第七十六話
(――……)
空気が湿った雨の臭いに、まず真っ先に嗅覚が反応した。そんなに強くないが、地面を叩く雨音も聞こえる。
(ああ。壁が、壊れてるからだ)
筒抜けの空気が少し冷たい。雨に冷やされてるせいだな。
(……俺、どうしたんだっけ……)
場所は判る。ミットフェリンの、光のエレメントで作った神殿。その一階部分だ。何度か瞬きをして――思い出した。
(そうだ。なんか、混乱して)
あれは何だったんだ。あれも、あれが、記憶なのか?
「……ぅっ……」
考えると、また気持ち悪くなった。止めよう。
……でも、止めて良いんだろうか。
(簒奪者……)
向けられた言葉を頭の中で反芻する。あまりに不穏な単語だった。
あんな――全身を持って叫ばれた言葉を、思い出したくないからって、無視していいのか?
そう考えた時、かたん、と小さな物音がしてそちらに目をやると。
「――あ……」
「あ……」
おそらく俺の様子を見にだろう、部屋に入って来たリシュアと目が合った。
「良かった。お目覚めになられて。具合はいかがですか?」
ほうと安堵の息を付いて表情を緩めると、静かに歩み寄って俺の隣に腰を下ろす。
「……大丈夫だ」
別に、体の調子が悪い訳じゃない。
悪いのは――……
「皓皇様」
「っ」
そ、と手の平で視界を塞がれて、ぎくりとする。
「リシュ、ア」
「今は何もお考えにならずに、お休み下さい」
「けど」
「お休み下さい」
今度は少し、強い調子で繰り返される。
「――い、や、でも」
何も考えずにいるなんて、無理だ。ただ休めるような心境でもない。
「それでは、私に少しお付き合い下さい」
今度は有無を言わせぬ断定口調。
「私、こうしてアイルシェル以外の大陸を、自分で歩くのは初めてでした」
「あ、ぁ。そう、なんだ?」
「はい。以前は目的地へ向かってユニコーンやペガサスで駆けるだけでしたので」
何の脈絡があるのか判らない話に相槌を打つと、そのまま続いた。それから鈍った頭が、脈絡なんかどうでもいいんだと気が付いた。
「アイルシェルも豊かですが、ミットフェリンも豊かですね」
「ミットフェリンはアイルシェルよりも草花大味なのが多いよな。レダ森林とかもそうだけど。濃いっていうか」
「この辺りは野生ですから、特にそうなのかもしれません」
「首都を取り戻したら、フィレナに案内してもらおうか」
「……」
歴史のある国だし、きっと色々見ごたえあるだろう――と思って、世界遺産をちょろっと見るノリで言ってみるが、リシュアから帰って来たのは沈黙だった。
……あれ? ここは沈黙が返って来る所だったか? ――あ。
「そうか。リシュアは興味ないよな。人間の建築物とか」
「……。確かに、興味はございません」
残念だが、興味がない所を連れ回しても退屈なだけだろう。それは良くない。
「その時は何かお土産買ってくるよ」
「ありがとうございます。けれど、その時は勿論私も参ります。皓皇様と王女を二人にするのは心配ですから」
信用ないな。
実力的な意味でなのか、男としての俺へなのかは不明だが、不明なままにしておきたい気もするので、触れないでおく。
どうでもいい話をしていたら、かなり現実感が戻ってきた。
大きく息を吐いて体を起こすと、リシュアが手を添え、手伝ってくれる。
「ありがとう」
「いいえ、当然です」
ふわりと微笑したリシュアの顔が、意外と近くにあってぎくりとする。
俺の事を男じゃなくて主としてしか見てないからなんだろうけど、もう少し危機感持っても……いや違うか。これも俺が人間的だからなんだな、きっと。
「おい、様子はどうだ」
声掛けもない傍若無人っぷりで、小部屋の半壊した戸を開け入ってきたネクスは、入口辺りで一回足を止めた――が、すぐに何事もなかったように近寄って来た。
「邪魔だったか?」
「そういうんじゃないから、全く」
見詰め合ってた間が長かったなとはちょっと俺も思うけど。
慌てる様子の欠片もなく、添えていた手を離し、距離を取ったリシュアの冷静さが全てを物語っている。
「どっちかっつーと、俺はお前にゃケルガムを推すぞ」
「どっちかのどっちも判らないし、そういうんじゃないって言ってるだろ」
「ふん。ま、いい。大分マシにゃなったみてェだな?」
「……ああ」
一呼吸置いてから頷く。大丈夫、だった。妙な動機もない。考えないようにしてるからだけど。
「だが一つはっきりした。テメェの記憶、放置しねェ方が良さそうだ」
「そう、だろうな」
俺もそう思う。怖いけど。
「つっても今またブッ倒れられんのも困る。それは後でだ。お前も考えんな」
「そうする。とにかく、レトラスにケリが着くまではな」
先延ばしにしたい、という卑怯な思いもあったが、その方が良いのも事実だった。そう思ったから、ネクスの言葉に素直に頷ける。
「今、どうなってるんだ?」
「何もねェんだから、順調なんだろ」
「そうか」
「理由はとにかく、今はこいつがあって、まァ、良かった。でなきゃ戦いに行く前にエレメント消耗しかねねェからな」
本来なら、ネクスは風の精霊族を率いてそっちと一緒に来る予定だった。今のミットフェリンにはあまり長くいない方が絶対に良いからだ。
行軍自体はアリストに任せて、問題無いから来たんだろうが。
「言っとくが、頼んではないからな」
「そうだな。ツラも迷惑だっつってらァ」
「別に迷惑だとも思ってないけど、悪かったとは思ってる」
とはいえ、これから先も変わる事はないだろう。俺とネクスの間にある他種族への考え方の溝が埋まらない限り、どうしたって齟齬が出る。
は―、と大きく溜め息をついて、ぽん、とネクスは俺の頭の上に手を置いた。
俺を変える事は諦めてるんだろう。それでいいと、そう言ってくれてる。
ただし、ネクスも考え方を譲る気が無いんだろうけど。
(ネクスは絶対そうだと思ってたけど、タタラギリムの言うように、俺も頑固だったんだな、多分)
向こうでの生活では、別に何も拘りなかったから、気がつかなかった。譲りたくない物は、譲らなかったんだな、俺。自分の事って、案外本当に判らないもんだ。




