第九十話
リシュア、アリスト、ディードリオンとも合流して、竜の翼で飛ぶ事二十分。体感的にはジ・ヴラデスの黒竜に乗って逃げた時よりも早い気がするが、これは多分、ただの気分の差だろう。
「これがプルオーネ、ですか……。最早地上とは思えぬ魔境ですね」
プルオーネがこうなってしまってから来たのは初めてなのだろう、領界に入った途端、リシュアからそう痛ましげな声が上がる。土地と、生物たち全てに対してだろう。
「ルトラの宮に行ったことあるか?」
「いいえ、お話だけしか存じ上げません」
「そうか」
「刻皇様は大変繊細で、他者とあまり関わりたがらない方だと、以前皓皇様よりお聞きしました。勿論、六人しかおられない真の同胞である御身は例外でしょうけれども」
「仲間に対してまでそうなのか」
ルトラは人間嫌いだと散々聞いたけど、属性が違うとはいえ同族にまでそうなんなら、説得するのがしんどそうだ。こっちもユーリィが加わって二対二になっているのが幸いだが。
「闇の宮ってどんな所なんだろうな」
青竜の背から見下ろすプルオーネは、アイルシェルと雰囲気が少し似てる。ただしこっちは夜の支配が長いから、余計に反転めいた印象を受ける。
実は、アイルシェルも若干陽の出る時間が長いのだ。皓の森の辺りはそうでもないが、領界の最北、レーゲンガルドに近くなると、大分乾燥した地域になるんだとか。
ちなみに、北の乾燥高山地帯はレーゲンガルドをまたいだ魔族の王国があるらしい。そっちも近いうちに行かないといけない。仲はそう悪くはなかったらしい。
俺が零落した後も侵略やらなんやらがなかった所を見るに、嘘ではない、と信じておきたい所だ。
「闇の宮は時の塔を登った先にあると聞きます。塔の刻む時に従って進まなければ道が繋がらないのだとか……。詳しい事は存じ上げませんが」
「まあ、ネクスがいるから大丈夫だろ」
そう言った直後に、竜達は緩やかに下降を始めた。目的地に着いた――っぽいが、何もないように見えるんだが。
しかし乗り手の戸惑いなど全く構わずに、青竜は優雅に着地。先に着いて降りていたネクスとディードリオンに続いて俺達も地面に降り立つと。
「いいぞ。お前等はフツカセに戻ってろ。帰る時にまた呼ぶ」
皆が地面に降り立つと、ネクスはそう言って青竜達を早々に返してしまった。いや、青竜達の為にも勿論その方がいいってのは判ってるけどな?
「なあ、何もないんだが、間違ってないのか?」
「間違ってねェ。良く見ろ」
――……ん……?
言われてネクスの示した方を良く見ると、少し景色が歪んで、る……?
「満月だともう少し判りやすいんだがな。これは水晶の塔だ」
「水晶……」
成程、月光が微かに反射して、この僅かな歪みが生まれてるのか。
しかし『水晶』『映す』とは言っても、鏡のように目の前の物を映すようにはなっておらず、どう見ても景色を透過させて、建物の向こう側であるはずの景色を映し出していた。どうなってんだ。
「ここも酷ェ荒れ用だなァ。塔がしっかり残ってるだけマシかも知れねェが。これがねえと闇の宮に行くのが面倒くせェからな」
「ここの上にあるんだよな?」
「あァ」
上の定義が良く判らないまま尋ねると、肯定された。塔の形そのものが良く判らないから何とも言えないが、物量的に本当どうなってんだろう……。
「ルトラは他種族に入られんのを嫌ってたからな。――ある程度の歓迎は覚悟しとけよ」
「……そうしよう」
この場唯一の人間(魔王)は決して大げさとは受け取っていない表情で、ネクスの言葉に頷いた。
「とはいえ闇のエレメントは見ての通り壊滅的だ。例えルトラが仕掛けたもんだってテメェがどうこうなるもんは残っちゃねえだろよ。行くぞ」
言って慣れた様子で塔の中へと入って行く。入口がどこかも俺達には判別できないので、慌ててネクスが姿を消した辺りを追って入ってみると、確かにそこが入口だった。
中に広がる景色は鏡の迷宮。ぽつぽつとしか掲げられていない明かりの薄暗さが、余計に不気味だ。
人を追い返すための施設だからな、うん。ルトラの趣味ではない……と、信じたい。
「……少し不気味、ですね」
気のせいか、普段よりやや近めの距離で、自分で自分の腕を抱いたリシュアから、ぽつりとそんな感想が上がった。ん?
