第八十二話
「でも、何もなかったじゃない! だから、私何もっ」
「何もなくは、ない。お前を襲った俺が、エレネアと何もないと思うのか?」
「――っ」
「あいつも俺と同じ、ケダモノだ。俺達の中で人なのはお前だけだ、フィレナ」
エレネアの、どこか諦めた、疲れた笑みを思い出す。
(……だからか)
魔人になった事よりも、死にたい理由があったんだ、彼等には。
「お前がマトルトークで魔と戦うために立ったと聞いた時は、嬉しかった。死に所はそこしかない。その為に出来る事はしてきたつもりだ」
「兄様……っ」
続く兄の言葉の先を拒んで、フィレナは弱々しく首を横に振る。
「レトラスを率いて、人の力になれ。王族として、お前が民を守り、導いて行く事を願っている」
「兄様、嫌よ、私……っ」
「……そう言うと思ったから、そのまま死にたかったんだがな。満足か、皓皇」
フィレナには、彼女を痛む優しい笑みを向けてから、俺に対して責める目で睨んで来る。
「気持ちが失われるのは悲しい事だから」
「本当なら、フィレナの手で首を落とされたい所だが、この分では無理だろう。水蛇の首領、貴様がやれ。妹の仇だ、どうしてくれても構わん」
「良い覚悟よの」
ディードリオンの真意がどうだろうと、やった事は変わらない。むしろこれは――誰が躊躇っても、俺達の側に付いたタタラギリムに自分を殺させるための、最後の一手だったんなろう。
「――待ってくれ。いくつか聞きたい事がある」
「何だ?」
もう隠す事もないのだろう、自然にディードリオンはそう促して来た。急く事もないと思っているのか、タタラギリムも黙って俺に話を譲る。
「お前もエレネアも、そうなる事を望んでなかった。むしろ、なった今ですら意志の力でこっちにいる。なのに、何でそうなった? 大体、お前の精神性でそこまで深く魔に浸食されるとは思えない」
それはエレネアも同様だ。今頃きっと、ネクスも同じ事を聞いてるだろう。
「それは――」
「手っ取り早く戦力が欲しかったから。それと、軍隊というものをどう作るのかこの目で見たかったから。まあ、実験かな」
「!」
笑いを含んだ粘り付くような悪意の声が、唐突に部屋の中に割り込んだ。
ズルリ、と陽の光の中で唐突に生まれた闇を引き摺って現れたたかのように見えたのは、その身に纏った黒のローブ。
「お、前……っ!」
相変わらず全身をローブで覆っていて、一切容姿は判らないが、声で、何よりもその気配で判る。
プルオーネで会った、黒衣の魔王だ。
「魔人でね、軍隊を作ってみようと思うんだ。けどどうにも上手く行かなくてね。僕は今まで自分から支配した事はないから、素人なんだ。だから、丁度いい人材を見付けたから――ちょっと強引だったけど、僕がこの国を作り代えて上げたんだよ。ちゃんと王には魔王の力を上げたんだ」
言ってから、くすりと魔王は楽しそうに笑った。
「でも、始めの魔王は殺されちゃってね。流石、人間。親殺しも躊躇わない。ねえ、ハ・イグジェラ」
「……」
フィレナは小さく息を飲んだが、ディードリオンの抗弁はない。
(――でも、違う)
事実であっても、ディードリオンのした殺害は、多分魔王が嘲笑うような理由じゃない。
その理由はきっと、今のディードリオンと同じだ。王は、ディーとリオンがフィレナに求めた事を、長男であるディードリオンに求めたんだ。
「でも、君の方が良かった。そこは良かった、実に。辛かったんだろう、ねえ? 大国の長男として生まれて、厳しく素行から何から躾けられて。ずっと身も慎んで来たんだよねえ、理想の王子様像のために。――でも、女の体は気持ち良かっただろ? 世界で一番愛してる女達だもんねえ。母親と、姉と、妹と。王の時は、周りの家族に邪魔されたから君達は一緒にしてあげたんだよ。正気に返った母親は、良過ぎて自殺しちゃったけどね!」
「煩い、黙れ!」
「何怒ってるんだよ」
怒りに任せて振り下ろしたディードリオンの魔剣を、何でもないように薄い手袋を填めただけの手の平で受け止めて、魔王は嗤う。
