第七十三話
地図に従い辿り着いたレダ森林は、正に『鬱蒼とした』と表現するに相応しい森だった。
皓の森は陽光をある程度取り入れられるよう、所々にぽっかり空間が出来ていたり、上に伸びた枝も疎らだったりする。更に樹木自体も淡く発光しているから、深くまで入り込んでも不気味な暗さはない。
しかしレダ森林はみっしりと木々が密集していて、重苦しい。視界も悪い。
足元も、そこはかとなくしっとりだ。ミットフェリンは雨が多いが、こうも露骨に湿度が高い所は初めてだな。
『……懐かしい気がする?』
「する? じゃなくて、疑問に思うまでもなく懐かしいだろ。元々の住処だろ、ここ」
ここまで来ても、ウルクはまだそんな自覚のない事を言っている。これはもう、ウルクには何を聞いても駄目だと見た。
「水棲馬達がどんな風に暮らしてるか、知ってるか?」
なので、隣のリシュアに聞いてみる。棲んでる本人隣にいるのに、なんだろうなこの図は。
「違う領界の種族なので、詳しくは。ただ、気ままな種族なので、群れであってもリーダーなどはいないそうです。住み良い所に個々で住んでいるようですね」
成程。じゃあやっぱりネクスの言う通り、この森にいるままの水棲馬は触れないでいれば敵対はしなさそうだな。こっちの戦力にもなってくれなさそうなのが残念だが、向かない種族ってのは当然いるだろう。
(リーダーがいれば一頭と話せば済むんだけどな。そういう所も集団としては付き合いずらいんだろう)
水棲馬には種としての意識が多分無いんだ。自分の一生は自分で勝手に使う。おおらかな種族だ。絶滅が少し心配だが。
「どういう暮らしをしてるか見てみたかったんだが、流石に探してるような時間はないだろうな」
このレダ森林は結構広いし、深い。バラバラに暮らしていると言うなら探し当てるのは大変だ。
「じゃあ、ウルク。ここでお別れだ。元気でな」
『!?』
勢い良く俺を見たウルクの瞳は、珍しく思い切り見開かれていた。何故驚く。
『お別れ?』
「そういう話だっただろ」
『……』
いつもより若干早い瞬きをウルクは繰り返す。
これは間違いなく、惜しんでくれてるんだろう。そこまで懐いてくれてたのかと、これは素直に嬉しい。
「また会いに来るし、何ならお前が遊びに来ても構わないんだし。でもお前が暮らすのはここだ。仲間と一緒にいた方が絶対に良い」
『行って良い?』
「ああ。いつでも。皆お前には慣れてるし」
集団で来られるとまた別だろうが、水棲馬にその心配はない。見た目の判別はまだ難しいけど、話せば多分、ウルクかどうかも判るし。
『じゃあ、そうする』
物分かり良くこくん、とウルクは頷く。
……何だろう。還っていくウルクに向けられた尻が俺も何か切ない。
「またな」
『うん』
躊躇ったあれは何だったのかと思う程、ウルクはあっさりと頷き、余韻も感じさせずに森の奥へと帰って行った。
命掛かってても一週間で忘れるからな――というネクスの言葉が脳裏を過る。俺がウルクと再会する日は来ないかもな。ここからウルクを見つけ出せる気はしない。
「じゃあ、行くか」
「宜しいのですか? 見て回るだけでも出来なくはないですが」
「敵意は……ないです。大丈夫……」
ウルクと一緒に来たからなのか、それとも元々なのか、他種族、他属性でも気にしていないようだ。それはありがたい――が。
「いや、いい。行こう」
言われていた通り、水棲馬は集団には組み込みにくい。連れて行くにも、何だか騙すみたいで気が引けるし、中立を保ってくれるならそれで良いだろう。
「承知しました。では、参りましょう」
唯一の足を失ったので、ここからは徒歩だ。ミットフェリンにユニコーン連れてくるほど鬼じゃない。
レダ森林を真っ直ぐ抜けて、俺達は南へと向かった。