(まさかと思うが)
「怖い、とか?」
「ま、まさか。子供でもあるまいし、悪戯に闇を怖れはしません。闇は安息を、光には見えぬ真実を見る力がある、神聖な物なのですから」
やや上擦った声で否定してから、強い調子でそう言い募る。それから、ちらり、と俺を伺うように見て――
「……苦手である事は、否定しません」
(う……っ!)
リシュアに苦手な物があった、という事実より、その言われ方が何というか、結構……っ。
俺が並みならぬ動悸に動揺していると、泳いだ視線がいくつもの合わせ鏡に映った見慣れない人物を偶然捕えた。
滑らかな褐色の肌と赤月の瞳。容姿と、ここにいる精霊ってだけでその素性はすぐに判った。闇の精霊族だ。やっぱり再生してたんだな。
「あ……?」
俺が気付くのと同時に、鏡の向こうの人物も俺に気が付き、驚愕に目を見開く。それから歓喜の表情を浮かべた。
(え)
何だ、今のあの表情。既視感が……。
「陛下……っ!」
キンキン、と通路に反響して声が届く。感じからしてまだ少し距離がある気がする。
(何だ……?)
呼ばれ方としてはおかしくない。アリストも俺の事『皓皇陛下』って呼ぶし。なのに何か引っかかる。何だろう。
「陛下! ずっとお待ちしておりました! どうか、どうか私達をお救い下さい!」
流石にここの住人であるだけあって、道を把握しているのか、闇の精霊族の少年はややあって足音を響かせ直接俺達の前に姿を現した。
「こ……っ」
「そんなに息せき切って行く事、ないだろう? いくら僕が不甲斐ないって言ってもさ……」
俺達へ呼び掛けようとした闇の精霊の声に被せるようにして、更にその後ろから現れた少年が少し拗ねたようにそう言った。
自らの眷族とは違い、生まれてこの方陽に当たる事など想定されていない様な白い肌。漆黒の髪は軽やかな短髪。瞳は研いだ鋼の鈍い銀色だ。
年の頃はおそらく俺と同じで十七、八ぐらいだろうが、皓皇の体と比べてもかなり華奢で、もっと幼く見える。
「ルトラ。何だ、以外と元気そうじゃねェか」
「……久し振り……なのかな。ネクス。変わらないから良く判らないね」
ネクスはすぐにルトラの側へと歩み寄って親しげに声を掛けたが、俺はその場を動けなかった。
近寄るな、と全身が警告して言うかのように、動けない。
二人の和やかな談笑も、頭に入って来ない。考える事を拒否した霞みがかった頭が、何も考えないままで手の平が剣の柄を握る形に――
「ハルト」
「っ!」
「どうしたんだ? 顔色酷いよ?」
言って、心配そうに伸ばされたルトラの手を――
勢い良く、俺は払いのけてしまった。
「っ! わ、悪いっ!」
何でそんな事をしたのか、考えてもいなかったのだから判らない。正気に返って慌てて謝る。
一方、俺に手を跳ね除けられたルトラの方は、何故、と言うようにしばしきょとんとして。
「らしくないね、ハルト。何か怖い目にでもあった?」
「怖い目……?」
「判るよ。僕もそうだから」
「いや、そんなんじゃ……悪かった」
「いいよ。言っただろ? 僕もそうだから。判るから、怒ってないよ」
言って微笑むルトラは、本当に怒ってはいなさそうだが、何となく信じきれずに胸の中に重く冷たい塊のようなものが残る。
(何で俺、あんな事)
「テメェは神経質過ぎんだよ」
「ネクスだって結構神経質だろう?」
「テメェ程じゃねえ」
「まあね、認めるよ。でも、仕方ないだろ? それが僕なんだから」
「改善は出来ると思うが……まァ無理にとは言わねェ」
大した事でもねえし、と締めくくって。
「さて、ルトラ」
「何?」
「テメェの宮を離れたくはねえだろーが、今のプルオーネは危ねェ。フツカセに来い」
「……」
ネクスの言葉に、多分理性ではそれが無難だと判っているんだろうが、ルトラの表情が曇って、即答はしなかった。
判る。新しく生まれる精霊達は置き去りになる訳だし、躊躇うのは当然だろう。
「嫌だっつっても連れてくけどな」
「強引だな。……変わらないね」
苦笑してから、ルトラは首の角度を変えて天井を見上げた。正確にはその先にあるっていう闇の宮を、だろうけど。
「それが正しい事は、判るよ。口惜しいけど、仕方ないね」




