウム張りの床。長時間寝ていると背中が痛くなりそうなパイプのベッド。その脇に飾るための花を整えていた麻衣に、あの子は苦しそうに細い息をつきながら言った。
はじかれたように振り向いた麻衣は、言葉もなく見つめるしかなかった。
やせ細ったあの子は儚げに微笑んでいたから。
『もうすぐ、終わるから。たぶん、今日中』
柔らかな微笑の中で、目だけが怖いぐらい真剣な色をたたえていた。
何か言わなければならないと思っていたのに、口の中が妙に渇いて言葉にならなかった。
妹は、妙に察しの良い子で。
だから、母を、父を、独り占めしている妹を時々うとましく思う、そんな気持ちを見透かされたような気がした。
『ごめんね、麻衣』
無言のままの麻衣に、困ったようにあの子は微笑った。
口を開けば何かとんでもないことを口走りそうで、麻衣は気がついたら荷物をつかんでこの家に向かっていた。
「なんで、予告するのよ。自分が死ぬことを、予告なんて。しかも何で謝るの?」
鏡に向かって、自分に瓜二つのあの子に向かって話すように麻衣は泣きながら語り掛けた。
あの子にも、親にも、誰にも言えない感情があふれる。
それは名付けようのない絶望に似た感情だった。
『かえらなければならないの』
雨と涙でぐしゃぐしゃになった麻衣の耳に、澄んだ柔らかな声が聞こえる。
彼方から響くような不思議な声に、不思議と麻衣は違和感を感じなかった。
心の深い場所から、温かな何かが湧き上がってくる。
ずっと感じていた存在が、麻衣の中で不意に息を吹き返すかのような感覚。
知っているけど、知らない。
開くことの出来ない遠い記憶を探すように、麻衣はそっと問い掛けた。
「あなたは誰?」
『わたしは……』
不思議な声は、吹き付けた雨混じりの突風にかき消される。
ぼんやりとしていた麻衣は、その冷たさに現実に引き戻された。
「エセルメリア、やっと見つけた」
陰鬱な低くかすれた声。後々この時を思い返して麻衣がそう語ることになる声が、誰もいないはずの場所から聞こえた。
体を強張らせて振り向いた麻衣は、闇の向こうの気配をじっとにらんだ。
背の高いしっかりとした存在感のシルエットはどう見ても男のようで、闇の中で息を殺しているその気配はどう考えても麻衣には太刀打ちできない相手だ。
体格差があって、武道をたしなんでいる相手。最悪のタイミングで最悪な場所に最悪な侵入者。
しかも、誰かと人違いをしているらしい。ろくな結果を想像出来ない状況に、思わず麻衣は自嘲を浮かべた。
「この嵐あんただろ。急いでここを離れないと、あんた死ぬぞ。……呪力が暴走してるのか」
その上よくわからないことを呟いている男に、麻衣はそっと背後に回した手で相手を撃退出来る物はないかと探った。
手が、硬く滑らかなものに触れる。
鏡かと思った瞬間、手がそのまま何かに引きずり込まれるかのようにズルリと沈んだ。
悲鳴を上げることも出来ず、崩れた体制のまま虚空をつかむ。
本当に驚いた時は声が出なくなるというのは正しいみたいと、麻痺した頭でずれたことを考えながら麻衣は視界がまばゆい光に満たされるのを感じた。
「おい! あー。これがお前の道か……って、俺もここからかよ。勘弁しろよアクティス」
嫌そうにぼやく低い声が、どこかで聞こえたような気がした。
『ごめんね。あなたを巻き込んで』
澄んだ柔らかな、でも泣きそうな声がはるかな高みから降ってくる。
温かな水に包まれているような感覚に、その人は緩く頭を振った。
「私は私の運命を選んだだけ。あなたに謝られるようなことはないわ」
『でも……』
「私は後悔するかもしれない。それでも、あなたのことを放っておけなかったんだから仕方ないのよ」
遠い昔。命が泡のように消えていく世界で、私は絶望の中で〈彼女〉を守ろうと決めた。
それは私が になる前の、ずっとずっと前の話。
世界が泡のように消えてもいいと思った、そんな愚かな女の記憶も悲しみも、今はまだ思い出さなくて良い。
「それでも私は、愛している」
ひそやかな呟きを、麻衣は淡いまどろみの中で聞いていた。