ミットフェリンは流石に人間の王都があるだけあって、道の整備がアイルシェルより進んでる。さっきのレダ森林までも、きっちり道が作られていた。道に乗って行くと西の城塞にぶち当たるだけなので外れて行くが。
人の行き来は少ないが、これはここが辺境に分類される所だからだろう。多くの用は城塞の内側までで済んでしまうらしい。というより、それで済むよう計算してから城塞建てたんだろうな。
こちら側はフツカセが近い影響もあるのか、水の宮周辺より少し体が楽だ。
アイルシェルは複数の島からなっているが、ミットフェリンとフツカセは同じ大陸内にあって、レダ森林を西に完全に抜けるとフツカセ領だ。
季節や時間帯によって領界は微妙に変わるから、それで正確って訳じゃないが、そのラインは確実だ。
(ネクスの宮ってどんなだろう)
あれで意外とネクスは趣味いいから、実は結構興味ある。時間が出来たら頼んでみよう。
歩く道は静かで、平坦で、平和だ。一見。
だが実際には全然、兵和じゃない。これは暴力で作り出した凪だ。皆が息を潜めて支配者の機嫌を伺っている。
それでも魔に支配された状態からだと思えば、凄い事なのかもしれないが、最善ではない。
(最善じゃあない、が)
俺のその考えに変わりはない。けれどもう一つ思う事がある。
これがディードリオンの成し得る最善だったんじゃないか、と。
その考え方は、はっきり言っておかしい。ディードリオンは魔人で、本人も認めた。魔人が人の感性と類似するルールを、自分で作るだろうか。かなりの労力を必要としたはずだ。いや、過去形じゃないな。おそらく今もだ。
どんな人間でも、魔に侵されれば精神が狂わされる。その狂った部分に更に取り付いて浸食を広げて行くのだかから、魔人化の浸食具合は壊れ具合と一致していると言っていい。
やってる事は非道だったが、ディードリオンには先を見据えた理知的な意思が見えた。何かの欲や暴力に酔ったものではない、冷静な、物事を見る瞳。
(他にも気になる事が幾つかある)
俺が皓皇だと知って驚かなかったのは、まあいい。ネクスの顔を知っていれば『陛下』と精霊に呼ばれる存在は俺しかいないから、消去法が成り立つ。
ただやっぱり、俺がミットフェリンにいる事には、もっと驚いていいと思うんだよな。手を出したくないなら尚更。接触したと判っている水の宮にも、何もないし。
そして冷静に考えて――水蛇族があんなに生き残ってるのは、やっぱりおかしい。あれは全滅させられておかしくない状況だった。
確認しなかったけど、治癒に回ってた時の事を思い返すと、死んだ水蛇のほとんどは首、もしくは胴を真っ二つにされていた気がする。
(つまり、ディードリオンは水蛇の脱皮を知ってて、殺す方法も知ってたって事だ)
妹二人は、首を刎ねて殺した。けどタタラギリムは殺さなかった。
もし俺が本気で殺そうと思って仕掛けるなら、倒した後、最低でもタタラギリムの首は落とす。それで確実になるし、拮抗している力の持ち主は確実に仕留めておかないと、後に禍根を残す。今みたいに。
だから、タタラギリムは生き残ったんじゃない。殺されなかったんだ。俺と同じく。
(これは吉なのか、凶なのか……)
タタラギリムが組んでいる可能性は、まずないだろう。一族の半数は本当に殺されて、妹も喪って、あの同国は本物だった。
ならば彼女を生かして、ディードリオンに何の益があるのか。
「……何を、お考えですか?」
「!」
心配そうに窺うように見詰めながらそうリシュアから声を掛けられて、長く一人で考え込んでいた事に気が付いた。
「悪い。何でもない」
「そう、ですか?」
気が付いた以上、俺はこれをネクスに言うべきなんだろうか。
けどそんな気がするってだけだし、下手な事になって水蛇族の立場が危うくなるのは嫌だ。タタラギリムの慟哭を、ネクスが信じるか判らないから。
(大丈夫だ)
誰も裏切らなければ、致命的な事にはならない。
呼び掛けた俺は、信じなくては。