「僕がやったんじゃない。お前だろう」
「――っ!!」
「逃がした女が戻って来たんだ、犯りたいだろう、ケダモノ!」
「――嫌だ……ッ!!」
ざっと顔を青ざめさせ、掴まれた魔剣を手放すとディードリオンは魔王から離れようとする――が、その前に、繊手と言ってもいい魔王の手がその頭をがっしと掴む。
「やらせてあげたいけど、今回は手強い邪魔も多いから止めとこう。その代わり――」
「ぅ、あっ……」
「下らない脆弱なお前に、力を上げよう。全ての物を壊す、暴力の意思を!」
ディードリオンを掴んだのと逆の手に生み出した禍々しい黒の結晶。それをディードリオンの胸へと押し当てる。
「止め……っ」
「兄様をっ、放せぇっ!!」
人の体では立ち上がる事すら辛いダメージを、既にフィレナは受けている。それでも歯を食いしばり、突きの形に細剣を構えて突進する。
「あぁ、放してあげるよ」
「ああぁぁああぁっ!!」
音もなく入り込んだ黒の結晶に、ディードリオンの口から悲鳴が上がる。同時に魔王は手を離し、ディードリオンの体をフィレナへ向かって軽く付き飛ばした。
「兄様っ」
慌てて立ち止まって細剣を下げ、フィレナはディードリオンを受け止める。
「兄様っ。兄様、しっかり……っ」
「……フィレナ」
「にい……っ」
答えたディードリオンにフィレナはほっとした声を上げる。その右肩を掴んだディードリオンの手に力が入り。繊維の裂ける音を部屋に響かせ、下の肉ごとフィレナの服をむりし取った。
「あああああっ!!」
「フィレナ!」
「良く、戻ってきたな、フィレナ……」
妹の血で手を赤く染め、服の切れ端の布でその血を拭って床に捨ててから――悲鳴を上げて床にくず折れたフィレナを見下ろし、笑い交じりの声でそう言った。
「にっ、に、さま……っ」
「あぁ……。本当に、馬鹿馬鹿しい。下らない……」
手で押さえただけでは止血出来ない、大量の血液を利き腕の肩から流しながら、縋るように呼び掛け見上げるフィレナに帰って来たのは、冷ややかな一瞥。
そこにある『もの』を見るだけの、淡々とした瞳。
「さあ、ハ・イグジェラ。お前の望みは?」
「全てのしがらみの、消滅だ!」
「きゃあっ!」
フィレナの髪を引っ掴むと、思い切り俺に向かって投げつけて来た。直後、ディードリオンも床を蹴る。
「っ」
「皓皇、避けよ!」
(出来るか!)
投げつけられたフィレナを受け止めたら、受け止める俺の方が無事じゃ済まない勢いだ。非道だが、タタラギリムの警告は間違ってない。
けど、そんな勢いで投げつけられてるフィレナが後ろの壁にぶつかったら、俺どころじゃなくただじゃすまない!
「援護頼む!」
その場に留まり構えた俺に、タタラギリムが何か怒鳴った気がするが、聞こえなかった。到底踏ん張る事の適わない人間砲弾と化したフィレナを受け止め、一緒に転がる。
「ぐぅっ……!」
「ぁうっ……」
今のは、効いた……っ。
肺が圧迫され息が詰まり、続いて吸い込んだ息に大きく咳き込む。その咳に血が混ざってるのは、内を痛めたか。
「ハ……っ、ハルト……っ」
「大丈夫だ。お前は」
「大……っ、大丈夫……っ」
泣きそうな顔で俺に縋りつきながら、あまり大丈夫そうじゃない様相でそう言った。問答している時間はないので、フィレナと自分とを大急ぎで癒し、立ち上がる。
追ってきたディードリオンはタタラギリムが抑えてくれたが、彼女一人に任せる訳にはいかないだろう。
さっきまででほぼ同等だったはずのディードリオンの魔気は、黒い水晶を入れられてから爆発的に膨れ上がっている。一人じゃ無理だ。
「フィレナ、タタラギリムとディードリオンを頼む」
「あんた、は……?」
「……あいつとやるしかないだろうな」
まだ窓枠に腰掛けたまま戦況を眺めていた黒衣のローブの魔王が、俺の視線に気が付き意識を絞ってこちらを見た。
微かに首を傾けて。
「僕とやりたいの?」
嘲笑交じりの声で言うと、ふわりと窓枠から床に降り立つ。今気が付いたが、所作は優雅だ。貴人のごとく。




